アナログ派の愉しみ/本◎中根千枝 著『タテ社会の人間関係』
連続強盗殺傷事件の
集団原理とは?
連日のようにニュースが声高に報じている首都圏連続強盗殺傷事件のうち、一件はわたしが居住する地域のすぐ近くで発生して、この「闇バイト」を利用した物騒な犯罪が身近に迫っていることを思い知らされた。と同時に、こうした事態に対してとめどない恐怖と怒りに駆られる一方で、どこかデジャヴ(既視感)を呼び起こされるような居心地の悪さも覚えてしまったのである。
農村の封鎖性ということはしばしばいわれてきたのであるが、筆者の観点からすれば、都市における企業体を社会集団としてみると、基本的な人間関係のあり方、集団の質が非常に似ていることが指摘できるのである。〔中略〕エモーショナルな全面的な個々人の集団参加を基盤として強調され、また強要される集団の一体感というものは、それ自体閉ざされた世界を形成し、強い孤立性を結果するものである。
これは、社会人類学者・中根千枝の著作『タテ社会の人間関係』(1967年)の一節だ。もう半世紀以上も前に日本社会の構造分析をして評判となった本書は、いまの目で読み返してもまったく色褪せず、引用文中の「企業体」を「犯罪グループ」に置き換えれば、そのまま連続強盗殺傷事件を引き起こしている犯人集団にも当てはまるように見えるのだ。
中根によると、こうした一体感・孤立性のもとに成り立つ集団は必然的にタテの構造を持つという。すなわち、頂点から下方へと枝分かれしていくツリー状の組織図において、ヨコ同士のつながりを欠いているために「底辺のない三角関係」となるのが特徴だ。それはまさしく、リーダー→指示役→リクルーター→実行役といった、きわめて素朴なヒエラルキーによって運営されている犯人集団の仕組みに重なるものだろう。このような集団のリーダーについても明確なイメージが提示される。
ここで重要な問題となってくるのは、リーダー自身の能力よりも、リーダーがいかに自分の兵隊の能力をうまく発揮させるかということになる。〔中略〕日本のリーダーの影響力・威力というものは、部下との人間的な直接接触をとおして、はじめてよく発揮されるものである。事実、日本人のリーダーの像は、ナポレオン的なものではなく、あくまで大石内蔵助的なものである。
もしこの分析が正しいなら、犯人集団のトップにいる首謀者は狂暴というより、硬軟取り混ぜた性格の持ち主の可能性がありそうだ。そして、SNSの「闇バイト」といった今日的な意匠を剥ぎ取ってしまえば、ある意味では約320年前に江戸の市中を驚倒させた赤穂浪士の吉良邸討ち入り事件と共通する構図が浮かび上がってくるのも著者の指摘どおりなのかもしれない。ことほどさように遠い過去から連綿と続く集団原理がそこに横たわっていることが、なるほど、われわれのデジャヴを呼び起こして居心地の悪さを覚えさせる理由なのだろう。
では、どう対処すればいいのか? 中根は、そうした集団原理は世界にあまり例を見ない日本社会の単一性が生みだしたものだとしてつぎのように論を進める。
したがって、日本においては、どんなに一定の主義・思想を錦の御旗としている集団でも、その集団の生命は「その主義(思想)自体に個人が忠実である」ことではなく、むしろお互いの人間関係自体にあるといえよう。〔中略〕このように考察してくると、日本人の価値観の根底には、絶対を設定する思考、あるいは論理的探究、といったものが存在しないか、あるいは、あってもきわめて低調で、その代わりに直接的、感情的人間関係を前提とする相対的原理が強く存在しているといえよう。
結論からいえば、日本社会にあってつねに相対的な原理が絶対的な価値観をなし崩しにしてしまう以上、こうした犯罪集団が手を変え品を変え出現するのを根絶することはどうやら不可能らしい。それだけではない。かれらの捜査にあたる警察も、さかんに警鐘を鳴らすテレビ・新聞も、学者・文化人も、さらには、他ならぬわれわれ自身もまた、同じ集団原理のもとにあることに気づくとき、デジャヴをともなう居心地の悪さがいっそう増していくのをわたしは実感しないではいられないのである。