アナログ派の楽しみ/スペシャル◎書斎という迷宮
39名+2名の
文豪を迎え入れて
「粗大ごみ」収集家
10年あまり前、終の棲家のつもりで建て売り住宅を買い求めたとき、なによりの条件は書斎を手に入れることだった。妻との交渉の末、二階北側の七畳半の洋室を確保して、さっそく大型家具店へ本棚の見分に出向くと、せっかくならオーダーメイドで作りつけのタイプのほうがいい、と女性店員に勧められて建具職人の出張工事となり、かなり予算をオーバーしたものの、こうしてついにわが書斎が誕生したのだった。
ところが、これまで段ボール箱に溜め込んで引っ越しをともにしてきた蔵書を真新しい本棚に並べてみると、たちまちいっぱいになってしまい、やがて部屋じゅうに本の山が積みあがるのに時間はかからなかった。それらの重量で家が傾き、階下の扉の開け閉めにも支障が生じていると妻が騒ぎだし、今後は一冊の本を買ったら一冊の本をブックオフへ売りに行くように命じられる始末。まあ、妻の弁を待つまでもなく、もはや足の踏み場のない書斎の惨状を前にしてだれより本人が当惑した。
場所ふさぎの最大の要因はわかっている。個人全集・選集のたぐいだ。わたしに言わせれば、おのれの人生を左右するほどの文章と出会ったら、その書き手は自分にとって文豪と呼ぶべき存在で、かれの筆が生みだした作品を知り尽くしたいと思うのは道理だろう。それを叶えてくれるのが書籍というメディアの醍醐味であり、ひとたび全集を所有したとたん、あたかも文豪そのひとを迎え入れたかのような喜びに打ち震える。そんな感動に身を任せているうちに、いつの間にか身のまわりがニッチもサッチも行かなくなったのだ。
もっとも、こうした醍醐味を堪能しようとする向きはいまや世間で絶滅危惧種らしい。それが証拠に、昨今出版界で新たな個人全集の企画を見るのはごく稀なばかりか、古書市場においても商品価値が下落の一途を辿り、漱石・鴎外の全集でさえ二束三文で叩き売られて、珠玉の文化遺産がもはや「粗大ごみ」と化しつつあるのが実情だ。悲憤慷慨してもはじまらない、それならそれでけっこう、わたしは書斎のカオスを眼前にして、いっそみずからを「粗大ごみ」収集家と開き直りたくなるのである。
ドストエフスキーは笑う
振り返ってみると、わたしがこのジャンルに手を染めたのは大学生のとき、ドストエフスキーの全集が最初だった。河出書房が1970年前後に刊行した米川正夫個人訳の全20巻を、アルバイト代が入るたびに少しずつ買い集めていった思い出が懐かしい。授業の合間の昼下がり、校舎の裏手のベンチで横になって『カラマーゾフの兄弟』の巻を読んでいたら、ちょうど「大審問官」の章に差しかかったあたりで、いきなり鼻血が噴き出したこともあった。それも、このロシアの偉大な文豪の著作をことごとく所有している興奮が沸騰して引き起こしたハプニングだったかもしれない。
あれからざっと半世紀が経った現在、わが書斎に並ぶ個人全集・選集のたぐいを数えてみよう。本来なら出版社・発行年なども添えて記すべきだが、煩瑣を避けて、著者を日本人と外国人に分けて五十音順に列挙するのにとどめたい。
芥川龍之介
石川啄木
井筒俊彦
井原西鶴
井伏鱒二
内村鑑三
江戸川乱歩
梶井基次郎
片山広子
嘉村礒多
楠 勝平
小林秀雄
志賀直哉
島崎藤村
太宰 治
谷崎潤一郎
中原中也
中島 敦
夏目漱石
深沢七郎
福沢諭吉
松尾芭蕉
三島由紀夫
宮沢賢治
森 鴎外
柳田国男
ヴェルヌ、ジュール
カフカ、フランツ
ガルシア=マルケス、ガブリエル
ゴーゴリ、ニコライ
ゴッホ、フィンセント・ファン
シェイクスピア、ウィリアム
チェーホフ、アントン
ドストエフスキー、フョードル
トルストイ、レフ
ニーチェ、フリードリヒ
プラトン
ポー、エドガー・アラン
魯 迅
星霜を重ねるうち、こちらはすっかり老け込んでしまったのに、かれら文豪たちのほうはかつてと同じ顔つきのままで本棚に堂々と居据わっているのだが、それにつけても、よくもこれだけ買い集めてきたものとわれながら呆れ返ってしまう。その出発点となったドストエフスキーは左右の面々を見渡して、さぞや腹を抱えて笑い転げているに違いない。
どこからか、こんな声が聞こえてくるようだ。かなりの規模の図書館だって、これらすべてを揃えてはいないだろうに、と――。わたしは答える。しかり。だから、最寄りの公共図書館への寄贈を考えたこともあったけれど、先方にとってはありがた迷惑な話できっと断られるはずと判断してやめた。ひっきょう、個人全集とは不特定多数の人間に対して開かれたものというより、書き手と読み手がひとりとひとりで対峙するために用意されたものなのだ、と――。
さらにまた、こんな声も聞こえてくる。ひとりとひとりで対峙すると言っても、そもそも、これだけ膨大な作品を残りの寿命のあいだに読み通すのは無理じゃないか、と――。わたしは答える。しかり。それどころか、何度か人生を繰り返したところで不可能だろう。ひっきょう、個人全集とはいつも手の届く場所に置いて、いわゆる「つんどく(積読)」をもってよしとし、あとは気の赴くままに拾い読みすれば十分だ。それはたとえば、われわれが日本国民としてこの島国で暮らしながら、生涯で肌身に接することができるのは47都道府県のわずかな部分でしかないのと似ている、と――。
かくも美しく恐ろしい
過日思い立って、久しぶりに本棚から『谷崎潤一郎全集』を取りだして、あれこれの巻をひもといたところ時間が経つのを忘れて読み耽ってしまった。中央公論社が1980年代に刊行した全30巻の大判のものだったから、両腕がすっかり痺れたのも気づかなかったくらいに。
この稀代の大作家が一般の読者向けに文章の作法をわかりやすく指南した『文章読本』(1934年)が第21巻に収められていて、ここで谷崎は「文章に実用的と芸術的との区別はない」ことを強調し、「余計な飾り気を除いて実際に必要な言葉だけで書く、と云ふことであります。さうしてみれば、最も実用的なものが、最もすぐれた文章であります」と述べている。すなわち、最近、高校の学習指導要領において国語の「現代文」が改訂されて、「論理国語」と「文学国語」の選択制となったことが論議を呼んでいるけれど、もし谷崎が存命だったら大いに異を唱えたと思われる。
必要な言葉だけで書く。それはそのとおりだろう。しかし、言うは易く行うは難し。実用的に必要な言葉だけで書きながら芸術的な境地までに至るとは、だれでもできることではない、むしろ離れ業に近いのではないか。そこで、わたしは巻を取っかえ引っかえするうちに、第13巻所収の『春琴抄』(1933年)に目を留めた。この傑作中の傑作が『文章読本』の前年に発表されていたことに気づいて、実際に必要な言葉だけで書く、と論じた際にはその執筆体験が念頭にあったのだろうと睨んだのである。
ここで正直に告白しておくと、かつて初めて『春琴抄』を読んだとき、その魔性の世界はわたしのヤワな感性をあっけなく屈服させてしまった。のみならず、想像を絶する場面へと導かれ、脳髄に突き刺さるような衝撃を受けたあまりトラウマとなって、以来、谷崎の他の作品には触れても『春琴抄』だけはページを開くことができないでいた。そのうえでの再会だった。
「春琴、ほんたうの名は鵙屋(もずや)琴、大阪道修町の薬種商の生れで歿年は明治十九年十月十四日、墓は市内下寺町の浄土宗の某寺にある」とはじまった物語は、ことほどさように味も素っ気もない文章で紡がれる。その大店の娘は幼くして透き通るような肌とたぐい稀な器量に恵まれながら、9歳のときに病気で失明し、両親がいっそう甘やかしたために、このうえなく驕慢な性格を育んだといういきさつが、新聞記事のように簡単明瞭な、しかし気づけばじわじわと行間から香気が滲みだす筆致で綴られていく。
盲目の身となった春琴は音曲の道に精進して才能を発揮し、四つ年上の丁稚・佐助がその世話を無上の喜びをもってこなし、やがてふたりは三味線の師弟関係も結んで、勘気の強い春琴がしばしば打擲して佐助が泣きわめくといった歳月を経たのち、ふいに春琴の妊娠が判明して、鵙屋では両人の婚姻を許そうとしたものの、春琴は断固拒絶して佐助によく似た赤ん坊を里子に出してしまう。そんな春琴が20歳で独立して音曲師匠の門戸を構えて、間もなく事件が勃発する。正体不明の闖入者にどんな恨みがあってのことか、彼女の顔に熱湯を浴びせかけたのだ。こうして美貌が失われたあと、佐助が女主人に絶対の忠義を尽くすべく、わたしを深いトラウマへ追いやった場面がやってくる。
多少読みづらくとも、谷崎の筆がしたためた形のまま引用しよう。余計な修飾語のみならず、段落の改行や句読点までも削り取って、徹底して必要な言葉だけで書かれたとおりに。
それより数日を過ぎ既に春琴も床を離れ起きてゐるやうになり何時繃帯を取り除けても差支えない状態に迄治癒した時分或る朝早く佐助は女中部屋から下女の使ふ鏡台と縫針とを密かに持つて来て寝床の上に端座し鏡を見ながら我が眼の中へ針を突き刺した針を刺したら眼が見えぬやうになると云ふ智識があつた訳ではない成るべく苦痛の少い手軽な方法で盲目にならうと思ひ試みに針を以て左の黒眼を突いてみた黒眼を狙つて突き入れるのはむづかしいやうだけれども白眼の所は堅くて針が這入らないが黒眼は柔かい二三度突くと巧い工合にづぶと二分程入つたと思つたら忽ち眼球が一面に白濁し視力が失せて行くのが分つた出血も発熱もなかつた痛みも殆ど感じなかつた此れは水晶体の組織を破つたので外傷性の白内障を起したものと察せられる佐助は次に同じ方法を右の眼に施し瞬時にして両眼を潰した尤も直後はまだぼんやりと物の形など見えてゐたのが十日程の間に完全に見えなくなつたと云ふ。程経て春琴が起き出でた頃手さぐりしながら奥の間に行きお師匠様私はめしひになりました。もう一生涯お顔を見ることはござりませぬと彼女の前に額づいて云つた。
まるで理科の教科書か料理の手引書のように実用的にして、かくも美しく恐ろしい文章を他に知らない。と同時に、個人全集というものによって期せずして導かれた、かくも美しく恐ろしい発見もわたしは他に知らないのである。
とんでもないものが天から降ってくる
昨年(2022年)、講談社から『OTOMO THE COMPLETE WORKS(大友克洋全集)』の刊行がスタートして、第一回配本の『童夢』を買い求め、このマンガの完全版が1983年に世に現れて以来の再会を果たした。あのときに味わった衝撃はすっかり過去のものとなったつもりでいたのに、久しぶりに手にしてみたら、ほんの数ページを繰っただけでたちまちよみがえってきた。どうやらこの歳月のあいだ消滅することなく、無意識の底にずっと沈み込んでいたらしい。
物語の舞台は、いくつもの団地が高々と聳え立つニュータウン(もちろん、経済大国・日本のアレゴリーだろう)だ。ここで近年、飛び降り自殺が相次いで25人を数えるにおよび、警察も見過ごせず事態の解明に本腰を入れはじめたところ、当の捜査責任者までが深夜に不可解な転落死を遂げてしまう。やがて、この巨大な集合住宅に巣食った恐るべき無明の力が少しずつ正体を明かしていく……。こうしたストーリーを追いながら、わたしが背筋の震えるような感覚に襲われたのは、たんにそのオカルトめいた雰囲気のせいだけではなかったろう。
あのころ、極東の島国が世界から「ジャパン・アズ・ナンバーワン」とおだてられて、意気揚々としながらも、この社会のどこかに途方もない歪みが生じていることをだれもが察していたのではないか。団地の屋上からつぎつぎと人間が落ちていく描写は、そんな不安に具体的なイメージを与えるものだったと思う。のみならず、いまにしてわたしをいっそう震撼させるのは、そのイメージが間もなく日本じゅうを揺るがした出来事までも先取りしていたかのように見えることだ。そう、1985年8月12日、真夏の夜空から日本航空123便のボーイング機が墜落して520名の犠牲者を出した出来事を――。
元・日本航空客室乗務員でジャーナリストの青山透子は、この事故の真相解明をライフワークとしてきて、最新の著作『JAL裁判』(河出書房新社)では、遺族が日本航空に対して当該機のボイスレコーダーとフライトレコーダーの開示を求めた裁判についてレポートしている。そこでわたしが最も驚いたのは、これまでの調査・研究にもとづき、123便の事故は自衛隊の演習用ミサイルなどが垂直尾翼を破壊したことによるもので、自衛隊はファントム2機を追尾させ、御巣鷹山への墜落後に証拠隠滅のため現場を焼き払ったとする著者の見立てに対して、もはや国や日本航空は積極的な反論・反証を行わず、ひたすら波風を立てずに風化を待つかのような態度でいることだ。その真相のいかんはともかく、世界の航空機事故史に特筆大書される事故もまた、日本社会のとめどない歪みが生みだしたものだったと言うべきだろう。
大友克洋は全集のあとがきで、『童夢』の誕生にまつわるエピソードを紹介している。それによると、当時、『エクソシスト』や『HOUSE』といったホラー映画がヒットしていたのを受けて、つぎはホラーものにすることをアシスタントたちと相談していた際、「日本の幽霊屋敷ってどこなの?」という話になり、ちょうどそのころ、ある団地で飛び降り自殺の続くのが話題を呼んでいたことから「団地だ!」となったという。
そこで、その話題に上がった団地を実際に見に行きました。そしたら、思いのほかのどかで、全然怖さのカケラもなかった。ふと、私が埼玉に住んでいた数年前、近くで巨大団地を建設中だったのを思い出したんです。当時、酒を飲んで敷地に入り、まだ工事中だった団地の最上階まで登ったりしてました。それを思い出して、アシスタントと現地に向かったんです。それは先に見た団地より高さもあり広くて、圧倒されました。敷地の真ん中に立つと、四方を建物に囲まれて抜けがない、それまでに見たことがない変わった雰囲気でしたね。
かくして、日本のマンガを革新したと評される壮大な作品世界がつくりあげられていったわけだが、その出発点に思いのほかのどかで、全然怖さのカケラもない場所があったことは重大なポイントだろう。空虚。それこそが「日本の幽霊屋敷」の実態に他ならず、ある日、そこへとんでもないものが天から降ってくることを『童夢』は40年前に予言してみせたのではなかったか。それは過去の話だろうか。まさか。北朝鮮による正体不明の飛翔体の発射にともなって、Jアラートがけたたましく響きわたるではないか。この社会の空虚に警鐘を鳴らすかのように。
はかないガラス細工さながらの
さきほど、わが書斎に鎮座する文豪たちをずらずらと列挙したけれど、実はもう1名の名前を書き落としていた。そこに加えていいものかどうか、少なからず逡巡するところがあったからだ。
千草忠夫
この名前を前にすると、いまでも気持ちがざわめいて落ち着かなくなる。
わたしがサラリーマン生活に入ってしばらく経ったある日のこと、カンテツ(完全徹夜)の仕事に追われていると、作業部屋の片隅に紙カバーをつけたまま打ち捨てられた雑誌を見つけて手に取ってみた。『小説S&Mスナイパー』。当時を知らないひとにはわけがわからないかもしれないが、1970年代から80年代にかけてSM雑誌ブームといった現象があって、毎月、縄をかけられた半裸の女性の姿を表紙にした雑誌が何種類も発売されていたのだ。それは、あの谷崎潤一郎や江戸川乱歩が先陣を切って近代日本文学に持ち込んだサディズム・マゾヒズムの趣味を、いっそう低俗化・大衆化したものだったが、もとよりこうした異常性欲が世間にはびこっていたわけではなく、当時のやみくもな高度経済成長を担ったサラリーマン連中にとって、日活ロマンポルノのピンク映画と同じように、束の間、現実を忘れて白日夢に遊ぶための装置に過ぎなかったろう。
わたし自身、こうした代物を手にするのは初体験だったので、他に目のないことを幸い鞄に忍ばせて自宅に持ち帰ってつぶさに探求してみると、いずれも似たり寄ったりのストーリーながら、とりわけ巻末の大トリを飾っていた千草忠夫という著者の『闇への供物』がひどく琴線に触れた。連載小説の一回分で前後の流れは皆目わからないものの、その愛欲模様の描写は圧巻で、しばらくのあいだ繰り返しページを開いてはひそかな興奮を味わっているうちに十数ページ分の文章をほとんど諳んじてしまったほどだ。
その雑誌もいつの間に失くしてしまってから数年後、仕事帰りの東京駅の地下街の小さな書店で、あの作家のアンソロジーが近々発売され、そこにはあの作品も収録されているとのポスターを目にしたのだ。この間、記憶に刻まれている文章を反芻しながら二度と相まみえることはないと諦めていたわたしは、思いもかけぬ過去との出会いにその場でへなへなと座り込んでしまった。『千草忠夫選集』全2巻、A5判変型・函入り上製、本文上下二段組み計1888ページ、KKベストセラーズ、1998年刊。くだんの『闇への供物』はしょっぱなの約700ページを占め、全25章立てのうち、かつてわたしが雑誌で読んだのは第12章「性獣の熱い舌」の後半部分とわかった。
そこには、たとえばこんなシーンがある。美少女の高校生・眉子がヤクザの若者・浩治の虜となり、ベッドインの前にふたりでシャワーを浴びているところだ。
浩治は汗ばんだ乳房をいじりまわしながら恩に着せた。眉子は次第に上気して肩を喘がせはじめている。ふくろから尻の穴まで洗わせた。先端は真っ赤に灼けた色になり、ねっとりしたものを洩らしつつテラテラと脈打っている。
「こいつを××××に欲しいか、それとも尻の穴で咥えたいか」
眉子の手がピクッと尻ごみした。それを上から押さえて握りしめさせながら、浩治はもう一度問うた。
「……かんにんして……」
「言うんだ」
ビシッと頬をしばかれて、
「……ふつうに、して、ください……」
消え入るように言った。
「よし、それじゃこいつをしっかり握りしめて、あなたさまのこれで女にして下さいと言うんだ」
そんな――と眉子は泣きじゃくったが、浩治が手を振り上げると、屈服の言葉を口にした。
「あなたさまの……こ、これで、眉子を、おんなに、してください……」
千草忠夫とは覆面作家のペンネームだが、その正体は北陸地方の女子高校の教師だったらしい。いまなら大変なスキャンダルになったことだろう。もっとも、わたしもこの年齢になってみると、ここにあるのはリアリズムとは対極のファンタジーで、性欲絶倫な男と純情可憐な娘が向きあっているのではなく、いわば性欲絶倫を演じている男と純情可憐を演じている娘が相互協力のもとにじゃれあっているのだとわかる。したがって、もし眉子がひと言、「いいかげんにしろよ、クソおやじ」とでも本音を発しようものなら、たちまちすべてが崩れ去ってしまうはかないガラス細工さながらのものに過ぎず、なにも本気で目くじらを立てるまでもあるまい。
さらにつけ加えると、現在ではSM小説の大前提をなす男と女の境界がぼやけて、性の多様化が市民権を得つつある以上、もはやかつてのような無邪気なブームが再来する可能性はまったくない。そうした意味でも『千草忠夫選集』は稀少な過去のオベリスクであり、わたしにとっての文豪のひとりとして、本棚の奥にそっと(前面には別の本を並べて表から見えないように)仕舞い込んでいる次第だ。
究極の「粗大ごみ」
書斎とは、自分が支配者のめくるめく迷宮だ。これほど愉悦の場所はない。と、そんなふうに受け止めていたところ、ことによったら事態はまったく別なのかもしれないと考えさせられるできごとと遭遇した。大学時代の友人からこんな話を聞かされたのだ。
かれの父親はかつて国際問題に関する著述をなりわいとしていた関係で、実家の広大な書斎の壁いっぱいにしつらえた本棚には国内外の文献がびっしりと並び、仕事の第一線から退いたあともそこに籠っていることが多かったという。やがて、長らく病身だった妻(友人の母親)に先立たれ、しばらくのあいだは気丈にひとり暮らしを継続していたものの、やはり年齢相応に心身の衰えが見られるようになり、火の取り扱いも危ぶまれるにおよんで、かれは父親を説得して自分のマンションに住まわせることにした。
そして、引っ越しの日取りが近づいてくるなかで、実家の荷物はとうていマンションに入り切らず、ほとんどを処分することに決めたとき、虚ろな状態にあった父親からたったひとつ要求が出された。書斎の本や雑誌はすっかり手放してもかまわないけれど、どうしても本棚だけは持っていきたい、と。まるで駄々っ子のような強情さだったという。そこで、かれは書斎の壁面に作りつけの本棚をいったん解体して、それをわざわざマンションの部屋のサイズに合わせて組み立て直したそうだ。
そんな話を聞いて、わたしは友人の親孝行ぶりに感心するとともに、どこか自分についても思い当たる節があってうろたえた。おびただしい個人全集・選集のたぐいに取り囲まれて悦に入っているけれど、実のところ、そうした蔵書よりもそれらを収納する本棚という存在のほうに執着しているのではないか。なるほど、本棚とは自己の精神の見取り図に他ならず、色とりどりの本でいっぱいになっていようが、すっからかんの空っぽになっていようが、どのような状態であれ、みずからの心象風景を反映しているのだと思うと、かぎりなく愛おしくなる。
もはや書籍を収めることをやめた本棚とは、究極の「粗大ごみ」以外のなにものでもないだろう。わたしもいつか、書斎でそうした空虚の前にたたずむことを無上の喜びとするのかもしれない、と想像している。