アナログ派の愉しみ/映画◎宮崎 駿 監督『風の谷のナウシカ』
あしたはたくさん飛ばなきゃ――
少女が政治を変革するとき
宮崎駿監督のアニメ映画『風の谷のナウシカ』(1984年)が目の前に新しい扉を開いたときの衝撃は、いまも鮮やかに記憶している。ごく簡単にストーリーに触れておこう。人類の文明社会を焼き払った最終戦争「火の7日間」から1000年後、世界は環境汚染がもたらした「腐海」の侵食に脅かされながら、なおも覇権をめぐって争いが絶えず、ふたつの列強国にはさまれた「風の谷」の族長の娘ナウシカは、ただひとり世界を救う秘密を解き明かそうとしていた……。
東西冷戦下の日本をイメージさせる舞台では、アイヌ民族風の衣装をまとった人々が神話・呪術にもとづく生活を送り、そこへ原爆をも凌ぐらしい邪悪な大量破壊兵器が持ち込まれるという、むちゃくちゃな世界観ではある。しかし、それでもわたしを惹きつけてやまないのは、宮崎アニメの他のナイーヴなヒロインたちとは違って、ナウシカが政治の変革に正面から立ち向かうからだ。破滅に瀕した「風の谷」を守るべく調停を行い、迫りくる「腐海」との共存を訴えて先頭に立つ。人類がぎりぎりの局面で出くわす課題を、人類全体の合意のもとに解決しなければならないときに、政治の中心を少女が担いうることをこの映画は告げている。
わたしは森昌子、桜田淳子、山口百恵の「花のトリオ」と同世代だ。彼女たちがアイドルとしてまばゆい照明を浴びるその足元には、つねに時代に消費される立場の暗い影がまといついていた。ナウシカの登場は、少女という存在にまったく異なる角度から照明をもたらしたように思ったのだ。その思いのあまり、以来、社会党委員長・土井たか子やら、外務大臣・田中真紀子やら、東京都知事・小池百合子やらがブームを巻き起こすたびに、すわ、ついにナウシカの後裔が現れたか、と胸騒ぎしたものだが、いずれも打ち上げ花火のような現象でしかなかった。
そのとおり、わたしは眺める方角を誤っていたのだ。ナウシカは、少女は、そんなできあいの土台に乗って政治を行うはずもなかった。
いまにして振り返ってみると、たとえば、AKB48は、東京・秋葉原のビルからはじまってステージを拡大していき、毎年の選抜総選挙ではともすると国政選挙以上の話題を集め、グループは軽やかに国境を越えて世界各地に伝播していった。また、テニスの大坂なおみ選手は、日本人を外見や言語によって単一民族と見なしてきた視野狭窄を覆しながら、世界ランキング1位にのぼりつめた。あるいは、競泳の池江璃花子選手は、彼女の自由形やバタフライの勇姿にも匹敵するだろう、果敢なチャレンジ精神で白血病の治療に臨み、この病気と人類との格闘に新たなページを開いてみせた……。
現実の「風の谷」においては、こうしたあり方こそ、少女によって実現される政治の輝かしい変革であり、ナウシカが予告したものではなかったか。おそらくはこれからも未来に向けて可憐な革命家たちが陸続と出現することだろう。
ナウシカは世界を救済するための試練に立ち向かう前夜、「腐海」の静謐な底で眠りにつくときにそっとつぶやく。「あしたはたくさん飛ばなきゃ」と――。