アナログ派の愉しみ/映画◎李 相日 監督『フラガール』

昭和のフラガールと
平成のAKB48が出会うとき


李相日(リ・サンイル)監督の『フラガール』(2006年)が、福島県いわき市の実話にもとづくことはよく知られている。1960年代なかばの常磐炭鉱の大規模な合理化にともない、新たな町おこし事業として「常磐ハワイアンセンター」の企画が立ち上がり、呼びもののフラダンスショーの役割を担って炭鉱街の女性が奮闘するドラマだ。実際にフラダンス初体験の女優たちによる健気な演技に、わたしも惜しみなく感涙を噴きこぼしたひとりだが、いまあらためて鑑賞してみると、そこにはもっと大きなエポックメーキングのドラマも生じていたことに気づく。

 
ストーリー上で大きな転換点をなしているのは、事業の責任者(岸部一徳)に雇われてフラダンスの指導役として東京からやってきたSKD(松竹歌劇団)出身の平山まどか(松雪泰子)が、地元女性たちの箸にも棒にもかからないありさまに匙を投げたのち、ひとり木造の練習場でトレーニングに立ち向かうシーンだ。そこで演じたのは腰を振りながら全身を激しく上下させる「タヒチアン」で、候補生の女子高生・谷川紀美子(蒼井優)はたまたま覗き見して「おれ、先生みてえに踊れるようになりてえ」と叫ぶ。

 
その紀美子がいみじくも口にした「踊る」という言葉について、大野晋編『古典基礎語辞典』はつぎのように解説している。

 
をど・る【躍る・踊る】 上方に飛び上がったりするのが原義。人よりも馬などの動物、あるいは鳥や虫についていうことが多い。類義語マフ(舞ふ)は、平面上をぐるぐると旋回する意で、特に歌や音楽に合わせて体を動かす、つまり舞踊をする意を表す。現代語ではヲドルが主としてこの舞踊をする意に使われているが、その例が出てくるのは、中世に入ってからである」

 
すなわち、本来の日本語の意味に立ち返って整理するなら、このとき紀美子が出くわしたのは、盆踊りのような水平軸の「舞う」とは別ものの、天と地をつなぐ垂直軸の「踊る」だったわけだ。だからこそ、彼女の母親(富司純子)は夫が落盤事故で死んだあとの家族を支えてきて、そんな恥ずかしい真似はさせられないと娘の頬を引っぱたき、一方、彼女もひるむことなく「おれの人生、おれのもんだ。ダンサーになろうが、ストリッパーになろうが、おれの勝手だべ」と捨て台詞を残して家出したのだろう。そして、平山に向かってこう告げる。

 
「先生の踊り見たとき思った。もしかしたら変われるかもしんねえ、脱け出せるかもしんねえって」

 
閉塞社会ニッポンのどこにも目標を見出せない少女にとって、「踊る」とはまさに次元の異なる時空を生きることを意味したのだ。

 
こうして紀美子は練習場に住み込んで平山の容赦ないレッスンに耐えると、「常磐ハワイアンセンター」のオープン当日には仲間とステージに立ち、物陰からそっと母親が見守るなか、主役としてあのとき目の当たりにした「タヒチアン」を演じるシーンがクライマックスを形成する。つまり、この昭和の地方都市を舞台とするサクセス・ストーリーは合わせ鏡のように、平成のポスト・バブル世代の少女が水平軸から垂直軸へと生きる時空を変革させたドラマと表裏をなして、実は、われわれ観客もそこに心を動かされていたのではなかったろうか。

 
そんなふうに考えると、この映画が大ヒットしたのが東京・秋葉原でAKB48が本格的な活動をスタートさせたタイミングとぴったり重なっているのは、あながち偶然ではないように思われてくるのである。
 

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