アナログ派の愉しみ/映画◎松本優作 監督『ぜんぶ、ボクのせい』
生きること死ぬことを
問い直す思想劇
最近の日本映画には珍しい思想劇ではないだろうか。松本優作監督の『ぜんぶ、ボクのせい』(2022年)のことだ。
優太(白鳥晴都)は5歳から神奈川県川崎市の児童養護施設に預けられ、中学に進学したら母親が迎えにくるという約束を信じてきたが、いざそのときになってもナシのつぶてだった。そこで事務室に忍び込み自分のファイルを盗み見て母親の現住所を知ると、職員の財布をくすねて脱走し、はるばる訪ねた千葉県いすみ市のアパートでついに母親と再会を果たす。が、感涙にむせんだのも束の間、いまはチンピラの男と同棲する母親から追いだされてしまい、優太はあてもなく海辺の町をさまよううち、防波堤の陰でホームレスのおっちゃん(オダギリジョー)と知りあう。
「あれはタイムマシンだよ。過去から未来に走るタイムマシン」
おっちゃんは軽トラックを指してそう言った。なんでも茨城県から鹿児島県へ向かっていたところ途中で車が動かなくなり、もう1年ばかりも幌の荷台をねぐらにして、「社会の整理整頓」と称しては通行人に難癖をつけてタカったり、放置自転車を故買屋に運んで売りつけたり……。そんなかれはいっしょに暮らすようになった優作に笑いながら、死んでしまえば苦しむこともなくなる、と告げるのだった。
「人間にとって唯一選択肢のあるもの、なんだかわかるか? たとえば、病気になったら生きていたくても死んじゃうことってあるだろ。でも、死ぬことっていうのは自由なんだよ。自分が死にたいと思ったときに死ぬことができる。人間にとって唯一平等に与えられた権利なんだよ。金持ちとか貧乏とか、そういうこと関係なくな。でも、だからっていつでも死んでいいということじゃない。そのときがくるまで、どれだけ苦しくてもやっぱり生きなきゃな」
こうした独自の死生観のもとで生活するおっちゃんに吸い寄せられるように、女子高生の詩織(川島鈴遥)もしばしば足を運んできた。裕福な家庭で何不自由なく過ごしているぶん、どうしようもなく心の不自由に苛まれ、必要もないカネのために援助交際を重ねたり、地元の不良グループと悪さに興じたりする彼女も、おっちゃんや優太といっしょにいるあいだだけ素直な少女に戻れるのだった。
いつか軽トラックが修理できたら三人で名古屋へ行こう。そんな約束をしてから間もなく、破局の日がやってきた。地元住民がホームレスの立ち退きを求めて立ち騒ぐなか、不良連中が面白半分に軽トラックへ火をかけたのだ。かねて肺を患っていたおっちゃんは突如燃えあがった炎のなかで喀血し、もはや逃げだす気力も失せたようにあっけなく焼け死んでしまう。そして、あとに残された優太と詩織は海辺をさまよって夜を明かしたのち、優太ひとりが警察につかまって、きみが火をつけたんだな? との尋問にこう応じた。晴れ晴れとした顔つきで――。
「ぜんぶ、ボクがやりました。世の中で起きている悪いこともぜんぶ。ぜんぶ、ボクのせい」
ことここに至って、わたしはこのストーリーが『新約聖書』と二重写しになった。すなわち、ひたすら無力な少年の優太はイエス・キリストのアレゴリーであり、自殺まがいの最期を遂げたおっちゃんをイスカリオテのユダ、ラブホでエンコーにいそしみながら純真無垢な詩織をマグダラのマリアと見立てると、かれらの三角形の関係をとおして人類のすべてが負った「原罪」とイエスの自己犠牲による「救済」の構図が浮かびあがってくるように眺められたのだ。もっとも、そうした宗教的な観念はわれわれには遠いものかもしれない。
実は、ドラマのなかで、優太とおっちゃんと詩織のあいだにはもうひとつ重大な共通項が設定されている。前述のとおり優太が母親からネグレクトされているばかりでなく、おっちゃんはかつて母親の虐待にあった記憶にいまも苦しめられ、詩織は幼くして死別した母親が本当は自殺だったのではないかと疑っている。つまり、三者とも母親という存在が体現する生命連鎖とのあいだに深い断絶があり、それは現代の日本社会において物心ついた幼児から後期高齢者まで幅広い世代の人々が向きあわざるをえない孤独感と照応するものではないのか。だとするなら、生きるとは何か、死ぬとは何か、その根本を問い直すためにも、優太が口にした「ぜんぶ、ボクのせい」のセリフをあらためて噛みしめてみる必要がありそうだ。
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