3姉妹の90年 母の思い
母方の祖母の13回忌をやることになった。
祖母の子供は4人。89歳の長男を筆頭に、長女(私の母)、次女・三女(80歳)。皆、存命である。ただ、実家は競売にかかり、もう無い。長男と三人の娘は絶縁状態である。
イベント好きな3姉妹なので、これまでも機会(例えば祖母の100歳祝い)ある事に、宿泊を伴う会をやってきた。幹事はいつも私である。終わるたびに「もう絶対にやらない!」と思うのだが、時間が経つと「ま、仕方ないなぁ、やるか!」となる。100歳の祝いでは孫やひ孫、祖母の妹(大叔母)まで加わり20名を超える団体の宿泊となった。企画運営がいかに大変かは、想像していただけるのではないかと思う。
久しぶりの企画である。3姉妹は全員80歳代。何事にも根気がなくなり、面倒くさくなっている。13回忌なのだが「特に集まらず、何もしない」となりかけた。しかし、「集まれるときにやらないと、後悔するよ」と、母(長女)に提案し、特に法要等は営まないものの、宿泊を企画することになった。結果、11人の参加者となったのである。
母は、昨年脳梗塞で1ヶ月入院し、奇跡的に日常生活に困らないところまで回復した。父も今年に入って足首を骨折して1ヶ月あまり不自由な生活をした。「やれるときにやっておこう」と考えたのはそのような背景もある。
そして、明日がその日、という夜。母から、便せん2枚の文章を渡された。「明日までに皆に渡せるようにしてほしい」というのである、結構長い時間かかって作った文章である。自分の病気、皆の高齢化、長いとは言えないであろうこれからの人生、色々考えて、今思い出すこと、参加する親戚に残しておきたいこと、を考えたのだろう。
以下、87歳の母の、今の思いである。
『3姉妹の90年
父・高七(明治41年生)、母・ヨシイ(明治43年生)、美知子(昭和12年生)、聖子(昭和17年生)、紀子(昭和19年生)。
紀子の出生にはちょっとしたドラマがあります。
その時、父には赤紙が来ていました。
母は実家で出産。紀子がこの世に生まれたのを見届けて戦地に向かいました。
紀子の名前にも一話あります。紀子が生まれた2月11日は、当時から祝日でしたが、「紀元節」といいました。それで、母は「紀子」と名付けました。
その後、歩き始めた聖子に股関節脱臼が見つかり、乳飲み子の紀子は私の背中で育ちました。戦時中でもあり、通院は戦でした。気丈な母、その他の皆さんの協力により、聖子は三人姉妹中、一番かけっこの早い子に成長しました。
終戦後、高七さんから何の音沙汰もありませんでした。父は千島におり、小さいですが鈴木高隊という部隊の長でした。ソ連に連れて行かれ、5年の捕虜生活を経て、何とか伊達駅に帰ってきました。生まれたばかりの紀子は5歳になり、私も5年生になっていました。だぶだぶのソ連兵の服を着て降りてきた姿をみて、これ父ちゃん?と思いました。
後々色々ありましたが、高七、ヨシイから始まった私たちです。子供四人(+四人)、孫八人(+六人)+ひ孫十一人。ずいぶん増えましたね。末広がりと言えるのでしょうか。
私たちも老境に入り、心配をかける、世話になる事が増えると思いますが、よろしくお願いします。 令和6年6月15日 美知子』
今回の会にあたって、母が残しておきたかった内容である。まさに『老境』に入り、病気との闘いを経て、老いと向き合い、去来する思いを慣れない文章にしたものである。
この思いを受け止め、A4版1枚に体裁を整え、少し上質な飾り紙に印刷(100歳のお祝い会の写真入り)し、参加者に配った。(予定になかったが、私が朗読をすることになった)。
そんなこともあり、和やかで、良い会になった。心地よい疲労感に包まれている。次の機会も考えられたら幸せである。