『大原扁理さんの本と金川顕教さんの本』
昨日、金原顕教さんの「これで金持ちになれなければ、一生貧乏のまま」の読書感想文をアップした。
先日書いた、大原扁理さんの「なるべく働きたくない人のためのお金の話」の自分の読書感想文と似ているなぁと思った。
2冊とも「お金」について、書かれている本であるが、著者の略歴、生活スタイル、著書の内容は真逆と言ってもいい。
大原扁理さんは、25歳の時に、週2回のアルバイトと不定期アルバイトで、年収100万円の隠居生活を始めた方。
金原顕教さんは、起業後、仕事の効率化、仕事の単価や収益をあげる方法を追求し、1日の労働時間を実質1時間にして、1日100万円を稼ぐ「時給100万円思考」を体現した方。
年収100万円と時給100万円。
まさに真逆のようだが、私は2人の著書に、共通点を感じていた。
自分は、何にどれ位、お金を使いたいのか。
その為には、どんな方法で、どれ位の労働時間で、いくら、稼ぐ必要があるか。
他人の価値観に流されることなく、自分で決めて、実行している点だ。
私は、大学の4年間、芸能人や政治家の子供が多く通うことで、有名な学校に在籍していた。
同級生には、有名人の子供が何人もいたし、親しい友人の中にも、実家が病院だったり、飲食店を何店舗も持っていたりする家庭の子がいた。
私は、彼女達の所持品や、ファッションが眩しく見えて仕方なく、なけなしのバイト代を、109やPARCOでほとんど使ってしまうようなことが、しばしばあった。
それでも、彼女らが持っているような高級ブランドのバックは、バイト代では到底買えないため、私は、ごく普通のサラリーマンの中流家庭に生まれたことを、心の中で嘆いていた。
『ごく普通』『中流』という概念自体どのようにして生まれたのか不思議だか、当時の私の価値観からすると、日々の暮らしや進路選択において、お金が足りないという理由で我慢を強いられたことはない。しかし、プラスアルファのもの(例えば、ヴィトンやシャネルのバック)を親が買ってくれたことはない。
その中間の家庭という意味で、勝手に我が家を、中流家庭と定義していた。
私は今までの人生の、どの段階でも、お金は誰かにもらう。
もらったら、もらった分の中で、楽しみを見出して、使い切る。
買えないものがあると、もらえるお金の少なさを憂う。
そういう具合で、お金と付き合ってきた。
幼少期から学生時代までは、両親。
社会人時代は、会社。
専業主婦の時は、夫。
常に誰かに与えられるものだと思っていた。
父の死後、自分の生き方を振り返る中で、進路や仕事を、他人軸で決めてきたことに気がついた。
そして、お金の使い方、稼ぎ方についても、私は自分で考えて、決める事をしてこなかったのだ。
お金と生活は密接に関係している。
人生と向き合うと、お金と向き合うことになるし、お金と向き合うと人生と向き合うことになる。
自分で考え抜いた、お金の使い方と稼ぎ方をしたいと思う。