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読書に適した疲労

ここ最近、子供の体調不良により引きこもりの日が続いていた。

その中で、自分と子供の様子を客観的に観察して気がついたことがある。

「読書に適した疲労状態」というのがあるんじゃないだろうか?ということ。

私と我が子にしか当てはまらないかもしれないが、この仮説を検証してみる。

普段、仕事がある日の私の読書時間は朝30分と夜30分程度。
子供たちは夜30分程度。

私は休みの日にはもう少し読むけれど、意外と「今日は1日中本を読むぞ!」と意気込んでも、よほど共感できる内容の本か、続きが気になるミステリー以外は一気に読むことは出来なくて、30分位読んだら他のことをして、また30分位読んで...と細切れにした方が集中力が続く。

で、引きこもりだった時はどうかというと、初日は、病院やらで終了。2日目は子供は回復しつつあり、私は読みたかったミステリー小説を一気読みした。

その後引きこもりが長引いてくると、子供は学校には行けないものの元気だけど、私は1日中子供と家の中にいることに疲れてきた。

それでも、初日のミステリー小説に続き、何冊かは本を読んだ。でも最終日?には午前中に友人とLINEのやり取りでスマホばかり見ていたら、そこから色んなことのやる気がなくなり、本を読む気もせず、家事も最低限、ほとんどの時間をSNSやYouTubeを眺めて過ごしてしまった。
すると、どんどん頭がぼんやりして疲れてきて、ますます本を読もうとは思えなくなった。

子供たちはどうだったかというと、いつもしている夜30分の読書もしていなかったし、元気になって暇そうなのに、本は読んでいなかった。やはりYouTubeばかり見ていた。

『晴耕雨読』という言葉がある。

晴れた日には外に出て田畑を耕し、雨の日には家にこもって読書をすること。悠々自適の境遇をいう。

コトバンク 四字熟語を知る辞典


昔の人の暮らしを表した言葉という印象だったけど、これって結構誰にでも当てはまるのではないか?と思った。

子供たちは普段の生活では学校に行って勉強、運動をした後、学童にも行ってたっぷり外遊びをしている。まぁまぁ肉体的疲労がある状態で帰ってきて、夕食を食べて、お風呂に入って後は寝るだけという時間帯に、読書をしていることが多い。

引きこもり中にも「暇なら本でも読めば?」と勧めてみたが「あれは心を静める時にしてるから」とお断りされた。

この「心を静める時にしてる」というのが結構核心をついている気がする。

子供たちは、ある程度身体が疲れている時に、その身体に合わせて心も静めるために読書をしているのではないか?

※学校の一斉読書など強制力のあるものを除いて。

だから病気が回復しているのに学校に行けず、体力が余っている状態の日中には、読書をする気がしないのではないか?

そして1日テレビやYouTubeを見て過ごすうちに、脳だけが疲労してますます本を読む気分ではなくなる。

それは大人の私にも言えることで、普段より明らかに体力を使わず引きこもり、肉体的疲労はないが子供とずっと一緒にいることによって、精神的には疲労していた。そこへトドメのように、ぼんやりスマホを眺めて時間を過ごしてしまい、それによって脳疲労も引き起こしてしまった気がする。

つまり『晴耕雨読』的な、晴れた日は身体を動かし、雨の日には読書をするというメリハリと適度な肉体的疲労が、読書に適しているのではないかと思うのだ。

反対に一番適していないのは、肉体的疲労はなく、脳だけ疲労している状態。

これは『晴耕雨読』という言葉が生まれた頃にはなかった概念だろう。

私の体感だと、脳疲労は主にスマホとテレビによってもたらされる。

そして一度脳疲労状態に陥ると、眠ってリセットしない限り、スマホとテレビ以外何もできない(したくない)状態になるため、脳疲労の無限ループが出来上がる。

こうなってしまうと、もう本を読むのは難しい。

『晴耕雨読』には晴れてなければ田畑を耕せないから、雨の日には読書をするという物理的な理由も込められているのかもしれないが、雨の日にもたくさんの選択肢がある現代においては、脳疲労を起こす前にまず本を読んでみるのが良いかもしれない。

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