
『夜明けのインターホン』
寝入りばなだった。
ベッドに入り布団にくるまってから三時間ほど室田は寝つけなかった。
目を瞑るたびに瞼の裏に一つの映像が浮かび上がるのだ。四六時中、その映像に追い回されている。
そうすると、何者かにその映像通りに動くよう、発破をかけられているような気になってくる。やれ、やっちまえよ、と。
怖かった。声の主を知ることが。
抗いようのない睡魔が訪れ、室田はようやく微睡むことが出来た。
瞼が重くなり、目を閉じる。すっと全身から力が抜けるのがわかり、これが最後の睡眠になるかもしれないと、遠のく意識の中で考えた。
インターホンが鳴った。
室田は目を開けた。
横寝の姿勢のまま動かず、暗闇を見つめた。部屋の壁の一部分が赤く染まっていた。室田は眉をひそめた。
身体に巻きつけていた掛け布団から腕を抜いてローテーブルに手を伸ばし、置時計のスヌーズを押した。文字盤が点灯する。深夜の三時半を過ぎたところだった。室田はもう一度、眉をひそめた。
ベッドから出るとインターホンの受話器に歩み寄った。【共同玄関】のランプが赤く光り、訪問者の存在を訴えている。
室田は受話器を取らなかった。しばらくするとランプは消えた。ベッドに戻り、また布団にくるまった。
また、インターホンが鳴った。
室田は舌打ちをして立ち上がった。今度は受話器を取った。
「はい」
「俺、俺。遅くなっちゃったね」
「どちら様ですか」
「どちら様って、俺だよ」
「部屋番、間違ってますよ。たぶん」
「あれ、押し間違えたかな。304じゃない?」
「303押してますね」
「あれ、304押したはずなのにな」
室田は応答せずに受話器をかけた。
ため息をつく。直接にベッドには戻らず、キッチンの照明をつけて冷蔵庫から水のペットボトルを取った。ちらりと冷蔵庫の中を見た。空っぽだった。気が塞いだ。待ち構えていたように例の映像が頭を過る。室田は静かに冷蔵庫の扉を閉めた。
憂鬱に襲われたままボトルのキャップを取り、口元でボトルを傾けた。
それと同時に、インターホンが鳴った。
室田はその姿勢のまま固まった。眉をひそめ、受話器の方を見遣る。水を口に含む前にボトルを冷蔵庫に戻すと、受話器を取った。
「はい」
「留守みたいなんだよ、友達。何回も呼び出したんだけど」
「はあ」
「ご馳走買って来たのに、これじゃ無駄になっちゃうから、よかったら今からちょっと一緒に喋らない? これも何かの縁だと思って」
室田は受話器を顔から離して通話口を見つめた。
「酔ってるんだろ、切るぜ」
「お酒なんか飲んでないよ。もちろんセールスの類いでもない」
「何時だと思ってるんだよ」
「時間はわからないけど、夜中だね。ということは、もうちょっとで朝だね」
「怪し過ぎるって」
「怪しい奴ならまず最初に『怪しい者ではありません』てちゃんと自己紹介してるよ」
室田はまた通話口を見つめた。ぼそぼそと声が聞こえてきたのでまた耳にかけた。
「縁は大切にした方がいいよ。良くも悪くも縁は必要な時にしか巡ってこないんだから。それが良縁か悪縁かは、あとになってみないとわからないけどね。ただ、面倒くさがって門前払いするのは、オススメしない。それは、ただの手抜きだからね。意味は必ずある。良化するか悪化するか。吉と出るか凶と出るか。どちらに転んだとしても、何かしらの変化はある」
室田は黙り込んだ。
男が「三分だけここで待ってるよ」と言った。
「いいじゃん、人生に一回くらいこんなことがあっても。下りておいでよ」
エントランスのガラス扉の向こうには痩身な若い男が立っていた。
室田が姿を見せるなり男は口元を緩め手を振ってきた。黒のブルゾンを着て、金色に染めた直毛を肩口で切り揃えて前髪は七三で分けている。左手には紐なしの小さなクラフト袋を持っていた。
ガラス扉が開くなり男は「良かった、来てくれた」と歯を見せて笑った。軽薄で、あっけらかんとしていて、奇妙な透明感のある男だった。室田は男の顔を素早く観察した。やはり、見覚えはなかった。
「よく手が振れるな」
「俺の両親は挨拶にうるさかったからね。叩き込まれてるんだ」
じゃなくて、と室田はエントランスに設置されたオートロックをくいと顎で示した。
「俺が喋った相手じゃなかったらどうするんだよ」
「人違いだったら謝ればいいだけだよ。間違いに気づいたら間違いを認めて心を込めて謝る。然るべき罰をうけて、やり直す。世の中なんでもそうだよ」
行こう、と男は颯爽と踵を返すとエントランスから出て行った。男は振り返らず、すいすいと路地を進んで行く。
室田はため息をついた。
なんなんだよあいつ、と小声で悪態をつき、気は進まなかったがアパートの敷地を出た。
室田は歩きながらふと夜空を見上げた。夜明けの気配はまだどこにもなかった。
男はクラフト袋の中から透明のフィルムにくるまれたパンを取り出した。
じゃん、と大層に外灯の下で室田に自慢気に差し出して見せた。あんパンのヒーローの似顔絵がチョコペンで描かれたキャラクターパンだった。男は歩きながらフィルムを丁寧に剥がし、嬉しそうにパンにかぶりついた。
「ご馳走って、それかよ」
男はパンを口にくわえながらフィルムをクラフト袋に入れた。袋を小さく折りたたむと上着のポケットに入れた。
「あんパンの設定のキャラなのに中身はクリームだなんて、反則だよね。美味しいけど」
男はパンを半分に千切って断面を見せてきた。暗くてよく見えなかった。
「あんこよりもクリームの方が食べやすいんだろ、子供は」
次の外灯の下で男は半分になったパンをくっつけて表面を見せてきた。ヒーローの顔の中心に亀裂が入り、頭の部分が欠けている。
「これ、憶えてる?」
「誰でも知ってるアニメだって」
ふむ、と男は手を戻してパンを囓った。
「同じアニメのキャラが描かれたメロンパンも置いてあったけどね、俺はこっちが良かったんだ」
「わかるよ。だいたいセットだよな。あんパンとメロンパンの」
「憶えてるの?」
「あのアニメの二大人気キャラだろ。それくらい憶えてるって。俺の分は?」
「ないよ。一個しか買ってないもん」
「ご馳走があるから一緒に食べようって言っただろ」
「言ってないよ。一緒に喋ろうとは言ったけど。それに、もう子供じゃないんだから、欲しかったら自分のお金で買わないと」
男と横並びで路地を進み歩道に出た。無人のコインランドリーの前を通り、黄色点滅を繰り返す信号機を見上げながら横断歩道を渡った。道路沿いなので路地よりも幾分辺りは明るかった。
「名前は?」
「好きな名前で呼んでくれていいよ。俺もそうするし」
「なんで名前が言えないんだよ」
「身分証明を持ってないから、俺が名乗ってもそれが本名か偽名か知りようがないでしょ。だったら意味ないじゃん」
男は横並びから一歩前に出るとこちらを振り返り、器用に後ろ向きで歩いた。
「俺は君をピヨと呼ぶことにするよ。なんか今にも泣き出しそうで、ピヨピヨしてるから。もう大人なんだから、泣くのはみっともないよ」
男はパンを食べ切ると唇を指で拭い指先をぺろりと舐めた。
挑発とも取れる男の無遠慮な言葉に室田は面食らい、追って怒りが湧いたが、何も言い返さなかった。てんで的外れというわけでもない。今の自分が弱々しく見窄らしい身なりをしている自覚はあった。それよりも室田は不意に何か頭に引っ掛かるものを感じ、男への怒りよりもその違和感の方が気になった。
「考えない考えない。見たまんま、何も考えずに決めちゃっていいんだよ。なんでも難しく考えちゃうから、ピヨはよりピヨピヨしちゃうんだよ」
よく見ろというように男が両腕を左右にひろげた。思案顔の理由を汲み取り間違えているらしかった。
男の言葉に従ったわけではないが、室田は一端、考えるのをやめた。醒めた目で男を眺めた。最初に思い浮かんだ物体の名前を口にする。
「トウモロコシ」
いいね、と男は満足したように笑った。
「いいから前見て歩いてくれよ、転けるって」
「この髪色から連想したんでしょ、かっこいいでしょ、これ」
男は頭を左右に振った。風に揺れる金色のカーテンのように髪が滑らかに夜を泳いだ。
「俺を印象づけるために、この色にしてるんだよ。俺と会った人が、俺と会ったことをちょっとでも長く憶えていられるように、願いを込めてね。そうでもしないと、みんなすぐ忘れちゃうから」
「憶えてもらって何になるんだよ」
「ピヨもさ、せっかくこの世に生まれてきたんだから、ピヨが生きてることを、もっとみんなにお知らせしないと。今ってさ、人生百年時代とかいわれてるんでしょ?百年なんて、一瞬で過ぎ去るからね」
「百年のどこが一瞬なんだよ」
「あっという間だよ。『生涯を捧げる』とはいっても、効力は長くても百年なんだから。せいぜいあと七十年、六十年しか夢に打ち込めない。愛する人を愛せない。そう考えたら、短いじゃない」
「なんだよそれ」
「あと、トウモロコシはちょっと長いな。モロにしよう。俺の名前はモロで君はピヨ。モロとピヨ。響きが良いね」
男はくるっと体を翻して室田の横に戻った。満足そうに笑顔を浮かべている。
室田は疲労を感じてため息をついた。あらためて、考えることをやめた。
この男が誰でも、この男にとっての自分が誰でも、どうでもよかった。
国道の交差点を渡ると二人は道路沿いから中道へ入り、古い日本家屋が両脇に並ぶ旧街道を歩いた。
アパートを出た時よりも、ほんのかすかに夜が薄まっていた。進行方向に見える東の空の下部に朝焼けの兆しが臨いていた。それでも依然、周囲は、街は、がらんとしていた。
「人類が滅亡したあとの地球を眺めてる気象衛星になったような気分だね」
「なんだよそれ」
小さな道祖神の手前に割り箸と弁当の空き箱が落ちていた。
室田は舌打ちをするとそれを拾った。
「悪い、さっきの紙袋欲しいんだけど」
モロは首を傾げながら折りたたんだクラフト袋を取り出した。室田はそれを受け取ると袋を広げて中にゴミを入れた。室田はクラフト袋の口を指でつまみながら歩いた。
「俺が持つよ、俺のゴミも入ってるし」
「いいって。俺が家で捨てるから」
ふむふむ、とモロは頷いた。
「そういえば、ピヨはなんの仕事してるの?」
室田は身体の芯の部分が硬直するのを感じた。会話に不自然な間が生まれた。モロは首を傾げて返事を待っていた。
「無職だよ」
ふうん、とモロは気に留めた様子がなかった。室田はなんとなく居心地が悪くなり、取り繕うように苦笑いを浮かべた。
「終わってるだろ、俺。三十五だぜ」
「何が終わってるの?」
「俺の人生だよ。貯金も、もうすぐ底をつくし」
モロは指でつんつんと室田の肩を突いた。
「君は凄く生きてるよ、ピヨ。全然、終わってない。全然、続いてる」
「なんだよ続いてるって」
「生きてるってことだよ」
「それで言えば、俺は続いてるだけだ」
「確かに。水の出しっぱなしと一緒だね。せっかく水が使えるのに、流してるだけで、活用してない。そう見える」
「無職の奴はみんな社会のお荷物で、命の無駄遣いをしてる、悪人かよ」
「まさか。俺が言いたいのは、ピヨからは生きようとする気力が感じられないということだよ。これは職に就いているかどうかは無関係だよ。それにしても、危ういね」
「何が」
「心当たりがあるでしょ?」
室田は黙り込んだ。
「仕事はなんで辞めたの?」
室田は口を噤んだまま歩いた。頭に、去年の冬のことが蘇った。
夜中に突然、飛び起きた。
言いようのないおぞましい不安感が寝起きの思考回路に充満していた。すると内側から破裂するような動悸が起き、「寝たら死ぬ」という意味不明な思い込みが頭から離れなくなった。それがトリガーとなり、過呼吸を起こした。
呼吸の方法が突然にわからなくなり、全身から血の気が引いた。置かれている状況が理解出来ず、床でのたうち回り、あと数分で自分は死んでしまうのだと思い込み、死への恐怖心で気が狂いそうになった。部屋の壁が四方から迫ってくるような閉塞感にも襲われ、混乱と恐怖に耐えかねて室田は真冬のベランダに飛び出した。
目を見開き、物干し竿にしがみつき、寒さに震えながら必死に呼吸を整えた。いくらか冷静さが戻ってくると、それまで自覚しながらも目を背け後回しにしていた心身の異変の数々が、自分を責め立てるように頭に押し寄せてきた。
すべてを疲れのせいだと軽視して、処置を怠り、放置してきた。
今、心身不良が氾濫を起こしたのだ。俺は、一線を越えてしまったのだ。
「このまま続けたら、死ぬと思ったんだ」
その日を境に同様の発作に度々襲われるようになった。
耐性はついたが疲労は蓄積し、食欲低下と寝不足が続いた。人が密集する場に恐怖を感じるようになって電車通勤が出来なくなった。情緒も不安定になり、些細なことで涙を流すようになった。疲労に業務を蝕まれ、ミスを繰り返した。肉体的に、精神的に、限界だった。
「じゃあ大正解だよ。命よりも大切で貴重なものなんか存在しないんだから。ピヨもなかなかやるじゃん」
モロがハイタッチをするために手のひらを顔の横にかかげた。室田は無視をした。モロはいじけるように手を引っ込めた。
「気休めはいいって」
重いストレスを抱えている自覚はなかった。
安月給であっても、重労働ではなかった。職場の人間関係もこじれてはいたが、衝突するほどではない。だからこそ、自分の弱さに失望した。この程度で崩壊する脆弱な自分には、居場所なんてどこにもないと悟った。最善を尽くしても、たかが知れている。頑張るだけ無駄だ。すべてが馬鹿馬鹿しくなった。
「命の危機を感じて、それを回避して、何が悪いのさ」
「我慢することから逃げてるだろ」
「骨を埋めていいと思えるくらい、大好きな仕事だったの?」
室田は黙って歩いた。それから首を左右に振った。
「そういうわけじゃない」
あの仕事が好きだったと言えば、それは嘘になる。発作を起こす前から、辞められるなら辞めたいと思っていたのは事実だ。
「惰性で続けていたことを、辞めざるを得なくなった。それでも心を無にして続ける方が、絶対に変でしょ?」
それに、とモロは続けた。
「逃げるというのは、見て見ぬふりのことだよ。向き合おうとせずに、楽な道を選ぶことだ。たとえば、本当はもう病気が治っていることを知ってるのに、治ってないことにして、不幸ぶり続ける人は、逃げてる」
モロは正面を見ながら言った。室田は口を閉ざし返事をしなかった。
少し歩いてから室田は儀礼的に訊いた。
「モロはなんか仕事してるのか」
モロはにんまりと笑顔を浮かべた。
「俺はね、ツタエルをしてる」
分単位で空の色は移り変わっていった。
遠方の紺碧の雲が薄紅を帯びて、夜が洗い流されていくように、空は見る見る明るんでいく。
「朝焼けと夕焼けって見分けがつかないよね」
「まあ、確かに」
それで、と室田は促した。
「なんだって」
「ツタエルだよ」
「ツタエル」
「言葉の代理人だよ。依頼者から言伝を受け取って、俺が代理でその言葉を相手に直接、口頭で伝えに行くんだ」
「郵便局員?」
「似てるけど違うよ。荷物の受け渡しは禁止されてるから」
「言葉だけ?」
「言葉だけ」
室田は首をひねった。
「本当にあるのか、そんな仕事」
「あるよ。守秘義務とか規律が厳しくて、なかなか世間には浸透しないけどね。でも知ってる人は知ってる。全国展開もしてるし」
室田はモロの横顔を窺った。自分をからかっている様子はなかった。
「メールでも電話でも連絡くらいいつでも取れるだろ、今の時代」
「それが難しい人はたくさんいる」
「たとえば?」
「利用者は圧倒的に年輩の方が多いんだよ。お婆ちゃんやお爺ちゃんから、その孫へ。このパターンが過半数を占めてるね。お婆ちゃんやお爺ちゃんはね、いつだって孫を気にかけてるんだよ。たとえどれだけ距離が離れていようと、孫の幸せを一番に願っている。速達依頼も毎日だよ。足腰が弱っていようが、杖をついていようが、そんなのお構いなしでお年寄りが駆け込んで来る。迫力満点だよ」
「速達」
「孫が窮地に立たされていると知った時のお婆ちゃんやお爺ちゃんの行動力はね、目に見張るものがあるよ。『仕事ならいくらでも請け負うから速達で頼む』ってうちの店舗に飛び込んで来て、職員を無理矢理、孫のもとに走らせるんだから。今日、俺が担当したお婆ちゃんもパワフルだったね。『泣き虫の孫がピンチなんだよ。ほら行った行った』って俺のお尻をばんばん叩いてさ。しかもフルオプションだよ。まあ珍しいことでもないけど」
スマートフォンやタブレットの操作に手こずる老人の姿を室田は思い浮かべた。いつだったか、スーパーの自動釣銭機の使い方が分からず困り果てている老人がいて、無視することも出来ず、声をかけて代わりに精算をしてやったことを室田は思い出した。ない話ではないかと思い直した。
「オプションもあるのか」
「種類豊富だよ。アイスみたいでしょ」
「特別料金を貰うとかじゃなくて労働させるのか、年寄りに。どんな会社だよ」
「ちょっとしたことでお年寄りからお金を多く貰う方が心苦しいし、嫌な感じだ」
言われてみれば、と室田は思わず口にしていた。
「だから『あなたの気持ちはよくわかりました。ちょっと行ってきます。だから我々が不在の間、お仕事のお手伝いをしてもらいますよ』というのが、会社の方針なんだよ。オプションを付ければその分、労働時間も長くなる。重労働ではないけど、それでもお年寄りにとっては、けっこう大変なはずなんだけどね。でも孫のためなら」
「労力を惜しまない?」
「その通り」
にやりとモロは笑った。
「いろいろありそうな仕事だ」
「いろいろあるよ」
「なんて言うか」
室田は言い淀んだ。モロが察して「怪しいもんね」と先を引き継いでくれた。
「依頼人の名前を出すのは禁止されてるから、門前払いなんてしょっちゅうだよ。会ってもくれない人が二割。言伝を聞いてはくれるけど俺を怪しんで聞き流すだけの人が七割。しっかりと言葉を受け取ってくれる人が一割。何が悲しいって、やっぱり残念な結果に終わった時の依頼人の表情だよ。こればっかりは、俺たちではどうすることも出来ないし」
「理解を示さない人間の気持ちは、わかる」
この世を二極化するなら、それは幸福と不幸ではなく、加害と被害だ。気を張っていなければ、馬鹿を見る。悲しい耐性が、子供の頃から少しずつ、身についていく。
「だよね、それは俺も同意見だよ。だから俺も無理強いはしない。依頼者も、現代が感性を疎かにしている時代だと理解してるから、ツタエルに過剰な期待は寄せない。でもね、実は次の時代はもうすぐそこまで来てるんだよ。慈愛に満ちた人たちが日の目を浴びる時代が、もうすぐそこまでね」
噂をすれば、とモロが前方を指差した。
白いワンピースにデニムジャケットを羽織った女性がメモ用紙のような物を片手に歩いていた。
モロが「奇遇だね」と彼女に向かって手を上げると彼女はメモ用紙から顔を上げ、その場にぴたっと立ち止まった。彼女は笑顔を浮かべ、特徴的なお辞儀をした。頭を深く下げる前傾姿勢になると同時に両腕が羽根のように頭よりも高い位置に逆さに上がる。茶色いブーツを履いていた。
「大変だね、こんな時間から」
透明感のある綺麗な女性だった。モロと雰囲気が似ていて、年齢もモロと同じくらいに見えた。
「社長も人使いが荒いよね」
彼女はくすりと静かに笑った。
「でも私、社長のこと大好き」
「もちろん俺もだよ。さっき友達になったピヨだよ」
彼女は室田と目を合わせ、笑顔を浮かべたまま例のお辞儀を披露した。室田もつられて深い会釈を返した。
「同僚?」
「そうだよ。彼女は俺とは部署が違うけどね。俺はツタエルで、彼女はアタエル」
「アタエル」
「アタエル。ある特定の条件を満たした人に、もうすぐプレゼントがありますよと報告に行く仕事だよ。道案内のサポートも兼任してるから、大忙しだよね」
彼女はぶんぶんと首を振った。謙遜してはいるが、誇りを持って仕事をしていることはその嬉しそうな表情から伝わった。
「秘書とか助手みたいな?」
「似てるけど違うかな。ツタエルと違ってアタエルは相手との直接的な対面は禁止されてるんだよ。それも会社の方針でね。あくまでも、ひっそりと。報告に気づくかどうかは、相手に委ねてる。ツタエルを無視する人がいるように、アタエルの報告に気づかない人も多い。あとこれが肝なんだけど、アタエルからのお知らせに気づけない人は、贈り物を受け取る権利を失っちゃうんだよ。悪用の可能性があるから剥奪されるんだ。豆知識としてはアタエルは照れ屋さんが多い。ツタエルは社交的。それぞれの性分に合ったところに配属されるんだ」
「そのプレゼントは誰が用意するんだよ」
「それはもちろん社長だよ。太っ腹でしょ。大盤振る舞いでしょ」
「社長はサンタクロースとか言い出さないよな」
「サンタクロースが裏では社長って呼ばれてるなんて、子供たちの夢を壊しちゃ駄目だよ、ピヨ」
彼女は口元をメモ用紙で隠しながらくすくすと小さく笑った。
室田は彼女が持つそのメモ用紙に手を差し出し、よかったら見ようか、と言った。
「一応、ここ地元だから。もしかしたらわかるかも」
彼女は無言で首を傾げた。
「道、迷ってるんだろ。きょろきょろしながら歩いてるのが見えたから。迷惑じゃなかったら一緒に探すよ。朝とはいえこの辺、人気もないから女の子一人じゃ危ないだろ」
ふむふむ、と彼女は頷いた。モロと仕草が似ていた。
「彼女はね、道に迷ってるじゃなくて、家を探してるんだと思うよ。表札を確認しながら歩いてたんでしょ?」
モロがそう言うと彼女はこくこくと首を上下に振った。
「ピヨもこの辺りに住む何々さんのお宅はどちらですかと訊かれても、困るでしょ」
「でもさっき会うのは禁止されてるって言ってただろ。こんな早朝に家を訪問したら、さすがに気づくって」
「そこらへんは彼女もプロだから、簡潔に言えば、上手くやる。だからそもそも時間は関係ないんだよ。それに、報告に気づくかどうかは相手次第だから。表札を見てたってことは、目星はついてるんでしょ?」
彼女はこくこくと頷いた。
「時間が関係ないなら、何もこんな時間に働かなくてもいいのにな」
「俺たちのサンタクロースはね、人使いが荒いんだよ」
彼女はくすりと笑った。そして室田に向き直った。
「親切にありがとう」
今度は室田が首を振った。
「礼を言われるようなことはしてないよ」
「助けようとしてくれた」
彼女はにっこりと笑顔を浮かべた。
またね、と言い残すと彼女はまたメモ用紙を片手に二人の後方へ歩いて行った。曲がり角にでも入ったのか、淡い外灯の光と一体化したように突然に姿が見えなくなったので、室田は眉をひそめた。
「それで、俺たちはどこに向かって歩いてるんだよ」
「ピヨ、たまにはあてもなくぶらぶらと歩かないと」
実家の近くまで来ていた。
外出すら久しぶりなのだから、さすがに疲労を感じた。
そのタイミングでモロが「あそこ行こうよ」と交差点の先を指差した。
赤煉瓦通りの入口が見え、その手前にキッチンカーが停まっていた。
キッチンカーの傍らに小型のタープテントが張られていて、テントは古風な長暖簾で覆われている。
モロが自分を置いてキッチンカーに走り、車内の人間と何やらやりとりをしていた。それを終えるとモロがそのままテントに入ってしまったので、室田も仕方なくキッチンカーの前を通り暖簾をくぐった。
折りたたみの簡易テーブルとパイプ椅子が三脚置かれていた。座面が金色に塗装されている奇妙な椅子があり、室田はなんとなくそれを避けてモロの隣に座った。
「なんの店?」
キッチンカー周りには看板も出ておらず暖簾も無地だった。何か濃厚な出汁のような匂いは辺りに漂っていた。
「おでん屋さんだって」
「俺、財布持って来てないぞ」
「奢ってあげるよ。適当に頼んでおいたから、遠慮せずに食べちゃって」
「パンは自分で買えって言ったくせに」
「あんパンみたいなクリームパンは自分のお金で買わないと。もう子供じゃないんだから」
小皿と割り箸を両手に持った店主らしき男がテントの中に入ってきた。いらっしゃい、と愛想良く言いながら二人の前にそれを並べた。赤毛に染めた髪はパーマをあて、丸眼鏡をかけている。恰幅はいいが雰囲気は若々しく、三十代半ばくらいに見えた。
男は手慣れた様子でテントを出入りしてテーブルに調味料やコップを並べていき、最後におでんの入ったプラスチック容器を二つ、テーブルに置いた。
提供を終えると男は当然のように余っている金色のパイプ椅子に腰を下ろし、テント内に居座った。さあ食って食って、とテーブルに頬杖をつく。
「二人が今日初めてのお客さんだよ。朝帰りでしょ」
「夜通し遊んじゃったよ」とモロがおでんに割り箸をのばしながら適当に返事をした。
「ほどほどにな。俺の先輩に小説家がいるんだけどさ、その人が書いてたんだよ。『若さしか取り柄のない若者は、つまり何も持っていない』ってね。俺もそうだったから、君らみたいな子が心配で心配で」
「失礼なおでん屋さんだなあ。おでん屋さんこそ、まだ十一月の初旬なのにおでん一本で勝負して大丈夫なの?」
「脱サラしておでんの屋台を始めて丸五年。俺からおでんを取ったら何も残らないって」
「その先輩さんに『おでんを奪われたおでん屋は、ただのつゆだ』って書いてもらいなよ」
モロは楽しそうだった。
「五年って、いつもここで営業してるんですか?」
室田は訊いた。実家近くだったが、このキッチンカーがこの場所に停まっているところは見たことがなかった。
「いや、俺は流しのおでん屋だから、全国各地を移動販売で転々と巡ってるんだよ。風と共に去りぬ。おでんと共に去りぬ」
「許可とか面倒くさそうだね」
モロは早くも完食間近だった。
「それが無許可なんだよ。俺の店のコンセプトは流れ星だから、仕方がない」
「それって保健所とか警察に見つかったらヤバいんじゃないの?」
「ヤバい。流れ星が逮捕されたら、誰も願い事をしなくなる」
ははっ、とモロが嬉しそうに笑い声をあげた。
「ちょっと署までお願いしますって言われて連行されたら終わりじゃん。おでん屋さんはこのピンチをどう切り抜けるのさ」
「そりゃ、謝るよ。自分の間違いを認めて、心から謝罪して、処罰を受けて、次だ。なんでもそうだって」
その通り、と言いながらモロが手をかかげた。店主の男はそれに応えて二人はハイタッチを交わした。暢気なやりとりを横目に室田はちくわを割り箸で切り分けて食べた。違法はともかく、美味かった。
地面に置いていたクラフト袋をひょいと持ち上げると「ゴミなら捨てといてやるよ」と言って店主の男がテントから出て行った。ありがとう御座います、と室田は男に向けて素早く礼を言った。
「ご機嫌なおでん屋さんだね」
「そうだな」
モロは先に食事を終え、物珍しそうに暖簾に触れていた。
「この場所、昔はよくたい焼き屋が来てたよ。三十年くらい前の話だけど。リヤカーの屋台だった」
モロが暖簾から手を離してこちらを見ながら静かに相槌を打ったのが室田にはわかった。
「近くに実家があるんだ。そこで一緒に住んでた婆ちゃんに、よく買いに連れて来てもらった。俺が五歳の時に婆ちゃんは死んだから、婆ちゃんの顔も声も憶えてないけど。でも、断片的な記憶は残ってる。そこの交差点の先に昔は商店が並んでてさ、左端にパン屋があって、そこもよく婆ちゃんに連れて行ってもらった。今みたいに早朝に行くんだよ。そこのパン屋は開店直後だけ無料でパンの耳を配ってて、それ目当てで婆ちゃんと一緒に早起きして朝一番に行くんだ。それで、パンの耳が入ったビニール袋をぶら下げて二人で近くの神社まで歩いて行く。その神社の池にはけっこうな数の鯉がいてさ、細かく千切ったパンの耳を池に撒いたら、鯉が一斉に跳ね回りながらパンを食べるんだ。それを二人で眺める。なんでもないことだけど、楽しかった」
一息で話し終えると室田は首をもたげた。
思い出のある場所を訪れたからとはいえ、なぜ三十年も前の出来事がこんなにも鮮明に蘇るのか。それも、顔も声も憶えていない祖母との思い出だ。そしてなぜそれを偶然知り合っただけの青年に俺は長々と吐露しているのか。
「優しいお婆ちゃんだったの?」
ちらりとモロを見る。暇つぶしがてらの質問、というわけではなさそうだった。少し迷ったが、室田は続けた。
「子供みたいな婆ちゃんだったよ。俺は泣き虫で、ちょっとしたことですぐ泣き出すような子供だった。俺が泣いたら、婆ちゃんは俺を冷やかす。俺を茶化して、泣いてる俺を笑う。酷いもんだろ。でも、優しかった。めそめそ泣いてる俺の相手を最後までしてくれるのは婆ちゃんだけだった。婆ちゃんはめそめそしない。いつも元気で、明るくて、豪快だった。だから婆ちゃんが死んだ時は驚いた。嘘みたいだった。婆ちゃんが病気に苦しんでる姿の記憶が俺の中には一切ないんだよ、ずっと闘病してたはずなのに。そのせいかな、俺の中では本当に、婆ちゃんは死んだというより、旅行に出ただけみたいなイメージなんだよ。婆ちゃんと死が結びつかない。それが婆ちゃんの狙いだったのかもしれないけどな。どんなに苦しくても、俺の前では気丈に振る舞う。なんでもないという姿勢を崩さない。弱音を吐かない。孫が悲しまないように。あんたの祖母はただ、旅行に行っているだけだと俺に思い込ませるために。だから、それを思うと、心が張り裂けそうになる。それだけ世話になったくせに、迷惑をかけたくせに、俺は婆ちゃんの顔も声も憶えていない。あんまりだろ。俺は婆ちゃんの唯一の孫だった。愛情を捧げた唯一の孫が、自分のことをほとんど忘れて、落ちこぼれになって、途方に暮れてる。さすがの婆ちゃんも呆れ果ててるだろうな。こんな馬鹿孫、誰だって見切るだろ。誰だって諦める。誰も俺のことなんか見ちゃくれない。いい年して不貞腐れやがって。ほとほと、自分が嫌になる」
突然、モロが立ち上がった。立った拍子にテーブルが揺れてコップが倒れそうになり、室田はさっとそれを掴んだ。「なんだよ、驚かすなよ」
モロはお構いなしだった。「ちょっと待ってて」と言うが否や勢いよく暖簾をくぐり、どこかへ走って行ってしまった。室田は呆気に取られた。
入れ替わりで店主の男がテントに入って来た。
「あんなに急いで、金髪君はどこに行くんだ」
室田は割り箸を皿に置き、水を飲んだ。
「俺の暗い話を聞くのが嫌になったのかもしれないです」
「あの金髪君、ネガティブが何も生まないこと、知ってそうだもんね」
店主の男は暖簾を手で分けたまま、モロが走り去った方向をじっと見据えながら独り言のように言った。
「昔から、俺の直感はそこいらの占い師よりも当たるって地元では有名なんだけどさ」
それで言うとあの金髪君、と店主の男は訝しげにしながら何かを言いかけたが、まあいいや、と言葉を呑み込み、食器を片付けた。
それから十分ほどでモロは戻って来た。
手には半透明のビニール袋を持っていて、走って来たわりには息が切れていない。店主の男はキッチンカーに戻っていた。
「くれたよ、ラッキーラッキー」と言いながらモロはビニール袋を室田の前に置いた。
室田は袋の中を見た。パンの耳だった。
「なんだこれ」
「パンの耳だよ」
「見ればわかるって」
「どこかにパン屋さんないかなと探してたら、意外と近くにあって助かったよ。うちの社長くらい気前の良いパン屋さんでさ、意気投合しちゃって、なんと無料で」
室田が袋から一本取り出すと、モロがそれをぱっと掴み、袋に戻した。
「さっきピヨが言ってた神社、近くにあるんでしょ?今から神社に行って、その池の鯉にパンの耳、あげておいでよ」
室田は顔をしかめた。
「なんで?」
「今、俺に話してくれたからだよ。今、話をしたことに意味があるんだ。だから、今、やる」
当惑している室田をよそにモロは「さあ立って立って」と室田の腕を掴み、引っ張り上げた。言われるがままに室田が立ち上がると、モロは室田をテントの外に押し出した。ビニール袋を握らされ、腰をぽんぽんと叩かれ、送り出される。
「もたもたしてたら、早朝じゃなくなっちゃうからね。早朝の思い出は早朝のうちに」
東の空にはすでに朝日がのぼっていた。通りにはちらちらと人の姿があり、車道を行き交う車も見えた。
突然のことに室田は躊躇した。だが、とくにこのあと用事があるわけでもない。渋々、歩き始めた。
てっきりモロも同行するものだと思っていたが、モロがこちらに背を向けて逆方向に向かって歩いていたので室田は立ち止まった。
「なんだよ、一緒に行かないのか」
モロが振り返った。モロは立ち止まらずにまた後ろ向きで歩いて進んで行く。上着に両手を突っ込んでいた。
「俺は駄目だよ。俺はあくまでも部外者だから」
「あくまでもってなんだよ。と言うか、その歩き方やめろって。危ないから」
室田がモロに歩み寄ろうとした瞬間、モロが上着から右手を抜いて手のひらを前に突き出し、それを制した。モロもその場に立ち止まる。五メートルほどの距離を置いて、赤煉瓦の上で、対峙する。
「ピヨ、人はね、日頃の行いと、心の在り方を問われる。問いかけなんだから、問いかけている人がいる。俺は君の返答が好きだよ。今は少し、疲れて見えるけど」
モロは手をまた上着に戻した。
「これは君の人生だから、君が変えようとしないと、人生は変わらない。甘えたら駄目だ。楽な道を選んじゃいけない。自分を高めるんだ。まだまだ、これからだよ。俺はそろそろ行かないと。今日はありがとう。元気でね」
モロは笑顔を浮かべると正面に向き直り赤煉瓦通りを歩いて行った。
呆気ないモロとの散歩の幕切れに室田は拍子抜けした。勝手に彼とはこれからも付き合いが続いていくものだと思っていたが、モロにはそういった意思がなかったらしい。
唐突に突き放されたようで、室田は肩をすくめた。手に持っているビニール袋を見る。「あっ」と声を出す。それを振り上げると、モロ、と声をかけた。
「ありがとう。モロも元気で」
振り返ってくれるかと思ったが、モロは後ろ手で手を一振りしただけだった。
室田も神社の方向に向かって歩き出した。
ふっと振り返る。
モロはいなかった。何か圧倒的で高尚な光の残像のようなものだけが、そこには浮かんでいた。
何かがずっと、頭に引っ掛かっていた。
三十年の間で、住宅地開発や道路整備は当然のように進んだ。かつて雑木林と畦道だった神社までの道は、その面影一つ残してはいない。
記憶とは何もかもが違うその景色に違和感を抱くのも、無理はなかった。
だが、それとは無関係に、家を出てからずっと、何かがしっくりこなかった。
部屋番を押し間違えてインターホンを鳴らした見知らぬ青年と深夜から早朝にかけて散歩に出たのは、確かに非日常的な出来事ではある。だが『ツタエル』という聞き馴染みのない珍しい仕事をしているだけの青年とは無関係の場所に、このもやもやを解消するための歯車が落ちているように思えて、仕方がない。
室田は考えを巡らせながら歩いた。そうこうしている間に神社に到着した。
何かが閃くかもしれない。そう期待しながら室田は石段を上がり、鳥居をくぐった。
向かって左側に池があった。それは昔と変わりがなかった。だが池は柵でぐるりと囲われていた。それが設置されていた記憶はなかった。
参道の先に建つ手水舎と鳥居を交互に見遣ると室田は拝殿の方角に向かって手を合わせ、そして囲い柵に手をやるとさっと飛び越えた。
池辺に立ち、濁った水面をじっと見つめた。魚や鯉がいる気配はなかった。
室田はとりあえず道中で細かく千切っておいたパンの耳をいくつか池に投げ入れてみた。
中腰になり、余ったパンの耳をつまみながらしばらく待ってみた。なんの反応もない。この池にはもう鯉はいない。だから自分は酷く不毛な行為をしている。室田はそれを察した。
余りのパンの耳を食べ切るまで待ってみたが変化はなかった。諦めると室田は落ちていた長めの枝を使って水面に浮くパンをすべて回収し、空になったビニール袋に戻した。
再び柵を飛び越えた。
見込みは外れ、無駄足に終わってしまった。祖母との記憶が蘇ることはもちろん、頭を過ることもなかった。懐かしいとすら思わなかった。三十年も前のことを思いつきで取り戻そうだなんて、よく考えれば虫のいい話だった。
それよりも、この神社に来ることで頭のもやもやがさらに濃くなったような気がして、室田はげんなりした。勘弁してくれよ、と弱音を吐いた。
参拝するにも手持ちはなかった。
拝殿に向かって手を合わせ、すみません、とだけ言うと室田は神社をあとにした。
アパートに帰り着くと室田はエントランスの前で立ち止まり、日に照っている自分の部屋の窓を見上げた。
たった数時間、外出していただけだ。それなのにもう何年も自宅に帰っていなかったような錯覚に襲われた。
駐輪場のぼろぼろの自転車。扉の壊れたゴミ捨て場。隣接するパーキングエリアの自販機。見慣れているはずのものが、やけに新鮮に見えた。
息が詰まっていた、という言葉がふっと浮かんだ。
郵便ポストを開けて中のチラシを無造作に掴むと、三階まで階段をのぼった。
三階の外廊下に立った時、丁度、隣室の304号室から男が出てきた。
春から空室が続いていた304号室に入居があったのは先月の始めだった。そのために隣人の姿を見るのは初めてだった。灰色の作業着を身につけた中肉中背の男で、目つきが悪く、無精ひげが目立った。四十代後半に見えた。
男は自室の鍵を締めると、外廊下の奥からのそのそとこちらに向かって歩いて来た。
室田は道をあけ、会釈をした。男は挨拶を無視して無言で室田の横を通り過ぎた。この世のすべてに不満を持っているとでも言いたげな、不機嫌な表情を男は浮かべていた。
室田は振り返り、男の後ろ姿を見つめた。室田は眉をひそめた。
逡巡したが室田は小走りで引き返し、「あの」と階段を下り始めていた男を呼び止めた。
「はい?」
男が振り返った。男のしかめ面には警戒心と不快感が混じっていた。
「すみません、昨日の夜というか、今朝の三時半頃って、家にいらっしゃいました?」
「はい?」
「俺、隣の303号室の者なんですけど、三時半頃に俺の友達が間違ってお宅の部屋のインターホンも何回も鳴らしたらしくて。ご迷惑じゃなかったかなと思って」
この男とモロが友人同士であるというのは、どうも腑に落ちなかった。室田の中でどうしても二人が結びつかなかった。
男は訝しげに室田を見ていた。それでも一応、その時間帯のことを思い起こしてくれてはいるようだった。
「鳴ってないよ、何も」
「本当ですか?」
「あんたに嘘ついてなんになるんだよ」
「寝ていて、気づかなかったとか」
「あんなうるせえインターホンが鳴って起きない奴なんていないだろ」
「ですよね」
「もういい?」
男は室田を威嚇するように睨みつけてから階段を下りていった。
廊下に取り残された室田は眉をひそめ、首を傾げた。釈然としなかったが、無害を証言している隣人をこれ以上追求する理由はない。室田は廊下を進み、自室の玄関の鍵を開けた。
部屋に入り、照明をつける。
モロがインターホンを鳴らした時。
モロに「何かしらの変化はある」と言われた時。
心のどこかで期待をした。
この出来事をきっかけに、自分の人生は変わるのではないか、と。
ようやく、自分の本当の人生が始まるのではないか、と。
だが、違った。
あのインターホンは始まりの知らせじゃない。
あのインターホンは終わりの知らせだ。
モロとの散歩が、俺の人生を集約した結果であり、終焉なのだろう。
圧倒的な現実がそこにはあった。
家を出る前と同じだった。
モロに誘われて家を出る前と同じで、人が住んでいるとは到底思えないほど散らかった、寂しく、孤独で、生気の感じられない、血色の悪い部屋だ。
室田は倒れ込むようにベッドに寝転がった。
心を無にして、恐る恐る、目を瞑ってみる。
間もなく、瞼の裏に例の映像が映し出された。
ローテーブルの上に放置されているロープを使って、自分が首を吊っている映像だ。
室田はベッドに仰向けになったまま、両腕で顔を覆い、思いにふけた。
期待をするから、またこうして死に際に新たな失望を味わう羽目になるのだろう。
何をしても、どうせ上手くはいかない。俺に理解者はいない。手を差し伸べてくれる人はもちろん、気にかけてくれる人さえ、いない。今までずっとそうだった。だから、これからもずっとそうだ。ただ、悲しみを繰り返す。
室田はもう一度、目を瞑った。
変わらず、映像が流れる。
自らの手で脳の配線を断ち切らない限り、不能にならない限り、俺はこの不気味な映像に追い回され続けるのだろう。そんなのは御免だった。
せめて、精神錯乱を起こして家族や他人に迷惑をかける前に自ら終わらせるのが筋だ。
空っぽだった。
もう、俺に出来ることは何もない。人生の構築は終わった。
そこで室田はばっと目を開けた。
腕をほどき、きょとんしたまま天井を見つめた。
もう一度、目を瞑ってみた。
またすぐに、目を見開く。
室田は映像の僅かな変化に気づいた。
ロープの輪に首を通して手を離し、今まさに踏み台を蹴り飛ばそうとした瞬間、金色の何かが映り込んだ。
室田は目を瞑り、自らそのシーンに飛び込み、映像に集中した。
それは風に揺れる金色の髪だった。
モロだった。
モロは何をするでもなく、横を向いて、ただその場に佇んでいる。表情は金髪に隠れている。だが、モロが笑顔を浮かべているのは、なんとなく、わかる。
映像はそこではたと途切れた。
室田は半身を起こしてベッドに腰かけた。
彼の見通し通り、あの綺麗な金髪が強く頭に残っていた。その影響を受けて映像に一時的な変化が生じてしまったのだろうと室田は思った。
変わった青年だった。
なんでもない散歩だったが、良い思い出になった。あらためて考えれば、見知らぬ青年との夜明けの散歩は、人生の最後のイベントとして悪くなかったかもしれない。
もう会うことがないと思うと、より目と目を合わせてちゃんと感謝を伝えたかったと後悔の念が生じた。
せめて心の中でと、室田はモロの表情や姿形を思い返した。
だが、思い出せなかった。
ついさっきまで一緒にいた青年の顔が、まったく浮かんでこなかった。
表情だけでなく、背丈も、着ていた服も、声色さえも、思い出せない。
一緒に散歩をしたという事実と、金髪と、言葉だけを残して、一人の青年が、頭から消えている。
室田は頭を振った。
すぐに忘れてしまうような地味な青年ではなかった。はずだ。だがその輪郭すら掴めない。しかも追えば追うほど、モロが遠ざかっていくようにも感じられた。無理強いをすれば、モロという名前すら忘れてしまう予感がした。
寝不足と散歩の疲労では、さすがに説明がつかなかった。
なんだよこれ、と室田は戸惑いを声に出し、先ほどよりも激しく頭を振って項垂れた。
頭に引っかかっているものの正体も、結局わからず仕舞いだ。
室田は大きく息をついた。考えることに疲れ、考えるのをやめた。考えて、答えが見つかったところで、何も変わりはしない。穴の空いた風船に空気を送り込んでも、なんの意味もない。
ふと、ポストから持って上がってきたチラシが目に入った。室田はそれを手に取った。
近所のショッピングモールの大広場で催されるイベントの告知だった。
幼児用アニメの映画公開を記念したイベントで、広場にアニメの主人公がやって来て、記念撮影が出来ると謳っている。
例のあんパンのヒーローだった。
あんパンのヒーローが、手を突き上げるようなポーズをしながら優しい笑顔を浮かべている。平和なイラストだった。
モロが食べていたパンが頭を過った。
「これ、憶えてる?」とモロは頭の一部分が欠けたパンを見せてきた。
確かに憶えている。だが、言葉と名前しか、もう青年のことを思い出せない。
「あんパンの設定のキャラなのに中身はクリームだなんて、反則だよね」と青年は言った。
確かに、モロは存在していた。
その瞬間だった。
視界がぐらりと揺れた。
強烈な目眩に襲われ、室田は目頭を指で押さえた。経験したことがないほど強い目眩だった。不快感や嘔吐感はない。だが、頭を振り回されているようで、意識を持っていかれそうになる。少なくともそれは剥がれかけていて、朦朧とする。誰かが自我の電源ボタンをでたらめに連打しているように、現実が途切れ途切れになる。
座っていられなくなり、室田は床に四つん這いになった。平衡感覚を失い、身体を支えているはずの両手や両膝の感覚がなかった。薄く目を開けた。視界が霞み、意識は翳る。
ざわざわと雑音が聞こえた。人の話し声だった。だが聞き取ることは出来ない。失神が近づき混濁の密度が上がったのか、幻聴だけでなく光の空洞のような幻覚も見えた。
駄目だ、と室田は力なく囁いた。
抵抗をやめて力を抜いた瞬間、室田は床に顔から崩れ落ちた。
――突然、意識が鮮明になった。
室田は自分の両手を見て、それから辺りを見回した。目眩はなくなっていた。薄暗く、静かだった。畦道の上に立っていた。
奥の雑木林から老婦人とその孫らしき男の子が何やら楽しげに話し込みながら出て来て、二人は室田のすぐそばを通り過ぎて行った。畦道に佇む室田には目も向けなかった。振り返りもしない。
室田は二人の背中をじっと見つめた。
室田は通り過ぎて行った男の子の顔を思い返した。自分の顔に触れた。室田は二人のあとを追った。
追いつくと、二人のすぐ後ろを歩いた。だが二人とも、やはりこちらに気づく様子はなかった。
二人が向かう畦道の先。
まだ見えてはいないが、この先には神社がある。知っていた。男の子は小さなクラフト袋を握りしめて歩いている。袋の中身はパンの耳だ。知っていた。
空に朝焼けがひろがり始める。夜明けだった。
しかし、と老婦人が言った。
「あんパンのヒーローのくせに、中身はクリームだなんて反則じゃないか。あんたはそれで満足なのかい」
「でも美味しいでしょ?」
「美味しい。美味しいから、文句はないけどね。もうちょっと頂戴よ」
男の子の祖母と見られる老婦人は孫が食べているキャラクターパンに向かって手を差し出した。
いやいやをするように男の子は首を振った。
「いいから、いいから」と老婦人は手を引っ込めない。要求をのむまで一生催促され続けるかもしれない、とでも言いたげに男の子は顔を歪め、そして泣く泣くパンを半分に千切ると祖母に渡した。受け取ると彼女は一口で食べ切った。「美味しい。あんたいつもこんな美味しい物食べてたんだね。なんで私に教えないんだ」と余計なことを言いながら老婦人は唇についたパン屑を指で拭い、にやりと笑う。快活で、豪快で、生き生きした老婦人だった。老人のふりをしたガキ大将のようだった。
「あ、また泣いた。ちょっとパンを食べられたくらいで」
彼女は泣き出した孫を慰めるどころか冷やかすように笑った。
「嫌ならもっと強く拒絶しな。相手が私であろうと、このあんパンヒーローだろうと、遠慮したら駄目だ。嫌なものは嫌だと言えるようになりな。守りたいものは守りな」
そんな乱暴な言葉をかけられて五歳の子供が泣き止むはずがない。当然、男の子は泣き止まなかった。老婦人の理不尽な教育に室田は笑みをこぼした。
「いつまでも泣いてるんじゃないよ。そうやってすぐにピヨピヨ泣いて。よし、じゃあ、あんたにあだ名をつけてやる。あんたは今日からピヨだ。泣き虫ピヨ。馬鹿にされて悔しいか、泣き虫ピヨ」
さすがに腹が立ったのか男の子は癇癪を起こしたように泣きながらその場で地団駄を踏み、クラフト袋を振り回した。
それにも祖母は一歩も怯まず、立ち止まって泣き喚いている孫を置き去りにして一人で先へぐんぐん歩いて行った。そこで祖母はふっと振り返り、器用に後ろ向きで歩きながら「じゃあ元気で、ピヨ。婆ちゃんもなんとか頑張るよ」と冗談を口にしながら孫に向かって手を振った。
男の子は「転けるから前見て歩いてっ」と叫ぶと泣くのをやめて涙を腕で拭き、祖母の横へと走って行った。室田も駆け足で男の子について行った。
「婆ちゃんがパンを食べるからだ」
「なんだい、私は悪者かい」
「ヒーローは子供が泣いてたら、すぐに来て、パンをくれる」
ほう、と祖母は孫の頭に優しく手を置いた。
「これだけは言える。婆ちゃんはあんたの敵じゃない。いつでも婆ちゃんはあんたの味方だ」
「じゃあなんで意地悪するの」
「意地悪じゃない。あんたに必要なことを教えているだけだ。ほら、味方じゃないか」
「よくわからない」
「そんなに疑うなら証明してやるよ」
男の子は祖母を見上げながら眉をひそめた。
「ピヨが泣いている時、苦しくて辛くて悲しんでいる時、私が飛んでいって、助けてやる。どこにいてもだ。すぐに駆けつけてやる。だから私は、そのためにいつもあんたのことを見ている。私には全部筒抜けだからね。それを肝に免じておきな」
室田は口元を手で覆い顔を伏せた。溢れ出てくるものを抑えることが出来なかった。
いつの間にか、男の子が消えていた。彼の代わりに、祖母の横には、自分がいる。
室田は祖母に背中を撫でられた。
「泣くな。婆ちゃんを信じな。だからピヨ、その代わりにあんたも婆ちゃんが来たら泣くのをやめて、目の前の困難に立ち向かうと約束しな。男が行き止まりなんかで泣くんじゃないよ。逃げるんじゃない。逃げ切れやしないんだよ、どうせ。もし約束を破ったら、ピヨ、あんたは私の孫失格だ。私は約束を守ったんだからね。もし約束を破って勝手にギブアップなんかしたら、ただじゃおかないよ。私の孫、クビだよ。嫌だったら、頑張ってみせな。あんたは、まだまだやれるんだから。私が保証してやる」
ピヨ、と祖母は続けた。
「あんたはやれる。ちゃんと見てるから、頑張りな。命を粗末にするんじゃない。何があっても、生き抜きな」
意識が戻ると室田はゆっくりと体を起こした。
散らかった部屋をぼんやりと眺め、這うように壁際に移動すると壁を背にして座った。片膝を折って抱き寄せる。
左の頬骨に痛みがはしった。触れてみると指に血がついた。涙がまじった薄い血だった。
前屈みになり、膝に額を乗せた。ただ、ぼんやりしていた。すると祖母の葬儀の記憶がふっと蘇った。
心臓の止まった祖母が、花が敷き詰められた棺に横になっている。五歳の室田は父親に抱きかかえられ、持たされた白い菊の花を祖母の顔の近くに置いた。母親がわっと泣き出し「お母さんっ」と絶叫した。父親もすすり泣いていた。室田も我慢が出来なくなった。「婆ちゃ――」と泣き叫びかけた瞬間、映像が突然に途切れた。余計なことを思い出してるんじゃないよ、と快活で豪快な誰かさんが記憶のテープを切ったように。
室田は顔を上げた。
なんで、と声にもならない声を出す。
なんで、自分の顔も声も憶えていないような馬鹿孫を、心配してるんだよ。なんで、助けに来てくれるんだよ。
婆ちゃん、俺もう、大人になったって。
もう子供じゃないんだって。
婆ちゃんに心配かけたくないんだって。
俺なんかのために頑張ってくれなくていいから、俺はちゃんとやるから、だから、ゆっくりしてくれよ。
余計な心配すんなよ。俺は大丈夫だから。
室田は立ち上がった。
洗面台に行くと下棚を開け、ゴミ袋を抜き取った。洗濯機の上から洗濯カゴも取った。
部屋に戻ると、足下に落ちている衣服を掴んだ。洗濯カゴに投げ込む。それから紙くずを拾った。ゴミ袋に入れる。そこから手当たり次第に脱ぎっぱなしの汚れた衣類をカゴに集め、ゴミを袋に捨てた。荒れ果てた部屋を整理していく。
カーテンを開けて窓を全開にした。布団を干し、腕まくりをした。洗濯機を回し、食器を洗い、一杯になったゴミ袋をゴミ捨て場に捨てに行く。駆け足で戻り、無心で片付けを続けた。テーブルの上のロープを掴む。例の映像が頭を過る。振り払い、ゴミ袋に突っ込んだ。ただ元に戻るために、腕を、足を、振る。
一段落がつくと室田はインターホンの受話器を背にして立ち、部屋を見渡した。何もない部屋だった。サイコロを振って『振り出しに戻る』のマス目に止まってしまい、文句を言いながらも「次は違うルートで進もう」とどこかワクワクしながらスタート地点に戻ってきたような、そんな気分だった。
ふっと室田は笑った。
その時、目の端で何かが動いた。
顔を向ける。ベランダだった。
干している布団の上に、小鳥がとまっていた。小鳥は室田が視線に気づいたことを喜ぶように、控えめに囀り、首を動かした。
室田はゆっくりとベランダに歩み寄った。
小鳥は逃げなかった。
白い胴体に首元から羽根までにかけてだけが青い、珍しい色合いの野鳥だった。
野鳥は布団の上を小さく跳ねながら室田の正面まで移動し、室田に向き直ると、お辞儀のように深く頭を垂れた。頭よりも高い位置に両の羽根がひろがった。
役目を終え急にこちらへの関心をなくしたように小鳥はくるっと体を反転させると、空へ飛んでいった。
幸福の訪れの報告に来てくれたように、室田には思えた。
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