新しいコペルニクス的転回・News Dietのすすめ・Ⅳ
はじめに
ニュースダイエットの記事の四作目を書きました。今回も、内容に疑問点や矛盾点を見つけたら、下書きに戻します。
愉しんで読んでいただけたら幸いです。
ニュースの代わりに暗闇を守ろう
ニュースを見聞きしていると、自律神経系の一つである「交感神経」が休まらず始終リラックスできない。感情を乱される話を見聞きすると、ストレスホルモンのコルチゾールが放出され、免疫システムも弱まるのだからなおさらである。
クリスティアン・ベネディクトとミンナ・トゥーンべリエル著の『熟睡者』(サンマーク出版)では、「暗い部屋で横になり、外部からの情報を避けるだけで脳はリラックスする。(暗闇の中で)ただ静けさを楽しむだけで休息の効果はある。」と述べられている。
そもそも暗闇と夜は、あらゆる生き物にとって欠かせない。それは地球誕生以来の自然なリズムであり、地球の自然なサイクルによって訪れるのである。
しかし現代では、暗闇は窮地に立たされている。
大昔、人類は日没後と同時に夜の到来を知り、焚火を囲んで歌を歌ったり、会話を楽しんでいたが、それによって睡眠サイクルが乱されることはなかった。日が沈むと、主な活動は終わっていた。
一方、現代では日没後になっても、活動が終わらないことはふつうにあるし、光害によって夜になっても、都市や家の中は人工的な光で溢れている。
だが、暗闇とそれによって訪れる睡眠は私たちにとって神聖なものだ。
夜を光で過剰に満たし、暗闇を窮地に追いやる現代の流れに対抗することが私たちにはできる。
それには、就寝時刻の二時間前以降を、暗闇を楽しみ、暗闇によって脳と体を休め、良質な睡眠をとるための準備時間とすることができる。その時間にはテレビやスマートフォンなどの電子機器の電源はすべて切る。
読書や入浴、瞑想、ジャーナリングなど、何か自分がリラックスできることをして安らかに静かに過ごすようにする。
もちろん、その時間にはニュースも一切見ないし読まない。ストレスになるし、休息には逆効果だし、「交感神経」が休まらず、全くリラックスできないからだ。ニュースを見るのに、夜ほど適さない時間帯はないと私は思う。
ニュースの代わりに食事を楽しもう
イギリス経験論の哲学者、フランシス・ベーコン卿は、次のように言っている。
「食事や睡眠や運動の時間にのんびりかまえて快活にしていることは、長生きをする最もよい教えの一つである。」
この教えを食事に限って考えると次のように解釈できる。
一に、食事をする際には、のんびりと落ち着いてゆっくりと食べる。
二に、心快い状態で、楽しい気分で食事をする。
つまり、食事の際には、嫌なこと、ネガティブなことを考えながら食べてはいけないということである。
ベーコン卿の教えからは、食事の楽しみを積極的に肯定する態度が窺える。そのことを踏まえて、私は次のように思う。
現代では、テレビが家の中でリビングに置いてある家庭も少なくないのではないだろうか。
そして、家族で暮らしている場合、夕食を家族で集まってリビングでとるはずである。その際に、テレビのニュースが放映されていたらどうだろうか。
あるいは、一人暮らしの場合を想定してもよい。私は外出先でテレビでなくても、スマホをいじりながら食事をしている人をそれなりに見かける。
ニュースを見ながら、あるいは、聞きながら食事をするとどんな感じがするだろうか。
私はそれをしたことがあるが、ベーコン卿のいう、のんびりと落ち着いてゆっくりと楽しい気分で食べる、ということは不可能に思えた。
食事をしながらニュースを見たり、聞いたりするのが適さない理由を考えてみる。
一に、ニュースによって、感情を乱されるような話を見聞きするとストレスホルモンのコルチゾールが放出される。
ストレスホルモンを出しながら、ストレスを感じながら食事をしたいだろうか。そんな状況で食事を楽しめるだろうか?しっかりと味わえるだろうか?
せっかくの料理と食事が台無しになってしまうのではないだろうか。
二に、食事をつくってくれた人に失礼である。
手料理は、料理をした人の努力の結晶であり、かけがえのない作品である。
食事は、私たちの命をつくる行為であり、母なる自然の恵みを感謝していただく行為である。
ニュースを見ながら、あるいは、テレビ番組をみながらだと食事がおろそかになってしまい、食事に集中できない。
三に、食事を家族、あるいは友人と一緒にとる場合、ニュースを見ながらやテレビ番組を見ながらだと、表情や非言語サインを読み取りずらくなってしまう(注意資源が分散するからだ)。
これでは、普段ではなかなかできないせっかくの会話や楽しいひと時が台無しである。頻繁には会えない友人との会食ならなおさらである。
ここで疑問が浮かぶ。テレビ番組が楽しいと感じる内容の場合は、食事をしながら見るのはありだろうか?意見が分かれるかもしれない。
けれど、食事を楽しんでいるのか、テレビを楽しんでいるのかがわからず、どちらも中途半端になってしまうという意味で、やはり私は食事を何かを見ながらすることは避けたいと考える。番組の楽しみも、食事の楽しみも、それぞれ半分ずつになり、楽しみが半減するのである。
私たちは食卓へ招く客は慎重に選ぶのに、食卓へ侵入する電子機器には無思慮になりがちである。同じくらい慎重になった方がいい。
ニュースの代わりに悠久の宇宙史に思いを馳せよう
ガイア理論の大成者、故ジェームズ・ラヴロックは、その著書、『ノヴァセン』で次のような感動的な感慨を語っている。
ビックバン以来の宇宙全史に思いを寄せると、私たちの存在の根源を問わざるを得ない。それは日常の時間軸から離れてはいるが、日常や人生と断ち切れているわけではなく、どこかでつながっているように私は思う。
私たちは時々、こうした自分たちの存在の根源自体を問うような大きなことについて考える思索の旅の時間を持ってもいい。
それは自分の魂を震わせる体験だ。
こうした瞬間に浸ると、小さなことを全体とのつながりのなかで考えられるようになる。日常や自分の周りの風景が違って見えてくる。
そうした体験は頻繁に訪れることはないだろう。
だからこそ、そうした思索や気づきの旅ができる心の余裕を持って生きていきたいと私は個人的な思いを持つ。
ニュースの出来事は、世界の日常の時間軸で起きることだ。だが、それは地球に生きる私たちそれぞれの日常の時間軸とは必ずしも重なっていない。
宇宙の時間軸とも重なっていない。
ニュースで事件や事故や戦争や不祥事などを目にしても、自分の日常には平和な時間が流れている。だが、それで十分だし、それは偶然だ。
だからこそ、やがては訪れる死に向かって自分の人生に流れる平和な時間を噛み締めて精一杯生きたい。
しかし、そうした時間を生きるのに、ニュースで報道される誰かの不幸や何か奇特な出来事を知る必要はない。
もしかしたら、ニュースで流れる出来事は普段は見えていないありふれた日常を不意に切り取って見せるからこそインパクトがあり、心が大きく揺れることがあるのかもしれない。
人類の歴史を俯瞰すると、戦争、死、祈祷、出産、眠り、祭り、結婚、喧嘩、事件、旅、食事、散歩、収穫、悪天候、説教、怒り、病、歌唱などは日常を織りなすタペストリーの一部だった。
現代では、私たちの日常は格段に平和になったかもしれないが、世界の日常の時間軸に起こる光景の中身はそれほど変わっていない気もする。
ニュースを無視しても、自分の日常の時間が平和なら、それでいいと考えられる。
ニュースの代わりに地球の未来を夢想しよう
ハーバード大学の認知科学者、スティーブン・ピンカーは著書である、『21世紀の啓蒙』(草思社)において、次のように述べている。
地球規模の変化は、ゆっくりと(スロー)で展開する。
ニュースで報じられる出来事で、半世紀後も記憶されている出来事は、おそらく1パーセントに満たないのかもしれない。
「新聞が半世紀ごとにしか発行されないとしたら」という思考実験は面白い。
そのぐらいの歳月が経たないと、本当に重要な出来事は表面に上がってこないということだろう。
ニュースの軸は、日常のスケールで進行する出来事を掬うが、私たちの日常と必ずしも重なっていないし、本当に知る意義のある重要な出来事は、ニュースでは報じられていない。なぜなら、重要な出来事はゆっくりと水面下で展開するので、普段誰も気づかないし、進歩は年々少しずつ積み重なった末に表面化するからだ。つまり、毎年の微々たる変化が、積み重なると半世紀後には大きな変化(改善の結果)となって表れる。
半世紀の単位で進む大きな変化。それは人類の文明の単位である。
半世紀後になってようやくわかる地球規模の変化とはなんだろう。
もちろん、今の私たちには知る由もないが、地球の未来を夢想し、構想してみると、長期的な視点で自分の人生や世界について考えることができる。孫世代や未来世代の安寧や平和、幸福を視野に入れた上で行動することができる。
それこそ、気候変動や核戦争が地球規模の緊急の課題として認識されている今日の私たちに求められていることではないだろうか。
「今日を生きる」というスタンスは重要である。
ただ、今日を生きることは、その日のことだけしか考えないで生きることと同義ではない。
むしろ、コロナ禍のような事態を事前にシュミレートし、しっかりと備えができていた賢明なフィンランドのようにこれまでの歴史から注意深く学び、未来に備えることも含まれている。長期的な視野を持ちながら、その日をベストエフォートして生きることが大事なのだろう。
「ゆっくりと物事の本質を考える日」「思考の日」「休む日」「大きなテーマについて考える日」「地球の未来を考える日」
呼び方は、これらのうちどれでもいいけれど、週に一度くらいは、日々の雑踏から離れて、ゆっくりとくつろぎながら人類の未来に関わるような大きなテーマについて思索する日や未来に備える日を持ちたいと私は考えている。
その日には、ニュースは見ずに、本を数冊を傍に置きながら、ノートブックに考えていることを書き散らす。
ニュースの代わりに退屈を楽しもう
私たちは、常に何かをするようにと急き立てられている。
現代人は、つねに何かをしないと落ち着かない「動的人間」の傾向が誰にも少なからずあるように思う(悪い意味ではない)。
私たちをつねに急き立てるのは、上司でもなく、テレビ番組でもなく、行事でもなく、ショッピングでもなく、ニュースでもない。
それは、文明がもたらした「退屈」である。
退屈は現代では誰にもあるが、近代以前では、特権階級だけに許された贅沢な時間だった可能性が高い。スクール(学校)の由来は、スコレー(暇)だという。
有閑階級が誕生したことによって、暇な時間が生まれ、学問をする余裕が生まれた。アリストテレスはそれを古代エジプトに見出した。
退屈からくる空虚から逃れるために人々はつい消費に走るようになる。
ニュースをつい見てしまうのも、好奇心だけではないだろうと思う。
退屈から逃れるために、ついニュースの洪水に身を投じてしまうことがよくあると思うのだ(私自身もある)。
退屈な時間をいかに有意義に過ごすか。
それが現代では問われているのだろう。
言い換えれば、退屈を楽しむためにどのように時間を過ごすかは、自分で決めることができる。
バートランド・ラッセルは、偉大な本も、偉人の生涯も、おしなべて退屈な部分を含んでいる、と『幸福論』で書いた。
私たち現代人は、退屈から逃れ、何かしらの刺激を求めて、どこかへ出かけたり、あちこちを動き回る。ある人は、ショッピングをし、ある人はパーティーに出かけ、ある人は恋人と出かけ、ある人は盛況なイベントへ出かける。
それは一概に悪いとは言えない。
だが、刺激的なハラハラドキドキの毎日は、そう頻繁に訪れるわけではないし、持続的でもないし、往々にして充実しているとは言い難い場合もある。
刺激をたくさん求める人はコショーをたくさん求める病的な人に似ていると、ラッセル『幸福論』のNHkテキストの著者、哲学者の小川仁志さんは書いていた。
静かにゆったりと落ち着きながら、趣味に没頭したり、物思いにふけったり、ゆっくりと考えたり、読書をしたり、音楽を聴く時間は、外へ退屈を発散するのではなく、内を深く掘り下げることで、退屈を楽しむ時間だ。
それは、だしの風味をじっくりと味わうのに似ている(これも小川仁志さんの解釈である)。
読書も、じっくりと時間をかけて味わわないとだしの風味(醍醐味や面白さや魅力)がよくわからない。
それは人間の生涯にも言えることだ。
だからこそ、じっくりと深く物事の本質を考え、理解しようとするニュースダイエットが必要である。
ニュースの代わりに個人的なテレビニュースを編成しよう
これは、この記事を書く際にもベースとなった、ロルフ・ドべリ著『News Diet』(サンマーク出版)のなかで、特に共感できたアイデアである。
私自身は、その日を振り返るときに、ニュースの出来事を考えることは全くない。
ニュースの出来事は、生活に直接関わらないものが多いし、基本的にコントロール外にあるからだ(生活に直接関わるわずかなニュースは、誰か身近な人が教えてくれる)。
自分にコントロールできる範囲で動けるのは、私たちの生活に関する範囲である。
そして、報じられているニュースよりも、そうした生活に関する範囲である、個人的なテレビニュースの方が、重要度の位置づけはずっと高い。
ドべリ氏自身の挙げる個人的なテレビニュースの例は、次のようなものである。
見てわかるように、ニュースで報じられるような出来事はほとんど含まれていない。主に家族や友人の健康状態について。地域の話題について。家のことについてやお仕事のことについてである。
つまり、自分にとって本当に大切で重要で身近なことが最優先されている!
驚きだろうか。いや、考えてみれば、至極当然だと私は思う。
この本の読者は、ドべリ氏のこのスタンスに大いに共感することだろう。私もその一人である。
だが、これを新鮮なアイデアだと感じるのは、それだけ自分たちにとっての本当に重要なこと(個人的なニュース)と、報道されるニュースが、重要性の位置づけにおいて、逆転してしまっていることの表れではないか。
一例では、私たちの日常に、有名人と呼ばれる人々の話題は必要だろうか?
自分にとって本当に重要なニュースを決めるのは、報道局やテレビ局ではない。
他ならぬ、私たちである。
ドべリ氏に倣って、私も自分自身の個人的なテレビニュースを編成してみた。
ご覧の通り、ニュースの話題は一つも入っていない。
ということは、芸能人のあらゆる話題も、政治や政治家の話題も、誰かの失言や騒動も、事故や事件の報道も、アイドルや俳優が売り出す新曲や新ドラマも、グルメの話題も、不祥事も、株価も、戦争も、つまりテレビや新聞が報じるようなありとあらゆるニュースは、私にとって全く重要でないというのか?ほとんどすべてを無視してもいいと?
育てている観葉植物の生育状態や健康状態、自分や家族の健康や心身、自分が読む本や公園の野鳥についての方が、ニュースで報じられることよりも、よほど重要だというのだろうか?
もちろん、答えは全面的に「イエス」である。
自分の個人的なニュースを定めることは、自分の生活の中心を自分で決めることである。
かつて宇宙の中心は地球と教会だと思われていた。
だが、一握りの勇気あるイノベーターたちの多大な努力によって、地球は太陽を公転する惑星の一つでしかないことが明らかとなり、広まった。
ニュースダイエットも、そうしたコペルニクス的転回の現代バージョンなのだろう。私たちの生活の中心をニュース産業やテレビ局などといったニュースを報じる側から取り戻す新しいスローライフの運動である。
未来世代は、そうした現代の革新的な試みの始まりとして、自分たちの常識をつくってくれた勇気あるものとして、ニュースダイエットを評価するかもしれない。
おわりに
ご清聴ありがとうございました。
次回も書けたらいいなと思います。