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デザインにおける退廃美について
デザインの基礎は、なぜ重要かという話です。
あるいは
デザインの基礎があれば、壊しても残る美がある
という話をします。
半年ぶりのnote更新ですが、今日は少し哲学的な話を。
昨日の昔の上司との対話から思うことがありまして、書きます。
その上司が昔通っていたアートスクールで、彫像デッサンをしていていたときに、講師から
「鼻が厚みが足りない。あと、まわりの空気が描かれていない」
と指摘を受けた後に
「全部消して、はじめからやりなさい」
と言われたそうです。
4時間かけて書いてきたものを全て消させるのか? 当然の反応ではあります。そのあと講師が続けます。
「一度できたものは、消したところで、またできる」
私たちは時間をかけて調理してきたものを星一徹ばりにちゃぶ台ひっくり返されるときに、たじろぎます。そこには「時間」と「愛情」が絡んでいるからです。あるいは「時間」と「愛情」を掛けてみごとに生まれる「執着」からとも言えます。捨てがたい感情をおぼえるわけです。かけてきた時間が長ければ長いほど、愛情が多ければ多いほど失うことへの怒りと恐れです。
ではここでデザインの話です。
デザインの基礎力というのは、抽象的な言葉だとは思います。
基礎といっても、
何を、
どこまでの範囲で、
どのくらいやれば、
「基礎ができている」というのかだれも明確にしてきていなくないですか?
基礎の学習者と講師間ですら、意識共有がなされない中で言われているすごーく抽象的なワードです。
ではなぜ抽象的であいまいになっているかとういと、それは「人の理解力は目に見えにくい」。というのと基礎の先にある応用との間の起こる「市場ニーズに一貫性がない」。からだと考えます。
ちなみに、私が思う「基礎力」というのは
決してクリエイティブアプリやプログラムの操作ができることを指すものではないというのを一応付け加えておきます。これは多くのクリエイターも同じ意見だとは思いますが。まあ「操作における」基礎力からは外へでていきません。
では「基礎」とは何か。
これは何か具体的な行為を指しているのではなく、広義の意味で何かを構築する上に必須の知識であり力量のことであり、才能や資質ではありません。つまりやればできます。だれでも。
やらなければ、当然ですがだれであってもできません。
では、この「基礎」の意味はデザインの現場では何にかけられて、語られているのだろうかと、自分なりに以下に解釈してみました。
・見るちから
・理解するちから
・疑うちから
・作るちから
・調整するちから
・壊すちから
一個一個個別のものを「基礎力」と呼ぶというよりは、むしろこの一連の制作の中で必要となる「全体的に」必要とされるちからの総称であり、
「実現に必要不可欠な最低限量のちから」を
「基礎力」
というのだと思います。
昨日会った元上司は仲條正義さんが好きと言っていました。仲條さんといえば資生堂の花椿を代表するアートディレクションが有名ですし、最近わたしが知る限りだとイラストや絵の制作を展示発表されている印象があります。そしてその元上司は仲條さんの仕事の中にはこの「揺るぎない基礎力」を感じるということでした。
ここで退廃美というものについて語ってみます。
退廃美は廃れる、壊れていくものの中に残留する「美」のことだと認識しますが、その上司は仲條さんの作品にもこれがあると言っていました。これが私の心でひっかかりまして、半年放置していたnoteを久しぶりに立ち上げてる次第です。
日本はいまや壊れたデザインだらけですが、基礎のない、タコのような骨抜きデザインにまみれているわけですが、そこに美があるかいうと、わたしにはわかりません。
ちなみにアウトサイダーアートは好きです。壊れています。極めて主観的であり、個人的な表現方法で「型」なしの表現だともいえます(いいわるいではありません)、このアウトサイダーアートにですら「美」があるかどうかと言われると、わたしにはわかりません。
多くの「型」の修練を通過してきたものだけが、至れる美というものがあるとしたら、そこへ行ってみたくないですか?
型は何もデザインに止まりません。茶道、華道、ダンス、歌、何にでもあるわけですが、たとえば私たちがコンテンポラリーダンスもどきを踊ったとしても、それはただの「わけのわからない得たいの知れない動き」なだけです。「型」の長年の修練を重ねたダンサーの「型」からはずれることへの挑戦の動きとは意味が全くちがうわけです。
「美」を生むには、時間が伴うんだと思います。
見ること、
⇅
理解すること、
⇅
疑うこと
⇅
作ること、
⇅
調整すること、
⇅
壊すこと、
これをデザイン人生において何往復してきたか。その膨大な試行錯誤と創造と破壊行為の集積の上に成り立つ残留物を、
「美」というのかもしれませんし。
壊れたものにとりかこまれて生きていますが
わたしたちはこの表層的でチープな美に目をやられないように
気をつける必要があるのではないかとさえ思います。
求められるクリエイティブニーズのレベルがさがる市場において、私たちデザイナーがとる姿勢は、求められる以上の、期待値を超えた美をだすための基礎力を養うことを自覚することではないかと考えます。
わたしはデッサンのために消しゴムをダースで買い込む人間を育てたいですし、自分もそうありたい。そう思います。