「悲しみの波」と「喪の作業」
「悲しみには波がある」
例えば、船が難破したとき、あなたは海に放り出され、浮いているあなたの周りは残骸だらけとなる。周囲に漂うものすべてが、かつての船の美しさと素晴らしさを思い出させる。
あなたにできることはただ浮かんでいること。残骸の一部を見つけ、しばらくの間しがみつく。時にそれは幸せな思い出や写真などの物理的なものかもしれない。あるいは、あなたと同じように浮かんでいる人かもしれない。しばらくの間、あなたにできることはただ浮くことだけ。
最初のうちは、巨大な高さの波が容赦なく押し寄せてくる。10秒間隔でやってきて、息を整える時間さえ与えてくれない。藁にも縋る思いで、毛布にくるまったり、人に気持ちを吐露したり、お酒を飲んだり、泣き叫んだりしながら激しい波の中に浮く時間。
数週間、数ヶ月経つっても、波の高さは未だに大きい。しかし、波の間隔が広がっていることに気づく。以前より呼吸することが楽になる、生活に戻ることが楽になる、つまり、「悲しみを抱えながら生活する」ことに慣れ始める。
この時でも、悲嘆の引き金はあらゆるところに存在する。歌かもしれないし、写真かもしれないし、交差点かもしれないし、コーヒーの匂いかもしれない。きっかけと共に波は押し寄せる。しかし、波と波の間には人生が生まれ始め、その間隔はあなたが悲しみの波を受容するたびに伸びていく。
波の高さに対して自覚的になる頃。あなたは波が来るタイミングや波に飲まれるの
ではなく乗る方法を身に着ける。記念日、誕生日、クリスマス。ほとんどの場合、波が訪れることが分かり、心の準備ができる。
そして、悲しみを感じること、時に悲しみに飲まれることは悪いことではないと自覚する。思い出してノスタルジーになること、それをも自然な関わり方であると理解する。
そんな中、月日がさらに経ち、波そのものの大きさが変化していることにいつか気づく。波と波の間に存在する人生の時間がほとんどを占めている。このように「喪の作業」、悲しみを超える作業は終了に向かう。