「昭和天皇の戦争責任-在日米軍基地-対米従属国日本-沖縄密約問題」などに関する小考
※-1 東電福島第1原発事故とトモダチ作戦の思い出
本記述は「平成の天皇」明仁が在位していた時期,2015年1月19日に公表されていたが,その後,ブログサイトに移動にともないお蔵入りしていた文章を復活,再掲したものである。
ところで,岸田文雄が2021年10月4日,日本国首相になったときはすでに明仁の息子,徳仁が令和の天皇に変わっていた。2019年5月1日がその元号を使用しはじめた日付であった。今年の2024年は令和で数えるとその6年目となる。
以下に記述する※-1(の a) b) c) )は,本日2024年4月22日に「前書き」的に付論してみた内容である。
a) その令和6年目となった2024年の元日に能登半島地震が発生した。この地震はつぎのように解説されている。この解説は,令和という元号が国際的には通用しない点を了承したうえでと思われるが,それでもあえて,この元号によった「年の表記」を採っていた。
この2024年の1月1日に,たまたま北陸地方の石川県北部に発生したのがこの能登半島地震であった。2011年の3月11日に東日本大震災とこれにともなって発生させられた東電福島第1原発事故に関して,その年は平成23年であったといわれたところで,
ふだん元号を使用しない本ブログ筆者などにとってみれば,その時間軸の流れがよく把握できないゆえ,元号でいちいち指示されるたびに,またいちいちに,まどわされることになる。
b) さて,東日本大震災に相当した「日本史上の超大規模地震」のひとつとして,『貞観地震』(869年に発生)が記録されていた。その元号で表記された「歴史上の大地震:貞観地震」についてもまた,西暦で表記されないことには,いったい「古代史のいつごろの時代」に発生していたのか,時間軸の感覚からしてさっぱり把握できない。
ちなみに貞観の時期は西暦で区切ると627-649年であった。「貞観地震」は,平安時代の貞観11年5月26日(869年7月13日),三陸沖を震源とする推定マグニチュード 8.3の貞観地震となって発生した。この地震で,津波が陸奥国府(現在の宮城県多賀城市)を襲い,城下だけでも1000人が溺死したとされる。
ここ20年ほどの調査・研究により,仙台平野では当時の海岸線から3~4kmほど内陸まで津波が遡上したことや,地震を引き起こした断層が日本海溝に並行して長さ約200km,幅50km以上あったと推定されるなど,この地震は三陸沖を震源とする海溝型の巨大地震であったとみられている。
2011年(平成23年)の東日本大震災で,この貞観地震の存在があらためて注目を集めることとなった。
註記)以上の3段落分の説明は,『YAHOO!JAPAN 天気・災害ニュース』「貞観地震(貞観11年)」https://typhoon.yahoo.co.jp/weather/calendar/223/ を引用したものであるが,この超大型であった過去の地震は,マグニチュードの数値・規模の点では,東日本大震災と実際には大差なかったと推理されてもいる。
東京電力の最高幹部たちは,その貞観地震級の大規模災害が発生する危険性(可能性・確率性)を,頭から(企業営利の観点からであったが)軽視していた事実は,否定できない。
それがために,21世紀(すでにその第1四半世紀の時間が経過しているたが)の「この地球災害史」において「日本の大恥」となる汚点,いいかえると,日本国内の「原子力村:一番地」に陣取っていた東電最高経営者の大失策が,われわれにとってけっして忘れることなどできない記録として残された。
c) 東電福島第1原発事故の発生直後,アメリカインド太平洋軍は,「トモダチ作戦」と命名した「この世紀に特記されるべき超大事故」に対して,東北地方の太平洋沿岸地域において罹災した人びとを救援するために出動し,援助活動に従事していた。
東電福島第1原発事故をめぐっては,それこそ,日本国全体にとって危機一髪という事態が発生しそうな瀬戸際にまで,この事故の深刻さが高じていた事実経過を忘れるわけにはいかない。
つぎのごとき事実があったのである。
すなわち,事故当時たまたま稼働していなかった東電福島第1原発の4号機は,核燃料棒を原子炉から取りだし「燃料プール」に保管していたが,この燃料プールの水が喪失する事態が発生していた。
けれども,たまたまであったが,別の用途で当時,その場所より上部に貯めてあった水が,事故の影響で偶然にその燃料プールに流れこむといった「不幸中の幸い」(これも事故の一部として発生した事態である)が,それこそ奇跡的に起きていた。
もしも,その奇跡的な事態が偶発的に起きていなければ,もしかすると東日本はもう国家としては使いものにならなくなる,という悲惨な状況が生まれていたかもしれなかった。
「3・11」という大震災(大地震と原発事故)が発生するやいなや,アメリカインド太平洋軍が日本政府の意向とは別に独自に,前段で触れたような「トモダチ作戦」展開させ,迅速に対応しはじめた。
それは「大災害に見舞われた日本を支援する」という意味と同時に,おそらくそれ以上にだが,「アメリカによる日本統治」「対米従属国家」であるこの日本だからこそ,そのように「思いやりのある軍事的な行動」をもって,東日本大震災の発生のともない惹起させられた「東電福島第1原発事故にかかわる救援のための諸活動」を,そのころは米軍がほかの任務のために行動中であったその部隊もあったけれども,その「原子力空母」を中心とした艦隊を当初の任務は停止・変更させ,原発事故が発生していた福島県沿岸に派遣したのである。
たとえば,『産経新聞』だとそのころの,当時における米軍の行動ぶりをつぎのように報道していた。
この『産経新聞』の記事は,最後で「震災後,非常事態下での適切な判断には,平時からの在日米軍など外国部隊との連携強化が必要だとの意識が強まった」とむすんでいた。
本日記述の核心は,『産経新聞』の記事が太字にした文句のその「真意」やその「状況の実態」を理解するところに向けられる。
本記述の主題が「『昭和天皇の戦争責任-在日米軍基地-対米従属国日本-沖縄密約問題』などに関する小考」となっていたのは,これら用語だけずらっと並べてみた(下の「★- ↓ -★」)この段落においては,まだ,論点の示唆程度にしかなっていないけれども,このような用語を充てて議論されるべき「日本の国際政治」の本質を歴史的に討議することで,その根底を探ってみたい。
※-2「佐藤栄作賞の論文募集」『朝日新聞』THE ASAHI SIMBUN DIGITAL,2014年11月22日05時00分,http://digital.asahi.com/articles/DA3S11468785.html
故佐藤栄作元首相が受賞したノーベル平和賞の賞金をもとに設立された佐藤栄作記念国連大学協賛財団は,2014年の当時,第31回「佐藤栄作賞」の対象論文を募集していた。
テーマは「米国と中国の間における今日の関係,並びに国際社会における両国の責任と課題等を論じたうえで,今後国連はこの2大国の狭間でどのようにグローバルな問題に取り組むべきであるか述べよ」とされていた。
締め切りは来〔2015〕年3月31日(当日消印有効)。日本文・英文で応募可。詳細はつぎの住所・リンク先で確認できる。問い合わせは同財団(メール sato.eisaku.mf@unu.edu)。
現在も継続されている事業であるが,日本国元首相であった人物氏名を冠したこの「佐藤栄作賞」の募集が広告されていた。「ノーベル平和賞を授賞された」「佐藤栄作という首相を務めた人物」の存在をめぐり,とくに「平和に関する概念」を想起させたい懸賞論文への応募が勧誘されていた。
しかし,この懸賞の制度に関するこうした報道(広告)に接して,いささかならず鼻白む人がいないとはいえまい。ましてや,日米間の国際政治学を専攻する学究や,その外交関係事情にくわしい識者たちの立場からすれば,その印象はなおさら強いものである。
佐藤栄作は1974年に「ノーベル平和賞」を受賞したが,その理由は「非核三原則の提唱」であった。佐藤が平和賞を受けたとするこの「当時の理由」を聞いただけでも,その後における関連の経過事情をすでにしっている「現在のわれわれの立場」からは,どうみても噴飯モノである
その表現が大げさだというのであれば,「お笑いぐさの悲喜劇の記録」であったと,あらためて指摘しておけばよい。
佐藤栄作は1964年11月9日から1972年7月7日まで,第61・62・63代の内閣総理大臣を務めた自民党の政治家であった。ところで,佐藤の任期中に「西山事件」が起きていた。この事件は別名で「沖縄密約事件」「外務省機密漏洩事件」とも呼ばれている。
1971年の沖縄返還協定に関して毎日新聞社政治部の西山太吉記者らが,取材上しりえた機密情報を国会議員に漏洩したために,国家公務員法違反で有罪となっていた事件である。
その事件では,日米政府間の密約を暴いた報道した毎日新聞の記者西山太吉だけが悪者あつかいされていたが,しかし本当の悪者は政治家のほうであった。国民に内緒でアメリカ側と密約を交わしてたうえで,米軍基地でなお埋まったままの沖縄県を,日本の本土として返還してもらっていた。
ところが,その政治交渉のなかで隠されていた「非核三原則」に関する秘密を,西山が国民に報道・暴露したところ,その情報資料を入手する経路(窓口)となった外務省の女性職員との男女関係問題に向けて,政治権力的に事件を歪曲した佐藤栄作側の謀略によって,西山だけが「国家の秘密を国民の前に違法に公にした」という罪過に問われたのである。
一国の首相が国民を堂々と騙し,平然と隠そうとした秘密を暴露した新聞記者だけが犯罪人あつかいされ,その首相がその後においては「ノーベル平和賞」を受賞するといった具合に,世の中における正悪の価値観を逆立ちさせる歴史が記録されていた。
それでもその後になにひとつ変わることもなく,2014年の秋にもまた「佐藤栄作記念国連大学協賛財団は,第31回『佐藤栄作賞』の対象論文を募集している」と世間に向けて広告がなされていた。健在である西山太吉にとってみれば,毎年その時節に募集が公告されるこの懸賞論文には,それこそ「腸が煮えくりかえる」思いである。
【参考住所・リンク先】-最新の「佐藤栄作賞」情報-
※-3「佐藤栄作首相,米から異議受け演説変更〔19〕65年沖縄訪問」『朝日新聞』2015年1月16日朝刊,http://digital.asahi.com/articles/ASH1F64WCH1FUTFK00N.html
1) 記事本文
1965年に当時の佐藤栄作首相が沖縄を訪問したさい,現地でおこなう演説の原稿に米政府が異議を唱え,沖縄の安全保障上の重要性などの文言がくわえられていた。この事実が〔2015年1月〕15日に外務省が公開した外交文書で分かった。返還交渉の本格化の前,米国が首相の言動を注視していたことがうかがえる。
佐藤は1965年8月19日,首相として戦後初めて沖縄を訪問。那覇空港での演説で「沖縄の祖国復帰が実現しないかぎり,わが国にとって『戦後』が終わっていないことをよく承知しております」と述べ,返還に強い意欲を示した。
公開されたのは,訪問に向けた日米協議の記録である。その2日前の8月17日,日本が提供した首相の2つの演説のテキストについて,米大使館側から「沖縄の戦略的・軍事的重要性に対し言及されていないことはなんとかならないか」との指摘があり,「日本の防衛にとって有する重要性を認識するとの趣旨」を述べるよう日本側に希望した。
翌日には米公使が来て,「米国の沖縄施政に対し,disparaging(おとしめる〔けなす・悪くいう〕)である」として「沖縄に関する日米協力関係に障害がありうる」と強く改訂を申し入れた。
2つの演説は那覇空港と琉球政府主催の歓迎大会でのもので,日本側は,住民向けのものであり,米国非難ではないと反論。だが,米側は「全体の tone(トーン)」が問題で「もっともよく報道されると思われる……挨拶で米国に対しなんらの言及もない」と批判した。
この後の記録によると,空港での演説は変えなかったが,歓迎大会での演説には「安保条約にもとづく日米盟邦関係,沖縄の安全保障上の役割りの重要性および米国の施政下でも経済的社会的進歩のあった事実」に言及する文言を挿入したとしている。
このほかにも日本側は沖縄の立法院議場での佐藤氏の演説を希望したが,米側は「琉球住民に対し,恰(あたか)も琉球が日本の一県であるかの如き印象を与えることとなる惧(おそ)れが強い」などとして反対している。(川端俊一)
なお,佐藤首相が歓迎大会でおこなった演説で,米側の要請により挿入された部分はつぎののとおりである。
我部政明・琉球大教授(国際政治学)の話。佐藤首相の沖縄訪問は,米国の沖縄統治に対し,本格的に変更を求めるための第一歩であり,現地での首相発言には米国側も神経をとがらせていた。この演説の一件が,米国が日本の首相に基地の重要性を認識させた最初の事例だった。その後の首相たちも同様の認識を求められ続けている。(引用終わり)
以上に参照した記事を書いた記者はあくまで,事実の説明に徹しているように読める。しかし,われわれはその内容については,「アメリカ側の意向が強く日本国首相の佐藤栄作に押しつけられた」点に注目する。
1972〔昭和47〕年5月15日に沖縄県--より正確な表現では,沖縄(琉球諸島及び大東諸島)の施政--が日本国に返還されるさい,アメリカ側はなるべくそれ以前と実質変わりのない沖縄県でありつづけるよう事前に,日本に対して圧力をかけていたのである。
以上に紹介した『朝日新聞』の記事についてだが,『日本経済新聞』2015年1月15日朝刊の報道は,「佐藤元首相,米圧力で沖縄訪問時の演説修正 外交文書」という見出しを付した記事のなかで,こういう解説をくわえていた。
以上のごとき日米間のやりとりは,字面から読みとるかぎりでも,双方における政治的に対等な雰囲気をまったく感じさせない。アメリカ主導で,それも圧倒的に「戦勝国占領軍の立場」から横柄にものをいい,一方的に要求をしたという印象しか受けない。
このアメリカの日本に対する軍政的に高圧的な姿勢は,21世紀のいまも基本的になにも変わっていない。この点は事実として存在している,いまもなお,よりいっそう深まりながらさらに強くなっている。
アメリカ側はたとえば,赤坂プレスセンターにある米軍専用のヘリポート基地さえ日本に返還する気持がない。というのも,この施設がアメリカにとって至便の立地条件を備えているからである。
アメリカ大使・政府高官・高級軍人などは「アメリカの基地」→「日本の横田基地」→「赤坂のヘリポート」という乗り継ぎ便でもって,日本国に自由・勝手に「出入国」している。もちろん治外法権的な交通である。「日本のなかのアメリカ基地」が有する軍事的な利便性が存分に活用されている。
沖縄が1972年に日本に返還された直後,アメリカ政府は国家機密文書をもとに,その返還交渉過程を検証する報告書をまとめていた。この交渉においてアメリカが日本政府に要求したのは,以下の点であった。アメリカのしたたかな交渉戦略を前に結局,日本政府はいくつもの密約を結ぶことになった。
イ) 核兵器を含む軍事行動を自由におこないうる権利。
ロ) アジアの防衛や財政負担に対する日本側からの積極的関与。
ハ) 日米安全保障条約の要であるアメリカ軍基地が,返還後もいかに維持されるのか,その返還の対価を日本にどう背負わせるのか。
註記)前段の記述は,http://www5a.biglobe.ne.jp/~t-senoo/Sensou/okinawa_henkan/okinawa_henkan.htm を参照したが,現在は削除されているブログ記事。
2) 西山太吉が受けた国家からの迫害行為
「数々の密約を生んだ沖縄返還」という歴史の問題に対して当時,毎日新聞記者であった西山太吉がそのひとつに関する秘密文書を入手し,国民に向けて暴露していた。
その密約による「政治家の国民に対する違法性・不当性」が,はたして「平和ノーベル章」に値するほど価値がわずかでもあったかと問えば,「平和ということばの意味」が「戦争ということばの意味」に対してもつはずの原意を,ただ不透明・不可解にさせる意味しかなかった。
西山太吉(1931年生まれ)は,岩波新書で『沖縄密約』2007年を,さらに岩波書店から『機密を開示せよ-裁かれる沖縄密約-』2010年をそれぞれ公刊していた。過去において四半世紀以上にもおよぶ長期間,国家側から受けてきた冤罪的な屈辱を少しでも雪辱するための努力を重ねてきた。
西山の,今日までにおける国家による秘密隠蔽行為との戦いは,政府(もっぱら自民党政権時)による国民無視および愚弄が,アメリカがこの日本を支配・統治してきた敗戦後の占領時代を突き抜けて,21世紀の現段階にあってもいまだに継続されている事実を,重ねて教えていた。
とりわけ沖縄県に加重されている米軍基地の負担は,単にアメリカとの密約問題を超えて「昭和天皇の敗戦後史」における国際政治問題の次元においてこそ,理解されるべき歴史問題である。
昭和天皇が1947年9月20日付の記録として残した『天皇メッセージ』を忘れてはいけない。本ブログではなんども言及したことのある歴史資料であるが,本日の記述と深く関連する中身であるゆえ,ここにその歴史的な記録をあらためて紹介しておく。沖縄県公文書館ホームページからの引用となる。
3) 沖縄県の民意
沖縄県公文書館が強調したい箇所は,天皇メッセージの「意図や政治的・外交的影響についてはなお論争があ」るとはいっても,「日本本土の国体護持のために沖縄を切り捨てたとする議論」にあるはずである。国体とは天皇制度を中核とする大日本帝国の別名にほかならない。
昨年(2014年)12月14日に実施された衆議院解散総選挙の結果は,あいからず自民党が小選挙区制の特徴に助けられて圧倒的な多数の議席をえていた。
補注)同上,衆院選の結果は,自民党 291,民主党 73,維新の会 41,公明党 35,日本共産党 21,次世代の党2,生活の党2,社民党2,無所属8であった。
だが,沖縄県小選挙区4議席の当選者にかぎっては,すべて野党の議員であった。とくに沖縄1区は日本共産党の赤嶺政賢が当選していた。自民党沖縄県連幹事長だった翁長雄志知事は,この共産候補の応援演説をするといった異例の選挙戦となってもいた。
1975〔昭和50〕年7月17日,当時まだ皇太子であった明仁と妻が,沖縄県糸満市を訪問したさい,沖縄問題運動家たちによって過激な事件が起こされた。同市を訪問した明仁皇太子(当時)夫婦はまず最初に,南部戦跡の「ひめゆりの塔」を訪問した。
当日は炎天であったが,案内役のひめゆり同窓会会長源ゆき子の説明を聞いている最中に,突然,火炎瓶が投げつけられ献花台が炎上した。下掲の写真をみると,手前(画像だと右下の部分)に犯人のヘルメット姿が写っている。
沖縄本島南部の糸満市にあるひめゆりの塔は,沖縄戦で亡くなったひめゆり学徒・教師の鎮魂のための慰霊碑である。ひめゆり学徒隊の「ひめゆり」とは,沖縄師範学校女子部と県立第一高等女学校の愛称。沖縄戦で,沖縄陸軍病院に動員された女子学生たちの総称を,戦後「ひめゆり学徒隊」と呼ぶようになった。
ひめゆり平和祈念資料館の館内は全部で6つの展示室で構成され,貴重な証言などの資料がわかりやすくまとめられている。両校の同窓生たちの「戦争の悲惨さ,愚かさ,そして命の大切さを後世に伝え残したい」という思いが,ここには生きている。
現在は天皇〔2019年5月1日からは「上皇」〕になっている明仁が,当時〔1975年7月〕妻を引き連れ,沖縄県糸満市にあるこの「ひめゆりの塔」に頭を垂れ,献花することの歴史的な意味はなんであったのか?
要は,彼の父:天皇裕仁は,沖縄県を人身御供のごとくアメリカに投げて与えていた。敗戦国となった大日本帝国が日本国に変身していく政治過程のなかで,1947年9月20日の日付がついている “天皇メッセージ” はその事実を明証する文書であった。
4) 2つめの天皇メッセージ(1950年6月下旬)
日本がまだアメリカ〔GHQ〕の占領下にあった1950年6月21日から27日,当時のアメリカ国務長官ジョン・フォレスター・ダレスが日本に来ていた。昭和天皇はこの間に、側近たちなどの工作・仲介によって,ダレスに対して自分の意思を伝えていた。すなわち,そのときもまたもうひとつ,別の “天皇メッセージ” がアメリカに向けて伝達されていたのである。
このダレスの日本訪問の最中にちょうど朝鮮戦争が勃発していた。ここでの歴史的な因果にまつわる問題に関しては,以上の話題に前後した事実関係に注意しておきたい。
いずれにせよ,昭和天皇が「敗戦の以前も以後も同様に」一番怖れていたのは,社会主義国家体制の浸透・拡大であり,とくにソ連邦の存在を気にしていた。彼は,まるで敗戦前の大元帥時代の感覚そのものでもって,当時も隠密裡に動いていた。裏工作のことである。憲法の存在など完全に「屁のかっぱ」であった。
以上に触れた1950年6月下旬の出来事については,天木直人のブログが2013年5月24日,http://www.amakiblog.com/archives/2013/05/24/ の記述「昭和史最大のタブーを書いた週刊朝日の真意」で,こう言及していた。
敗戦後も70年目を迎える2015年になっている〔その後の現在2024年ならば,79年目の8月15日を迎えるが〕。それでも,過去における「大日本帝国の大敗北」などなかったかのように,その往事(?)の「美しい国へ」と「青い鳥」を求めてさまよっていた,それもいまは故人になっているが,この国の世襲3代目「亡国の首相」もいた。
ところで,昨日(2015年1月18日)には,大相撲を観覧したあとの明仁夫婦が皇居に帰宅するさい,両国「国技館」の観衆たちが総立ちして彼らを見送ったというニュースも報道されていた。ここでは『読売新聞』と『サンスポ』を参照したうえで,そのように記述したが,本日(2024年4月22日)の時点ではその両方の記事ともに削除状態。
天皇明仁の父の世代においては,「彼の名」のもとに遂行された戦争のために,父や夫や息子などを殺されていた親族たちが,無慮・無数いた。だが,そうした戦争の時代における臣民たちの記憶などどこかへ飛んでしまったかのような光景が,21世紀のいまにあっては展開されている。
この日本国はいったい誰のために存在するのか? 国民のためか,それとも天皇ためか。それともまた両者のためなのか。両者のためであるとしたら,その両者の関係は国民の統合のための象徴である,そして国家の象徴である「天皇が依然と具有しているかのような神格性」は,国民の相互関係のなかでどのようにとりあつかわれているのか? 疑問は尽きない。
※-4 沖縄密約問題
本日〔この記述は2015年1月19日が初出であった〕のこの記述がとりあげた「最初の問題」に戻ろう。
沖縄県が日本本土に返還され復帰するとき日米両国間においては,国民にしらされない密約が結ばれてきた。この密約を生まざるをえなかった敗戦後における米日関係史の背景事情に対して,実は昭和天皇自身が重大な政治的関与をおこなっていた。
そのの「歴史の事実」は,本日における,以上の説明によってだけでも概要を理解してもらえるはずである。
昭和天皇は終生,沖縄県にはいけなかった。
昭和20年代には目一杯に日本全国を「巡幸」し,戦敗という自分の人生における大失策を国民に忘れさせるためのパフォーマンスに努力を傾注してきた。しかし,沖縄県だけは彼は訪問できていなかった。
その代わり,前述に関説したように,1975〔昭和50〕年7月中旬,明仁夫婦に出向かせていた。当時はまた皇太子夫婦であった彼らが,その日程のなかで立ち寄った「ひめゆりの塔」で遭遇させられた事件は,既述した。
いま〔ここでは2015年のころ〕,安倍晋三政権が集団的自衛権行使を容認したり,国家安全保障会議を設置したり,国家特定秘密法を制定したり,武器輸出禁止3原則を緩和させたりして「もくろんでいる」軍事体制国家化は,いったいに日本自身のためではなく,アメリカのためでしかなかった。
補注)先日,国賓待遇で訪米した現首相岸田文雄もまた,前段の指摘に忠実にしたがう外交しか展開できていなかった。つぎの『産経新聞』の記事を参照してもらいたい。本ブログ筆者の挿入句がいくつか記入してある。
この「米日関係史の事実経過」の様子を,日本国民はありのままに認識しつつ注視し,いうべきはいい,批判すべきは批判しないことには,この国においては現状のごとき「対米従属国である基本性格」が今後もますます固定化させられていく。
一方では,実質でアメリカを宗主国にするがごとき日本国が「ふつうの〈美しい国〉」になれるなどと,想像力だけはたくましいが,しかも異様なくらいにまで勘違いしていたあの安倍晋三君もいた。
他方では,昔に「父親(天皇裕仁)」が敷いてくれた日米軍事同盟関係を,安定的に従前に守ってほしいと切望してきた「息子(天皇明仁⇒孫の天皇徳仁)ら一族」がいた。
前段に示唆された日本国における政治の構図・力学は,いうなれば「戦後レジーム」をめぐる争点の攻防である。
問題の焦点は,敗戦後において歴史的に形成され構築されてきた,しかも非常に確固たる「日米安保体制」を,故・安倍晋三が「敗戦後レジーム」だとみなして,観念的に否定したがっていたごときその「観念的な発想」にあった。
安倍晋三が抱いたその主観的な願望は,はたして彼自身が首相であった任期中において実現可能となりえていたか? この答えはそれほどむずかしくなく解ける
※-5 沖縄戦(1945年3月26日-6月23日,より広義には1945年3月26日 – 1945年9月7日)から広島・長崎への原爆投下(8月6日・9日)
つぎに紹介するのは,『朝日新聞』2015年1月15日夕刊の記事である。その見出しは「昭和天皇の事前会見要請 1975年の訪米時,駐米大使ら 外交文書公開」となっていた。
1975年の昭和天皇の訪米〔1975年9月30日~10月14〕日にさいし,事前に天皇と東京駐在の米メディアとの記者会見をおこなうよう,駐米大使らが外務省に求めていたことが,〔2015年1月〕15日に公開された外交文書で明らかになった。訪米前に天皇の言葉を報道してもらい,戦争責任追及を避けることが狙いだった。
1975年4月21日付の外務省北米1課の「天皇・皇后両陛下の御訪米準備の主要問題点」に「陛下の戦争責任について種々議論を呼ぶことは確実」とある。1971年の訪欧では,戦争責任問題から車に卵を投げつけられたことがあった。そのため,外交当局は訪米時も騒ぎが起きるのではないかと心配した。
補注)途中であるがここで寸評を入れておきたい。ここに報道されている内容は,アメリカ側が懸念したことがらなのであった。
訪米を予定していた昭和天皇の戦争責任・戦後措置の問題については,米日双方におけるどの方面からであっても,あらためて問題提起をされたくはなかった「アメリカ側の意向」が提示されたのである。
敗戦後における日本占領・統治を円滑に運ぶために天皇裕仁をうまく再生利用できた,その後におけるアメリカ側の政治事情があった。
この事実との関連で昭和天皇の戦争責任があえて再問されることにでもなれば,東京裁判史観のなかにしこまれていた一大矛盾,つまり天皇免責の問題が,米日双方に跨がる歴史問題として噴出せざるをえない。これはアメリカ側にとってもも好ましくない事態である。
敗戦後史のなかではアメリカ国務省と宮内庁幹部などが「昭和天皇の国際政治的な利用」を上手に成就してきた。これを四半世紀も時間が経ったころにわざわざ掘り返して問題にしてほしくはなかったのである。
1975年10月に実行された昭和天皇のアメリカ訪問はいうなれば,敗戦後史の経過模様(日本国天皇家の無病息災的な経歴蓄積)に対する御礼を,この日本国の天皇がアメリカの大統領に申上するための旅行でもあった。
したがってこれ以外の話題,つまり,敗戦後史の思いだしたくもない「その他のもろもろの政治過程における出来事」については,いっさいの記憶を追放しての旅程でなければならなかった。
〔記事に戻る→〕 1975年5月10日の駐米大使から外相への電信には,駐米大使ら公館長の会合の結果,訪米を無事に終えるため「在京米人記者を出来るだけ活用することが望ましく」「御訪米前のへい下はいえつ(陛下拝謁)実現方につき前向きに検討願いたい」と記されていた。
駐米大使らの要望通り,訪米直前に天皇は,米大手テレビNBCなどとの単独会見や,複数メディアとの共同会見を実施。天皇即位後,外国人記者とカメラを入れて単独で会見したのはこの時が初めてだった。「開戦にさいしては,事前に閣議の決定があり,拒否することはできませんでした」などの天皇の言葉が報道された。
事前の報道にくわえ,ホワイトハウスでの晩餐会で昭和天皇が「私が深く悲しみとする,あの不幸な戦争」と言及したこともあり,米国滞在中に戦争責任を厳しく追及されることはなかった。訪米後に外務省は,「(事前に)陛下の御言葉を報道していたのはかなり効果的であった」(1975年10月22日付「両陛下御訪米事前広報」)と総括した。
ところで,以上に参照した記事の内容はさておき,昭和天皇夫婦がそろって座ったかたちで1975年10月31日,以上の米国公式訪問から帰国したのち,戦後初めての記者会見がなされていた。
このさいにとくに昭和天皇が示した返答にはかなり苦衷の表情をみせた場面もあった。なかでも有名なのが,つぎの質疑応答の場面であった。
この答えを聴いた広島・長崎の両県民被災者「など」は,どのように感じていたか? 昭和天皇は,戦争責任とは「言葉のアヤ」であって,また「文学方面はあまり研究もしていない」から「お答えが出来かねます」が,戦争のことであるから原爆を投下された「広島市民に対しては気の毒であるが,やむをえないこと」といってのけていた。
彼は大日本帝国時代,旧陸海軍の総帥(両軍の総大将=大元帥)の立場にあった。とりわけ大東亜戦争の時期においては,一番よく戦局を把握できる位置にいた(むろん,戦争の進展具合にともない,その精度には大きな狂いも出ていたが)。
戦時中において昭和天皇が指導者となって置かれていた状況に注目して判断するならば,前段のような1975年段階の記者会見の場における裕仁個人の発言は,本心から出たものと解釈してよい。
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