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新首相になった石破 茂はキリスト教徒「でもある」事実など(前編)

 ※-1 「自民裏金」審判と見出しを付けた『毎日新聞』の報道姿勢とは対照的な『日本経済新聞』1面「冒頭記事」の見出し「風景」

 この※-1の標題については,つぎの,本日(2024年10月10日)『毎日新聞』と『日本経済新聞』の朝刊1面に,それぞれ掲載・報道された衆議院の解散総選挙に関する記事を,まず紹介しておきたい。

『毎日新聞』の報道姿勢に依ると
裏金脱税問題と統一教会問題は
自民党の腐敗・堕落ぶりを象徴する2大問題だが

『日本経済新聞』の世界観だと
世の中の様子はだいぶ異なって理解されないと
いけないらしい
ちなみに『毎日新聞』は反原発だが
『日本経済新聞』は原発万歳

AI時代には膨大なエネルギーが需要として生まれているというのが
その理由のひとつとなっていた

しかし最近において原発の製造原価計算はすでに
完全に割りに合わない発電装置である事実を嫌というほど思いしらせた

その事実は『毎日新聞』新聞が最近かなりくわしく報道していたが

この『日本経済新聞』の1面記事は支配体制側の期待を
真正直に
見出しに反映させていた

 さて,『日本経済新聞』は,国会議員(とくに自民党議員たちの)裏金脱税問題に関してとなれば,あえて第1義的な関心をもたないかのような報道姿勢を示唆したい「日経としての一定の傾向を含めた政治・社会観」を,このように前面に明確に押し出す紙面造りをしていた。

 

 ※-2 石破 茂新首相は代々キリスト教徒の系譜をもつ家庭に生まれた政治家であった

 数日前,購読紙である『毎日新聞』から,2022年10月19日の日付けだったから,今日からだとほぼ2年前になるが,「政治家はいかに宗教と向き合うべきか 石破茂さんと考える」という解説記事が掲載されていたのを,たまたまであったが,ネット上でみつけた。

 この記事は2015字の長文なので全文を紹介できないので,つぎの段落に限って引用してみる。なおさきに断わっておくと,石破 茂に関して『毎日新聞』は,つぎのインタビュー記事もまとめて報道していた。

 以下に引照するのは,前記のインタビュー記事からである。石破 茂はこう語っていた。途中からの引用となる。

 --つまり〔自民党の国会議員は〕当選のために宗教〔統一教会(世界平和統一家庭連合)を利用した,ということだが,政治家にとっての宗教とはその程度のものなのか。

 前編で触れたように,石破さんもプロテスタントの日本基督教団の教会で洗礼を受けたクリスチャンで,浄土宗の檀信徒(だんしんと)の国会議員でつくる親睦団体「浄光会」の会員でもある。

 (この記事紹介は記者との問答形式になっているが,読んでいけばその両者間の区別は容易にできるので,とくに分別しないで引用する)

 「母方の曽祖父が新島 襄(クリスチャンの教育者。同志社大を創立)の愛弟子でね。私も母に連れられて幼いころから教会に通い,18歳で洗礼を受けました。浄土宗は父方です。檀家ということで浄光会の会員になっていますが,私自身はクリスチャンです」

 (中略)

 「幼いころから『神はいない』などという恐ろしいことを考えたことは一度もありません。幼稚園のころから教会に通っていましたからね。神の存在はもちろん信じています」

 その神とは「ゴッド」なのか,日本でいえば「おてんと様が見ている」「八百万(やおよろず)の神」といったたぐいのものなのか。

 「キリスト教の神です。私たちは唯一神,絶対神という立場です。『八百万の神』という考えは取りません。とはいえ欧米のクリスチャンの政治家とも,私は少し心情が違うと思う」

 どういうことか。石破さんは一語一語,思索をまとめ,言葉を絞り出すように話しはじめた。

 「……宗教は,本当はきびしいものです。私は世俗的な政治家です。こういう仕事では,選挙で神式で必勝祈願をし,クリスマスにはクリスチャンとして祈りをささげ,初詣には神社にいく。本当は良くない。良くないが,さっきもいったとおり,欧米キリスト教国の政治家とは違うのだ,と自己弁明をしているんです」

 なるほど宗教は理屈だけでは語れない。キリストの「隣人を愛せ」という教えを奉じる国同士が時に戦争をする。

 思えば石破さんはクリスチャンでありながら天皇・皇室を敬う。天皇の存在は神道と切り離せないが,「絶対神」のキリスト教と矛盾するのではないか。

 「そこは日本のキリスト教会が悩んできたところですが……」と石破さんもちょっといいづらそう。欧米とは歴史も宗教事情も異なる日本では,天皇の神格化は強く否定しながらも,憲法上の象徴としての地位を尊重する,というのが日本のキリスト教会の一つの立場ということだ。

 「自分の政策にキリスト教が影響しているとは思いません。クリスチャンは護憲の方が多いのですが,私は改憲派です。政治家ですから,そこは別です」

 ですが,と石破さんが言葉を継いだ。

 「学生時代に出会った牧師さんは『神の前には人間は塵芥(じんかい)のようなもの』といっておられた。極論をいえば,政治家の仕事には『自分が正しくて,他人が誤っている』といわないとなりたたない面がある」

 「でもそんなこと,本当は人間に分かるはずもない。誤りや他人を攻撃する自分を許してくださいませ,とひたすら祈る。そうでないと,やってられんですよ」 

石破茂インタビュー記事紹介

 また,『東洋経済 ONLINE』2024年10月9日 4:40 は,高橋浩祐 : 米外交・安全保障専門オンライン誌「ディプロマット」東京特派員「『持論を現実に』信仰という石破首相が持つ力 著名な宗教家だった曾祖父から受け継いだDNA」という記事を,早速(昨日の時点で)に掲載していた。


 ※-3 キリスト教徒である信仰の立場に関して考えるべきことがら

 ※-2で言及した石破 茂のキリスト教徒としての立場,いいかえると日本(人)的な,その伝統となっていたキリスト教信者のあり方を考えるさい,つぎのようにキリスト教という宗教の「もっとも基本的な立場」,その信条のありようをよく踏まえたうえで接しないことには,より本質的な理解が困難になる点は,事前にしっかり承知しておく必要があった。

 a) たとえば,学問的な研究成果として公表されていたある論文から,つぎのような主張を聞いてみたい(以下の引用では読みやすくするために,あえて任意に改行を多めにくわえてある〔その点で正確に観たいという人は直接参照されることを期待したい。⇒文末にリンク先住所あり)。

   二度の「沈黙」-戦時下日本のキリスト教の生存実態-
           =董 旭召・稿=

 明治以来,日本人キリスト教徒は,西欧文明の根底にあるものとしてキリスト教を理解してきた。それは日本の近代化過程に不可欠なものであると理解したからである。

 したがって,日本におけるキリスト教は,欧米からの外来宗教であったために,日本人キリスト教徒は常に「日本人であること」と「キリスト教徒」であることに対して緊張関係を内在させてきたといえる。

 近代国家を創造するための種々の要素がキリスト教を「異質なもの」としていた。結局,キリスト教が近代日本社会において常に「他者」の眼差しを向けられてきたことは,現在も大きくは変わっていないであろう。

 このようなことから,近代日本におけるキリスト教の発展,特に国家との対峙・協力を理解することが,宗教と国家の密接な関係を考察するうえで重要な視点を与えてくれるのが分かるだろう。

 戦時中のキリスト教会は,日本の軍国主義とそれを支えた天皇制については,それを批判することが少なく,むしろ支持をした。

 教会は,当時の日本が犯した侵略という過失にも気づかずに,天皇の名による戦争を「聖戦」と呼び,「皇室中心主義」や「敬神尊王」などといって,キリストの信仰と離反し,支持をした。

 そして,教会のアジア諸国への宣教は,宣教がその純粋な動機だといっても,その働きは日本の植民地政策に追随するものであり,キリスト教の教義若しくは本心から乖離したことである。

 彼らが国家権力に対する懐疑や批判や抵抗の精神をもち,あるいは反戦平和という意識をもっていても,きわめて微弱であったと考えられる。こういうわけで,彼らは二度,沈黙した。

 註記)董 旭召(山本淳子ゼミ)「二度の「沈黙」-戦時下日本のキリスト教の生存実態-」,京都学園大学人文学部・人間文化学会学生論文集編集委員会『人文学部学生論文集』第17号,2019年3月,https://lab.kuas.ac.jp/~jinbungakkai/pdf/2018/h2018_13.pdf

董旭召「論稿」

 付記) 同上の論文は,京都学園大学人文学部の「2018年度は91編の卒業論文から19編が選ばれ,『人文学部学生論文集』第17号に掲載されました」と解説されていたうちの1編である。

 ただし,以上に引用した論稿の掲載個所は,京都先端科学大学(KUAS,https://www.kuas.ac.jp )に掲載(転載?)されたものである。

 董 旭召の写真をみつけたので,紹介しておく。

董は現在ホテル業勤務

 b) 東京基督教大学紀要『キリストと世界』第34号,2024年3月の「編集後記」https://www.tci.ac.jp/info/overview/34_TANpage.pdf からは,以下の記述を引用する(従前)。

十字架を背負われた主イエスがそこにいてくださらなければ,私たちの働きは人々の妨げでしかあるまい。

 マラナタ,「主イエスよ,来てください」(黙示録 22:20)。

 今はまだ目に見えない形であるものの,聖霊を通して私たちのうちに主イエスがいてくださる。そう信じて,恐れずに,主の僕として破れ口に向かっていこうではないか。

 無力な者として破れ口に立ってみようではないか。私たちが立たなければ,主イエスがそこにいてくださることにはならないのだから……。研究の領域でも,まったく同じことがいえそうである。

Tokyo Christian University


 ※-4 キリスト教徒が信仰ゆえ困難に対峙させられたときにどのように行動しうるのか

 a) 石破 茂は,前項の※-3で指摘した論点であったが,信仰心をもつ者が,いざという場合に必要となるべき決然とした行動を,どのように発揮できるかという問題に関して,実は,筆者は触れてみたつもりである。

 石破 茂は仏教との折りあいのつけ方を心えているらしく,また神道との接し方もごくふつうの日本人的な感性をもってこなしえているように受けとめられる。しかしながら,そうした宗教的な態度は「平時における宗教の立場」であれば,あえて特別に問題となりそうだとは考えにくい。
 
 だが,1945年8月以前までならば,戦時体制期日本であった当時の政治・経済・社会をかこんでいた宗教規律的な様相として,「国家神道」の日常生活面にまで及んだ強制ぶりは,実際には石破が語った程度の信仰をめぐる説明など,一瞬に吹っ飛ばすような絶対的な服従を迫っていた状況のなかでのそれであったがゆえ,残念ながら,ごく率直に判断するにほとんど参考になりえない。

 b) 岩波書店から2011年に,渡部良三『歌集 小さな抵抗-殺戮を拒んだ日本兵-』という本が出版(改版発行)されていた。この本はさきに1999年,シャローム図書というキリスト教系の出版社から公刊されていた。後者の「はしがき」は1992年に書かれていて,またその「おわりに」で渡部は,つぎのように「自分が体験させられたすさまじい戦争の現場」を,こう語っていた。

 私達は加害者であり被害者でもある。外に対する被害者意識は歴代政府の公報教育等のゆえもあって非常に強く,たとえば毎年の原爆被爆記念日や敗戦に日には,祭り行事のように喧噪をきわめるが,その日には,反対の極に別な被害者の存在することな,1人として口にする者がない。

 (中略)

 日本人が被害者としての意識をもつなら,原爆体験よりもむしろ中なる天皇という権力を頂点として支配層,とくに旧軍部,官僚とくに司法官僚,日本資本主義資本,天皇一族等によって,あの第2次世界大戦(太平洋戦争)の塗炭の苦しみを舐めるにいたったことを意識すべきである(155頁)。

 (中略)

 加害者は日本の支配層,それも天皇を頂点とするそれであることに思いを
致すべきである。それに比べれば原爆被害はけっして大きくない。しかるに敗戦後年ならぬとき戦争責任については,「一億層懺悔すべし」などといい出した皇族がいて,まるで野火の如く世上を席巻し,隷従の愚,隷従する歓びといった封建的情緒から抜け切れていなかった日本人のほとんどが,洗脳され,今日にみる,無責任の風土を形成してしまった。
 
 私はその洗脳を拒否する。敵前抗命をして捕虜虐殺を拒否したと同じように……。一途な思いを,敗戦後いまなお踏まえてつづけて古希に入った。

 この小冊はすべての資格剥奪を受けた一学徒兵の,小さな「いしぶみ」である(156頁)。

渡部良三『歌集 小さな抵抗-殺戮を拒んだ日本兵-』

 c) この渡部良三の戦争体験は,学徒出陣で中国戦線に従軍する直前の1943年に,内村鑑三の弟子で熱心なキリスト教徒である父・弥一郎から教えとして諭されていたことを,忠実に実践したがゆえに起きていた。

 渡部は1922年山形県生まれ,中央大学在学中に学徒出陣で中国・河北省の駐屯部隊に配属され(陸軍二等兵),その場で中国人捕虜を銃剣で突くという刺突訓練のとき,キリスト者として捕虜殺害を拒否した。

 それゆえ事後,凄惨なリンチを受けたが,その一部始終も含めて,戦場の日常と軍隊の実像を約七百首の歌に詠み,復員時にもち帰った。戦後は国家公務員として勤務し,定年退職後に本格的に歌集を編みはじめ,その「キリスト者として戦争体験の記録」を『歌集 小さな抵抗-殺戮を拒んだ日本兵-』にまとめ,公刊したのである。

 石破 茂が日本国総理大臣となったこの時,渡部良三のこの本を紹介するのは,同じキリスト教徒同士であり,なにかの関連がありそうだという判断をしてみたからである。

 d) いまのこの21世紀はそれでも,1945年8月以前に比較したら,日本国内に限っての話となるが,まだまだ平和がある。だが,世界全体に目を向ければ,あちこちにまだ本格的な戦争事態にほぼ等しい状態で干戈を交えている国々がある。

 2022年2月24日,ウクライナへの侵略戦争を「特別軍事作戦」と銘打って開始した「ロシアのプーチン」は,この2024年10月段階にまでなると,「ロシア,鉄道建設などで14歳も勤労動員 軍民で人材争奪 ウクライナ侵略」『日本経済新聞』2024年10月8日,https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGR02CTC0S4A001C2000000/ 

 といった報道がなされるくらい,自国の政治経済体制に困難を生じさせているにもかかわらず,このように中学生まで(実質の)戦時体制下において労働力として動員させるほかない困窮にみまわれていながらも,なお戦勝を信じて戦闘行為を止めないプーチンの狂気は,その加減をまったく自覚も調整もできない独裁者の特性をよく表わしている。

 要するに,石破 茂は政治家として,自民党内でも軍事オタク風な人物であるとだけ規定されているのではなく,防衛問題に非常にくわしい部類に属する自民党議員であり,観方にもよるが非常に危ない人物だという評定ももらっている。

 e) 石破 茂がキリスト教徒の信仰の持主として,日本が万が一にでも,日本がアメリカ帝国の三下軍隊編制である防衛省自衛隊3軍を,実戦用に本格的に動員・展開せざるをえなくなったとき,換言すれば,アメリカインド太平洋軍の一翼そのものとして動員・利用されるような非常事態になったとき,この日本国を運営する最高責任者の立場から,どのような対応をみせ具体的に行動することになるのか,それこそ見物になる。

 前段で渡部良三の父親が「内村鑑三の影響を受けた人物であった事実」に言及してみたが,次項(とくに明日以降の「本稿(後編)」の話題ともなる論点)にとりあげて論じる問題は,その付近の事情から敷衍していく議論が必要となる。

 石破 茂が日本という国家の最高指導者になった現在,「いざ鎌倉!」という事態(安倍晋三が2015年に成立・施行させた安保関連法の発動)に直面させられたとき,キリスト教徒である立場・信仰のありようが,いかようなかたちであっても,どうしても試されるほかない状況が生まれる可能性が,かなり大きくなっている。そうした現況に置かれていると認識しておくべきである。

 あるいは,石破 茂自身がそのような理解:捕捉の仕方そのものを,他者にはさせえないような態度・言動を,あらかじめ予防線を張るかっこうで採れる可能性がないわけではない。だが,いまのところ,以上のごとき想定話は,ヒトによっては考えすぎだと嗤う者もいるかもしれない。それでも話題としては立派に現実性がある。

 ちなみこういう本があった。紹介する。5年前に発行されていた1冊である。類書がけっこうな冊数あることも指摘しておきたい。

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【参考記事】


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【付記】 「本稿(その2)」は以下のリンク先住所である。


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