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キリスト教徒だと自称する石破茂首相が神道神社で元陸海軍国営の靖国神社(督戦と勝利のための死神・亡霊が合祀されている神社)に「真榊を奉納する」という行為は,この自民党総裁が本当のクリスチャンたりえないことを,不承不承にも自認したことになる
※-1 衆議院の解散総選挙を2024年10月27日に控えて石破 茂首相が靖国神社に真榊を奉納とした宗教的行為の意味
「その意味」は,まともなキリスト教徒であれば絶対にできない〔しえない〕ものであっても,八百万の神々が降臨していたこの国では許されると考えていたとしたら,これはキリスト教の宗教倫理に照らして判断するまでもなく,単に異端どころか背教となる行為を意味した。
石破 茂は2024年10月1日,首相に就任するにあたっては,あらためてキリスト教徒である事実が明確に,世間に広くしられることになった。
さて,明治になってからだが,正式に建造された「国家神道」神社であり,元陸海軍国営の靖国神社(督戦と勝利のための死神・亡霊が合祀されている神社)に「真榊を奉納するという行為」は,この「現在の自民党総裁」が本物のクリスチャンではありえないことを,つまり当人が「意識していると否とにかかわらず」「不承不承にも自認したことを,公的に堂々と宣言した」も同然になっていた。
歴代首相のなかでは石破 茂と同じようにキリスト教徒であった大平正芳(第68・69代の内閣総理大臣としての任期,1978年12月7日~1980年6月12日)は,学生時代,高商に入学した春,元東北帝国大学教授で宗教家の佐藤定吉が講演に訪れたことがきっかけで,キリスト教に出会いその後,自身の病や父の死を立てつづけに経験した大平は,キリスト教に傾倒し,1929年暮れに観音寺教会で洗礼を受けた(とウィキペディアには解説している)。
この大平正芳がかつて1979年4月21日「春の例大祭」時,自身で靖国神社に出向き参拝した記録がある。そのさいの記録を『時事通信』のウェブ記事を借りて参照しておく。
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この写真記事の解説は当時,首相による靖国参拝が「外交問題化することはなかった」と記していたが,それまで東アジア諸国は,その事実そのものを正確に認知できる国際政治状況を与えられていなかった。
つまり,日本国内のそれも九段下の元国営神社で,こそこそとおこなわれていた,それも「東京裁判史観」にしがたいえない気分を横溢させていた「靖国神社の構成員たち」(宮司,氏子総代,宮委員および奉賛会代表者など)が,A級戦犯たちは「戦争犠牲者ではなかったにもかかわらず」,第2次大戦の殉難者だと勝手にみなしたうえで,靖国の本殿祭壇に合祀した。
靖国神社側が1978年10月17日,A級戦犯を合祀してから事後,その事実が海外でもしられるようになってからだが,国際政治次元での大問題に発展していった。昭和天皇裕仁は1975年11月21日,最後の靖国参拝となった「親拝」をおこなって以降,前段のごとき靖国神社側の対応のために発生したその大きな影響を配慮し,九段下のこの元国営神社にはいっさい出向けなくなった。
その裕仁以来となった天皇家側の堅い意志(靖国不参拝)は,明仁天皇,徳仁天皇の代にまでつづいており,あたかも父・祖父から伝えられた〈絶対的な遺言〉であるかのように守ってきている。だから,時々の首相が参拝したとか真榊を奉納したとかいった報道に類した天皇家関連の報道がなされることは,まったくなくなった。
昭和天皇がA級戦犯合祀という出来事をたいそう悔しがっていた事実は,元宮内庁長官・富田朝彦(1920-2003年)の遺品「富田メモ」のなかに,具体的に描写されていた。この富田メモの存在については,2006年7月20日の『日本経済新聞』朝刊が,経済紙としては珍しく1面冒頭記事として報道していた。
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※-2 さて昨日のことだったが『日本経済新聞』2024年10月17日夕刊3面につぎの記事が出ていた。目立たないように報道されていたこの記事であった
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いままでにおいて常用された理屈・逃げ口上であって
東アジア諸国にいわせれば全然通用していない
※-3 『NHK NEWS WEB』2024年10月17日 17時58分,https://www3.nhk.or.jp/news/html/20241017/k10014611581000.html が見出しを「石破首相 靖国神社の秋の例大祭にあわせて『真榊』奉納」と付けて報道したニュース本文を,以下に紹介する
〔2024年10月〕17日から始まった靖国神社の秋の例大祭にあわせて,石破総理大臣は「真榊」と呼ばれる鉢植えの供え物を奉納しました。東京九段の靖国神社では17日から3日間,秋の例大祭が開かれます。
これにあわせて石破総理大臣は「内閣総理大臣 石破 茂」と記した木札が添えられた「真榊」と呼ばれる鉢植えの供え物を奉納しました。
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関係者によりますと,石破総理大臣は就任前に「真榊」を奉納したことはなく,今回は岸田〔文雄〕前総理大臣や菅〔義偉〕元総理大臣らの対応を踏襲したということです。
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死神神社に真榊を奉納するという信仰告白と
キリスト教徒として洗礼を受けている信仰履歴とは完全に矛盾する
石破総理大臣は例大祭の期間中,参拝をおこなう予定はないということです。また,福岡厚生労働大臣も「真榊」を奉納しました。
◆ 青木官房副長官「首相は私人の立場で奉納と理解」◆
青木官房副長官は記者会見で「石破総理大臣は私人の立場で『真榊』を奉納したものと理解しており,政府として見解を申し上げる事柄ではない。また,秋の例大祭にさいし靖国神社に参拝するか否かは石破総理大臣が適切に判断することだ」と述べました。
★ 中国外務省「歴史問題で言動を慎むよう求める」★
石破総理大臣が靖国神社に「真榊」を奉納したことについて中国外務省の毛寧報道官は17日の記者会見で「靖国神社は,日本の軍国主義が起こした侵略戦争の精神的なシンボルだ」などとしたうえで,「日本側は,侵略の歴史を直視して反省するとともに,靖国神社などの歴史問題で言動を慎み,軍国主義と決別して平和発展の道を堅持するよう求める」と述べました。
補注)日本国内側では「靖国神社は,日本の軍国主義が起こした侵略戦争の精神的なシンボルだ」という以上に,この元国営神社の位置づけ,歴史的な評価を堅守したい人びとが大勢いることは,事実そのものであった。
したがって,石破 茂にせよ,誰にせよ首相の立場にある日本の政治家がいま紹介している中国や韓国からの批判を,わざわざ惹起・誘引させることは,それこそ「火を見るより明らか」であって,
いってみればそのたびにあえて「外交問題に〈火に油を注ぐ〉ような行為」を,それも日本の首相が繰り返す行為は,ある意味愚の骨頂でなければ,明治謹製の古代史的な靖国信仰を後生大事に護っているゆえ,どうにも合理的に説明できない行為になっていた。
というより実は,あくまでも「死神になって合祀されている〈英霊〉」に「清き1票」があるわけでもないから,むしろ現実的な期待としては,いま生きている日本人有権者のその1票1票がほしいがために,靖国神社に出向いて,あるいはそれと実質同じ意味を有する真榊奉納といった方法を代替に使うかたちで神道式の宗教行為をおこなっておき,今回予定されている衆議院の解散総選挙での御利益を期待している,という案配になっていた。
しかし,神道式のそうした御利益期待とキリスト教の基本的な宗教精神として「期待される信仰心」は,まったく別物であった。この事実は,敗戦前の旧大日本帝国時代に「国家側がキリスト教徒たちに対してくわえた宗教弾圧の歴史的な記録」に刻まれてきた諸相からも理解できる。
石破 茂の母方の祖父は内村鑑三の弟子であったがゆえ,茂はキリスト教徒として洗礼を受けていたはずだが,靖国神社に真榊を奉納するという神道式の宗教行為がキリスト教の基本精神と合致しうるなどと答えてくれる研究者は1人としているはずがない。
話を戻そう。その御利益の関係に部分的には類似した話題ならが,たとえばさらに,例のブルーリボンバッチの件があった。つぎは『産経新聞』のウェブ版記事が,面白いが,これなりに稚拙な報道をしていたので,これも紹介しておく。石破 茂首相がらみの報道を参照しての話題である。
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「北朝鮮による日本人拉致問題」
その象徴に利用されてきたブルーリボンバッチ
上の石破の画像にはこのバッチが着いているが
もしかする拉致問題に関心をもつ人たちで
このバッチを着用しないと「非国民」?
〔記事に戻る ↓ 〕
▲ 韓国外務省「深い失望と遺憾の意」▲
石破総理大臣が靖国神社に「真榊」と呼ばれる鉢植えの供え物を奉納したことなどを受けて,韓国外務省は17日,報道官の論評を発表しました。
このなかでは,「過去の侵略戦争を美化し,戦争犯罪者を合祀した靖国神社に日本の責任ある指導者たちが再び供え物を奉納したり,参拝を繰り返したりしたことに深い失望と遺憾の意を表する」としています。
そして,「日本の新内閣の責任ある人たちが歴史を直視し,過去の歴史に対する謙虚な省察と真の反省を行動で示すことを促す。それは未来志向的な韓日関係を築くための重要な土台だ」としています。
また,韓国外務省は定例会見で,17日午前,ソウルでおこなわれた日韓の外務次官協議のなかで,韓国側から同様の内容の言及があったことを明らかにしました。(引用終わり)
以上の日本と韓国や中国との恒例行事みたいな「靖国問題をめぐる応酬」は,いつも日本側が燃料を供給(投下)する立場になっていた。
※-4「靖国神社の例大祭で奉納される真榊(まさかき)とは何? どんな意味があるの?」『Niche Station ニッチステーション』 http://nichestation.net/457/ ,2016年4月21日,更新 2019年7月10日
東京・靖国神社でおこなわれる春季例大祭および秋季例大祭に合わせて内閣総理大臣が真榊(まさかき)を奉納した,というニュースをよく耳にします。
その靖国神社に奉納される供え物「真榊」とは,いったいなにか,しっていますか? そして,真榊を奉納することにどのような意味があるのでしょうか?
ニュースでしばしば登場する「内閣総理大臣の真榊奉納」ですが,いまいち意味を理解していなかったので調べてみました。
〔この記述の目次はこうなっていた〕
a) 靖国神社に奉納される真榊とは,一体なんでしょう
b) 靖国神社の例大祭とは?
c) そして真榊を奉納する意味は-まとめ-
a) 靖国神社に奉納される真榊とは,一体なんでしょう
真榊は正式にはサカキという植物で,神棚や祭壇に供えられる植物です。
ただ,サカキは温暖な地域で生育するため,関東以北では類似種の「ヒサカキ(非榊)」がサカキの代用として用いられています。
その「ヒサカキ」と区別するために,通常のサカキのことを「真榊(マサカキ)」と呼んでいます。サカキは,日本では古くから神事で用いられているので,そこから国字としての「榊(木偏に神)」という字が生まれました。
神事で用いられているといっても,それほど特別なものではなく,田舎では庭先によく植えられています。また,楽天市場では安いものでは3000円〜4000円ほどで購入できます。
総理大臣が奉納しているもので5万円ほどの真榊だそうです。〔前掲されていた画像を参照してほしいが,ここでさらに,引用中の記事のなかにたまたま出ていた安倍晋三君の場合の,その画像も掲出しておく〕
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公的な意味をもたせるならば
これは政教分離の原則に抵触する
このあたりの問題を宗教(学)的にかつ政治行動の問題として
きびしく問わない日本の政治社会のありようそのものに
そもそもからする「幼稚な次元での検討課題」が伏在している
b) 靖国神社の例大祭とは? そして真榊を奉納する意味は
例大祭靖国神社では例大祭は春季例大祭(毎年4月21日〜23日)と秋季例大祭(毎年10月17日〜20日)の2回おこなわれます。
では,例大祭とはいったい,なんでしょう。
例大祭とは靖国神社独自のものでなくて,一般的に「その神社で定められた日におこなわれるもっともも重要な祭祀」のことをいいます。
靖国神社の例大祭は,天皇陛下のお使いである勅使が,天皇陛下からの供え物を届けるほどの重要な祭祀であるがうえ,本来ならば内閣総理大臣は参拝すべきという意見も多くありますが,中国や韓国への配慮から,参拝の変わりに真榊を奉納,ということになっています。
c) そして真榊を奉納する意味は-まとめ-
靖国神社では真榊を奉納できるのは,春季例大祭と秋季例大祭のみと限られています。よって,靖国神社へ真榊を奉納することは,一般的なお供えと比較しても重要な意味があるというわけです。(引用終わり)
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「選挙になったら必らず当選させてね」という本心の反映
戦争犠牲者の英霊が祀られていると信じられている祭壇に向かい
多くの議員たちがこのようにゾロゾロ参集して……
つぎにかかげる画像は,戦前のものなので色彩は白黒であった。将兵たち(その他大勢)は,本殿にまで通されることなどはなく,このように拝殿の前に整列して参拝の行為をさせられた。
ここで問題,「生きて帰れた」ほうがいいか,それとも「戦死してこの神社の英霊になれた」ほうがいいか?
この答えは当人たちに聞くのではなく,「彼らのおかあさん,おとうさんに」その答えを聞くべきものであった。そのさいはまた「タテマエ」ではなく,「ホンネ」のそれを聞きださないといけない。そしてまた,この答えには,100点満でなければゼロ点しかありえなかった。
![](https://assets.st-note.com/img/1729210917-Sj3aDsQlpuWJnmvPLUC2YrkO.jpg?width=1200)
兵卒たちは十把一絡げに拝殿前の敷地に並べられ参拝させられた
現在の自衛隊3軍のなかにもこのように靖国神社を利用しろ
それもとくに隊員が戦争で死んだ場合に備えて
と本気でいい出している連中がいる
靖国神社には死霊だけが溜まっているが
その死骨が収納されている千鳥ケ淵戦没者墓苑の存在は目にはないらしい
靖国参拝を本殿まで入っておこなう場合だと,これが報道機関でニュースになると,上のような画像となって紹介される。ただし,本殿までは絶対に画像になって紹介されることはない。いってみれば神秘性・聖徳性を保持し,深化・神聖化させるためには,そうした秘儀的な操作がぜひとも必要になっていた。
つぎは靖国神社の案内地図である。ここでは「本殿」と「拝殿」の位置関係にのみ注意を向けてほしい。
![](https://assets.st-note.com/img/1729211708-FC6wlIXVJivcghm2B3uM1jWU.jpg?width=1200)
※-5 石破 茂は神道教徒なのかそれともキリスト教徒なのか? 日本人・日本民族はその双方でありえてもいい,などと応えるなかれ
石破 茂は今回,衆議院の解散総選挙を意識していたとも思われるが,庶民感覚にも訴えるつもりで,靖国神社に実際に参拝したも同然の「神道という宗教」に対面したとなれば,根源的な問題が生じる。
明治以来,内村鑑三の無教会派キリスト教徒が一定数,日本社会のなかには存在してきた。その流れのなかで石破はクリスチャンになっていた。ともかく,旧大日本帝国時代からの国家神道の代表的機関のひとつである靖国神社に参拝するための《代替の行為》としてだったが,今回ともかく石破は,真榊を奉納することにした。
当人の意図がどうあれ,キリスト教徒が護るべきキリスト教の教理に照らしていえば,その神道的な宗教上の行為は,背教を意味する。日本のキリスト教徒がとくに戦争の時代,つまり1945年8月以前において,どのように過酷な弾圧をこうむってきたか,われわれがしりたいと思えば,その「歴史の事実」を記録した文献はいくらでもある。わずかな人数であったが死者(その犠牲者)も出していた。
1869年に「靖国神社」が創建されていた。実質,国家神道のために必要なひとつの神社として,新しく創造されたのがこの神社であった。それも「人間の死の局面」に対面したとき悪用するための,したがって,明治以前の「従来型の神道宗教」からは完全に逸脱した,いわば畸型そのものとしか把握できない神社が創りあげられた。しかも,国教そのものにまで格上げされる宗教機関となっていた。
とりわけ大正後期からは,国民(臣民)たちに対して対面させた国家神道は,実は宗教としてみなされるのではなく,ただ「オマエたちが守護すべき誠心」としての「道徳・倫理」を説くにすぎないものだ,と思いこませるような「天皇教の教え」が,日本社会のすみずみまで普及させられていった。
端的にいえば国家神道としての靖国信仰は,かなり異端の存在であった。一般的には緩い「信仰信条の縛り」しかない,つまり「宗教である」にもかかわらず「道徳や倫理なのだ」と,神道という宗教を勝手にいいかえて(換骨奪胎させて),しかも天皇崇拝=「生き神様信仰」を疑似的に教化してきたのが,とくに明治憲法施行以来における日本政治社会の一大特徴になっていた。
ここまで書いたところで,本ブログ筆者も観察しえたことがある出来事に触れてみたい。筆者の本に対して,ある人がアマゾンのブックレビューに寄稿していた。ところが,その後あまり時間が経過していなかったころ,いつのまにかそれが削除されていたのに気づいた。
ということがあったのだが,これに似た断わりが添えられていた,つぎのごとき,しかも本日における以上の記述内容に直接関係した,このブログサイト『note』の「ほかの書き手」が,ある本に対するブックレビューを投稿したなかで,つぎのような関連する意見を表明していた。
大塚英志のこの本は,本ブログ筆者も発行・販売されたところで,すぐに調達し読んでいた。大塚久雄は,その「気持ち悪い日本人たち」の1人として,最近首相になった石破 茂も外していないと察するほかないのか。
![](https://assets.st-note.com/img/1729213848-MfxdviqsKCPLNknU37mYoTQF.jpg?width=1200)
その「主体」性が問われている
おそらく自分の関心が及ぶところではなかったかもしれないが
他者から疑問は疑問として提示しておこう
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【参考記事】
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