小熊英二の戦後日本政治社会論をめぐり,戦争と平和の問題をあらためて考えてみる(前編)
※-1 事前の断わり
この記述は,日本の社会学者で慶應義塾大学教授の小熊英二が,これまで公表してきた多くの論著のうちからとくに,戦後において日本の政治社会が経てきて足跡をめぐり,それもとくに戦争と平和の問題に注目した議論に注目しつつ,本ブログ筆者なりに関心を抱いた論点をとりあげ議論した一文である。
現状における国際政治は,民主主義を国家原理の基本におこうとする西欧に多くみられる国々と,これに対して,そのほかにも多く存在する強権・専制主義を国家運営の主軸に置こうとするこれまたけっこうな数みられる国々とが,ほぼ並立している状況にある。
2022年2月24日,その強権・専制主義の典型である「プーチンのロシア」が,なにを勘違いしたか,戦車や装甲車を連ねてウクライナに侵攻していけば,この隣国の人びとが喜んで迎えに出てくれ,しかも大歓迎されるのだと,しかし,自軍の兵士たちをなんとなく「騙って」派兵していた。
その結果がどうなっていたかといえば,2023年10月29日の現在になっても,ウクライナとロシアとの戦争状態はなお続行中である。いつになったら戦闘停止になりうるのか,専門家たちのあいだでも,まだ適切に見当をつけられないでいる。
この「宇・露」間の戦争が続いているうちに,この10月になるとイスラエルに対して「ガザ地域」からハマス勢力がイスラエルに無差別攻撃をしだし,こんどはイスラエル軍がガザ地域に対して総反撃をくわえようとする情勢になっている。
下手をすると一触即発で第3次大戦を勃発させかねない世界情勢の激動を踏まえていえば,敗戦を前後してこの日本は,旧大日本帝国の時代を「戦争の時期」,日本国の時代を「平和の時期」と区分してきた。だが,実際には在日米軍基地を存在を自国領土内に許してきたかぎり,1945年以降の世界政治のなかで数々発生してきた「アメリカ関与の紛争・戦争」に関心を向けていえば,日本はその米軍への最大限の助力をおこなってきた。
したがって,この日本が敗戦後は「平和な国」になれたのであり,そのために日本国憲法を創ったと思われているけれども,これは幻想に過ぎなかった。1950年6月に突発した朝鮮戦争,1964-65年から始まったアメリカとベトナムとの戦争は,まさに日本全体を軍事基地に用いて遂行されてきた戦争そのものであった。
以上のごとき前口上をしたところで,小熊英二の略歴も紹介しておくことにしたい。
小熊英二(1962年生まれ)は東京大学農学部卒業,出版社勤務後,慶應義塾大学総合政策学部教授,歴史社会学・相関社会科学の専攻である。 ナショナリズムと民主主義を中心とした歴史社会学が専門であり,確固たる問題提起と膨大な文献にあたる緻密な論証で高評価をえてきた。
著書に『単一民族神話の起源』新曜社,1995年,『生きて帰ってきた男』岩波書店,2015年など多くの著作を公刊している。
なお,本ブログ筆者がこの記述を最初に書いて公表したのは2015年8月31日であって,その後,2020年9月10日に更新していた。その後しばらく未公表の状態になっていたが,本日(2023年10月29日)に再掲することにした。このさい,もちろん一定の補正や追論がなされている。
※-2「敗戦後日本の政治機構,天皇・天皇制の基本問題」など
この記述はまず,その出所は以下に説明するが,小熊英二・稿「『戦後』とは何なのか」2015年8月27日をとりあげ議論する。要点として事前につぎの2点を挙げておきたい。
要点:1 憲法第1条と第9条の共生的な関係,東京裁判史観と日米安保条約体制の根本矛盾
要点:2 天皇・天皇制の存廃について明確に言及しなかった歴史社会学者の立場
さて,2020年9月10日の『朝日新聞』朝刊13面「オピニオン」であったが,「〈インタビュー〉『有色の帝国』の呪縛 歴史社会学者・小熊英二さん」というインタビュー記事が掲載されていた。この記事を紹介しつつ議論をしてみたいと思い,本日の記述となった。
だが,それからさらに5年ほど前の2015年8月27日に,小熊英二がやはり『朝日新聞』朝刊「オピニオン」に寄稿していた文章があって,これをめぐり議論をしていた本ブログ筆者の記述が残っていた。これは現在,未公開の状態になっているが,これを復活することにいくらか意味もありそうだと思い,ここに再掲することにした。
前段の小熊英二に対する「本日のインタビュー記事」は,近日中にとりあげるつもりである。最近〔ここでは2020年中のことを指す〕,たまたまであったが,ようやく安倍晋三の悪政に終止符が打たれる状況が生まれたと思ったら,つづいてこんどは,
安倍よりももっと悪相に映る菅 義偉(現・官房長官)を「次期の首相に選ぶ」ために,自民党内で投票をおこなう日程が組まれていた。本ブログ筆者が5年前に記述したこの文章には,当時なりにこの菅 義偉をとりあげてもいた。
「〈あすを探る 思想・歴史〉小熊英二:『戦後』とは何なのか」『朝日新聞』2015年8月27日朝刊について,という文章をとりあげ議論したい。
1)「戦後」とはなんなのか-それはいったい,いつ,終わるのか-
諸外国では「戦後」とはおおむね,終戦から10年前後を指す。そもそも多くの戦争を戦った国の場合,「戦後」はいくつも存在する。しかし日本では「戦後」は70〔75?(78??)〕年も続いている。それでは,日本にとっての「戦後」とはなんなのか。
補注)明治以来の日本においても,その種の「戦後」はなんども反復されていた。ただし,敗戦ではなくて,おおよそは勝ち戦を経てから迎えることができた「戦後」であった。
日清戦争(1894年8月~1895年4月)が終わってから日露戦争(1904年2月~1905年9月)が始まるまでの期間は,約10年であった。さらに第1次大戦が1914年7月に始まっていた。
それぞれの期間を「戦後」だとひとくくりにまとめていいのか? むしろ,いまから回顧すると,つぎに来たる戦争のためのそれぞれ「戦前」の時期であったかのようにも映る「それぞれの時間の長さ」ではなかったか。
小熊英二が指摘するように,それらに比較すれば,大日本帝国の「敗戦後してからの時代」は70〔75⇒78〕年も経過してきた。これはずいぶん長い時間である。その間,日本の位置するアジア諸国においてだけでも,たびたび大きな戦争が勃発していた。
日本も米軍・米軍基地を介して直接・間接に重大な関与をしてきた。とくに朝鮮戦争がそうであったし,ベトナム戦争もしかりであった。近くでは湾岸戦争があり,イラク戦争もあった。
これらの諸戦争に対して日本国が深い関与をしていなかったなどというふうに「歴史を理解」することは,土台からして完全に間違っている。
それらの戦争を契機に自衛隊が誕生させられ,それなりに成長してきた。のちには,この自衛隊も戦地に派遣されるに至っていた。そのなかで考案されて使用した戦争事態に関する概念が,たとえば「非戦闘地域」であった。だが,この概念は戦争をしている「当事国内」においては,実質的に意味のない規定であった。
というのは,後方支援という戦争概念が「切れ目なく」「戦闘地域」とつながっているかぎり,「非・戦闘地域」などといった造語は,形容矛盾を覚悟しないかぎり無意味だからである。
〔本文記述に戻る→〕 さて,2015年以前の話題になるが安倍晋三政権は,すでに集団的自衛権行使を容認する「安保関連(戦争)法案」を,2014年7月1日に閣議決定していて,その後,参議院まで送りこんで審議させる段階にまでなっていた。
〔当時の〕菅 義偉官房長官は,この戦争のためでしかない法案に関して,「戦争」という形容を付けて表現する点を「誤解」だと反発していた。政治家として「正常で・まともな〈戦争概念〉」を,当たりまえにもちあわせない人間が,政府・内閣側の〈要の職位〉に就いていながら,その種の発言を放ったとなれば,その意味では「ある種の知的堕落としての脅威」を意味した。
もっとも菅 義偉は,法政大学の法学部政治学科で学んでいたらしく,また官房長官として使えていた安倍晋三も,成蹊大学で同じく法学部政治学科を卒業したらしいが,ともかくその後における政治家としての知的鍛錬に相当の疑問があったらしくも感じる。
日本には「言霊思想」という素朴で,原始宗教的な,その心理次元においてだが,「概念化の効用」を期待する「社会的な雰囲気」が,なんとなくでも実際に存在する。人が駆使する言葉にしたがい,現実のほうが意味を変えてくれるかのように単純に思いこむといった,自己・主観中心志向のシャーマニズムの精神心理が,政治思想の根柢にも浸透している。
だが,いまどきにそのような原始時代:古代史的な信心の感情によってのみ,現実に展開していく政治社会に対する「解釈面の変更」が期待しうるかのように夢想するのは,政治を魔術ととりちがえた錯覚である。
しかし,そのような言霊思想的な発言が官房長官の口から本気で,繰りかえし飛び出てきている。もちろん,この官房長官が言霊思想を本気で信じているかどうかは別問題として,以上のような詮索をする議論が日本の政治を考えるためには有用である。
〔ここからは小熊英二の記事本文に戻る→〕 私の意見では,日本の「戦後」とは,単なる時期区分ではない。それは「建国」を指す言葉である。日本国は大日本帝国が滅亡したあと,「戦後」に建国された国である。
もちろん,日本国の構成員が,一夜にして変わったわけではない。しかしそれは,1789年にフランス共和国が建国され,1776年にアメリカ合衆国が建国されたのと同様に,「戦後」に建国された国である。
補注)アメリカは完全に共和国である。そのアメリカが日本に戦勝したさい憲法まで「押しつけた」のだが,占領方針に関する基本要領の肝心な決め方:措置のひとつとして,日本の皇室(王制)を消滅させずに残存しておいた。爾来,戦後日本の政治体制は「民主化」政策の実行を強要されたとはいえ,「進駐軍」がする「占領化」政策としては明確に〈特定の制約〉が残されていた。
その事実は,占領下における民主化政策の展開を,「状況」合理的に措置するために「天皇・天皇制(天皇制度という封建遺制)」を廃止せず,いいかえれば,占領を効果的・能率的に実施するためにそのまま残置・活用したのである。
敗戦後の日本においては,占領軍に指令された数々の民主化政策から除外されたものがあった。華族制度は廃止され,皇族の範囲も大幅に芟除された。けれども,皇室の一族のみは利用価値ありとみなされ,その残存を許された。(補注終わり)
※-3 豊下楢彦『昭和天皇の戦後日本- “憲法・安保体制” にいたる道-』2015年7月
敗戦後,昭和20年代における昭和天皇はみずから,涙ぐましいまでの「天皇家サバイバル戦術」に従事・邁進していた。この彼の個人的な行為をめぐっては,豊下楢彦『昭和天皇の戦後日本- “憲法・安保体制” にいたる道-』(岩波書店,2015年7月)が,豊下が公表してきた研究成果に『昭和天皇実録』を重ねるかたちで吟味していた。
豊下楢彦の『昭和天皇の戦後日本- “憲法・安保体制” にいたる道-』の目次を,以下に紹介しておく。
この豊下楢彦『昭和天皇の戦後日本- “憲法・安保体制” にいたる道-』などが解明してきた「敗戦後史の政治過程」は,占領下における昭和天皇の画策・工作,換言すれば,アメリカ側に対する「象徴天皇の立場からおこなっていた」「裏経路を通じての皇室保全運動」となって進行していった。
それは,日本国民のためを第1に考えた彼の政治行動ではなかった。すなわち,象徴天皇の立場にいる彼が記録してきた「憲法違反そのもの」であり,個人的な利己のための行為であった。
★-1 敗戦後「建国事情」
〔ここで再び※-2,小熊英二の記事本文に戻って参照する→〕 では日本国は,どんな骨格をもって建国されたのか。いうまでもなく,日本国憲法がその骨格である。
憲法を指す英語 constitution とは,「骨格」ないし「構成」という意味である。まず前文に,こういうコンセプトで国を造る,という宣言が書かれる。そして,コンセプトを具体化するための国の設計図が,各条項として書かれている。
日本国憲法の前文は,二つのコンセプトをかかげている。国民主権と平和主義である。その前提にあるのは,戦争の惨禍のあとにこの国は建国された,という共有認識である。その意味で,日本国憲法の最重要条項は,第1条と第9条だ。
すなわち,天皇を「主権の存する国民」の統合の象徴と位置付けた第1条と,「戦力」放棄をうたった第9条が,前文にかかげられた国民主権と平和主義の国を具体化する条項である。
補注)本ブログ筆者は,憲法第1条〔から第8条まで〕と第9条の明確な対位関係,あるいは相互依存関係を強調してきた。この歴史的な事実を棚に上げたまま,第9条ばかりを口角泡を飛ばすかのように議論する立場を嗤いもした。
第1条つまり「天皇」のこの条項は,第9条の「戦争の放棄と戦力及び交戦権の否認」のその条項と抱きあわせで,ほかの表現をとれば〈シャムの双生児〉として誕生させられていた。朝鮮戦争を契機に自衛隊3軍がその日本国の戦力として,もちろんこの戦力を使い交戦できる軍隊として登場していた。
その初め:とっかかりは,1950〔昭和25〕年8月10日,GHQのポツダム政令のひとつである「警察予備隊令」(昭和25年政令第260号)によって,警察予備隊(National Police Reserve)が設置されたことである。
出所)警察予備隊員募集のポスターで,右下には「国家地方警察本部」と印刷されている。1950年8月13日(なおこの日は日曜日だったので11日あるいは12日か?)から9月15日(金)まで募集。
註記)http://www.asagumo-news.com/homepage/htdocs/photo_sample/1950_sample.html この住所(アドレス)は,自衛隊の活動、安全保障問題全般を伝える 安保・防衛問題の専門紙『朝雲』内のひとつであった。
1950年6月25日に朝鮮戦争が勃発した。この緊急事態に応じて在日米軍が動員された。このために日本本土における軍事力は,すっかりカラッポの状態となった。
その事態を補完するための兵力配備として,それも占領軍に日本国が命令される関係でもって問答無用的に編制されたのが,しかもそれを単純に理解すればまったく憲法違反であるほかなかった「日本の,日本人による,在日米軍補完のための軍隊組織」であった。ともかくとりあえずは警察予備隊の建軍になっていた。
★-2「砂川判決」の非国家的主体性
敗戦した大日本帝国は,明治憲法を改定(改正?)させられ,新しく日本国憲法をもつ日本に生まれかわさせられていた。しかもこちらの第9条は戦力を放棄していた。
だから,1959〔昭和34〕年12月16日の『砂川判決』(最高裁判決,最高裁長官は田中耕太郎)が,アメリカの意向をそのまま鵜呑みにし,米軍基地を「憲法第9条」の穴を埋める存在として,もともと合憲だと認めざるをえなかったのは,第1条の存在である昭和天皇にとっても十分に納得(満足)のいく判断であった。
その最高裁の判決は「統治行為論」を適用していた。それはこう判断していた。「国家統治の基本に関する高度な政治性」を有する国家の行為は,法律上の争訟として裁判所による法律判断が可能であっても,これゆえに司法審査の対象から除外すべきとする理論である。
この「統治行為論」は,裁判所が法令個々の違憲審査を回避するための法技術として説明されることが多く,理論上は必ずしも憲法問題を含むもののみを対象にするわけではない。
しかし,『砂川判決』に適用された「統治行為論」は,日本国の基本利害の観点からではなく,対米従属路線のためにもちだされ適用されていた。当時日本の最高裁長官がアメリカの要請にしたがい判断したその判決の意味が,いかなる「非国民的・売国的な政治価値」を有したいたかといえば,議論=贅言を俟たないくらい明々白々であった。
その最高裁長官であった田中耕太郎は,すでに独立していた日本国の司法界を,どれほどまでアメリカに従属させていたかといえば,まさに属国にふさわしい地位関係を明証していた。
ここではあらためて指摘しておく。前出の豊下楢彦『昭和天皇の戦後日本- “憲法・安保体制” にいたる道-』における主要論点のひとつとして,昭和天皇がみずから「在日米軍による占領体制的な継続駐留」を強く希望した事実が記録されていた。
この種の天皇の発言の主旨はなんどにもわたって,アメリカ側に秘密裏に伝達されていた。この「歴史の事実(経緯=裏事情)」が日本側の政治学者たちの研究によって確実に判明していったのは,敗戦後半世紀も時間が経過してからであった。
★-3 憲法問題-第9条という論点-
ここで念のため,日本国憲法の第2章「戦争の放棄」〔戦争の放棄と戦力及び交戦権の否認〕を,後段に書き出しておく。
この憲法の第1条に座していた象徴天皇裕仁が,なにゆえ,前段までに言及してきたごとく,昭和20年代において「政治的な行為(裏側の顔:経路を使っていたそれ)」を盛んにおこなってきたのか,これについては深い疑念をもって吟味する必要がある。
同時にまた昭和20年代は,昭和天皇が日本全国を「巡幸」していた時期でもあった。この「歴史の事実」も合わせて考慮に入れ,前段に示唆した問題に接する必要がある。こちらは当時における「彼が表側の顔としてみせていた政治的な行為」であった。
第1条「天皇」は第9条「戦力の放棄」との組みあわせ〔合わせ鏡の関係〕にあって,後者の補填は在日米軍が担当していた。たまたま朝鮮戦争という隣国での動乱(内乱)が起きてしまい,これに対しては,日本を占領・統治するために派遣・配置されている在日米軍が,まず国連軍の主力として動員されていた。
その直後,その穴埋めのための部隊として早速創設されたのが,日本国民をもって編制した「警察予備隊(1950年8月10日)」であった。これは「保安隊」(1952年10月15日に警察予備)から「自衛隊」(1954年7月1日)」へと解消的な発展を遂げていった。
天皇・天皇制(天皇制度)を,敗戦した大日本帝国に残置させて利用することにしたGHQ(アメリカ)は,戦力をもたない近代国家などありえないことは百も承知であった。ただし,日本には軍隊をもたせない代わり,「在日米軍基地」がその役割を果たすことになっていた。敗戦後における日本国の政治は,そうした二重支配構造を形成していた。
しかして,その一重目の構造面は,日本国じたいとしての政治支配構造そのものであった。また,その二重目は,在日米軍基地によって日本国が実質的に政治支配されている構造面であった。
この二重構造的な日本政治のあいだに,いわば「うまくはさみこまれていた」のが,天皇・天皇制であった。こちらはこちらなりに,「日本国民を占領軍がうまく治める」ための政治機構として,間接的に活用される「歴史的な役目」を発揮してきた。
そうした二重支配構造体的な枠組のなかにおいてこそ,日本国憲法第1条「天皇」と第9条「戦力放棄=米軍基地」との相互関係性が,歴史的有意義性を高揚しうる磁場を確保できていた。
※-4 日本国憲法の根本矛盾
いずれにせよ,朝鮮戦争以後,自衛隊が登場してきた事実は,日本国憲法に矛盾をはらませる基本要因となるほかなかったった。それゆえ,自衛隊3軍は,正真正銘の軍隊でありながらも「軍事力:兵力でないかのような擬態」を,いつも演じる暴力装置であるほかない体裁を強制されてきた。しかもその軍隊としての体裁(=仮態)は,日本国憲法のもとで68年間も維持され,その〈根幹での矛盾〉を体現・表出させつづけてきたわけである。
大日本帝国憲法の改定になる日本国憲法が天皇・天皇制を廃絶できなかったがゆえに,ある意味でいえば,必然的に誘引させていたのが,この新憲法のなかにしこまれた〈特有の矛盾〉であったということができる。
日本の憲法改正にさいして守るべき「3原則(マッカーサー・ノート)」が,憲法草案起草の責任者コートニー・ホイットニー民政局長に示されていた。
以下の3項目のうち,a) と c) とは完全に矛盾する(太字にした文言に注目したい)。アメリカが敗戦した日本に「押しつけた憲法」の民主化「度」は,その点では少しも基本的な矛盾を除去しえないまま,「占領政策」の要請に即応するだけに留まっていた。
安倍晋三政権が2012年12月に成立してから,集団的自衛権行使容認を閣議決定(2014年7月1日)したうえで,いよいよ「安保関連(戦争)法案」を国会(参議院)でも成立させれば,憲法第9条は完全に名実ともに「抜け殻」化する(その後,そうなっていた)。
第9条がそのように空洞化を遂げたときには,これとは合体的な関連性をもって存在しえていた第1条も「空位化されるか,廃位化される」かしなければ,憲法体系の全体的な均衡関係がとれず,文字どおりにますます「矛盾そのもの」であるほかなくなる。
つまり,天皇は天皇であることを止めねばならず,第1条の必要性も消滅する。したがってむろん,第9条もなくなる。これですっきりと,日本国憲法内の条項同士間における基本的な矛盾の関係性が消滅する。
しかしながらそのときは,この憲法じたいが完全にその基本的性格を喪失あるいは破壊される事態を意味する。それゆえ,憲法の全面改定があらためて要求される状況になる。
ところが,安倍晋三政権(当時の)が過去2年以上に記録してきた為政は,日本国憲法を解釈によって変質させるばかりであって,憲法「改正」をしたかったはずの当初の意向に反して,小手先の「憲法解釈いじり」をしてきただけであった。
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【断わり】
「本稿(前編)」の記述はここまでとしておき,明日以降に後編を公表する予定である。できしだい,ここ( ↓ )にその住所を指示する。
⇒ https://note.com/brainy_turntable/n/na7e7ec69c0ca
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