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皇室神道は「私家が信教する宗教」

 ※-1 本日の話題は「皇室神道などと日本社会」

 この記述では,皇室神道は「私家が信教する宗教」であり,国民全体が信教する国家的な神道ではないし,ましてや,天皇家の神道が「日本国住民の宗教」ではありえない,というごく当たりまえの理解をいくらか語ってみたい。

 付記)冒頭の画像は「皇居内の宮中三殿見取り図」の一部分である。後段にその出所が記載されている。

 以下の記述についての問題意識は,つぎの2点に整理できる。

 ◆-1 天皇家の明治以来の自家製宗教を国民・市民・庶民に半強制していながら,なんら疑問を抱かない新聞報道などの〈奇々怪々ぶり〉

 ◆-2 皇室神道に関しては「祭・政・教〈分離の原則〉」は存在しないこの国だが,自民党政治の実態は国家神道にかぎりなく近づきたい欲望を隠さない

問題意識:2点

 さらに,前もって参考にまで,つぎの諸表をかかげておく。以下のこの3表は,2015年ころを基準に挙げられていた国会議員の姓名である。すでに物故者となった中曽根康弘や安倍晋三,石原慎太郎も出ていた。

神道系「政治段階」所属状況-2015年調査-
日本会議国会議員懇談会関与議員-2014年ころ-
国家神道系の神道関連組織


 

 ※-2 高円宮次女「典子」が結婚することの「時代的な意味」

 いまから10年近く前,2014年10月3日のニュースとして,社会面〔の見開きでみられる社会2面のうち,右側紙面の下部分に,この記事が配置されるかたちで〕に,つぎの報道がなされていた。

 さきに,ユーチューブ動画サイトからテレビ朝日が報道したニュースを参考にまで出しておきたい。


 1)『朝日新聞』2014年10月3日の報道(社会36面)

    ☆『典子さまが「朝見の儀」 両陛下に感謝の言葉』☆

 高円宮家の次女典子さま(26歳)と出雲大社の神職千家国麿(ぜんげ・くにまろ)さん(41歳)の結婚式を5日に控え,典子さまから天皇,皇后両陛下に感謝の言葉を伝える「朝見(ちょうけん)の儀」が2日,皇居・宮殿「松の間」でおこなわれた。

 典子さまは,「ローブ・デコルテ」と呼ばれるロングドレスに,ティアラ(宝冠),勲章を身に着けた女性皇族の正装で儀式に臨んだ。「今日まで,長い間,深いご慈愛をもってお導きくださいましたことを謹んで御礼申し上げます」と述べると深々とお辞儀した。

 両陛下と典子さまの前には,伝統的なお祝い料理が並んだ朱塗りのテーブルが置かれ,天皇陛下は「このたびはおめでとう。今後とも二人で愛を育み,よい家庭を築いていくよう願っています」と門出を祝った。皇后さまも「むつまじい家庭を築き,共によき社会人として過ごしていかれますように」と語りかけた。

 典子さまを乗せた車は,宮内庁と皇宮警察本部の職員約600人に拍手で見送られ,ゆっくりと皇居を後にした。 つぎにかかげる号外の画像資料は,この男女の婚約が成立した当日,このニュースを号外にした『読売新聞』のものある。

高円宮典子・婚約号外

 2)『日本経済新聞』2014年10月3日の報道(社会34面)

          ☆『典子さま,朝見の儀』 ☆

 出雲大社の神職,千家国麿さん(41歳)との結婚で皇室を離れる高円宮家の次女,典子さま(26歳)が天皇,皇后両陛下に感謝の気持を伝えられる「朝見の儀」が2日午後,皇居・宮殿でおこなわれた。

 典子さまは淡いピンクのロングドレスに勲章,ティアラを着けた正装で臨み,両陛下の前で「今日まで長い間,深いご慈愛をもってお導きくださいましたことを謹んで御礼申し上げます」と述べられた。

 天皇陛下は「今後とも二人で愛を育み,良い家庭を築いていくよう願っています」,皇后さまは「お二人の健康と幾久しいお幸せを祈ります」と門出を祝福された。

 補注)なお,『朝日新聞』が記事にかかげていた写真に比較して判るのは,『日本経済新聞』が出した写では,典子が90度腰を折り曲げて天皇夫婦にお辞儀をしていた。この両紙がかかげていた写真は対照的だと感じるくらい差があった。

 3)『NHK NEWSWEB』の報道-『典子さま 結婚式を前に宮中三殿に拝礼』の解説,ニュース詳細-

 高円宮家の次女の典子さまが,今月〔2014年10月〕5日の結婚式を前に,皇室の祖先などを祭る皇居の宮中三殿に拝礼されました。

 典子さまは2日午前9時半すぎ,お住まいのある赤坂御用地を出発されました。

 皇族の結婚に伴う重要な儀式として,車列には皇宮警察のサイドカーも加わり,典子さまは乾門から皇居に入られました。

 そして午前10時に,母親の高円宮妃の久子さまや妹の絢子さまなど6人の皇族方が参列するなか,宮中三殿に皇族として最後となるお参りをされました。

 「小袿(こうちぎ)」に「長袴」という平安朝ゆかりの装束に「おすべらかし」と呼ばれる髪型の典子さまは,扇を手に,まず宮中三殿の中央にある賢所に向かわれました。

 そして賢所の正面に座り,一礼してから中に入って拝礼されました。

 続いて,皇室の祖先を祭る皇霊殿,さらに国内の神々を祭っている神殿にそれぞれ拝礼されました。

 午後からは,典子さまが天皇皇后両陛下にお別れのあいさつをされる「朝見の儀」が,皇居宮殿の「松の間」でおこなわれます。

 註記)http://www3.nhk.or.jp/news/html/20141002/k10015056053000.html なお,このリンク先・住所は現在(2024年2月24日)削除されており,参照不可。

 

 ※-3 皇族が結婚するということの関連事情など

 以上までの報道に関してでも実は,ぜひとも気づいておきたいことがらがあった。まず「敬語の使用」についてである。

 ※-2で,1)『朝日新聞』の記事は〈敬語なし〉で伝え,2)『日本経済新聞』は「3段落の文章のうち2カ所」で敬語を使っていた。途中で典子が態度で示したお辞儀の動作に関した指摘もさることながら,メディア・マスコミ側そのものが,皇室・皇族関係の人びとに関係する報道となると,いちじるしく「尊貴に満ちた敬意」を高い水準を維持させている事実は,なにも典子の件だけではない。

 そもそも,本ブログのようにニュースの対象となった皇族の1人として「典子」と記述することに関してすら,拒否反応を抱く人たちがいないとはかぎらない。もっとも,そういった種類の感情を抱く人たちであっても,ロシアのプーチンに対しても必らず「大統領(閣下)」と呼ぶことは,不必要だと断言できそうである。

 前段の話はやや本論からズレているかもしれないが,たとえでの話の素材として,けっして脱輪しているわけではない。基本で共通する〈なにか〉が控えているゆえ……。

 前項※-2での 3) のNHKの報道「詳細ニュース」は,テレビのニュース放送においてアナウンサーが読みあげる原稿であるせいか,やたら敬語を使った文章になっている。

 かくのごとしであって,日本の社会には皇族という特別の階級(階層?)が存在しており,この一族に属する〈1人の女性〉が結婚する行事となると,マスコミはうやうやしくかつ仰々しく,しかも敬語をてんこ盛り状態にさせた報道・放送をもって,国民(市民・庶民)にしらせねばならない義務でも背負っているように映る。

 皇室・皇族関係にかかわる報道は,今回とりあげてみた〈慶事〉のみならず,なにに対してであっても,とにもかくにも「そういう種類の報道」とあいなっていた。

 どこかの超一流大企業の最高経営者,あるいはまれにみる卓越した才能を有する芸術家などに対して敬意が払われてなされる表現・描写とも,また別様にいちじるしく質的に差がある敬意が供されるのが,天皇一族に対する接し方になっている。

 ここでとくに注目すべき問題は,皇室神道,それも明治維新前後において,明治政府が徳川幕府から奪取した江戸城に,新しく近代的に創建した宮中三殿〔 →賢所(天照大神が祭神),皇霊殿(架空の神武天皇などから先代の昭和天皇までが祭神),神殿(日本中の神々すべてが祭神)〕に,典子が拝礼したと報道されている事実である。

この見取り図に描かれた宮中三殿見取り図は
明治維新以降になって東京に造営された
宮中三殿見取り図・詳細


 典子がこの宮中三殿に拝礼した行為を放送するさい,NHKが「ニュース詳細」として読みあげたこの「ニュースの原稿」は,「賢所への拝礼」のあとにつづく「皇霊殿と神殿に対する拝礼」の段落にあいだは,「あえて」なのか〈改行〉が入れてあった。

 天皇家の宗教として示される「祖先尊崇の儀式」については,明治維新以前は仏教式をもってその霊魂を祀っていた。

 ところが,明治時代になってからの変更であったのだが,その半ばの時期に,大日本帝国と名乗ることになったこの国においては,天皇家は神道式をもって,それもこの時代において新しく創作された「皇室用に創設された国家神道」に依った『祖先「神」に対する拝礼』儀式を執りおこなうに変更されていた。

 

 ※-4 関連する批判的な吟味

 1) 宮中三殿とは明治時代の新造成になる神殿

 簡潔にいえば,今回(2014年10月段階で),典子の結婚を控えて天皇家にあいさつにいった当人が拝礼したという宮中三殿は,明治以来にあらためて新規に『創られた皇室(国家)神道』のための宗教施設であった。

 宮中三殿における拝礼儀式が,「政教分離の原則」にもかかわらず,それも正々堂々と「天皇家の正式行事に関する儀式」として,国民などに向けて「当然である国家儀礼」(公式行事!?)であるかのように報道される事態は,まともに考える思考能力のある人間にとっては,きわめて異常な光景である。

 典子が天皇夫妻にあいさつするとき,前掲の記事写真に写っているような,とくに女性たちのワンピース姿という姿容は,これもまた異様である。それが,皇室の古代からつづく伝統の服装でないわけは,脱亜入欧を努力してきた明治の鹿鳴館風俗にその淵源らしきものの一端を求めうる事実からも理解できる。

 もっとも,こちらの衣装は,西欧(欧米)を必死になって一生懸命に真似る衣装であったから,そのあたりに漂う奇怪さないしは異様さ感じても,格別おかしいわけでもなんでもない。

 ここではつぎのウィキペディアに挙げられている参考用の画像があるので,とくに女性たちが着用している米欧風の「洋装」を観てほしい。

 ⇒ https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B9%BF%E9%B3%B4%E9%A4%A8

 明治時代にこうした皇族たちの,それも女性の服装を観察した西欧人たちは一様に「違和感」を述べていた。西欧の,どの時代の・どのスタイルのそれか,全然「分かりえないそれだ」というのが,その違和感を申したてる事由であった。

 もっとも,外国人がどういおうとも,自国の伝統と格式を〈独自に創る〉のだから,なにをいわれようと無視しておけばよく,気にすることはない。とはいえ,そのまねをされていた本家・本元の異国西欧から,そうした違和感を指摘されるような〈洋装〉であったこともたしかである。

 とりわけ喪服に関しては,皇室を主軸にして西欧化(はっきりいえば単なるモノまね)を図ってきた。今日の喪服(黒服)の源泉もそのあたりにある。参考文献としてここでは,風見 明『明治新政府の喪服改革』雄山閣出版,2008年を挙げておく。

 皇室の古代史からの伝統と格式に照らしてヨリ厳密にいえば,典子も今回,天皇夫婦にあいさつするさいには,古式ゆかしき・いにしえ(古)の格好で出てくるのが順当と思えた。

 ところが,そこは明治維新を契機に完全に「リニューアル」もしくは「新考案」を重ねてきた「日本帝国の皇族一家」のことであったゆえ,細部にこだわることはなく「新式≒西欧式」の洋装でお出まし,という体裁にもあいなっていた。

これは出雲大社ではなく皇居内の宮中三殿における典子の「おすべらかしの髪型」

 ただし,宮中三殿への拝礼において典子は,「平安朝ゆかりの装束」に「おすべらかし」と呼ばれる髪型で臨んでいたから,こちらでは伝統と格式をより厳格に守ろうとはしていた。

 天皇夫婦などが結婚式を挙げるときは古代「風」の服装をしていた。式後のパレード時は「洋装」であった。とっかえひっかえの要領で,和洋折衷,日本と西欧のよいとこどり,というわけであった。

 しかし,日本の皇室が「古式ゆかしきとかなんとか」いって,それもかなりわざとこだわる風があるのであれば,終始一貫して大昔の格好に執着していても,ごく当然であり自然のやり方だといえなくはない。

 もっとも,典子も結婚式のときは古代式の衣装をも身にまとうことになると予想しておく。2015年10月5日に結婚式があるので,具体的にどうなるかは,そのときを待ちたい(この点への答えはすでに出ていたので次段の補注で追論することになった)。

 2024年2月24日・補注)前段の記述に対する答えはたとえば,つぎの『産経フォット』で確認できる。

画像部分については
出雲大社⇒式場への途中⇒大社拝殿での「おすべらかし姿」

 2) 出雲大社と伊勢神宮の対比

 さて,典子の結婚相手は,出雲大社の神職千家国麿(せんげ・くにまろ)さん(41歳,当時)であった。天皇家が明治以来とくに,自家用の神社として接収したうえで「選定・固定化させてきた」のが伊勢神宮である。

 もともと,伊勢神宮と出雲大社の古代史的な因縁には奥深い事情がある。この事情については専門家の説明に任せるとしても,一言でいってしまえば,「両社」間に固有であった対立関係が歴史的に奥深く,つまり,闇のごとき風景となって控えている。

 そこで,両社の関係者間において男・女が婚姻を結ぶことになれば,そうした大昔からの「いうにいわれぬ」その種の深い因縁の間柄を,現代的な観点から宥和し,さらに国家的次元においても「統合するなんらかの意図」がこめられていたと分析できる。

 ここではこれ以上にくわしい記述はできないので,以下の関連文献を挙げておくに留める。
 
  ▼-1 千家尊統(せんげ・たかむね)『出雲大社』学生社,1968〔昭和43〕年。
  ▼-2 新谷尚紀『伊勢神宮と出雲大社-「日本」と「天皇」の誕生-』講談社,2009年。

 両書からただ1カ所ずつだけは引用しておく。 

 ◇『出雲大社』 「元来,出雲大社教が出雲大社と分離したのは明治政府の指令にもとずくものであったが,その事自体が神社の本義に照らしてすでに不合理であった」(261頁)。

  ◇『伊勢神宮と出雲大社』  「……『神宮』とあるのは,天皇の宮殿に等しい神の宮殿の意味であり,伊勢神宮と出雲大社の両社がそこに含意されているものと考えられる」(100頁)。

 さて,明治維新は「殖産興業」「富国強兵」という国家路線に即させて,それも近代的に新しく「創られた天皇・天皇制」を構築していった。そのさい「国家宗教体制としての皇室神道」が,国家政策面より聖化させられていくべき政治的措置が,どうしても必要・不可欠になっていた。

 つまり,「伊勢神宮を出雲大社より完全に分離させておく宗教史的な措置」がほどこされたのである。そうしたうえでさらに,伊勢神宮側については格別に,国家宗教面から「独自に高い意味」が,それも格別に想像しておくかっこうをもって,付加されていた。換言すれば伊勢神宮は,非常に重要な「国家宗教性」を背負わされたとみなしてよいのである。

 そうした事情は,1945年8月までにおける大日本帝国の宗教事情を回顧するまでもなく,われわれにとっては周知に属する「日本神道史に関する一事情」であった。伊勢神宮は大日本帝国にとってみれば,国家神道における総社(具体的組織としては「神社本庁」があり,仏教でいえば本山に相当)の位置づけをもたらされたのである。

 皇居内の宮中三殿「賢所の祭壇」に祀られているのは,皇祖神である天照大神であり,その霊代である神鏡(八咫鏡:やたのかがみの複製)である。戦前・戦中の大日本帝国臣民たちは,この神様を最高神として尊崇することを道徳観としても強要されていた。

 ところで,典子が天皇夫婦に結婚するために皇居に出向いたさい着用していた服装が,古来の伝統にもとづくそれではなく西欧式のものであり,かつまた,これを迎えた天皇夫婦やこれにお付きの者たちの服装も西欧式のそれであった事実は,「明治以降の歴史的伝統」としてみなければ,この現象に表出・憑依されている〈歴史的な意味:近代史としての具現〉を,いかんせんみそこなうことになる。

 つぎに引く画像資料は,村上泰亮・公文俊平・佐藤誠三郎『文明としてのイエ社会』中央公論社,1979〔昭和54〕年からである。

米欧の圧力に対抗するためにこのような封建遺制を
たっぷり残した国家体制を構築しようとした

 この図解で示唆されるのは,この頂点に位置する天皇家にとっては,皇室神道の尊厳性を絶対的に確保しておくためには,一方で,ともかく伊勢神宮のみ重要性を認めておくことにした。他方,の出雲大社については,過去何千年の歴史・蓄積があっても,一歩退き後景のほうに引っこんでもらったという措置になっていた。

 この村上泰亮・公文俊平・佐藤誠三郎『文明としてのイエ社会』1979年が図解に表現していた「日本の家・家父長・家族主義」を主柱にした国家体制は,伊勢神宮と出雲大社との関係問題とはまた別個に,

 『生者のための「伊勢神宮」』に対する『死者のためのを「靖国問題」』という国家神道的に虚構・擬制された明治「維新」体制の包括的な臣民に対する支配の仕組は,三土修平『靖国問題の原点』日本評論社,2005年がつぎのようにさらに図解化していた。

自国社会の内的構造を上下の支配関係でしか
とらえようとしない前近代的・半封建的な明治体制は
21世紀のいまにも妥当する

つぎの図解は天皇・天皇家・天皇制が
「伊勢」神宮を介して
帝国臣民を精神的に支配・制御しようとしてきた
過去史を表わすが

現在にもそのまま応用可能な認識となる
明治維新以前は伊勢神宮など見向きもしなかった
天皇家だったはずだが
明治以降はその利用価値を創成し大いに活用する

 ところで,前段に引用した,千家尊統『出雲大社』における見解,すなわち,「明治政府の指令にもと」づき「元来,出雲大社教が出雲大社と分離した」「その事自体が神社の本義に照らしてすでに不合理であった」と批判した発言の意味は,いったいなにか?

 この批判はかなり控えめに記述されていたが,実際において,そのいわんとする中身は強烈な含意が秘められていた。

 それは,近代において古代史的にわざわざ復興させた天皇家のためには,とりあえず出雲は要らないとされてしまい,伊勢だけでもって「明治以来の皇室=国家神道」を出立させた経緯,

 いいかえれば,伊藤博文などにより設計・造形されていった「近代国家形成のもくろみ」における「核心の神道的な国家思想」,これに対するなんとも表現しがたい〈抵抗の信条〉を,含意していた。

 以上のように,今回における「出雲大社の神職:千家国麿(41歳)」と「皇族の一員〔天皇の従姉妹の子女〕である高円宮家の次女:典子(26歳)」(年齢はいずれも2015年当時)が夫婦になるという出来事を,永い歴史的な脈絡のなかに放りこんで,その歴史的な含意を意識して的確に受けとめておかねばならない。

 そのような方途で考えて,なにも不思議なことはなく,むしろ意図してでも汲みとらねばならない〈なにもの〉があった。

 3)「天皇家の私家」性が「国家・市民の公共空間」にまで侵出している
    この日本国の現状-天皇制民主主義国:日本の根本矛盾-

 最後にいきなり指摘するが,以上にとりあげ論じたごとき「皇族女子の結婚」に関した話題は,平成天皇(2015年当時の天皇)が,自家=「イエ」の未来を配慮したうえで,この「皇室が未来に向けてよりよく持続していくための〈生き残り戦術〉」の一環になっていた点に着目する必要を,実は強調したかったのである。

 天皇家の私的儀式が国家の予算を充ててなされている事実,しかも,これが宮中三殿という皇室神道にかかわる儀式としてもなされている事実などは,日本国憲法における「天皇および天皇家の位置づけの問題」に関して,観過できない,重大かつ危険な宗教的問題を指示しつづけている。

 典子が天皇夫妻に自分たちの婚儀を報告にいったさい,同時に,宮中三殿に拝礼する行為がなされていた。だが,この場面については「祭政教分離の原則」などへの注意などが「皆無である」無法ぶりを,基本から批判しておかねばならない。

 日本国には神道以外に多くの宗教・宗派が実在するが,前段のような批判を明確に提示する宗教組織およびその指導者が,最近はあまり発言しなくなっている。そうした実情はこちらの関係者たちが,皇室神道に対する理解に関して学習不足であり,その認識において質的に欠落だらけであることを示唆している。

 とりわけ,マスコミがその事実を「批判ぬき」で〔というよりもそうした問題要因をしっていても意図的に放置して〕報道することじたい,この国における宗教感覚は完全にマヒしていて,この領域に関するまともな問題意識が完全に不在である。

 現代においても,日本国民およびこの国に暮らしている人間たちは,たとえ日本国籍人たちであってさえも,その全員が神道教徒であるわけではけっしてないことを,忘れてはいけない。

 一方で,自家製の宗教(皇室神道)の信心を,それも憲法内でまた皇室典範(旧明治憲法とは双生児であった異端の法律)に守られて発揚できている現状は,異様だ形容という以前にある意味では,一国の宗教のありようとしては異常事態である。

 さらに,明治時代に強弁されていた理屈=「神道は宗教にあらず(神社非宗教論)」といったごとき,人間が有する〈基本的な理性〉や〈健全な精神〉を,のっかけら小馬鹿にしたような「その理屈」→『「国民道徳」の「基本として国家神道」を宗教・政治・教育と一体化させていた価値観〉』は,

 21世紀のいまにあってはまったく不要であり,完全に無理筋の道徳観でしかないにもかかわらず,自民党のみならず多くの国会議員たちが,まるでユルふん同然になんとはなしに「協賛するかのような態度」を示しつづけている。

 現在の安倍晋三政権(2024年では元政権になる)が,神社非宗教論の立場に執着していたことは,彼の言動を通しても明快になっていた。

 安倍晋三は2013年12月26日,政権奪回後1年が経ったその日,すでに「敗戦神社に転落していた,かつての〈勝利(!?)のための神社〉:靖国神社」に参拝していた。だが,これは彼自身がこの神社に参拝することじたいにおいて,その神社に固有である国家的矛盾をわざわざ再現する日本国首相になっていた事実について,まったく自覚がない点をさらけ出していた。

 だいたいにおいて,靖国神社の本質,歴史的な由来,その宗教的な狙いなど,初歩からして完全に無知であった安倍晋三が,この宗教問題に発言をすることじたいからして,その根本の問題に混迷ばかりを引きこむ役目しか果たしえなかった。

 かつてにおける「安倍晋三のファシズム的に粗暴一点張りであった政治運営手法」の意味は,教育基本法を改定したり,集団的自衛権行使を閣議決定で容認したりした,つまり,国家運営全般における暴力的な指揮ぶりに表出されていた。

 安倍晋三なりに抽象的な次元で表現したつもりらしい「美しい国:ふつうの国」ということばは,この文言こそが実は「国家神道的な全体主義」を基底に控えさせていたとなれば,なにをかいわんやの,お粗末さも度が過ぎた単細胞ぶりばかりを,彼は露呈していた。

 2010年代から日本の政治・経済は安倍晋三のために,完全に狂わされてしまった。もちろん狂わさせた国民・市民・庶民たちのほうにも,大いに政治責任があったが,なんといっても,岸 信介の孫だかなんだかはさておき,

 この「世襲3代目の政治屋」のひたすら乱暴だけであったファシズム政治運営手法は,この国における政治史に汚点どころか「政治秩序の溶融現象」を招来させた。これは,時代錯誤に出立点を置いた政治の立場が遭遇するほかなかった宿命でもあった。

 4)安倍晋三は政治面だけでなく経済面でも危険人物

 今週の,2024年2月23日は,徳仁「令和の天皇」の誕生日ということで,株式市場はその前日,22日付けでバブル経済破綻後,日経平均株価が当時を上まわる「3万9098円68銭( 22日 15:15 大引 )」になったと大喜びしていた。

 だが,その間にアメリカの株価そのものは14倍,韓国のそれは低水準のほうであっても3倍になっていた。ほかの主要国の株価もその間に付けた各々倍率で上昇してきた。

 この国がその間,すっかり「衰退途上国」になったとみずから認定せざるをえなくなっていた。それを,いまごろに株価が “タカが4万円近く” にまで上がり,さらに近いうちには,その水準も超えそうだと期待したところで,すでにあのアベノミクスがそのアホさ加減によって,たいそうにひどく「この国の政治と経済」をさんざんに壊しまくっていた。

 そうでなってしまったのだから,「日本の政治・経済」はもはや,一朝一夕で回復するみこみなどありえない地点にまで漂着した。この事実を,目をつむってみないのはおかしい。それなのに依然,体たらく状態であることに変わりのない,この国の「株価の値段」が多少上昇したからといって,即座に喜ぶ神経がどうにかしている。

【参考記事】 -『田中龍作ジャーナル』2024年2月23日から-


 話題が少し移っていたが,最後に,つぎのような話題を添えておく。これは,いま〔ここでは,2014年10月3日のこと〕から5カ月も前にいわれていた指摘である。事態は,安倍晋三の本性が露呈していただけのことがらであったのだが……。 

 「昨〔2012〕年12月26日,安倍首相が靖国神社に参拝したのがひとつのきっかけだった」が,「それまで経済第一主義だった首相は以後,憲法改正や集団的自衛権行使容認に前のめりになるなど,自分のやりたいことをやりだした。

 短期で売買するヘッジファンドにすれば,経済第一主義でないアベノミクスは旬が過ぎたも同然だ」「円安・株高の二人三脚の動きが,靖国参拝から逆回転を始めた」「と断言する」

 註記)「『安倍首相はアジアで最も危険な人物』 海外投資家に指摘される理由 アメリカの著名投資家が,『安倍首相はアジアで最も危険な人物』と評した。安全保障政策に前のめりになる安倍首相の動きを危惧し『アベノミクスは旬が過ぎた』と見る外国人投資家は少なくないようだ。」
 『The Huffington Post』2014年5月18日 1時45分 JST,http://www.huffingtonpost.jp/2014/05/17/abenomics_n_5341742.html

安倍晋三は危険な人物だと2014年ですでに指摘されていた

 その安倍晋三的な結果(顛末)はすでに,日本国中に嫌というほど思いしらされた。この国に生きている人びとの圧倒的な大部分が,日常生活においてひどい打撃を受けてきた。

 庶民の立場からはそれほど深い縁のない株価が上がったとはいえ,その主導権が外国人投資筋に握られている事実を明確にしないまま,それでもわずかに,バブル経済破綻後以来,100円や1000円単位で株価が上昇したといって喜ぶようでは,情けない。

 もっともいまは,安倍晋三はこの地上にはいない。彼が生きているときは,ひたすらどこかに,自分の「青い鳥を求めている」姿にもみえていた。そうはいっても,その鳥は初めからどこにもいやしなかった。

 それでいて彼は,「世襲3代目の政治屋」としての「幼稚と傲慢・暗愚と無知・欺瞞と粗暴」さだけは,いつも満開状態を維持できていた。安倍晋三という「初老の小学生・ペテン総理」(ブログ『くろねこの短語』命名)は,2010年代においてこの日本を破壊しまくっていた。

 まさしく,「百害あって一利なし」の政治家が安倍晋三であった。

 とりわけ「私物化(死物化)させた政治体制」「縁故主義の行政管理」がこの国をよりいっそう腐敗・堕落させた。徳仁64歳の「天皇の誕生日」は昨日(2024年2月23日)であって,新聞紙などメディア・マスコミは,その紙面や時間の多くを割いて,天皇が居る国だから「この国はいつかよくなる,きっとそうなるはずだ」といいたいかのように,あいかわらずオウム返しに報じている。

 最後につぎの論説を紹介しておきたい。元記事の切り抜き処理の関係で,左右が色違いになっているが,この複写状態で我慢してもらいたい。

問題提起はしているがそれ以上は語らない論旨

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【断わり】 本記述の初出は2014年10月3日であった。本日,2024年2月24日に更新するに当たっては,大幅に補正・加筆した。とくに,図表・図解は新しく用意したものである。

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