戦時体制下の日本における「経営学の理論展開一例」(その1)
※-1 前もっての断わり
本記述は「経営学」に関連する中身となるが,とりあげている論題をめぐり,その時代的な背景を踏まえておく必要があると思い,まずさきに,つぎのような戦前の日本史における出来事(事件)を,ごくつまみ食い的にしかなりえないけれども,知識前提として具体的に言及しておくことにしたい。
1) 「2・26事件」
さて,今日は2024年2月21日という日付であるが,97年前の1931〔昭和6〕年2月26日,いわゆる「2・26事件」が発生していた。この「二・二六事件(ににろくじけん,にいにいろくじけん)」--以下では「2・26事件」と表記する--とは,1936〔昭和11〕年2月26日から2月29日にかけて発生した日本のクーデター未遂事件であった。
その大まかな概要は,こう説明されている(ウィキペディア参照)。このウィキペディアの原文は長文であるけれども,ここに参照できる段落は,ほんのわずかな部分の言及にしかならない。あくまで,本日の記述に関連させられる時代背景のみとりあげ,これを断片的に紹介するに過ぎない。
イ) 皇道派の影響を受けた陸軍青年将校らが1483名の下士官・兵を率いて蜂起し,政府要人を襲撃するとともに永田町や霞ヶ関などの一帯を占拠した。
ロ) しかし,最終的に青年将校達は下士官兵を原隊に帰還させ,自決した一部を除いて投降したことで収束した。
ハ) この事件の結果,岡田〔啓介〕内閣が総辞職し,後継の広田〔弘毅〕内閣が思想犯保護観察法を成立させた。
この「2・26事件」のあとに起きた日本近代史における重大事件としてならば,1931年9月8日に中国東北で起こされた「満洲事変」についても目配りをしておく余地がある。
「2・26事件」じたいに関しては,その「決起のきっかけ」という項目から,つぎの引用のみしておく。
青年将校らは主に東京衛戍の第1師団歩兵第1連隊,歩兵第3連隊および近衛師団近衛歩兵第3連隊に属していた。ところが,第1師団の満州への派遣が内定したことから,彼ら〔蹶起した将校たち〕はこれを「昭和維新」を妨げる意向と受けとった。
まず相沢事件の公判を有利に展開させて重臣,政界,財界,官界,軍閥の腐敗,醜状を天下に暴露し,これによって維新断行の機運を醸成すべきで,決行はそれからでも遅くはないという慎重論もあったが,
第1師団が渡満する前に蹶起することになり,実行は1936年2月26日未明と決められた。なお慎重論もあり,山口一太郎大尉や,民間人である北 一輝と西田 税は時期尚早であると主張したが,それら慎重論を唱える者を置き去りにするかたちで事件は起こされた。
また,安藤輝三大尉は第1師団の満洲行きが決まると,「この精兵を率いて最後のご奉公を北満の野に致したいと念願致し」,「渡満を楽しみにしておった次第であります」と述べ,さらに1935年1月の中隊長への昇進の前には,当時の連隊長井出宣時大佐に対し「誓って直接行動は致しません」と約束し,蹶起にきわめて消極的であった。
栗原安秀,磯部浅一からの参加要請を断わったことを野中四郎から叱責され,さらに野中から「相沢〔三郎〕中佐の行動,最近一般の情勢などを考えると,いま自分たちが国家のために起って犠牲にならなければ却って天誅がわれわれに降るだろう。自分は今週番中であるが今週中にやろうではないか」といわれ,ようやく2月22日になって決断した〔という経過があったと説明されている〕
2) 「満洲事変」1931年9月8日
この満洲事変は結局,1945年8月15日の旧大日本帝国の敗戦という結末までつながる序章を意味した。
日本軍事史におけるそれも昭和の時期になって発生した大事件「満洲事変」は事後,旧大日本帝国が中国の東北地方(満洲地域)から中国全土(華北 ⇒ 華中 ⇒ 華南)にまで戦線を拡大させていく「長期的な戦争」の端緒を意味した。いいかえると,その「事変」という変称をもってした謀略行為をテコに使い,中国側を挑発・惹起させた軍事的な策略行為であった。
敗戦後となってからは「15年戦争」という用語もしたてられていたが,これは,その15年という時代を当てて指示される,「満洲事件」から「敗戦」までの「足かけ15年の戦争過程」全体を,包括的に意味するために使用されている。
ただし,1937年7月7日に旧日帝がさらに起こした日中戦争からは(日本側の命名は当初「北支事変」であったが,すぐに「支那事変」に変更),国内においては本格的に,国家総動員体制をかけるほかなくなった「戦時体制期」に移行した。
それまでは「非常時」だと呼称された「準戦時体制」だと表現されもしたが,その昭和12年夏以降は,軍人としては予備役まで召集される時代になっていった。それからは戦時日本になった国内の日常的な風景は,たとえばつぎのように描写されもした。
以上の用語をめぐる理解などについてはさらに「アジア・太平洋戦争」ということばを用いて,その15年戦争全過程を包括的に捕捉する観点も提示されてきた。
ここではとくに,前段で参照した「2・26事件」に関したウィキペディアの内容,その盛りだくさんの解説のなかからさらに,つぎの段落を引用しておく。
この解説を読んだ人が,もしも政治学や軍事学の専門家でなくとも,即座に指摘できる重大論点があった。つぎの 3) の問題となる。
3) 文民統制
「文民統制(シビリアン・コントロール)の原則」という軍政学の全般にもかかわる問題がある。この文民統制(Civilian Control Over the Military)とは,民主主義国家体制における「軍事に対する政治優先」または「軍事力に対する民主主義的統制」を意味する。
〔記述・本論に戻る→〕 敗戦後における日本の自衛隊史のなかでも,クーデタまがいの企図を抱き,これを実行するための準備作業まで着手していた隊員(もちろん高級将官たちが中心だが)がいなかったわけではない。
前段の記述については,手っとり早くはつぎの説明を読んでみたい。『三ツ矢研究』という自衛隊史における事件があった。
しかし,本日に始めたこの記述は,戦前期(戦時体制期)においてだが,「社会科学としての経営学」がどのように戦争体制の問題に対峙,関与してきたかについて,その実例となっていた代表者のうちから1名を見本に出しての「専門的な次元での議論」を,おこなってみたいのである。
このあたりの議論に関しては,法学的な見地からつぎのような問題意識が踏まえられるべきものとした説明もあるので,事前に聞いておきたい。
補注)以前,民主党政権の時期であったが,国会のなかでのやりとりのなかで民主党の・・・・が,軍隊のことを「暴力装置である」と言及したところ,大問題になった。この論点についてはつぎの画像資料の説明に任せる。
さて,本日の主論は題目を「経営学者の経営倫理学-満州帝国建国大学と山本安次郎の経営行為主体存在論」と名づけ,以下に記述していきたい。以上の 1)から 3) までの議論を前論に踏まえたうえで,ここからは「経営学の観点」から考察していくことになる。
※-2 時代と学問-戦時体制に関与した経営学者の倫理学的問題-
a) 20世紀前半よりアメリカでは,企業倫理の問題に関する研究が方法・内容面ともに盛んになった。日本の経営学界でもそれに刺激される方途が生まれ,経営倫理学的な研究が意欲的になされてきた。
たとえば,1993年に創立された日本経営倫理学会は,2000年9月度研究交流例会を,弁護士の林 陽子を報告者に,「日本企業の『戦争』責任」という論題で開催していた。〔同年9月4日,於:東洋経済新報社〕
「経営倫理学」は,経営学の研究対象に人文科学的な学問である倫理学を適用し研究する学問である。経営学と倫理学とが交叉する学問領域は,どのような特徴をもった諸課題のゆきかう場となるのか。
倫理学とは,「人間のよい生きかたを問い,それを吟味する学である」
したがって,経営倫理学は敷衍していえば,「企業のよい生きかたを問い,それを吟味する学である」。しかも倫理学には,規範倫理学,メタ倫理学,記述倫理学という3つの倫理学がある。
註記)『岩波哲学・思想事典』岩波書店,1998年,1697頁,1698頁。
戦前におけるドイツ経営経済学の主要な潮流は,経営理論として主に規範的,理論的,技術的という3つの志向・特性を形成していた。ここでは「倫理学と経営学」という関係を想定し,つぎのような理論形態を分類的に提示しておきたい。
♠ 倫理学と経営学 ♠
倫理学 ⇒ 規範論(経営倫理学) ⇒「 メタ論と記述論」
経営学 ⇒ 規範論(倫理的経営学)⇒「理 論と技術論」
経営倫理学の歴史的課題は今後の問題,すなわち経営問題の未来を政策論的に議論する。そのためには,過去に生起・体験した経営政策上の諸論点を,倫理学的に吟味する議論が必要である。
b) 明治以降,アジア諸国にかかわって帝国主義の時代を長く経てきた日本の産業経営史が蓄積されてきた。ゆえに,それにまつわる戦争責任の問題まで議論が拡延することは,必然的な経緯である。
経営倫理学の研究対象は,戦争の時代における日本企業の問題だけではない。日本の経営学者たちは,研究者の立場からの政策論的提言,いいかえれば経営倫理学的な発言を,過去〔=戦時体制期〕に具体的におこなっていた。
要するに,経営学者は戦争の時代,日本企業のありかたをめぐって,いかなる理論を構築し,政策を提言してきたのか。
ヨハネス・ヒルシュマイヤー = 由井常彦『日本の経営発展-近代化と企業経営-』東洋経済新報社,昭和52〔1977〕年は,「戦時統制期」〔1937~45年:昭和12~20年〕を除外して記述し,「異常・奇異な歴史の体系」を編んだ書物である。本書は,第21回日経経済図書文化賞をうけており,日本の関連学界の意識水準・形態がいかようにあるのか,その一端を推察できる。
c) それにもかかわらず,アマゾンの同書に対するある論評(これ1本しか掲載されていないが)のなかには,こういう記述がなされていた。
つまり,「日本アイン・ランド研究会ひとり会員藤森かよこ」なる人物が,2018年1月22日に,「5つ星のうち5.0 再販して!!! 江戸期から1970年代までの日本の産業発展の歴史を知りたいならこれ!」という書評を書いており,そのなかでこう語っていた。
「もともとは英語で出版されたものの日本語版である。アメリカでは、まだ版を重ねている。名著ですから。ドイツ人神父と日本人研究者が、江戸期から1970年代までの日本の産業経済の発展と推移をきちんと整理提示分析している」と。
だが,この指摘を聞いて「?」となった。
しかし「江戸期から1970年代までの日本の産業発展の歴史」を概説してもいたはずの,このヨハネス・ヒルシュマイヤー = 由井常彦『日本の経営発展-近代化と企業経営-』1977年は,その目次編成を紹介すると,こう並んでいる。問題となる該当章のみ抜き出しておくが,以下のようになっている。
第3章「工業化の進展と企業経営(1896-1937)」
第4章「戦後の工業化と高度化と経営者(1945-1973)」
すぐに気づく点だが,1937〔昭和12〕年7月から1945〔昭和20〕年8月までが揮発している。本ブログ筆者はいまから半世紀も前になるが,この本を入手して開いたとき,愕然とさせられた。
d) なお,このヨハネス・ヒルシュマイヤー = 由井常彦『日本の経営発展-近代化と企業経営-』1977年は,第21回日経経済図書文化賞を1978年に受賞している(『日本経済新聞』1978年11月3日朝刊8面には,ほかの受賞作品に関する講評なども一括して発表されていた)。
その日経経済図書文化賞における同書への講評のなかには,「日本的経営の発展が生き生きと目にみえるように描かれている」との記述もあった。だが,戦時体制期を除外した日本経営史を描いた書物(サイズ A5判でページ数 480 )が,はたして,記述していなかったその時期までも「生き生きと目にみえるように描かれてい」たとはいえず,正直いって困惑させられた。
また,『朝日新聞』1978年3月23日朝刊17面に掲載されていた,当時の大阪大学経済学部教授作道道太郎のヒルシュマイヤー = 由井『日本の経営発展-近代化と企業経営-』1977年に対する書評にも,一驚させられた。その記事の現物をつぎにかかげておく。
「歴史研究書」であり,しかも概説史の狙いがあったはずの同書が,実質8年間分にも近い時期を,それも戦乱の時期だといってはずした意向がまったく理解できない。たとえば,アメリカ史から戦争,戦乱の時期を除外した構図でもって,アメリカの経営発展史が描かれうるのか考えてみればよいのである。
もしかすると多分,こういう事情がからんでいたのかもしれない。
21世紀の現段階になっても,戦時体制期における日本経営学の理論動向に関する研究は,未開拓状態のままである。戦争という非常・異様だった時代,状況というものが極限に到達したとき,企業経営の活動はどのように記録されていたのか,これを経営史の研究者が対象にとりあげないで,いったいどこの誰が研究するというのか?
e) またくわえて,その時代に経営学者たちが残した「理論的かつ実際的な学問の営為」が注目されて当然である。たとえば,増地庸治郎編『戦時経営学』昭和20年2月に論稿を寄せた,斯学界でその後,高名を馳せる経営学者の藻利重隆(一橋大学商学部)は,こう述べていた。
ところが,敗戦の半年まえに披露されたこの「経営の理論」=「全体的個体性の理論」,「従って民族的乃至国家的経営の理論」は,ドイツ・ナチズム流の民族優越主義的・国家全体主義的理念であった「血と土」(Blut und Boden)に依拠した,経営共同体論:「トムス経営生物学」を受け売りしたものであった。
敗戦後は,日本経営学界においては「藻利経営学」と尊称され,またその独自に提唱されたと行為的に受けとめられた=「経営二重構造論」は,戦中の「民族的・国家的経営の理論」を,なんとか化粧なおししたうえで,再登場させたものであった。
藻利重隆自身はそのあたりの疑問を他者から真正面から提示されていたものの,それへの回答は峻拒していた。なぜ藻利が,そのような態度で「自説に対する批判(者)」へ応対したか,その理由は詮索する余地もないほど明白であった。
f) ところで,海道 進(神戸大学経営学部)は,日本経営学会理事長を勤めたとき,このようにあの戦争の問題に言及した。
そして,本記述があらためて解明する経営学者山本安次郎の場合,ある意味では,自己に対しても他者に対しても体制も正直な学究であった。
山本安次郎経営学説に関しては,戦争責任問題が追究されるさい,その時代背景にまで深く立ちいるかたちで,理論の根源に切りこむ検討がくわられていた。
1940年4月から昭和20年8月まで,満州帝国建国大学で企業経営論担当の助教授・教授を務めた《経営学者山本安次郎の社会科学的意味》は,経営倫理学の問題意識にも引きよせ,歴史的に再問されるのにかっこうの題材になりえた。
前段で話題にした学問の志向「経営倫理学」は,「企業経営および経営学者のよい生きかた〔つまりそれらの歴史(時代環境と人間行動)〕を問い,それを吟味する学」といえる。
g) 戦争の時代,経営学者たちは,国家によって「よいありかた=生きかた」だと公認され,しかも,強制される学問路線に忠実にしたがっていた。戦時体制下の国家的価値観のもと,唯一,官許・指示された精神理念に沿う方向に忠実に歩み,それなりの研究成果を挙げてきた。
だが,それらは敗戦直後,弊履のごとく捨て去られ,まともにかえりみられることがなかった。あるいは,換骨奪胎のうえ再評価されたり,場合によってはそのまま再利用されたりもした。
「経営学という学問に従事する社会科学者」がそういう存在だったとすれば,経営倫理学にとってかっこうの研究対象が,そこに簇生していたことになる。
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【未完】 本稿の続編はつぎのリンク先である。
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