画伯藤田嗣治(1886-1968年)が大東亜戦争中,陸軍の依頼を受けて「大作の戦争画」や「壁画」を描いていた事実
※-1 庶民が強いられる戦争体験
a) 昭和20〔1945〕年3月9日夜~10日未明,アメリカ軍のB29の大編隊が東京下町に対する大空襲,焼夷弾による無差別絨毯爆撃をおこない,10万名以上の犠牲者を出した。この3月10日という日付は,日本帝国陸軍の創設記念日であった。
当時,東京・浅草に居住していた「筆者の両親・実兄」たちは(実姉もいたが隣家の奥さんの故郷である信州に疎開中であった),この大空襲に遭遇し,1人も命を落とさなかったけれども,とくに兄はその被害者になり,大やけどを負い,そのケロイドが大きな傷痕となって,その後一生,身体に残された。
いまは2024年,だいぶ昔に母は他界したが,3月10日の東京下町空襲を,当時住んできた浅草で遭わされたさいのそのときの体験をなぜか,本ブログ筆者は「2度だけだが聞かされた」。そのときの話は,いまの電子技術の水準になぞらえていえば,まるでDVDを観ながらその記憶を語る「母の様子:語り口」になっていた。
b) 旧大日本帝国で軍人になり戦地に送られ,幸運にも命は取られず,また餓死もさせられないで生還できた将兵たちのなかには,戦争体験でいかにひどい記憶をPTSD(Post Traumatic Stress Disorder,心的外傷後ストレス障害)として刻みこまれていても,それを絶対に家族たちに語らず,そのまま自分の人生を終えた人びとが大勢いる。
なかには,自分が戦地で敵国の軍人を自分の視野に入る距離感をもって小銃で射殺したとか,あるいは白兵戦で敵兵を刺殺したとかする体験を積み,敗戦後,日本本土に引き上げてきた者たちいる。これらの旧兵士たちは自分の体験を仲間うちであっても,たとえば戦友会の集まりであっても,そう簡単には「思い出話」の材料にするわけにはいかなった。
なぜか? それはあまりにも残酷がすぎる戦争の実際(実戦)を経てきた人間として,それをあとで他人に語る気にはそれほどなれなかったからである。そのように戦争体験を自分の記憶のなかにしまいこみ,密封した状態で生涯を終えた彼らが大勢いる。
c) しかしながら,なかには本当にごくまれなのだが,前段の説明のような体験とこの密封(つまり,そのひとまずの公式的な忘却)を,敢然と拒否した旧日本軍兵士がいなかったわけではない。
たとえば,渡部良三という人物が,その本当に珍しい実例として挙げることができる。
渡部良三は1922年山形県に生まれ,中央大学在学中に学徒出陣で中国・河北省の駐屯部隊に陸軍二等兵として配属されたさいの体験が,こういうものであった。
渡部は,上官から中国人捕虜を銃剣で突くという刺突訓練を命じられたが,その時に,キリスト者として捕虜殺害を拒否した。それゆえ事後,凄惨なリンチを受けるハメになった。彼は,その一部始終も含めて,戦場の日常と軍隊の実像を約七百首の歌に詠み,復員時にもち帰った。
渡部は戦後,国家公務員として勤務し,定年退職後に本格的に歌集を編みはじめた作品をまとめ,『歌集 小さな抵抗 殺戮を拒んだ日本兵』岩波書店(文庫),2011年に公刊した。なお,この本はさきに1994年,シャローム図書から刊行されていた。これら2冊は現在,アマゾン通販において,つぎのとおり販売されている。
d) 本ブログ筆者はいまから25年前,上に紹介した渡部良三の『小さな抵抗』シャローム図書,1999年を,著者から直接献本してもらうかたちで読む機会をえた。献本を受けたさい,そのなかに添えられていた書状には,こういう主旨の文言が並んできた。
自分は中国兵捕虜を刺殺せよとの上官の命令を拒んだけれども,それ以上の抵抗,つまり,その上官のみならず同じ所属部隊の兵士たち,さらには上層の将校たちに対して「その命令が不善,不可,非理である点」まで訴えることまではなしえなかった。戦後になっても,その点を「反省する旨を語っていた」のである。
戦争中において抱くべきだったその気持ちであったが,敗戦後になってからでもともかく,反省する字句を書き連ねて,個人あての手紙のなかにもその苦悩を伝えてきたわけである。なお,本ブログ筆者は初めから渡部とは会ったことがなく,その後もずっと面識がないままで来た。
e) ここでは,一般論としての「兵士たちの戦地における実体験の話題」を,つぎのように理解しておきたい。
戦場において死の危険に直面させられてきた兵士たちの体験,あるいは,渡部良三が目前でみてきたごとき「戦友たち」が捕虜に対する刺突訓練をさせられたその体験の記憶などは,自分の意志とは関係なくその後の人生過程において突如,しかもなんどでもフラッシュバックして思い出したり,悪夢にみたりすることが続くことは,PTSDの発症としてよく起こりうる事例といえる。
彼らの戦後における人生過程において,その種の不安や緊張が突沸したかのように高まったり,その辛さのあまり現実感がなくなったりする状態は,前段で指摘したPTSDの症状そのもの具体例である。この症状の発作的な襲来のために,戦後になって苦しんだ人たちがいないのではない。また他者に対して(配偶者も含めてだが),その体験を一言も語らない〔語れない〕で,人生を終えた人たちも無数いたはずである。
ただ,そうした体験は家族であってもそう簡単には語るわけ性質のものゆえ,彼らの多くは,その種の秘密を死ぬまで自分の胸のうちに秘めたまま,「けっして忘却できない記憶」でありながらも,墓場のなかまでもちこむことになっていた。
f) とりわけ,戦場・戦地で実際に「殺し,殺される」という凄惨な場面を観てきた,体験してきた兵士たちは,自分の人生にとってみれば,死ぬまで忘れることなどありえない深い記憶を刻みこまれていたことになる。
【参考記事】-『朝日新聞』2021年8月9日夕刊から-
g) ところで,東京裁判の判決を受けて東條英機などA級戦犯7名が処刑された日にちは,昭和23〔1948〕年12月23日であった。この月日は現在,徳仁が天皇になって「令和という元号を使う時期」にあるが,その父である明仁は平成の天皇となっていて,こちらの時期における天皇誕生日(国民の祝日とされるそれ)が,12月23日であった。
サンフランシスコ平和条約(対日講和条約)は,1951〔昭和26〕年9月8日に連合国と日本とのあいだで署名され,日本国会の承認・批准を経て,1952〔昭和27〕年4月28日に発効した。そして,この翌日の4月29日が昭和天皇の誕生日。
※-2 戦時体制期における芸術家一例-藤田嗣治の事例-
1) アメリカ空軍の将星(カーティス・ルメイ)
ちなみに,太平洋戦争末期,日本全国に対する都市空襲を,アメリカ軍将星として立案・指揮・実行したカーティス・ルメイは,広島と長崎に対する核攻撃=原爆投下も指揮した人物である。
ところが,このルメイは,戦後における日本の自衛隊の創成・育成に尽力したという功績によって,日本国政府から勲一等旭日大綬章を授けられている。戦後は,アメリカ空軍参謀総長まで登りつめた戦略爆撃の専門家であった。
1962〔昭和37〕年10月22日,当時アメリカの大統領だったジョン・F・ケネディが直面したキューバ危機にさいして,ルメイは「核による先制攻撃」を進言していた。当人は長寿をまっとうしたというから,歴史の皮肉どころか,生粋の軍人の性(さが)にまつわる,ある種の残虐さを覚えて当然である。
前出「戦略爆撃」に関する歴史的事実を,以下に簡単に列記しておきたい。
2) 1937年4月26日,内戦中のスペインにおいて,ドイツ空軍とイタリア空軍が共同で,ゲルニカを爆撃した。
スペイン人画家ピカソが,滞在中のパリでこの報を聞き,急遽『ゲルニカ』という作品(下図)を完成させた話は有名である。
フランコの要請に応じたヒトラーとムッソリーニの両空軍が突然,スペインの小さな村「ゲルニカ」を爆撃した。3時間のこの爆撃で,村人の7千人のうち2千人が殺害された。
ピカソは,怒りをこめて,わずか1か月で,この大作「ゲルニカ」を完成させた。原画は,縦3.5メートル,横8メートルの大作であり,それまで誰も眼にしなかった「衝撃的な作品」であった。この時の心境についてピカソは,このようにいっている。
3) 重慶爆撃-日本ではゲルニカよりしられていない「戦史としての旧日本軍による中国への無差別爆撃」ー
「重慶爆撃」とは,1939年春から開始され,とくに1940年5月から9月がもっとも激しく,1941年までおこなわれた「日本軍による重慶に対する空爆作戦」のことを称する。日中戦争が1937年7月7日から始められていたが,その後,2年経たないころに始められた中国の重慶市に対する無差別爆撃であった。
重慶は当時,蔣介石政権が中国政府の首都としていた。日中戦争の有利な展開をめざす日本軍の戦略爆撃であった。けれども,蔣 介石を降伏させることはできず,かえって多数の市民への無差別爆撃は国際的な非難を浴びることとなった。ゲルニカ,ドレスデン,東京などへの空爆とならぶ戦略爆撃の一つに位置づけられている。
日本軍は国民政府の蔣介石が移った重慶に対し,1939年5月3日からたびたび,戦略的な空爆をおこなった。そのなかで,とくに激しい空爆がおこなわれたのが,1940年5月18日から9月4日にかけて(つまり太平洋戦争の開始前に)行われた一〇一号作戦であった。
作戦は陸・海軍共同でおこなわれ,海軍は九六式陸上攻撃機を漢口から,陸軍は九七式重爆撃機を発進させ,重慶とその周辺をめざしたが,爆撃目標は「戦略施設」に限られ,アメリカ・イギリスなど第三国施設などは除外されていた。
しかし,重慶は霧が深く,大体の見当で投弾され,実際は無差別爆撃となった。1940年8月19日の爆撃には完成したばかりの零式艦上戦闘機(いわゆるゼロ戦)が初めて護衛についた。この一連の爆撃によって多数の重慶市民が殺害され,蔣介石の住居もねらい撃ちしたが,蔣介石は難を逃れた。
註記)森山康平著『図説 日中戦争』河出書房新社,2017年,145頁。
補注)重慶爆撃については戦中の『日本ニュース』が,当該のニュース映画も制作し報道していた。また,ウィキペディア「重慶爆撃」には,重慶市側が強いられた犠牲者一部の画像が載っている。
4)戦略爆撃による市民の犠牲
日本軍による重慶爆撃では犠牲者は1939年だけで2万8千に及んだ(中国側資料)。
この爆撃は,ドイツ軍のゲルニカ爆撃(193737年4月)とともに敵の抗戦意欲の低減をねらい,軍事目標だけでなく市街地も無差別に爆撃する,という戦略爆撃の始まりを示すものであった。
日本軍の錦州爆撃,漢口爆撃,ドイツ軍のロンドン爆撃,アメリカ軍(連合軍)のドレスデン空襲,東京大空襲と日本の都市に対する空襲,そして広島・長崎への原子爆弾投下が戦略爆撃であった。
最後に,日本人の画伯藤田嗣治(1886-1968年)が第2次大戦中,陸軍の依頼を受けて「大作の戦争画」や「壁画」を描いていた事実を指摘しておきたい。
5) 藤田嗣治の代表的な戦争画-『サイパン島同胞臣節を全うす』および『アッツ島玉砕』
つぎの画像は大きめの判で紹介する。
藤田の戦争画(ここでは『アッツ島玉砕』を指す),その大きなキャンバスには,負傷して横たわる兵士たちが暗鬱な色調で描かれている。敗戦後,そうした「戦争画」を描いたことの責任を問われた藤田は,再びフランスに渡る。洗礼を受け,フランス国籍をえ,日本国籍を捨てた。レオナール・フジタと名のり,晩年は宗教画や子どもたちを描き,フランスで生涯を終える。
6) 付 論-まとめ的な論及-
前述のように1937年8月15日,日本帝国海軍が南京に対する空襲を開始した。その後も,日本軍の占領地拡大にともない「目的地」や「発進基地」を,さらに中国の奥地へ前進させた。中国国民党の遷都した重慶に対する爆撃は,きわめて有名な戦史の一コマを形成することとなった。
日本帝国陸軍は,敵基地限定爆撃に重点をおいた爆撃をし,戦略爆撃をおこなっていなかった。重慶の市街地を目標に爆撃したのは,日本の海軍航空隊であった。
敗戦後の日本においては,陸軍に比較して海軍はだいぶその戦争責任を甘めに評価されてきたが,この判断は完全に誤説にもとづいており,すなわち日中戦争において海軍の果たしてきた役割を軽くみていたゆえ,第2次大戦にまで至る当時において展開されていた,戦争過程に対する “均衡のとれた視点” はえられない。
その歴史の観方は,東條英機1人が悪くて天皇裕仁はそうではないとみなすごときの「日本近代史無知観」にも通底していたゆえ,エコヒイキのない歴史を,なるべく客観的に勉強しうる立場を構築するための努力が欠かせない。
それはともかく,日本陸海軍による中国・重慶市へのその爆撃作戦を注視していたアメリカやイギリスは,その効率のよさを評価し,のちに日本本土への空襲をおこなうさい,当然のこと参考にした。
その効率のよさとはもちろん,人間を殺していくその能率を意味する。いまもなお戦火がやまない「宇露戦争」では,とくにロシア側は,最初から民間人を狙ったミサイル攻撃を,国際法違反などといった非難・警告などなんの,平然と敢行しつづけている。
人非人(にんぴにん)ということばがあるが,戦争になったときは誰でもそれになれる。その意味は「人でありながら,人の道にはずれたおこないをする人間」のこととなり,これをより簡単に表現するば「ひとでなし」。
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