村上春樹『UFOが釧路に降りる』批評④ーポストモダン社会としての釧路?ー
1.はじめに
前回、『UFOが釧路に降りる』と『ドライブ・マイ・カー』を、自動車をキーアイテムとして比較し、両者が対になっている作品たちであるのを突き止めた。
『UFOが釧路に降りる』は<世界>に軸足を置き、人類とか、社会とか、少し抽象度の高い事柄を描き出していることを確認した。
一方、『ドライブ・マイ・カー』は亡霊論に軸足を置き、人間社会の中でのドラマを豊かに描き出していた。<世界>は背景と化している。
そして、結局の所、描き出したいのは、<他者>、そして、他人とどう付き合っていくか、どう関わっていくか、それが、問題なのだ。
今回は、『UFOが釧路に降りる』が、どのような点で<世界>に照準しているのか、どのようにそれを描き出しているのかを批評する。
釧路の風景、サエキさんの奥さん、シマオさんの父親について、批評していく。この釧路という舞台設定にも、ちゃんとした意味はあるのだ。
今回で、本作が何を描き出そうとしているのか、そして、<他者>というものを巡るどんな洞察が含まれているのか、より詳細に解説できたらと思うよ。
2.釧路の風景
小村はシマオさんが運転する自動車に乗って、飲食店に向かっている。助手席に、ケイコ、そして、後部座席に、小村が乗っている。
この際、釧路の風景の描写が挿入される。
殺風景な釧路の風景。沿岸部のために風が鋭く吹き、雪が吹き飛ばされる。積もっている古い雪は、汚らしく凍り付き、道路の両脇に、雑然と積み上げられている。
これは、雪を人の比喩だと考えれば、解釈できる。
一つは、疎外論的な自然認識である。自然が人類を圧倒する。人類は自然への脆弱性を抱えており、なすすべがない。
もう一つは、物象化論的な社会認識である。社会が荒涼としている。流動性の高い社会で、吹き飛ばされたり、汚されたり、目的なく雑然と積み上がったりする。
これは、どっちの解釈も正しいのだろう。
酔っ払って、道で寝た人がよく凍死する。そんな話が取り上げられているが、これは、この、釧路の両義性を表しているのだと考える。
物象化論的な社会と疎外論的な社会。これらが重なり合う社会で、酒におぼれ(社会的な<他者>性による犠牲性)、凍死する(自然界の<他者>性による犠牲性)わけだ。
単純な、東京(物象化論的な社会)と、山形(疎外論的な社会)との、対比構造を超えた場所として、どうやら釧路は設定されている。
そして、釧路では、熱いラーメンと温泉が癒しとして描かれている。二月の釧路である。熱い食べ物と温泉は身体と心を癒してくれることだろう。
食べ物と温泉も、間にある。
というか、全てが、間にある。間、つまり、自然と社会の間であり、そもそも境界の設定そのものが、人間が勝手に引いたものなのかもしれない。
それは、シマオさんの熊の話ではっきりする。
とりあえず、釧路はポストモダン的な場所。二項対立を超え、間に立つような場所として設定されていることは、覚えておいて欲しい。
3.サエキさんの奥さん
小村はシマオさんとケイコと一緒にラーメンを食べる。その際、小村の妻の話がまた話題になり、ケイコからサエキさんの奥さんの話が出る。
サエキさんの奥さんは、ある日、釧路への帰り道、近郊で、自動車を運転していると、草原に降り立つUFOと出会った。
『未知との遭遇』的な。
彼女は、それから、一週間ほど、そのUFOがどれほど大きくて、美しかったのか、片端から人を捕まえて話し続けたかと思えば、失踪した。
サエキ家には二人の子どもがいたにもかかわらず、置手紙もなく、全く消息が分からなくなってしまって、それきりだということだった。
この子どもたちが可哀想だよね。
小村の妻によく似ている。しかし、<他者>は死を成分とするのではなく、美を成分として現れたのだった。しかも、宇宙、地球の外から。
小村の妻に現れた、<他者>は大地震だった。成分は死で、それは、地中のこと、地球の中のことだった。成分も、位置関係も逆に設定されてる。
この、地球の外、地球の中のような、到来してくる方向について、<世界>を包括的に捉えようとする作家の意志のようなものを感じる。
なるほど、確かに、そうかもねっと。
サエキさんの奥さんは、到来した<他者>の美に憑かれたのだ。何度もそれについて反復し、不可逆的に、<自己>を作り変えてしまったのだ。
UFOに連れ去られたのかもしれないし、熊に襲われたのかもしれない。だが、美の問題として扱うと、美に魅入られて、どこか冒険に行ったか?
想像をたくましくすると、そうなる。
この解釈が正しいそうだとする理由は、サエキさんを美容師として設定している所だろう。ここに、美だぞっていうサインを示したかったのでは?
いずれにしても、小村はまだマシだったという扱いを受ける。なるほど、残された者たちについて、考えることも重要だと理解できるシーンだ。
では、小村とサエキさん、そして、父親と母親の妹が駆け落ちしたシマオさん、彼らを比較して、考える必要があるということになる。
4.シマオさんの父親
同じラーメン屋での話で、シマオさんの父親の話が取り上げられる。そう、上述した通り、シマオさんの父親は母親の妹と駆け落ちしたのだ。
UFOや地震が誰かに向かって到来するのに対して、これは、出会いであり、何々が誰々に向かって到来するという形を取っていないことに注意を向けてみたい。
出会いは、誰々と誰々、誰々と何々が出会うこと、しかも、奇跡的で、運命的な何かがそこで生じること、その事態が、表現されている。
到来にはなかった、双方向性があるように思える。ただ、厳密に区別できるかいなかは、分からない。ただ、出会いと到来が微妙な違いを持つと感覚的に思う。
とにかくシマオさんの父親は出会ってしまったのだ。そして、駆け落ち、シマオさんとシマオさんの母親を残して、母親の妹と消えたのだ。
この時、出会いが<他者>であり、成分は美だ。シマオさんの熊の話もまた出会いに該当するが、成分は死となっている。成分が違う。
父親と叔母の駆け落ち。これは、辛い経験だ。
自分よりも、自分たちよりも、その人のことが大切だってこと?自分たちは要らないってこと?悪いことだって、分かってるから、駆け落ちなんてしたんでしょ?ひどいよ。
突然の別れ。これが、亡霊論に繋がってくる。
シマオさんの場合もまた、父親が「死んだ」ということになるし、サエキさんの場合も、厳密に言えば、サエキさんの子どもたち二人にとっても、奥さんが「死んだ」ということになるのだろう。
マァ、後、気をつけておきたいのは、<他者>の到来やら、出会いやら、<他者>なるものは、社会に対してお構いなしってこと。
家庭があるとか、関係ないってことだよ。
5.終わりに
本作が何を描き出そうとしているか。見えてきたのは、疎外論的な社会と物象化論的な社会の重ね合わせと、その中で、<他者>や他人とどのように関わるかが描かれているということだ。
僕はマルクスの神髄をここに見出す。
マルクスが問題にしたのは、疎外と物象化、そして、その間の移行だけではない。最も問題にしたかったのは、その重ね合わせであり、そして、疎外論的なメリットだけがない、現代的な状況だったのだ。
ほら、昨今、昔のものと思われていた問題が噴出しているでしょ?
疫学問題、資源問題、自然災害、貿易問題、格差問題、国家闘争などなど。これは、疎外論的な社会での問題と思われていて、半ば克服されて行く問題のように思われていたのではないか?
しかし、最近、これらの復刻が目立つよね?
マルクスはそれを克服するために、新しい共同体のあり方を案出しようとしたのだった。疎外論的なメリットを取り戻すために。そして、それは、村上春樹の手によって、「仲間」という言葉で語られる。
「仲間」?
こう聞くと、僕は宮台真司を思い出さざるを得ない。一度は耳にしたことがある人もいるんじゃないかな?「社会という荒野を仲間共に生きろ」ってね。
他にも、あの人は「やっぱ友情と愛情」と臆面もなく口にするから、こっちが何だか恥ずかしくなっちゃう。でも、マァ、マルクスと村上春樹と辿り着いた解答は同じだったようだ。
マァ、支持する人が多いからって、正しいとは限らないけど。
でも、僕個人も、一つの解としてアリだと思ってるよ。ただ、宗教の問題も扱わないとダメだ。だけど、マルクスも、村上春樹も、宮台真司も、それに、着手しているという、ね…。
僕は僕の不出来を恥じるよ。
<他者>。これは、制御ができないもの、理解の及ばないもの、予測がつかないものを意味していた。これは、理性を超えて、が、テーマの概念のような気がする。霊性が大事ってわけよ。
また、美と死が<他者>の成分であることも分かって来た。そして、<他者>が憑き、憑かれた者は神経症的に反復を繰り返す。あるいは、亡霊となって、意識の壁を度々破って、無意識の方から侵入してくる。
到来と出会い。
これも、少し微妙なニュアンスの違いを持って、ひょっとすると、区別されるべきものなのではないかという問い立てが生まれてきた。<他者>を巡る洞察はこんなものだ。
今回は以上。では、皆さん、ごきげんよう。