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どうして人は誰かに怯え遠慮しながら生きることを強いられるのか

上と下を見比べて、いつも上司にはペコペコと謙虚に見せ、部下や同僚には大変横柄な態度を取ってしまうような人が、何故か高確率で現れる。

また出会ってしまった。

現職場に採用された理由も私個人への期待ではなくら以前の就職先のネームバリューでしかなかった。
働き始めならまだしも、めったにない雑談は、いつだって前の仕事のことしか聞かれず、そこに居たから、そこで働いていた、という事にしか関心を持たれない。

ただ、同じようなことは昔からずっとあったように思う。

出会ってきた人達には全員じゃなくとも、一定の感謝をしているが、どうしても拭えない、

"お前じゃない"

"お前じゃなくてもいい"

と言われといるような感覚が、誰に対してでも昔からあったりする。

隣にいる子が、この子はバカでね〜と先生に可愛がられる度、"良い子でいなきゃいけない"長女である私には辿り着けない居場所なんだなと思ってきた。

隣にいる信頼していた友達が、なんでも聞いてくれるから助かるわ、という度、聞いてくれれば誰でもいいのか、相手である私の事には興味はなくて、自分さえ話せたらそれで良かったんだろう、と悲しい気持ちになっていた。

実際に出会った上司の中でも2人こう公言している人がいる。

"自分が人と話してるのは良いけど、他人が誰かと話してるのを見ると心底イライラする"


面と向かって言われたことがある。
大人がそれではコミュニティとして成立しないじゃないかと思った。

そう思いながら生きてきた私は、恐らく自分自身がHSP、そしてAdult childrenなのだと思う。

ここまで深く考えたりしなくても生きていけるのに、どうして考えるのを辞められないのか。
それはきっと元々考えるのが好きだったからで。

だけれども、私が考えて話したいなと思うようなことは、自分の周りには興味の無いことであることがほとんどで、それが苦しくて今初めてnoteを綴っている次第。

高校時代、数学のテストで久しぶりに良い点数が取れたことがあった。
仲の良かった友達は、世界史の用語で
"うわ、仲間外れだ!!"(気になる方は調べてみてください。)
と言ってからかってきた。
そんななんて事のないはずの嫌味でも2週間以上続けば、いじめと呼んでほぼ相違ないことじゃないか。

中学の時は、小学校の延長線で学ぶ事が好きで、勉強したことを家で話したりするのが楽しかった。

しかし、順位や成績という概念が出てきて、友達に良い点数だからって喜ばないでよ、と言われて必死にひた隠しにしていた。
本当はそれまで一度だって自分のテスト用紙を見せたりひけらかしたりしたこともないのに。

勝手に引ったくってテスト用紙が千切れても点数を覗いてきたのはそっちなのに。

ああ

私は

嬉しい気持ちや達成感は

持ってはいけないんだ。

そういうことが起きるたびに幼心にそう思ってきた。

だから、誰かが喜んでいたり、嬉しそうにしていたり、悲しそうにしていたり、辛そうにしている時、誰よりも気持ちを理解しようと努めて、その人のために何ができるかどう寄り添えるか考えて生きたい。


そう思って自分の大切な人達のために今を生きている。

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