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長編小説「人間になりたい」
あらすじ
「私たちはみんな、人間になりたかっただけなのかもしれない」
主人公のみちるは、地方のインテリアメーカーで働くごく普通のOL。しかし、幼い頃に抱いた将来の夢への憧れは、心の奥底でずっとくすぶり続けていた。
とある事件をきっかけに、みちるはやがて、かつて抱いた夢を目指すこととなる。仕事と夢、過去と未来、自分らしさと社会の期待との間で揺れ動く中、彼女は自身が抱く複雑な感情に気づいていく。
夢を追うことの困難さと、日常の中で見つけるささやかな希望を描いた物語。
「あなたは自分らしく生きていますか?
第1部
1
朝目が覚めたときの感触で、今日がいい日か悪い日かが分かると言っても、誰も信じてくれはしない。
その直感が正しいこと、例えば全身が軽くふわふわとした感触で目が覚めた日は、仕事で予想以上の成果を上げたり友達が突然お菓子をくれたりすること、逆に重たくズッシリとした感触の日は、上司に叱られたり思いがけない失敗したりするといったことを、いくら説明したとしても。
「朝起きたとき、今日がいい日か、悪い日か、分かるの」
子どもの頃そう自慢げに言っても、それを聞いた友達や学校の先生は「そんなわけないでしょ」と笑うだけで、信じてくれなかった。
「みちる、そんなこと言っても誰も信じんよ。それに変な人だと思われるばい?」お母さんと、しっかり者のサツキ姉ちゃんからは、そう注意された。一方、マイペースなめぐ姉ちゃんからは「そんなこともあるんやねぇ」と適当に受け流されるだけだった。私が求める答えは誰も口にしてくれなかった。
それ以来、私は誰にも「朝起きたとき、今日がいい日か、悪い日か、分かるの」と言わなくなった。周りの子たちより多少絵が上手いくらいで、あとはこれと言った取り柄もない、引っ込み思案の私の、唯一の自慢だった、そのセリフを。
そのとき、胸がかすかにざわついたことを覚えている。期待通りの答えが得られなかった悔しさもあったし、何よりも「変な人」と思われることへの恐れがあったからだ。確かに友達や先生、お母さんとサツキ姉ちゃんの言うことは正しいと、子どもながらに分かっていた。それに、私がそのセリフを捨てたことで、周りで何か変化があったわけでもなかった。いつも通りの日常が過ぎていくだけだった。私が私の自慢を失ったところで、誰も気づかないし、困らない。
ただ、そのセリフを言わないと決めたことで、私は大切な何かを一つ失った。自分と世界を繋ぎ止めるための、大切な何かを。人間らしさのようなものを。その事実は、子どもの私をまた、ざわつかせた。
それでも、大人になった今でも、私には分かる。今日がどんな日か、朝起きたときの感触で。目が覚めたときの感覚で。例えば、布団の中で肌に触れる空気の重さ、耳に届く遠い車の音の調子、そして胸の奥でかすかにうずく感覚。
今朝、目が覚めたときの感触は、どちらかといえば悪い日だった。少し冷たくて、少し重たくて、どこか湿ったような違和感。梅雨時期のジメジメとした空気が部屋中に漂っていて、何か嫌なことが起きる前触れのような気配。こんな日は、何か予想もつかない嫌なことが起きるのかもしれない。私はその可能性を怖く感じた。でも、あくまで“どちらかといえば”悪い日だ。そんな天地をひっくり返すような悪いことは起きないだろう。せいぜい、仕事が進まない、食堂のおかずが嫌いなものばかりで食べられない、いつもより残業しないといけない、誰かの機嫌(例えば社長の機嫌)が悪い。それくらいのものだろう。
それでも、少しでも持ちを軽くするよう自分に言い聞かせても、まだどこか湿ったような違和感は、胸の奥に残っていた。ある一つの言葉を持って。ある一つの問いかけを持って。
「私が目指したいものってなんなんだろう」と。
「みなさんには成長してもらう責任があります」
今年に入って社長が朝礼で「成長」と言う言葉を使ったのは今日で何回目だろう。毎朝外に出て行われる朝礼。梅雨の曇り空に、社長の特徴的な甲高い声が吸収されて、さらに雲がどんよりとしていくようだった。
「格差が広がっている世の中において、皆さん一人ひとりがどれだけの成果を出せるかによって、会社全体の未来、一人一人の未来が決まります。皆さんの努力が、成長が、重要です。皆さんが成長するための機会は会社としても提供していきます。しかしそれを選ぶかどうかは皆さん次第です。あくまで強制はしません。しかし選ばなかった場合のリスク、そこはきちんと頭に入れておいていただきたいと思います」
社長を前に整列する100人近くの社員たちは、それぞれの表情で社長の話に耳を傾けている。真剣な表情をしている人、面倒臭そうな表情をしている人、無表情な人。社長の言葉をメモに取る人もいれば、黙って俯いている人もいる。でも、誰も口には出さないけど、あの「成長」と言う言葉を聞くたびに、どこかで誰かがプレッシャーに押しつぶされているのではないかと思ってしまう。少なくとも、私にとってはそうだった。成長する責任とまで言われると、なんだかきな臭い。今の社長になってから、会社の雰囲気が少しずつ変わってきたことを、私は感じていた。社長は自分の一言一言が社員にきちんと届いているか確認するかのように、一人一人の顔をくまなく眺める。
「何度も言うようですが、社員である以上、みなさんには成長する責任があります。停滞は悪であると言うことを、ご理解いただくよう、お願いします」
社長が一通り話しを終え、朝礼が終わると、外はそれぞれの持ち場に散らばっていく社員の足音でざわつき始めた。私は事務所に戻り椅子に座ると、小さな溜め息をついた。今朝の気持ちの重たさは、社長の機嫌が悪いと言ったところで正解だったのかもしれない。だいたい社長の機嫌が悪い日は、朝礼で発せられる言葉もきな臭かった。
いつまでも気持ちを引きずってはいられない。私は気を取り直すように、パソコンの電源を入れた。
デザイン資料室でA3サイズに印刷された複数の図案を長机の上に並べていたら、同期のチエミがノートパソコンを持って部屋に入ってきた。
「隣の机使っていい?」チエミはヒールをカツカツ鳴らしながら来た。
「あぁいいよ」私が答えると、チエミは図案を並べていない隣の机に、私と向かい合う形で座った。オンラインで、商談か支店の人とのミーティングをやるんだろう。
「ミーティング?」私は手を休めて聞いた。
「いや、事務所がうるさいから、ここなら集中できるかなって」チエミは軽く肩をすくめながら言った。キーボードをかちゃかちゃと鳴らし、集中している様子だ。「それ、今度の展示会の?」チエミは顔はパソコンの前にやったまま、視線を少しだけ図案の方にやりながら聞いてきた。
「そう。クッションのデザイン。どれがいいかなって」私は右の図案と左の図案を見比べながら言った。
「クッションかー。小物、意外と大事だからね」
「そうなんよね」
「でも今の段階で小物から決めるって、珍しいね」チエミは手を止めて図案の方に首を伸ばしながら言った。
「まぁ、私はそっちの方がやりやすいから」私は椅子に座りながら言った。ずっと立ちっぱなしで少し足が疲れていた。
チエミが言う今度の展示会とは、秋に本社で開催する新商品の展示会のことで、私が所属する企画部では4つのブースを出展することになっており、その内の1つが私の担当だった。展示会では商品部がそれぞれの部門の新商品を発表するだけでなく、私が所属する企画部が季節やトレンドに応じたコンセプトで、商品を取りまとめたブースを展開する。私たちの会社はインテリアメーカーとして、敷物やクッション、寝具、水回りなどで使うマット類、雑貨などの商品を多く取り扱っているから、1つのブースで扱うアイテムは多岐にわたる。
ブースの主役となるのは敷物などのいわゆる大物だけど、小物にこだわらないとブース全体の雰囲気のバランスが崩れてしまい、どうしてもチグハグな印象になってしまう。先に大物のデザインを決めてから小物のデザインを煮詰めていくやり方が効率がいいと周りは言うけれど、私はそのやり方がどうしても症に合わなくて、効率は悪くても小物から決めていくやり方をいつも選んでいた。
「私はどっちかと言うと右のほうが好きかなぁ」チエミは言った。ここ数日間ずっと同じ図案を眺めていた私にとって、どっちが良くてどっちが良くないかなんてもはや分からなかった。頭がだいぶ疲れている証拠だった。「だいぶお疲れムードだね」私の顔を見てそう言うチエミに、「まぁね」と私は苦笑した。
「今度、なんか美味しいもんでも食べ行こうよ」チエミはいつもの明るい笑顔でそう言った。
「いいね。久しぶりに2人でどっか行きたいね」私がそう言うとチエミはウンウンと頷いた。チエミの笑顔を見ると、私も少しだけ明るい気持ちになれた。
それから私は図案を眺めたり、また新しい図案を持ってきたり、チエミは相変わらずパソコンを扱ったり、たまに商品部の人や得意先と電話をしたりして午前の時間を過ごした。
「そういえば先週大阪支店行ってきてさ」チエミは仕事がひと段落ついたのか、思いっきり伸びをすると、そう言った。
「商談?」私は図案を整理しながら言った。
「うん。まぁ、仕事の話は置いといてさ、阿部ちゃんの家に泊まらせてもらったんだよね。宿泊代浮くし、商談が金曜だったから土日遊べるしで」
「あぁね。阿部さん、元気だった?」私が図案をテーブルの横にやって、手を休るとチエミはケラケラと笑いながら「だいぶ太ってたよ」と言った。
チエミの言う阿部さんとはチエミの彼氏だ。年齢はチエミより2個上。大卒で私と同い年、同期でもある。阿部さんとチエミは元々大阪支店の勤務で、去年の秋にチエミが本社のある福岡に異動することになってから、遠距離恋愛になっている。
以前チエミから聞いた話では入社して半年くらいで付き合うようになったと言う。周りの同期は前々から気づいていたらしいけど、私は2人がそう言う関係にあることは去年の忘年会で知った。
「神谷も、よぉ今まで気づかへんかったなぁ!」と阿部さんはタバコを吸いながら笑っていたが、チエミはチエミで「みちるらしいね」と笑っていた。
「でも、阿部ちゃん、来期には主任になるかもって言ってた。やっぱ支店は本社と違って、進むの早いなーって思ったよ」チエミは机にもたれると言った。
「そっか、すごいね」私は言った。
「本社来てからのしがらみの多さには本当辟易するよ。関わる人も多い分、周りのことも気にしないとやっていけないしね。支店の頃はもっと自由だったなぁ」そう言いながら、ため息をつくチエミに「まぁね、分からなくもないけど」と私は何気ない相槌を打つ。
チエミが言いたいことは、私も分からなくはなかった。確かにチエミの言う通り、何かにつけ気づかいを求められたり、少しでも会社の方針や今までのやり方にそぐわないところがあると何かと小言を言われるのは本社にありがちなことだった。チエミが本社に来て以来、支店の時の話や本社に来てからのギャップなどを聞いていると、それが本社特有のものなんだなと気づかされることも多い。「正直、支店の方が価値観的にも進んでそうな感じはあるよね」うまく言葉にできなかったけど、それがチエミの話を聞いての私の率直な感想だった。
「本社に戻ってきたばっかりで、こんなこと言うのもなんだけどさ」チエミは開きっぱなしだったノートパソコンを閉じた。「なんか、地元戻りたいって思ってしまったよ」
「そうね」私はなんとも言えない気持ちで言った。
「うん」チエミは天井を見つめながら言った。
地元に戻るチエミの姿を思い浮かべると、私は少しだけ寂しい気持ちがした。チエミが本社に来てくれて、私は嬉しかったのに。でも、その思いを口にできるほど、私も口が上手いわけではない。
お互いしばらく黙っていたら、お昼休憩の時間を鳴らすチャイムが鳴った。
「わ、もうお昼か」チエミが言った。
「そうだね」私が椅子から立ち上がると「今日のおかずなんだろ」とチエミも立ち上がった。
資料室を出ると、目の前の事務所から、昼休憩に向かう社員たちがゾロゾロと出てくるのが目に入った。
確かにこれだけ人がいるとチエミがうるさがるのも分かるなと思った。
幸いにも、今日のおかずは私が食べれるものだった。朝の直感は社長の機嫌が悪いということで当たりだったのかもしれない。
2
私がチエミと、14人いる同期の中で特に仲が良くなったのは、入社して少し経った頃に開いた同期会がきっかけだった。居酒屋の大部屋に集まった私たちはまだお互いの名前を覚えるのが精一杯で、会話の端々に自己紹介めいたフレーズが飛び交っていた。
「えっと、確か・・・神谷さん、だよね?デザイン系の部署だっけ?」隣に座るチエミが私にそう話しかけた。
「そうそう。新久さんは、営業・・・だったよね?」私はぎこちなくそう聞いた。
「そうそう!よろしくね!」チエミはビールを片手に、明るい笑顔でそう言った。
ぎこちなく会話する私とは違って、気がつくと周りの同期たちは打ち解けている様子だった。笑い声が飛び交い、誰かが冗談を言ってまた笑い声が飛び交っている。
「そういえば、新久さんって、本好きなの?」会話を続けようと、私はチエミにそう話しかけた。
「え?まぁ、そうやけど、それがどうかした?」チエミは少し赤くなった顔でそう言った。
「いや、さっき本屋で会ったから」
「あぁ、さっきのね」
飲み会が始まる前、私は集合場所に思ったよりも早い時間に到着して、暇つぶしに入った近くの駅の本屋でチエミを見かけた。第一印象で言うとチエミは性格的にも見た目的にも割と派手な方だったから、どちらかと言えば私はチエミから距離を置いていた。それもあって、飲み会の前にチエミとばったり会うのはちょっと気まずい感じがして、私はそのまま本屋を後にしようと思ったけれど、チエミも私に気づいたようで、チエミは私の顔を見るなり手を振ってきた。それに対して私も軽く会釈をすると、チエミは私の方まで歩いてきて「早いね」とニコニコとした笑顔で話しかけてきた。
チエミの言葉に「えぇ」と愛想笑いする私に、彼女は笑顔を崩さず「なんか買いに来たの?」と聞いてきた。
「いや特に」私がそう言うとチエミは「そっか」と言って「私はもう少し見たいのあるから、また後でね」とその場を去っていった。なんか変に気を使わせてしまったようだったけど、それから私は隣の100円ショップやドラッグストアを見たりして、時間を潰した。
「意外と思ったやろ?」チエミはワハハと笑った。口元にはビールの泡がついてた。
「いや、そんな」確かにチエミが本を読んでいる姿はイマイチ想像がつかなかった。
「よく言われんねん、イメージ湧かんって。でも、子どもの頃はほんっと本の虫っつーか、本が友達って感じやったもんな」チエミはビールをテーブルに置くとそう言った。
「そうなんだ」と言う私にチエミはウンウンと頷くと、「こんなこと、まだあんまり話したことない神谷さんに言うのもなんだけどさ、うち、家庭環境が複雑で学校もあんまり上手く行ってなかったからさ、本読んでるときだけが唯一心が落ちつく時間だったんよね」と染み入った声で言った。
「赤毛のアンとか、すごく好きでさ。読んだことある?」
「いや、名前しか聞いたことないかな」私がそう言うとチエミは嬉しそうな顔をして「いい話でね。出てくる人たち、クセは強いんだけどみんなやさしくて、あぁ私もこんな世界に産まれたかったなぁって思ったわけ。それにアンもどこか私に似ててさ、こんなおしゃべりなところとか」そう言うとチエミはまたワハハと笑った。
「好きだったなぁ。自分もその物語の中に入っているようで、どこか遠くの、やさしい場所に行けた気がしてさ」
「今日は何か本、買ったの?」私がそう聞くとチエミは「あぁそうそう」と言って、隣に置いていたバックから薄い文庫本を取り出した。黄色い表紙の本だった。
「デミアン?」
「ヘルマン・ヘッセ。高校生のときに読んだんだけど、また読みたくなってん。その時は何書いているか全然分からへんかったけど」
「そうなんだ」
「ほら、中学校かなんかで習わなかった?そうか、君はそういうやつなんだなって」
「なんかあったね」
「そうそう」
「夏の日の思い出だろ?」急に前から声がしたので、そちらを向いたら、阿部さんがタバコを吸いながら私たちの方を見ていた。
「そうです、そうです。阿部さん知ってるんですか?」チエミは嬉しそうな顔をして言った。
「いや、名前だけ覚えててな。読んだことはないけど」
それから、チエミと阿部さんは2人で話し出した。
飲み会が終わって解散となったとき、家に帰ろうとしたらチエミが私の背中をつついてきた。
「阿部さんたちとカラオケ行くねんけど、神谷さんも来る?」
私が迷っていると「無理はせんでえぇから」とチエミは小声で言ってきた。
「うん。じゃぁ、私はもう帰るけん」
「オッケー。でも、LINE交換してなかったからさ、交換しようよ」そう言うとチエミはスマホを取り出した。
「そうやね」私もスマホを取り出すとチエミは私のQRコードを読み取りながら「神谷さん、すごい話しやすかったからさ、今度の週末一緒に遊ぼうよ」と言った。
「いや、そんな」私が照れながらいうとチエミは「いや、ほんま。なんか、無理して話さんでも、スルスル言葉が出てきて、不思議やった」と言った。
スマホに表示されたチエミのLINEのアイコンには、本を持って口元を隠すチエミの写真が写っていた。
意外と話しやすい人なんだな。それがチエミと話してみての私の感想だった。
それから、飲み会での会話があって以来、私とチエミは会社で顔を合わせれば何かと話すようになった。
私は美術系の大学への進学を機に上京し、今の会社に就職するタイミングで福岡に戻ってきたけれど、チエミは専門学校への入学を機に関西から福岡に来たと言う。専門では写真を勉強していたらしく、人と違ったなにかをやりたいという思いと、写真だったら誰でも撮れるしなにか面白いことができるだろうと考えたのが理由だったらしい。しかしいざ入学してみると、周りはカメラオタクかバンドの追っかけをしているような人たちばかりで、悪い人たちではなかったしそれなりに仲は良かったけど、少し違うなという思いを抱いたまま、気がつけば卒業していたらしい。
そんな感じだったから、今の会社を受けた当初はインテリアメーカーみたいなクリエイティブな仕事なんて絶対に向いてないと思っていたけれど、面接をした当時の社長がチエミの社交性の高さや頭の回転の速さを高く評価し、その場で採用され、営業部に配属となったとのことだった。
会社も大概田舎だけど、それ以上の田舎に生まれ、海やら山やら川やらを見てのんびり育った私と、関西の都会で生まれ、比較的人の多い環境で育ったチエミとでは、お互いの性格は全く違っていた。それでも、チエミの社交性の高さもあって、私はすぐに彼女と打ち解けることができた。
仕事の話、過去の恋愛の話、チエミが最近読んだ小説や漫画の話、私が最近見たアニメの話など、いろんな話をした。チエミは私が好きなアニメに詳しいわけでも、私は私でチエミが好きな本について詳しいわけでもなかったけど、どこかお互い通じるものを感じた。1ヶ月の研修を終えて、チエミはしばらく本社で勤務した後、夏に大阪支店の方に行ってしまったが、機会があって本社を訪れることがあれば一緒に食事に行ったり、私の家に泊まらせることもあった。
「みちるはほんと、純粋で、えぇ子やな~」チエミは酔っ払うたびに、私にそう言ったものだった。
今思えば、酔っ払ったチエミのその言葉はからかい半分で言ったものなのかもしれない。でも、私はその言葉を思い出すたびにチエミに少しずつ近づけた気がしていた。初めて自分を認めてもらえたようで。初めて分かりあえる仲間を得られたようで。
3
朝の10時半。休憩時間を知らせるベルが鳴った。私の会社では朝の10時半と午後の15時半に10分間の休憩がある。その時間になるとみんな休憩所に行って自販機で飲み物を買ったり、喫煙所でタバコを吸ったりする。休憩時間になっても仕事を続ける人はいるが、私はどれだけ仕事が忙しくてもその時間には休憩所に行くか、裏庭に行ってぼーっとしたりするようにしていた。それが、慌ただしい会社の時間の中で迎えることができる、唯一のリラックスの時間だった。
休憩所の椅子に一人で座っていると、隣の喫煙室からチエミが出てきた。チエミは私の顔を見るなり「あっ」と声をあげて近づいてきた。
「みちる、みちる、今度の日曜さ、時間ある?」
チエミはピンクの電子タバコを片手に、目を輝かせていた。
「うん。暇やけど。どうかした?」私は言った。
「いや、気になってるご飯屋さんがあんねんな。太宰府天満宮だっけ?とにかくそこの近くあるカレー屋ねんけど、めっちゃおしゃれで美味しいて評判やねん。せっかくやけ、一緒行こうや」
チエミは隣に座るとスマホを取り出し、カレー屋のSNSを見せてきた。いわゆる古民家カフェ、というのか、昔の家をリノベーションしたお店で、和室をメインにした和モダンな雰囲気だった。カレーもいわゆるスパイスカレー、というのか、いかにもSNS映えしそうな雰囲気だった。SNS映えを狙ったようなカフェ。私には、そんな華やかさは眩しすぎて、なんだか居心地が悪く感じる。チエミは喜んでいるけれど、私はただその美しい内装に目を奪われながらも、心の中で少しだけ距離を置いていた。
「なぁ、どげん?」チエミは楽しそうに聞いてくる。
「いいやんない、行ってみよっか」
正直あまり乗り気じゃかなったけど、せっかくチエミが誘ってくれるならと、私は彼女の誘いに乗ることにした。それにチエミの目があまりにも楽しそうで、どこかその楽しさを共有したくなった。だから私は自然と「いいよ」と答えていた。
「オッケー、決まりね。どうやって行けばええんやろな、車で行ったがええんかいな」
「天満宮は混むけん、電車がいいよ。それか二日市まで車で行って、電車で太宰府まで行くのがいいかもね」
私がそう言うと、チエミは「じゃぁ私、車出すわ。その駅までの道案内頼むわ。みちるの家って確か・・・」と、早速日曜日の段取りを決めた。
休憩の終了を知らせるベルが鳴ると、チエミは「じゃぁ、日曜日よろしくな」といつもの明るい笑顔で言った。
日曜日の朝、約束の時間ぴったりにスマホが鳴った。チエミから「家の前着いたよ~」とLINEが来ていた。
玄関を開けて階段を降りると、すぐ目の前に止まっていた黒い軽自動車から、チエミが助手席の窓を開けて身を乗り出し言った。
「おはよ」
チエミはサングラスをかけ、白のTシャツに黒い薄手のジャケットを羽織っている。いつもの明るく元気なチエミとは対照的に、今日の彼女はどこかクールな印象だった。
私は白のブラウスとベージュのフレアスカートを整えた。昨日の夜、それなりに迷いながら選んだものだ。普段あまりしない格好だったけれど、チエミと一緒に出かけるとなると少しだけ背伸びをしたくなる。
車の助手席に乗り込むとチエミは「さ、行こか。みちる、ナビ頼むで」とクールに言った。
「うん。とりあえず高速まで行こうか」私は言った。
車は高速を目指し、ずっと田舎道を走っていった。雲ひとつない、突き抜けるような青空が広がっていて心地いい。久しぶりの晴れだった。
私は少しだけ窓を開けた。柔らかな風が窓から入り込んでくる。左右に広がる田んぼはどこまでも続いていて、遠くには低い山並みがくっきりと見えていて、鳥のさえずりとかすかな川のせせらぎが、風に混じって耳に届く。そんな穏やかな自然が窓外を流れる中、車内ではパンクロックが流れていた。その音楽が不思議と、自然の風景に妙な調和を生んで心地よく、気がつくと私はリズムに合わせて足で軽く拍をとっていた。
「チエミってパンク好きなんやね」私はふと尋ねた。
「これ?いや、阿部ちゃんが好きでさ。私も聴いてるうちにハマってん」
ハンドルを握るチエミは、目線を前方に向けたまま答えた。チエミの長い髪が風になびいている。
「てか、よくパンクってわかったね」チエミは少し驚いた調子で言った。
「下のお姉ちゃんが好きなんよ。昔の洋楽とか」
私は、高校時代に髪を刈り上げてお母さんに叱られていためぐ姉ちゃんの姿を思い出して、クスりと笑った。
「そうねんな。お姉さん、阿部ちゃんと話し合いそうやわ」チエミはニヤリと笑った。
「これはなんて人?」私はカーナビのモニターを見ながら言った。どこかで聴き覚えのある声だった。
「クラッシュ」チエミはリズムにハンドルに乗せた指をリズムに乗せながら言った。
「あぁ、何かお姉ちゃんがよく言いよったな」めぐ姉ちゃんがクラッシュのボーカルがどうのこうのと言っていたことを思い出すと、この音楽が懐かしく感じられてくる。
「みちるは何か音楽とか聴くん?」チエミは言った。
「あんま聴かんかな。映画のサントラとかアニソンはよく聴くけど」
「そうねんな。音楽と映画っち言ったら、あれ良かったよな。ボヘミアン・ラプソディ」
「あぁクイーンね。お姉ちゃんが福岡帰ってきたとき一緒観に行ったんやけど、バリ泣きよった」
「阿部ちゃんと一緒や!」そう言うとチエミはわははと笑った。その笑い声につられて、私もクスクスと笑った。
そんなたわいない会話をしながら、車は田舎道を駆け抜けて行った。
カレー屋はチエミの言った通り、太宰府天満宮の境内の裏側の路地にあった。一見普通の古びた一軒家で、最初は本当にここがお店なのかと思ったけれど、軒先に「curry and cafe farmou」と手書きで書かれた黒板が立てあった。
「カレーアンドカフェ、ファーモウ?ファーマウ?」私は声に出してみた。
「なんか猫っぽい響きだね」チエミはそう言いながら、引き戸を開けた。カランと古風なベルの音が鳴る。中は外観の古びた印象とは違い、思ったよりも明るくこざっぱりしていた。木のテーブルと椅子が並び、壁にはアンティーク風のポスター、左手にあるカウンターの後ろにある棚にはレコードやCDがびっしりと詰められている。SNSで見た通りの風景だった。
「いらっしゃいませ」
奥から現れたのは、エプロン姿の小柄な女性だった。年齢は五十代くらいだろうか、穏やかな笑みが印象的だった。
「2人です」チエミが軽やかに答えると、女性は「こちらにどうぞ」と窓際のテーブルに案内してくれた。私は「おしゃれだね」と言いながら、椅子に腰掛けた。
「うん、いい雰囲気。なんか、落ち着く感じ」チエミは周囲を見回しながら答えた。お客は私たちの他に大学生くらいのカップルと、観光客の韓国人が4人、それと女性一人がいて、店にあるテーブルの半分以上が埋まっていた。それなりに人気の店のようだった。また、木のテーブルには小さなガラス瓶に挿されたドライフラワーが置かれていた。その横には手書きのメニューカードが立てられている。
「今日はバターチキンカレーがおすすめだって。これにしようかな」チエミはメニューカードを見ながらすぐに決めた。
「迷うなぁ」私はしばらくメニューとにらめっこしていたけど、私もバターチキンにすることにした。
注文を済ませた後、私たちはふと黙り込んだ。私は窓の外に目をやりながら、ほっとした気持ちになっていた。いつも慌ただしく過ぎる会社の時間とは違う、静かな時間が流れている。その気持ちはチエミも同じようで、会社にいるときのキリッとした表情とは違う、穏やかな表情を浮かべていた。
「ここ、知っててよかったでしょ?」チエミが微笑みながら言った。
「うん、なんかこういう場所、久しぶりかも」
私がそういうとチエミは嬉しそうに顔をニコニコとさせた。
「なんかさ、こういう場所って大事だよね」チエミは窓の外を見ながら言った。「日常からちょっと離れられるというか」
「うん、確かに。最近、気づいたら会社と家の往復ばっかりだし、こういうの久しぶりかも」私は頷きながら答えた。
やがて「お待たせしました」という柔らかな声とともに、エプロン姿の女性がバターチキンカレーを運んできた。
「こちら、バターチキンカレーです。辛さは控えめですが、もしスパイスを足したい場合はこちらのスパイスを自由に使ってくださいね」
テーブルに運ばれたカレーは、白いお皿にたっぷり盛られていた。鮮やかなオレンジ色のソースの中央には、生クリームで描かれた繊細な模様が浮かび、添えられたナンはほんのり焼き目がついてふっくらとしている。
「おぉいいじゃん」そう言うとチエミはさっそくスマホを取り出した。
「写真?」私はナンをひとつまみにちぎりながら言った。
「そ。みちるは撮らないの?」チエミは写す角度を気にしながら言った。
「私はいいかな」そう言うと私は手を合わせたあと、早速ナンにカレーをつけて、口に運んだ。「ん、美味しい」自然と声が漏れる。
「でしょ?やっぱここ正解だわ」チエミはまだ口にしていないのに、得意げに言った。
チエミはようやくシャッターを切ってスマホをしまうと。カレーをつけたナンを頬張り、満足げにうなずいた。「おぉ。こりゃ美味い。たまらん」
「でも、こういうのもたまにはいいよね。いつもコンビニか社食ばっかりだし」私がぼんやりとつぶやくと、チエミは口元を拭きながら「だよね。そういうのばっかりだと、なんか気分もささくれ立っちゃうしね」と言った。
「そういえばチエミって、こういう良い店、どうやって見つけるの?」私がそう聞くと、チエミはナンを頬張りながら「なんだろう。感覚?」と言った。
「感覚かぁ」私は言った。
「そう。私って、いいものには敏感だからさ」チエミは冗談めかしく言った。
「いいね」私がそう言うと、チエミはニヤリと笑って「でもさ、みちるもそうじゃない?」と言った。
「そう?」私はナンをちぎる手を止めて言った。チエミはウンウンと頷いている。
「いや。なんかさ、みちるって意外とこだわり強いじゃん。仕事とか、生活とか。自分の中に譲れないものがあるって言うの?そう言うのいいと思うけどなぁ」チエミは当然のことを言っているような調子で言った。
突然そんなことを言われ、私は言葉に詰まった。褒められているようで、嬉しいのは嬉しかったけど、どこかこそばゆい気持ちだった。
「そ、そうかなぁ。頑固なだけだよ」私が笑いながら言うと、チエミはいつもの笑顔を見せて「いいやん頑固でも。みちるらしくていいじゃん」と言った。
そう言われて、私は目の前のカレーをじっと見つめた。チエミとここにいるだけでも、自分が何かに追われていることを忘れられる気がする。この店の穏やかな空気と、丁寧に作られた料理の味、そしてチエミの言葉が、張り詰めた心をそっと解きほぐしていくようだった。その時間に、私は少しだけ自分を肯定されたような気持ちになった。いつも周囲に流されそうになる自分へのなんとも言えない気持ちが、少し和らいでいく。ここにいる間だけでも、自分を許してあげてもいいのかもしれない。そんな風に思えてきた。ずっと、こんな時間が続けば・・・。
「さ、食べよ食べよ」ぼーっとする私に、チエミはそう言った。
「いやー、美味しかったな。お腹いっぱい!」
「ほんと。私もお腹いっぱい」
カレーを食べ終えて、そう2人で言いながらお腹をさすっていたら、さっきの女性がお皿を下げにやってきた。
「どうでしたか?カレー、お口に合いましたか?」女性はにこやなかな笑顔で言った。
「いやあ、美味しかったです。バターチキン、最高でした!」チエミがグットサインを出しながら言うと女性は「それはよかった」とにこやかに言った。私も何か感想を言おうかと思って頷いているとチエミは「お店の雰囲気も素敵ですね。なんだか、落ち着ける感じで」とつづけた。
「ありがとう。そう言ってもらえると嬉しいわ。主人の実家なんだけど、改装してお店にしたのよ」と女性は言った。
「旦那さんのご実家だったんですか?すごいですね」チエミが驚いて言った。
「元々は主人がお店をやりたいって言ったところから始まってね。大変だったわよ」女性は苦笑いをしながら言うと「まあ、最初は不安だったけど思い切って始めてみたら、いろんな人に来てもらって、今は始めてよかったと思ってるわ」と少し照れくさそうに言った。
「そうなんですねぇ。夢を叶えたんですね」そうチエミが言うと女性は「まあ、そういうことかしらね」とお茶目な顔で言った。
「すごいなあ~」チエミはしみじみと言った。女性は「いやいや全然」と謙遜していたけど、続けて「まあ、やりたいことって、不思議と形になるものよ。大事なのは、自分がどうありたいか。あなたたちも若いんだから、頑張りんしゃいね」と言いながらお盆を下げに行った。
「素敵な人だね」そうチエミが言った。
「そうだね」私ももう少し女性と話したかった。
「自分がどうありたいかが大事」女性が、初対面にもかかわらず私たちにかけてくれたこの言葉は、なぜか今の私に響くものがあった。この空間が、自分らしさに満ち溢れているようで、キラキラしていて、私自身も満たされていく感覚がした。会社にいるときとは違う感覚、でもどこか懐かしい感覚に、思わず微笑みたくなった。チエミはどうだろうと聞きたくなったけど、言葉にすると消えてなくなってしまいそうなこの感覚は、私の胸の中にしまっておくことにした。
「はい、これサービス」物思いに耽っていたら、女性が飲み物を持ってきてくれた。淡いルビー色のグラスにシュワシュワとした炭酸水が入っている。
「え?いいんですか!ありがとうございます」チエミが言った。
「うん。うちお手製のサイダー。太宰府にちなんで、梅の味がするのよ」女性が言った。
「ありがとうございます」私も言った。
サイダーはほのかに梅の味がした。シュワシュワとした心地よい舌触りが心地よかった。
お会計を済ませてカレー屋を出るとチエミが言った。
「せっかくだし、お参りしていかない?」
「そうだね」私は言った。
境内は観光客でいっぱいだった。そのほとんどが外国人で、みんな大きなリュックを背負ったり、外国語で書かれたパンフレットを手にそれぞれの国の言語で何かを喋っている。
「凄い人やな・・・」チエミは驚きながら言った。
「年末年始なんてこんなもんじゃなかよ」私は言った。
「せやろな・・・」チエミは終始驚いた顔をしていた。
少し並んだあと、本殿の前で私たちは手を合わせた。思えば天満宮にお参りするのも、高校生ときにお母さんとサツキ姉ちゃん一緒に大学の合格祈願に来た時以来だった。あの頃は大学受験だけがすべてのように思っていたけれど、いざ卒業してみればそれが、人生のほんの一瞬の挑戦と、儚い夢のように思えてならなかった。今の私に願い事なんてあるんだろうか。そう思った。
ただ、久しぶりに境内の前で手を合わせてみると、私の心には、自然と浮かび上がるものがあった。
「今の自分を変えたい」
漠然と、そう思った。今の生活はただ流されているだけなんじゃないだろうか。このままじゃいけないとずっと感じていたことに、ふいに気付かされる。でも、どうやって?ただ自分を変えたいという思いだけが溢れて、何の手段も思いつかなかった。美大に合格しますように。高校のときに祈ったであろう言葉が、今ではどれだけ単純であったことか。
目を開けると、隣で祈りを終えたチエミが「何をお願いしたの?」と聞いてきた。
「うーん、内緒」私は笑って答えた。
それから天満宮の周辺を歩いたり、昔からある古い喫茶店でコーヒーを飲んだりして過ごした。車に乗るころはすっかり西日が差していた。
「今日はどうやった?」チエミが運転席から聞いてきた。
「うん。楽しかった。誘ってくれてありがとう」私はチエミの顔を見ながら言った。
「そう言ってもらえて嬉しいわぁ」チエミはカレー屋の奥さんの真似をしながら言った。
「でもさ、あのお店、なんかみちるに合いそうだなって思ったんよね」
「そう?」
「なんかね、感覚だけど。みちるっぽいな~って」
私は少し考えてから答えた。
「でも・・・なんやろね。あのカレー屋の奥さんみたいに、自分の好きなことをやってる人って、やっぱり素敵よね」
「確かに。夢叶えられるって凄いよな」
「ね」
「みちるは夢とかあるん?」チエミが突然聞いた。
「夢?いや、夢って言われると・・・どうやろ」
私は言葉に詰まった。確かに私も、あんな風に自分の好きなことをやってみたいという思いはあるけど、それが夢と言えるほど大層なものかと言われると分からなかった。私が言葉に窮していると、チエミはふふっと笑いながら言った。
「まあでも、みちるはみちるのままでおった方がええと、私は思うな」
その言葉に私は軽く笑いながら頷いた。
高速を降りて車は夕暮れの静かな道を進み、私の住むアパートに到着した。
「今日はありがとな」チエミが言った。
「こちらこそ」私も言った。
車を降りようとしたら、ふとチエミが言った。「あんなみちる、私、そのうち話したいことあるねんな。今はまだ、ちょっと考え中だけど」
「話したいこと?」私が振り返ると、チエミは「うん。話したいこと」と言った。彼女にしては珍しく歯切れが悪かった。そんなチエミの普段見ない姿に戸惑っているとチエミはニコッと笑って。「まあ、そのうちね。呼び止めてごめんな。じゃ、また明日」と言った。
私は車を見送った。
部屋に戻り一人になった私は、今日の出来事を振り返って思った。カレー屋の奥さんの言葉に、天満宮でお参りした時に感じた自分の気持ち、そしてチエミの言葉・・・。
私も、もう少しだけ勇気を出してみようか。
そう思ったけれど、その勇気をどこに持っていけばいいか分からなかった。
4
車から降りると、サツキ姉ちゃんが玄関から出てきた。
「久しぶりやんね」サツキ姉ちゃんは大きくなったお腹を両手で抱えるようにしながら私の方まで歩いてきた。
「うん」私は車の鍵を閉めながら言った。
実家に帰るのはだいぶ久しぶりだった。いくら職場が福岡にあるとはいえ、実家のある地域は一人暮らしのアパートから車で1時間半はかかる場所にある。バスも電車もロクに通っておらず、帰るとしたら車で下道を通っていかないことには無理だった。しかし今日はおじいちゃんの十三回忌と言うこともあって、さすがに有給を使ってでも帰省することにした。おかげで後輩に仕事を振ることになったけれど。
「めぐみももう来とるばい」サツキ姉ちゃんは玄関に向かいながら言った。
「え、めぐ姉ちゃん来とるったい」私が驚いて言うとサツキ姉ちゃんは「当たり前やろもん。つか、はよ家入らんね」といつものせかせかとした調子だった。
「てか、そげん歩き回って大丈夫なん?」私は小走りで玄関まで行き、引き戸を開けた。
「よかよか。ついこの間まで仕事しよったんやけん、これくらいどうってことなかもん」そう言うとサツキ姉ちゃんはサンダルを脱いで、奥の和室まで歩いて行った。「みちる来たよー」和室からサツキ姉ちゃんの声が響く。
「渋滞しとったげな?」和室に入るなり、あぐらをかいて座っているお父さんが聞いてきた。
「まぁ」私は立ったまま答えた。テーブルの奥におばあちゃん、私から見て右側にお父さん、その向かい側にサツキ姉ちゃんの旦那さんの哲さん、哲さんの隣にサツキ姉ちゃん、その向かい側にめぐ姉ちゃんが座っていた。お母さんは多分台所にいるんだろうと思っていたら、ちょうど後ろからお母さんの声がした。
「あぁ、みちる」驚いたようにお母さんが言った。
「髪短こうなっとったけん、誰か思った」そう言うとお母さんはみんなの前にお茶を置いた。少し前から髪は短くしているけど、それだけお母さんに会うのも久しぶりだった。
「法事は何時からやったかね?」めぐ姉ちゃんの隣に座るお母さんに、お父さんは聞いた。
「12時やけんまだ早かろ。てか、みちる座らんね」そう言うとお母さんは自分の前の方に顎をやった。
「みちるちゃんは今どこに住んでるんだっけ?」めぐ姉ちゃんの向かい側に座ると、哲さんが聞いてきた。
「えっと、会社の近くなんで、柳川です」私は手で顔を仰ぎながら言った。
「あぁ。じゃあ、南の方か。川下りとかある」
「そうです」
「俺、行ったことないんだよね。うなぎとか食べてみたいけど」
「お義兄さん、また食いもんの話しよる」めぐ姉ちゃんがいつもの調子で哲さんをからかうと、哲さんも「いやいや。だって有名じゃない」と笑った。それを見てサツキ姉ちゃんも「基本、食べ物の話しか興味ないけん」と笑いながら言った。
「てか、みちる髪短くなったんやね」めぐ姉ちゃんがそう言うと、サツキ姉ちゃんは「さっきお母さんが言いよったやんね」と言った。
お母さんとサツキ姉ちゃんとはたまに連絡を取り合っていたので久しぶりという感じはしなかったけど、めぐ姉ちゃんは会う機会も少なくて本当に久しぶりという感じだった。元々3姉妹の中で一番おちゃらけて自由奔放なめぐ姉ちゃんは家族の中でも一番のやっかい者で、私が小さい頃からしょっちゅうサツキ姉ちゃんやお母さんに怒られていた。その奔放さは大人になってからも相変わらずで、正直めぐ姉ちゃんが今何の仕事をしているか、私もよく知らなかった。前にお母さんから聞いた話では「ネットを使っていろんなことやっている」とのことだったけれど。
「でも、みちるも仕事忙しかろうに、よう休み取れたたい」サツキ姉ちゃんは私に言った。
「まぁ、どうにか」私は言った。
「みちる、仕事は、どげんね」それまで静かだったおばあちゃんがお茶をすすりながら、ゆっくりとした口調で言った。
「うん。楽しいよ」ありきたりな答えを言う私だったが、おばあちゃんはゆっくりと頷いて「まぁ、なんべん、楽しいのが、一番たい」と言った。
「それな。この間、みちるんところの商品、枕やったけど、使ってみて、えらいよかったもん。やっぱああいうのってみちるがデザインしとったりするもんなん?」めぐ姉ちゃんはペラペラと聞いてきたけど、私は「枕は作ったことないかな」と簡単に返事をした。
「ところで、さっきも哲さんが言いよったけど、ほんとに川下りなんか行ってみたらよかね」めぐ姉ちゃんは続けて言った。 「うなぎもあるしね」とサツキ姉ちゃんも相槌を打つ。 「まぁ、今度みんなで行けばよかろう」お母さんはそう言うと「お父さん、そろそろ準備」と言った。お父さんは「そうやな」と言って立ち上がり、お母さんと一緒に和室を出て行った。
「でも、みちるも、仕事が楽しいのはよかばってん、こっちに戻ってきたらよかとに」急におばあちゃんが静かに言った。 私は一瞬、返事に詰まった。「いや、仕事もあるし」と小さく笑ったが、おばあちゃんの視線は優しくも、どこか鋭かった。
私は末っ子というのもあってか、小さい頃から家族みんなで集まると何かと質問攻めにされたり、身の回りのことを心配されることが多い。一時はそれが嫌で思い切って東京の大学に進学してみたけれど、結局就職のタイミングになって、お母さんから「福岡に戻ってきたら?」とそれとなく言われ、流れるままに福岡に戻ってくることになった。
とは言え福岡の地方で、小さい頃からの唯一の特技だった絵の仕事を活かせる仕事があったのはよかった。それに、慣れない都会での学生生活にちょっと疲れた自分にとって、地方のゆるやかな時間の中や、自然豊かな環境の中で仕事ができるのもよかった。
ただ、ここ1、2年の会社の雰囲気の変化には私自身ついていけないものがあった。今の会社に新卒で入社してもう5年になるが、私が入社した頃は、それこそこの間の朝礼のような刺々しい言葉を聞く機会は少なかったように思う。まだのんびりとしていたと言うか、田舎の会社だからこその良さのようなものがあった気がする。でも、そんな思いをみんなに言えるわけもなかった。
「まぁ、おばあちゃんが言うことも分かるけどね」少し間をおいて、サツキ姉ちゃんが言った。「なんだかんだ、家族ってありがたいもんやし。みちるも仕事ばっかししよったらダメやんね」おばあちゃんはサツキ姉ちゃんの言葉にウンウンと頷く。
「そうて、こんな時くらいしか帰ってこんと、みんな寂しがるばい」めぐ姉ちゃんがそう言うとサツキ姉ちゃんは「どの口が言いよるとね」とピシャリと言った。2人のいつものやりとりを見て私は肩をすくめて笑った。いつもの神谷家のやりとりだった。
「準備できたけん、そろそろ行こうか」しばらくみんなで話していたら、お母さんが襖を開けて声をかけた。
法事は家から車で10分くらいのところにある、大きなお寺で行われた。前に来たのが三回忌の時だったから、もう10年前になる。三回忌の時はまだおじいちゃんが亡くなったことが信じられない気持ちがあって、お葬式の時と同じように涙が出てしまったけれど、さすがに十三回忌となるとおじいちゃんがいないことが当たり前のようになって、大きく感情が揺さぶられることもなかった。
おじいちゃんが亡くなったのは私がまだ中学生の時だった。それまで病気一つしてこなかったのにある日急に体調を崩して、それからあれよあれよと言う間に体が弱っていき、そのままポックリと逝ってしまった。元々おじいちゃんっ子だった私にとって、おじいちゃんが急にいなくなったことは大きなショックだった。病院でおじいちゃんと最後に会った日、おじいちゃんが寝ているベッドの横で、私はただただおじいちゃんの手を握っていた。呼吸器を付けて意識も朦朧としていたにも関わらず、おじいちゃんは私の顔をジッと見て、最後の力を振り絞るかのように私の手を力強く握ってくれた。口下手な私はサツキ姉ちゃんやめぐ姉ちゃんみたいに励ましの声を掛けることはできなかったけれど、お互いの顔をしっかりと見つめ合うだけで、私とおじいちゃんは心から通じ合っているように感じた。そんなことを急に思い出すと、やっぱりまた涙が出てきそうだった。おじいちゃんに会いたいな。そう思った。
お坊さんのお経が終わり、おばあちゃん、お父さん、お母さん、サツキ姉ちゃん、哲さん、めぐ姉ちゃん、私の順でお香を立てた。手を合わせたとき、お香の香りに包まれながら、おじいちゃんと久しぶりに会話をした気分になった。「みちる、元気しとるか?」「うん、元気だよ」久しぶりに心の中で聞いたおじいちゃんの声は気持ちを穏やかにさせた。
法事が終わってから、お寺の近くの中華料理屋でみんなでお昼を食べた。
「みちる、今日は泣かんかったね」私の隣に座るめぐ姉ちゃんがそう言った。
「またそげなこと言ってから」お母さんは呆れたように言うと「まぁ、でもみちるが一番お義父さんに懐いとったけんね」と続けた。
「みちるがよう家ん中で『じいちゃん!じいちゃん!』って大きな声で呼ぶもんやけ『そげんデカイ声出さんと聞こえとるが!』って言いよったの、今でも覚えとるばい」記憶力のいいサツキ姉ちゃんが言った。
「あとみちるの朝起きるのが早かけん、よぉ文句言いよらしたもんね。『まだ寝ときゃいいとに、はよーから起きるが』っち」お母さんは目を細めながら言った。
「早起きなとは子どもの頃から変わらんもんね」サツキ姉ちゃんが笑いながら言うと「今もまだはよから起きようと?」と聞いてきた。
「そげん早くないけど。まぁ、6時半とかには目覚めるかな」そう私が言うと「十分早かやんね。私なんかその時間に寝ることもあるばい」とめぐ姉ちゃんが言ったけど、その言葉には誰も反応しなかった。
みんなとの食事も終わると、サツキ姉ちゃんと私はお母さんたちと一緒に実家に戻った。めぐ姉ちゃんは明日から東京に行かないといけないからと、帰っていった。「家でゆっくりしていけばいいとに」とお母さんは言っていたけれど、めぐ姉ちゃんは「いやいや、いいいい」と言ってそそくさと自分の車に乗った。「まったく」お母さんはやれやれと言った調子で独り言ちていた。
リビングのソファでくつろいでテレビを見ていたら、サツキ姉ちゃんが隣に座ってきた。
「みちるも今日泊まると?」サツキ姉ちゃんは疲れたと言った調子で伸びをするとそう聞いた。
「うん。そうする。どうせ明日土曜日やし」
「そうね」そう言うとサツキ姉ちゃんはテーブルの端に置かれたスマホを手に取り「そういえばみちるさ、Saekiって人、知っとる?」と聞いてきた。
「いや?」私は言った。
「そうね。いや、知らんかなっち思って。なんか、イラスト系のインフルエンサーで。この間YouTubeでバズりよった動画のイラスト担当した人らしくてさ。こんな人なんやけど」
そう言うとサツキ姉ちゃんは自分のスマホを私に渡した。見ると、その人のSNSのアカウントが表示されていた。アイコンにその人が描いたであろうイラスト-カラフルな女の子がヘッドフォンをしているイラストだった-が設定されている。どこかで見たことがあるようなイラストだった。
「なんか見たことあるイラストだなぁ」私がそう言うとサツキ姉ちゃんは「なんか調べたらみちると同じ高校って噂ばい。本名まではわからんばってん」
「同じ高校・・・」私が通っていたのは私立のデザイン科がある学校だから、もしかしたらその人も同じデザイン科の出身・・・
「あ、思い出した」急に合点がいった。絵のテイストも変わっていない。こんなカラフルなイラストをよく描いている子だった。
佐伯美沙。高校時代に一緒にデザイン科で学んでいた同級生だ。確かな絵の才能があって、ルックスも良くて、みんなから一目置かれていた存在。SNSのフォロワー数は100万人近くまで登っていて、その人気ぶりはあの佐伯にとっては当然のことのように思えた。でも、本当にここまでになっているなんて。
「あ、やっぱり知ってる人?」サツキ姉ちゃんが言った。
「うん。佐伯美沙って子。同じクラスやった。東京藝大行った子」
「あぁ、そうそう。東京藝大?よう知らんばってん、なんかとにかく凄い大学出たってネットにも書いてあった」
「そう、東京藝大。3浪したらしいけどね」私は言った。
「3浪げな。でも、そんな凄い人と知り合いなんてすごかやん」サツキ姉ちゃんはニコニコしながら言った。
「いやぁ、知り合いっちゅうか。ただ同じクラスやっただけやし」私は言った。確かに同級生で、知り合いではあるけれど、そこまで彼女と話した記憶もなかった。彼女自身あまり群れないタイプというか、特別クラスの誰かと仲良くしている感じでもなかった。
「どんな人やったん?」サツキ姉ちゃんが聞いてきた。
「変わり者というか、天才肌というか。独特な雰囲気の子やったよ。可愛かったけどね。絵もうまかったし」私は言った。
「そうね。でも、みちるも昔から絵上手かったやん。おじいちゃんもそうやけど、私の似顔絵とかお母さんの似顔絵も描いたりしてくれてさ。まだ、絵は描いたりしとると?」サツキ姉ちゃんは言った。
「いや、もう仕事以外では全然描かん。時間もないし」私は何かに言い訳をするように言った。最後に絵を描いたのがいつなのかも、忘れてしまった。
「そうね。でも、なんかもったいない気もするね。その佐伯さんって子もすごいけど、あんたもあんたで、何か光るものあると思うばってんね。私はみちるが描く絵、好きやったけどなぁ」
その言葉に、私は思わず黙ってしまった。なんだかサツキ姉ちゃんに申し訳がない気持ちがして、リビングの窓から差し込む午後の日差しさえ重たく感じられた。同級生が活躍しているなんて、嬉しいような、悔しいような、不思議な気持ちだった。
その夜、布団に入りながら私はSNSで「Saeki」と検索した。彼女のイラストや、様々な活動が次々と目に飛び込んでくる。有名企業とのコラボや、人気アーティストとのコラボ、個展のお知らせ、ファンとの交流・・・そのどれもがキラキラしていて、まるで別世界のようだった。彼女のインタビュー記事があったので、それも読んでみた。
「『一生懸命さと自分らしさが大事』人気イラストレーター・インフルエンサーSaekiの語る夢の叶え方」
―イラストレーターとして活躍されていますが、Saekiさんにとって絵を描くこととはどんな行為ですか?
小さい頃から絵を描くのが好きでした。中学生の頃、学校でうまく馴染めず、自分の感情を表現できるのが絵だけだったんです。私にとって絵は、“自分らしさ”を確認できる大切な手段なんだと思います。
―SNSでの活動が注目されていますが、SNSを使う上で意識していることはありますか?
正直、最初は自分の作品を表に出すのが怖かったんです。でも、SNSで作品を発信していく中で、自分の絵に共感してくれる人たちが少しずつ増えていきました。それがすごく励みになって。意識しているのは、常に「自分の気持ちに正直であること」。作り手として正直でないと、人の心には届かないと思うんです。
―コラボレーションや個展など、多方面でご活躍されていますね。活動の原動力はどこから来ていますか?
描きたいものが尽きないんです(笑)。それに、誰かと一緒に作品を作ることで、自分ひとりでは気づけなかった新しい表現が見えてくる瞬間が大好きです。それが原動力になっているのかもしれません。
―影響を受けたイラストレーターはいらっしゃいますか?
海外の現代美術などの作家の作品は度々チェックしていて、そこからインスピレーションを受けることも多いです。先日パリの美術館で行われた現代美術作家の作品展に行ってきましたが、どの作品も素晴らしかった。特に、クロード・ヴェルサン氏の作品が良かったです。
―Saekiさんのようなクリエイターを目指す人は多いと思いますが、夢を叶えるために大事なことはなんですか?
一生懸命さが大事だと思います。夢に向かって、諦めず、一生懸命行動していくこと。それと自分らしくあること。夢を目指す中でめげることもあると思いますが、そう言うときこそ自分らしさを思い出して欲しいなと思います。
―最後に、これから挑戦したいことを教えてください。
これまでは「可愛い」「ポップ」といった、明るいテーマの作品が多かったんですが、もっと内面にフォーカスした作品も描いてみたいです。人間の感情って、明るい部分だけじゃなくて暗い部分もあるじゃないですか。それを表現するのが怖くもあり、やりがいがあると思っています。
―ありがとうございました。これからのSaekiさんの活躍を楽しみにしています!
「私だって、一生懸命やってきたんだけどな」
心の中でそう呟いた。もしかしたら、努力の方向性が違っていたのかもしれない。佐伯みたいに自分の夢に向かって一生懸命になれていたら、今の私はどうなっていただろう。胸の中に小さな棘が刺さったような感覚を覚えながら、スマホの画面を閉じたり開いたりを繰り返した。
「まだ寝とらんと?」隣で背中を向けて寝ていたサツキ姉ちゃんが聞いてきた。起こしてしまったようだった。哲さんは小さくいびきをかいて熟睡している。
「あぁ、ごめん」そう言って、私はスマホを閉じて枕元に置いた。
「いや、いいよ。・・・ところで、みちるさ、最近どうなん?」サツキ姉ちゃんは背中を向けたまま聞いてきた。
「どうって、何が?」私は急な質問に少し戸惑いながら聞き返した。
「いやー、仕事とか。なんか思い詰めたような顔しとるばってん」
サツキ姉ちゃんの勘は鋭い。でも、私は「まあ、ぼちぼちやね」と返した。
「そうね。でも、まあ、無理せんごつね」
「うん」私がそう返すと、サツキ姉ちゃんは「じゃあ、おやすみ」と言った。私もそろそろ寝ることにした。
その夜見た夢は、あの日、おじいちゃんと最後に会った日、病院でおじいちゃんと手をつないでいた時の夢だった。おじいちゃんの手の温かさが、私をそっと包み込んでくれる。
「おじいちゃん、私、どうしたらいい?」
中学生の私はおじいちゃんにそう問いかけた。でも、おじいちゃんはじっと私の目を見つめるだけで、何も答えてくれない。
「どうしたらいい?」
じっと黙っているおじいちゃんに何度も問いかけてみたけれど、おじいちゃんから返事はない。ただ沈黙だけが続き、ひどくもどかしかった。
目が覚めた後も、夢の中の問いかけは心に重く残っていた。「どうしたらいい?」と。
第2部
5
月初の朝礼は前月の数字の発表から始まる。会社全体の業績が発表され、商品部全体、各商品部、各商品担当の先月の業績が発表された後、営業部全体、各エリア、個人の業績が発表される。みんな真剣に発表し、真剣に聞いている。社長の表情も、その日はいつも以上に険しく、業績の悪い部門や営業に対しては容赦無く「もっと数字をあげてください」や「今後の対策はどうするんですか?」と声を荒げる。一方、きちんと数字を上げている部門、営業には惜しみなく賛辞の言葉をかける。「すばらしい」や「引き続き成長を目指してください」だとか。
チエミも、その賛辞を受ける内の数少ない一人だった。チエミの業績は私が記憶している限りではここのところずっと順調だ。予算達成は当然のこと、前月比、前年比で言っても100%を越えることは当たり前だった。「新久ちゃん相変わらずすごいね」そう言う社員の声も聞こえた。そう言う言葉を聞くと、私もなんだか誇らしかった。
数字の発表が終わり、社長の挨拶の時間になった。直感的に、今日の話は長くなりそうだなと感じた。社長の頭上に上がる太陽が眩しさを増す。
「先ほど数字の発表がありましたが、ご承知の通り前月割れ・前年割れという結果になっています。この数字を踏まえて、みなさんがどう動くか、みなさんがどう緊張感を持って、どう自分ごとに落とし込んで、仕事をしていくかが重要になってきます。
そこで、9月にも研修会が行われますが、今回の研修では定量化をテーマにみなさんには目標を設定していただきます。定量化とはなんぞやという話ですが、まずはみなさんの仕事、部門ごと、個人ごとの仕事を定量化していただき数字に落とし込む。それを踏まえて、どうその数字を上げていくか。どうその定量化した仕事の分量を上げていくか。そうすることで、どう業績に貢献していくか。それを商品部、営業部の方々に限らず、みなさんには考えていただきます。
そうすることでみなさんの仕事を見える化し、より効率よく仕事をしていく方法、より効率よく業績を上げていく方法を考えていただきます。そして、いつも申し上げている通り、その効率化によって空いた時間を各々の自己研鑽に当てていただき、よりみなさんの成長を促していく。そのようなプランを考えています。
何度も言うように、みなさんには成長する責任があります。成長なき者に、成長なき会社に、発展はありません。停滞は悪です。皆さんの圧倒的な成長を期待しております」
周りの社員は社長の一言一句を逃さないかのようにメモを取っている。私はその光景をただ静かに見ていた。数字、自分ごと、定量化、効率化、成長。それがこの会社の、この社長の合言葉だ。今の社長になって何度この言葉を聞いてきたかわからない。まるで洗脳のように、その言葉は私たちの頭の中に染み付いている。でも、心の中でどう感じているのかはわからない。私たちはみんな、同じ言葉を聞いているはずだった。でも、その言葉が本当はどんな意味を持っているのかは、誰も知らないのかもしれない。
朝礼が終わり、事務所に戻ってメールを確認したら、総務から全社メールが届いていた。件名には「9月研修会の課題のご案内」と書いてある。さっき社長が言っていた研修会の件だ。この研修会は毎年夏と冬の二回行われる。これまで何度も参加しているが、課題が追加されたのはここ数年のことだ。社員に、学び続け成長する姿勢を求めているのだろう。
今回の課題は、指定された研修動画を視聴し、その所感をまとめたレポートを提出することらしい。動画の内容は最近話題のビジネス書を要約したものらしく、タイトルには「すべては定量化から始まる」とある。メールに視聴リンクと期限が記載されており、締切は8月末。具体的な内容については動画を視聴してみないとわからないけど、さっき社長が話していた内容とリンクしていることは、タイトルから一目で分かった。動画視聴は自宅でもできるらしいけど、お盆休みがあるとは言え締切が近づくと焦る自分が目に浮かぶ。気持ちに余裕のあるうちに少しずつ進めておいた方がいいのかもしれない。そう思いつつ、カレンダーに課題の期限を書き込んだ。
パソコンに再度向かうと、先週の仕事のつづきに取り掛かった。今作っているのは敷物のデザインだった。画面には先週作った下書きが表示されている。
どこから手をつけようか。
心の中でそう呟きながら、目の前のデザインをじっと見つめる。大枠は決まっているけど、細かい部分がまだ荒い。特に中央の模様。もっと目を引くようにしたいけど、派手すぎるのもいやだ。マウスを動かして、模様の形を少しずつ変えてみる。線を細くしたり、色を調整したり。けど、どれもしっくりこなかった。画面を引いて全体を確認する。悪くはないけど、どこか平凡。もっとインパクトが欲しい。
背景の色を変えたら良いのでは?
ふと、そう思いついて、背景を何色か試してみる。淡いブルー、クリーム色、それから少し落ち着いたグレー・・・。最後のグレーが意外としっくりきた。背景を変えるだけで、中央の模様がぐっと引き立つ。
「これだ!」
小さく声を上げて、今度は模様をもう少し細かく修正する。だんだん形になってきた。仕事が進むと、なんだか気分もノってくる。こういう時は集中して手が止まらない。でも、次の会議が迫っている。時計を見ると、あと10分しかない。データを保存し、一息つく。続きは午後だ。仕事の手を止めて会議の準備をしながらも、頭の中ではデザインのことを考えている。午後にはもっといいアイデアが浮かぶかもしれない。そう思うと、少し楽しみな気持ちになった。
会議が終わり、10分休憩の時間になった。その時間、私は会社の裏庭でぼんやりとしていた。裏庭から見える広大な田んぼと、その奥に霞む山々たち、突き抜けるような青い空は、せかせかとする私の心をいつもそっと癒してくれる。
数字。ふいに、私は今朝の社長の言葉を思い出した。確かに、数字が大事なのは分かる。けれど、私のいる企画部には、その「数字」に直接関わる仕事が少ない。時には長い時間をかけてアイデアをひねり出し、またそれを時に長い時間をかけてデザインに落とし込む。ある意味、この仕事は長い時間をかけ、時間と付き合っていくという意味での、時間との戦いであることを、私はこの5年間で学んだ。効率的かと言われると決してそうではない。むしろ非効率と言い切ってもいいかもしれないが、それでもみんなこの仕事に誇りを持っている。
苦労して作ったデザインを「神谷さんがデザインしてくれたクッション、すごくお客さんに好評だったよ」「神谷さんがデザインした商品をSNSで褒めてる人がいたよ」「私は神谷さんのデザインすごく好きだよ。またいいデザイン作ってよ」と商品部や営業の人たちに褒めてもらえると、飛び上がるくらい嬉しい。しかし、こうも数字数字と言われると、どこか虚しさを感じてしまう。デザインの成果が数字として評価される場は、ほとんどないからだ。
確かに、売れるデザインと売れないデザインがあるのは事実だ。その観点から見ればデザインも数字として評価できるだろう。ただ今月の売り上げはいくらでした、先月比の何%でしたという発表の中では、私たちが施したデザインがその売り上げにどれだけ貢献しているかは発表されることはない。全ては数字の中に消えてしまう。
それに、仕事を定量化すると言っても、そんなことが本当にできるのだろうか。企画部の仕事は、アイデアを出して、それを形にしていく過程だ。それをどうやって「定量化」するのかなんて想像もつかない。アイデアを出して、デザインに落とし込んでいく。その仕事は確かに苦しくもあるが、私にとっては充実した時間でもある。長い時間をかければかけるほど、その充実さや喜びは倍増していくのを感じる。だけどそれを効率化して自己研鑽に充てろ、成長しろなんて、私にとっては仕事の喜びを無理やり剥奪されるも当然だった。
ただ、この広大な景色だけは私の宝物だ。会社の実情は殺伐としたものであったとしても。目を閉じると、川のせせらぎや鳥のさえずりが聞こえる。事務所の方からは、電話の着信音やFAXの用紙が吐き出される音もかすかに聞こえるが、この景色の中ではその音さえも自然が奏でる音のようで不思議と気持ちがよかった。
「お疲れさま」背後から声がした。
後ろを見ると、じょうろを持った野口課長が立っていた。
「リラックスタイムですか」野口課長はニッコリと笑うと言った。
「えぇ、まぁ」私はなぜだかバツが悪い思いでそう言った。
「ここの景色、気持ちいいもんね。私も好きよ」そう言うと野口課長は左手にある花壇の方まで行って、じょうろで水をやった。
野口課長はチエミが所属するエリアの責任者で、2人の子どもを育てながらも、営業として、エリア長として、バリバリに働いている女性だ。私も何度か仕事でお世話になったことがあるが、厳しい物言いの中にも思いやりを感じる人で、チエミが会社の中で最も尊敬する人でもある。「野口課長ってほんとすごいねん!」そう自慢するチエミの姿を思い出す。
野口課長は花壇の水やりを終えると「そういえばさ」と言って、私の方を向いた。
「チエちゃん、最近どげん?」野口課長はじょうろを手に持ったまま、チエミのことを聞いてきた。
「ど、どげん、ですか?いや・・・いつも通りというか、元気ですよ」私は急な質問に戸惑いながらそう答えた。
「そうね」そう言うと野口課長は私の隣に来た。一緒に自然の景色を眺める形で野口課長は続けた。
「いや、神谷さん、チエちゃんと仲良いからさ。ちょっと聞きたいことがあってね」野口課長は言葉を一つ一つ選ぶように言った。
「聞きたいことですか?」私は言った。
「うん。いや、チエちゃん最近悩んでないかなぁって思っててね。ちょっと心配になったけん」
「悩みですか?」私は言った。私が思うに、チエミが悩んでいるような様子はなかった。確かに大阪に戻りたいと言っていたこともあったけれど、特別深刻そうな感じもしなかったから、私は特に気にしていなかった。
「まぁ、私の取り越し苦労ならいいんだけどね。あの子、ああ見えて繊細なところあるからさ。ちょっと無理してんじゃないのかなぁってね」そう言うと野口課長は俯いた。
「そうですか」私は会社で見るチエミの様子を思い返してみた。確かにいつも忙しそうにはしているけれど、チエミはチエミなりに仕事に充実感を覚えているとも感じられた。私に比べたら、チエミは立派に仕事をこなして周りからも評価されている。悩むことなんて、何もないように思えた。
「だからさ、チエちゃんに何かありそうなら、助けてやって」野口課長はそう言うと私の背中をポンと叩いた。
「私にできることなんて、何もないですけど」
「神谷さんはさ、周りが気がつかないようなことに気がつけてさ、縁の下の力持ちっていうの?目立たずとも、周囲のためになっている存在だと思うんだ。会社の中でも。そんな神谷さんだからこそさ、チエちゃんの支えになってあげられるのかなって思ってね」野口課長はニッコリと笑って言った。
「そんな」私は言った。そんなことはない。私は別にそんな誰かの支えになるような人間ではない。そう言いたかった。
「ま、よろしく頼むね」そう言うと野口課長は事務所の方へ戻っていった。
チエミの支え。その言葉は私を不思議な気持ちにさせた。私がチエミの支えになる。そんなことができるんだろうか。でも、それは私とチエミの関係性が特別なものになるようで、私はどこか喜びのようなものを感じていた。でも・・・・。
休憩の終わりを知らせるチャイムが鳴った。
野口課長が言うように、チエミをどう支えるか。すぐにどうすればいいと言うのは分からなかったけれど、今後チエミのことはちゃんと注意してみるようにしようと思った。
事務所に戻り、チエミの席に目をやった。チエミの姿はそこにはなかった。多分お客さんのところに行っているんだろう。そうそうすぐに行動には移せなくても、チエミと話すことで得られる何かを、私は求めていた。
6
7月も気がつけば中旬になり、暑さが増してきた頃だった。朝から嫌な予感がした。まるで鉛を呑み込んだような気持ち悪い感覚が、胸の中を離れない。理由なんてわからない。けれど、今日は何かが起こる。そんな嫌な予感が離れなかった。もしかして、チエミのことだろうか。野口課長の言葉を受けて、私はチエミのことをいつもより気をつけて見るようにしていたけれど、特にチエミに変わった様子はなさそうだった。それ以前にいつも忙しそうにしていて、外出や出張ばかりで会社にいる時間も少なかったものだから、なかなか話す機会もなかった。それでも、この嫌な感覚はなんなんだろう。私は重たい鉛を吐き出すように、思いっきり声をあげてベッドから起き上がった。
会社に着くと、早速チエミの席を確認してみた。だけど、いないようだった。ホワイトボードを見ると、明日まで出張と書かれている。直感は、チエミのことではなさそうだ。少し安心しながらも、私はデスクに座り、机に手を置いたままぼんやりと外を眺めた。青い空が広がる窓の向こうで、何かが始まろうとしている気がした。
昼休憩になり食堂に入ると、いつもと違う雰囲気を感じた。社員みんながざわついている。何があったんだろう?みんな食堂の奥に設置されているテレビに釘付けになっている。私は急いでおかずとご飯を盆に置いて椅子に座った。忘れかけていた朝の胸騒ぎを思い出す。
テレビにはもうもうと煙を上げる建物の映像が映されていた。テロップには、著名なアニメ制作会社で火事が起きたと書かれている。スマホにも確か、そのニュースの通知は出ていた。その時は「ボヤ騒ぎかな?」と思っていたけれど、まさかここまでの大火事になっていたとは。
「放火らしいね」
「怖いわねぇ」
「こりゃひどいな」
食堂のざわめきは、まるで自分がその場にいないような感覚を抱かせた。画面には、黒煙が空に向かって昇る映像と、消防車が建物の周囲を囲む光景が次々と映し出されている。現場の凄惨さがテレビ越しにも伝わってくる。テレビの目の前にいたおじさん社員がテレビの音量を少し上げると、アナウンサーの落ち着いた声が私のいる入り口のところまで聞こえてきた。
「先ほど火災が発生したのは、国内でも有名なアニメ制作会社の本社ビルです。この火災による被害状況はまだ完全には把握されておりませんが、被害は数十名に及ぶとの情報が入っており、未だ中には社員数十名が____」
被害は数十名に及ぶ。そして未だ中に人がいる・・・その言葉を耳にした途端、食堂のざわめきがどんどん遠くに消えていった。被害者数十名?中に人がいる?じゃぁ、クリエイターの人達も被害に?そしてあの中に?
頭の中では、次々と過去の記憶がフラッシュバックしていった。子どものころに夢中になった彼らの作品たち。私に絵を描くことの楽しさを教えてくれた、あの世界。心にずっと抱え込んでいた思いを歌に乗せて高らかに歌い上げるシーン、仲間たちを思いやり共に協力し合うシーン、セリフはなくただただ美しい情景と美しい音楽が流れるシーン。思い出すだけて心がじんわりと温かくなる、あの作品たち。それを見る私。誰もいない家のリビング。毛布をかぶる。そして・・・。
次第に暗い記憶を思い出してきそうで、私は頭を振り払った。気がつくと、ニュースは別の事件を報道していた。「福岡市で、車2台が絡む事故があり____」私の頭の中には黒煙を上げる建物の映像が残像のように残っていた。
味のしないご飯を食べ終えて、少し休んでも、気の落ち込みは拭えなかった。午前中は捗っていた仕事も、午後になると全く進まなかった。気持ちを切り替えようと何度も深呼吸をしてみたものの、心のざわめきは静まることがなかった。どうしても、頭の中に、黒煙を上げる建物の映像がちらつく。作品を作る人たちが、あの中で何を思い、何を守ろうとしていたのか。彼らの姿を想像すると、やり場のない無力感に押しつぶされそうになった。
重たい気持ちを引きずったまま午後の時間を過ごし、定時を少し過ぎた頃、私はその日の業務を終えることにした。仕事は何も進んでいなかった。でも、とても仕事をできるような気持ちじゃなかった。
事務所のドアを開けると、重たい空気の中から抜け出すように、外へ出た。倉庫の明かりが、暗くなった空にぼんやりとにじんでいる。まだ残って仕事をしている現場の人たちに後ろめたい思いを抱えながら、私は車に乗り込んだ。
信号待ち、ぼんやりと窓の外を眺めた。遠くにある線路に緑色の急行電車が通る。電車の中には仕事帰りの会社員や学校帰りの学生たちがすし詰になっている。ああやってそれぞれの人生を懸命に生きている人たちを見ていると、自分だけが取り残されたような気がする。反対の窓に目をやると、自転車に乗った女子高生が楽しそうに笑い合って同じく信号を待っている。どこを見ても、いろんなものが輝いていて、目を閉じたくなった。昼休憩のときにフラッシュバックした記憶がまた蘇ってきていた。思い出したくないような、あの頃の記憶。
中学2年生の頃、私は学校に行けなくなった。不登校になった理由はよく分からない。ある日突然、私は教室に入れなくなった。制服に着替えて学校に行く。ここまではできた。でも、いざ教室の前に立つと足がすくんだ。2年1組。そのプレートを見るだけで嫌な汗が止まらなかった。動機が止まらなかった。
怖かった。クラスのみんなの声、先生たちの声が。クラスのみんなの視線、先生たちの視線が。別に何か悪いことをしたわけでもないのに。ただ真面目に授業を受けて、授業が全部終わったら、部室に行って絵を描いていただけなのに。怖かった。教室の何もかもが。学校の何もかもが。
そんな私の姿を見かねた先生が、保健室での登校を勧めてくれた。そこから私は保健室に登校するようになった。保健室の先生しかいない白く静かな部屋は、学校への恐怖感を少しだけ和らげてくれた。
でも、次第に保健室に行くことも怖くなった。
そして学校に行くことも。そして制服に着替えることも。
そして家を出ることさえも。そして布団から出ることさえも。
そして朝目が覚めることさえも。そして息をすることさえも。
怖くなった。全てが怖くなった。
誰かに見られているようで。誰かに攻められているようで。誰かに・・・誰かに・・・誰かに・・・。
そんな中、誰もいない家のリビングで一人アニメを観る時間が、唯一の救いの時間だった。それが彼らの作品に出会ったきっかけでもあった。頭にかぶった毛布の感触は、今でもはっきりと覚えている。
「あの人たちの作品がなかったら、きっと私は生きていられなかったかもしれない」
そう思うほど、私の人生には、彼らの作品が欠かせないものだった。どん底にいた私を、生きることの全てにさえ恐れを抱いていた私を、生きてみたいと思わせてくれた。私と同じような境遇にいる主人公が自分を取り戻していく物語。逆に私とは性格も見た目も正反対だけどどこか親しみを感じる登場人物達の冒険譚。彼らが織り成す物語は私の心を暖めてくれた。
私だけじゃないんだ。
そう思った。
自分は一人じゃない。
そう感じた。
それだけに、私の人生に大きな影響を与えた彼らを失ったことの喪失感はやはり大きい。胸にぽっかりと穴が空いたような感覚。言いようもない寂しさを、感じる。
寂しさ。
おじいちゃんが亡くなったときのことを不意に思い出す。そう、あの時もそうだった。
きっと私が大人になるまで生きているだろうと思っていたおじいちゃん。私が学校に行けなかったあの頃、白柴のタローと一緒に車で海まで連れて行ってくれたおじいちゃん。口下手な私の話を「うんうん」と言って聞いてくれたおじいちゃん。「みちるやぁ」と、優しい独特の声で私を呼んでくれたおじいちゃん。おじいちゃんの家の大きなテレビでアニメを観る私を、後ろで静かに見守っていたおじいちゃん。
なんで死んじゃうの?なんで何も答えてくれないの?なんで私の名前を呼んでくれないの?私はここにいるよ。一緒に散歩しようよ。タローが吠えてるよ。また海に連れて行ってよ。一緒に動物園に行く約束はどうしたの?おばあちゃんが作ったお弁当を持って一緒に行こうって行ってくれたじゃん。ねぇなんで?なんで?なんで?私はどうすればいいの?私は誰と一緒に歩けばいいの?私は誰と一緒に過ごせばいいの?
言葉にできない寂しさ。持って行き場のない感情。まるで同じだ。同じ感情を、同じ喪失感を、私はまた、味わっている。もう二度と、あんな思いはしたくないと思っていたのに。もう二度と、あんな寂しさは味わせないでくださいと、神様にお祈りしたのに。
・・・・
複雑な感情の中に、ある一つの思いが混ざり始めていた。
私も、誰かに、「生きてみたい」と思ってもらえるようなものを作れるだろうか?
いや、それ以前に、何かを作りたいと思う資格が、世間の人々に愛される資格が、私にあるのだろうか?
印象に残る作品たちは、そしておじいちゃんは、直接的な言葉を使って何かを教えてくれた訳では決してない。それでも、生きていく上で大切な事をそっと、私たちだけの秘密のように教えてくれた。言葉にできない何かで。例えばその物語で。例えばその生き様で。
作品たちは、おじいちゃんは、大切な事を私だけにそっと教えてくれたと言うのに、それなのに、当の私は何をやっていると言うのだろう。私がデザインした商品が一体、今、デザインしている商品が一体、どれだけの人を幸せにすると言うのだろう。誰に、大切なことを教えられると言うのだろう。きな臭い思想を持った社長がいる会社の商品を、きな臭い思想をおいそれと受け入れている私のような人間が作っている商品を、誰が大事にしてくれる言うのだろう。そんな仕事にどれだけの意味があるのだろう。そんな自己否定の感情が渦巻き始めた。
自分が何も持たないちっぽけな存在のように思えてきて、焦りばかりが募る。私は何も残せていない。私は何も持っていない。私は何者でもない。
私は・・・私は・・・私は・・・・。
周囲を見回せば、自分の才能を開花させている人ばかりが目につく。自分の人生を歩んでいる人ばかりが目につく。自分らしく、素敵に生きている人ばかりが目につく。私と同い歳の人でも、私より若い人でも。
例えば、佐伯。
彼女のSNSには、彼女のオリジナリティにあふれた作品たちが並んでいる。またその作品たちに、多くの賞賛の声や感嘆の声が溢れている。100万人近くいるフォロワーの中には私の好きなイラストレーターやクリエイターの名も記されているし、彼らとの交流の様子も投稿されている。
また最近では、デビューしたばかりのスリーピースロックバンドとコラボし、そのアートワークが話題になっていた。バンドのメンバーと肩を並べる佐伯の姿が投稿された写真は、まるで別世界の住人のように輝いている。佐伯も、そのバンドのメンバーたちも、みんなキラキラしている。みんな可愛いメイクをして、可愛い服を来て、隅々まで輝いている。自分らしさに溢れた人たち。同じ人間とは思えなかった。羨ましい。妬ましい。それ以上の言葉が見つからなかった。
もし何も見えなければ、少しは心が楽になるだろうか。この負の感情もなくなるだろうか。
後ろからクラクションの音が聞こえた。気がつくと信号は青になっていた。どれくらいの時間物思いに耽っていたのだろう。私はハンドルを握り直し、アクセルを踏み込んだ。
帰宅しても気分の落ち込みは拭えず、コンビニで買ってきたうどんで夕食を済ませた。テレビをつけようかと思ったけれど、またあの映像を見せられると思うと気持ちが重たかった。
ご飯を食べ終えてじっとしていると、サツキ姉ちゃんから着信が来た。
「もしもし?」私は3コール目で出た。
「あぁ、みちる?いま大丈夫?」サツキ姉ちゃんはいつものハキハキとした声で言った。
「大丈夫やけど」久しぶりに声を出す気分だった。
「うん。いや、お母さんの還暦祝いなんっちゃけどさ」そう言うとサツキ姉ちゃんは8月に還暦を迎える母に送るプレゼント電子オーブンにしようと思っていること、なぜなら前から電子オーブンを欲しがっていて、今使っている電子レンジも古くなってきたし、この間バラエティ番組で家電の特集があっていてそこで紹介された電子オーブンがすごく良さそうだったと言っていたから、と言うことをいつもの早口で言った。
「そういうわけやけんさ、で、その電子オーブンが5万くらいするっちゃんね。私2万出すけん、みちるとめぐみで1万5千ずつ出してくれんやか?めぐみにはもう言っとるけん」
「わかった」私は簡単に返事をした。
「ありがと。じゃぁ、また買ったら教えるたい。その時私の口座に振り込んで」
「わかった」
「ところでさ、この間お腹の中の赤ちゃんの3Dエコー撮ったっちゃん。そしたら赤ちゃんの顔がさ、みちるにソックリやって」サツキ姉ちゃんがお腹をさすりながら言っている姿が目に浮かんだ。
「そうなんだ」私は少し笑いながら言った。今日初めて笑った気がした。
「そうそう。目の当たりがね。でも、最近の3Dエコーってすごかね。あげんハッキリ分かるったい」
「見てみたいね」私は言った。
「じゃぁ、後で送るたい。ほんとそっくりやけん」そう言うとサツキ姉ちゃんはケラケラ笑った。
「あぁ、あと、そういえばさ」
そろそろ話が終わるかなと思っていたけれど、サツキ姉ちゃんはまだ話を続けた。一度捕まると話が長いのがサツキ姉ちゃんのいつものパターンだ。なんでも法事の次の日、私が帰った後、哲さんがお母さんの押入れの整理を手伝っていたら、私が子どもの頃に地域の絵画コンクールで入賞した作品と賞状が出てきたらしく、捨てるのももったいないので今度私の家に送ると言うことだった。別に捨てようがどうしようが構わなかったし、送られてきても正直困るけど、何かとお節介なお母さんとサツキ姉ちゃんらしいなと思って、適当に「ありがとう」と返事をしておいた。
そこからまた、めぐ姉ちゃんに連絡を取ろうと思ったけど相変わらず繋がらなかったこと、心配はしているけどSNSを見る限り元気にやっているし、4、5年付き合っている彼氏とも続いているであろうことなどを早口でまくし立てた。
「にしても、改めてみちるが描いた絵見るとさ、みちるうまいよねー。あの頃は天才画家にでもなるんじゃないかと思ってたけど」一行に話が終わる気配もないなか、サツキ姉ちゃんはそう言った。
「まさか」私は笑った。そろそろ電話を切りたかった。
「うん、まぁ、とりあえず届いたら見てみてよ」サツキ姉ちゃんも話し疲れたのか、少し声のトーンが落ちている。
「そうする」私は言った。
「まぁ、今からでも遅くないと思うけどね」少し間をおいてサツキ姉ちゃんは言った。最初からそれを伝えたかったのかもしれないと、ふと思った。
「どうやろうね」
「まぁ、みちるはみちるなりにね、元気にやればいいさ」
「ありがとう」
「じゃ、またね」
そう言うとサツキ姉ちゃんは唐突に電話を切った。好きなだけ話すと後はそっけないのもサツキ姉ちゃんの特徴だった。時計を見たらもう22時を回っていた。早くお風呂に入って寝なければ。サツキ姉ちゃんの覇気に押されてか、帰って来た時よりは少しだけ気力が戻っていた。
その晩、夢を見た。子どもの頃に見た景色だ。
右手でしっかりとクレヨンを握りしめて、真っ白な画用紙を私の好きな色で埋めつくしていく。青、赤、黄、緑。色とりどりの線や形が紙の上で踊る。
私は、満たされていた。今、ここに自分がいるという感覚。今、ここに自分がいていいという感覚。こんな気持ちになるのはいつぶりだろう?そんな思いが大人の私の頭をよぎる。画用紙は色とりどりのクレヨンで塗られていくのに、私の頭は真っ白だった。でも、それは悪くない感覚だ。
画用紙は、ぼんやりとした色合いから、次第にくっきりとした輪郭を持ち始める。
何を描いているのだろう?
耳元で、誰かの声が聞こえる。
「何を描いてるのや?」
やさしくて、あたたかい声だった。振り向くと、おじいちゃんが立っている。
そこで、目が覚めた。身体が少し重たい。さっきまで見ていた夢のあたたかさや充実感とは裏腹に、現実に目覚めときの感触は、どこか重たく、薄い灰色の感覚がある。
ぼんやりと、天井を見つめる。さっきまでの夢のあたたかさが、現実の冷たい空気にあっという間に吸い取られていく。いつもの直感は、私の心を重たくした。
3日後、サツキ姉ちゃんが送った私の絵が届いた。
それはおじいちゃんと一緒に柳川の川下りに行ったときに描いた絵だった。川を下る船に私とおじいちゃんが座っている様子が、遠くの視点から、柳を透かして描かれていた。
7
放火事件から2週間が過ぎた。犠牲者は35名にのぼり、犯人の身勝手な動機が報道で明らかになるたび、世間からは憤りの声が溢れた。「史上類を見ない凶悪事件」という言葉がテレビや新聞、ネットに並んだ。
ただそれ以上に多くの人々の心を打ったのは、亡くなったクリエイターたちの存在だった。彼らが生み出した作品の数々は日本文化の象徴として、国内外で多くの人々に愛されてきた。ネット上には「ありがとう」という感謝の言葉や、彼らが残した作品の思い出を語る投稿が絶えなかった。私も、何度も心の中で「ありがとう」を伝えた。いつまでも落ち込んだ気持ちを引きずってはいられない。そう思い、私はまた慌ただしい日々の中に戻っていった。
ある日の仕事帰り、駐車場で、営業車から降りてくるチエミと遭遇した。駐車場は夏の夕焼けが薄く広がる空の下、静まり返っていた。チエミは外出先からの帰りのようだった。
「お、みちる!」チエミはにっこりと笑いながら手を振った。営業車のエンジンの匂いが微かに漂う中でチエミの声が響く。
「あ、おつかれ」私は言った。
「なんか久しぶりに会う気がするねんな」
「そうやね」
「お互い忙しいからな。にしても、疲れたぁ~」
そう言うとチエミは営業車にもたれかかって、大きく伸びをした。その顔には、相変わらずの忙しさに追われる、日々の疲れがにじみ出ていた。
「忙しそうやね」私はチエミと一緒に車に背中を預けた。
「ほんと。今あそこと進めてるプロジェクトが遅々として進まんでな。今日もずっと先方の会議室で缶詰やったねん」そう言いながらチエミは後ろの方を親指で指した。チエミが言うあそことは会社の主要取引先である全国展開の大手ショッピングセンターのことで、チエミが指を指した方向はちょうどそこの九州支社がある博多方面を指していた。
「あぁ~もう嫌になるわぁ」チエミは苦笑いをしながら言った。
「でも、すごいよ。あんな大手と一緒にプロジェクト進めるなんて」私は下を向いたまま言った。今日の私は何をしただろう。私の仕事も進んでいなかったけど、それはただ私が怠惰なだけで、チエミのように活発な議論を交わして遅くなったわけではなかった。ただぼーっとパソコンの前で座っていただけだった。いくら気持ちを明るくしようと努めても、ここ最近はずっとそんな感じだった。
「たまたま大阪おったときの上司の紹介で関わることになっただけよ」そう言うとチエミは力なく笑った。チエミの横顔と力無い声にはだいぶ疲れがにじんでいた。
「てかさ、今度の研修の動画やけどさ、みちる観た?」急に元気な声でチエミは言った。
「あ、私まだ観とらん。忘れとった」私は驚いて言った。本当に忘れていた。
「あら珍しい。でも、私もねんな。あれやったらさ、今度一緒観らへん?私ん家、テレビでネット見れるから」チエミはいつもの明るい顔で言った。
「いいね」正直動画を一人で観る気力は今の私にはなかった。でも、チエミと一緒なら観れるだろう。そう思った。彼女の明るさは、不思議と私の重い心を軽くしてくれる。
「じゃぁ、どうしようか。金曜の夜でもうち来る?」
「いやぁ、昼がいいかも」
「そ。じゃぁ、土曜の昼にでもうち来てよ。ピザでも頼もうや。何時に来るかまた連絡して」
そう言うとチエミは事務所の方へ戻っていった。
チエミの家に行くのは初めてだった。柳川駅の近くだと聞いていたので、駅まで来てもらうことにした。バスは本数が少なく、車で行くのも億劫だったので、歩いて向かうことにした。11時前に駅に着くと1階にあるコンビニの前にチエミがいた。
「よっ」チエミは軽く手を挙げて言った。少し寝ぼけたような顔をしている。
「起きたらもう10分前とかだったからさ。慌ててきちゃったよ」そう言って苦笑いするチエミは恥ずかしそうに肩をすくめた。今日のチエミはニコちゃんマークのようなロゴが入った黒のTシャツに、下はグレーのスウェットと言ったラフな格好をしている。すっぴんで髪もボサボサだった。普段のきちんとした姿とのギャップが大きくて、何だか不思議な気持ちだった。
「すぐそこだから」そう言うとチエミは歩き出した。いつもの軽やかな足取りについていくと、こんないい加減なチエミも何だか彼女らしくて、すぐにいつもの親近感を抱いた。
チエミの部屋は服やら本やらCDやらで雑然としていた。机の上には読みかけの本が開いたまま置かれていて、部屋に入ってすぐ右手にある銀色のCDコンポには、開きっぱなしのCDケースが置かれていた。よく見たらこの間佐伯がコラボしていたバンドのCDだった。
「ごめんね散らかってて」そう言うとチエミは床に置いてある服をベッドの上に置いて、私が座るスペースを作り、クッションを敷いてくれた。
「ピザが11時半に来るねんな。どうする?もう動画見る?」そう言うとチエミはベッドの上に腰掛けた。
「そうだね。もう先にすませよっか」私はクッションに座ると言った。
「オッケー」そう言うとチエミはベッドの中からテレビのリモコンを取り出して、電源をつけると、研修の動画を再生した。
「どうも!こんにちは!今回は、今話題になっている、こちらの『すべては定量化から始まる』こちらの本の内容を紹介していきたいと思います!まず定量化ってなんやねんって話かもしれませんけども、一言で言えば・・・・」
研修の動画は案の定、大して興味を抱くものではなかった。私たちが小学生くらいの時だったか、当時大きく話題になったお笑い芸人で今は動画クリエイターとして活躍している人が、ホワイトボードを前にペラペラと本の内容をしゃべっている。
「こういうの、見るだけ無駄だよね」
動画の途中、チエミが唐突にそう呟き、大きなあくびをすると、彼女はベッドに仰向けに寝転がった。
「まあ、何か学びがあるんだろうけど・・・」
私は適当に合わせて笑ったものの、心の中では同じことを思っていた。どうせこれを見たところで、仕事が劇的に楽になるわけでもないし、誰かの営業成績が急に伸びるわけでもないだろう。
動画の中では、芸人がオススメのアプリを紹介している。タイムマネジメントをする上ではこのアプリは欠かせません!とテレホンショッピングさながらにそのアプリの宣伝をしている。
「こういうの、現場で使えるもんなん?」
チエミにそう聴いたけど、返事がない。見たらチエミはスヤスヤと寝息を立てていた。最初は起こそうと思ったけど、疲れの滲んだ寝顔を見せる彼女を見ていたら悪い気がしてやめた。動画はあと30分あった。
「やばっ、寝ちゃってた」動画が終わったと同時にチエミは起きた。「どんな内容だった?」
「大した内容じゃなかったよ」私は大きなあくびをしながら言った。ひたすら退屈な1時間だった。
「でしょうな」そう言うとチエミは起き上がって伸びをした。「あースッキリした」
「おつかれやね」
「最近寝てなかったからね」
そう言ってチエミがテレビを昼のワイドショーに切り替えると、インターホンが鳴った。ピザが届いたようだ。
「おっ、ちょうど来たね」そう言うとチエミは颯爽と玄関に向かった。
「あちちち」チエミは走りながら戻ってきて、箱を勢いよくテーブルに置いた。
「何ピザ頼んだん?」
「テリマヨピザやで~。あとサイドにチキンナゲット」チエミがおどけながら箱を開けると、チーズと鶏肉の香ばしい匂いが部屋に広がった。
2人でピザをつつきながら、他愛のない話がつづいた。仕事の話、お盆休みの予定、最近気になっているお店のこと。また、佐伯がコラボしたバンドは最近人気なのかと聞く、チエミはインディーズの頃からそのバンドのことは好きで大阪にいるときも何度かライブに行ったことがあるらしかった。高校の同級生がこの間コラボしていたと言ったらかなり驚いていた。
「そんな人と同級生ってすごいね」そうチエミは言ったけど、私は何とも言えない気持ちだった。私は全然凄い人じゃない。凄いのは佐伯だ。そう心の中でつぶやいた。
ふとテレビに目をやると、放火事件についての報道がされていた。ワイドショーの途中で挟まれるニュースだったから、そこまで長い時間報道されたわけじゃなかったけれど、いくら時間が経ってもあの事件に関する報道を見ると気持ちが暗くなった。
「ひどい事件よね、ほんと」チエミはテレビを見ながら言った。
「ほんとね」私は暗い声で言った。
「みちるもアニメとか好きなら、ショックやったやろうね」チエミは言った。
「そりゃショックやったよ。今でも見返す作品とかいっぱいあるし」
「そっか。でもさ、私もよく読み返す本とかあるけどさ、そういう自分の心の拠り所はやっぱ大事よね」
「そうよね。あ、食べる?」気持ちを切り替えるように、私はピザの最後の一切れを見て言った。できることなら、事件のことは極力思い出したくなかった。
「んー。そうね、食べよっかな」そう言うとチエミはピザを口にした。
「にしてもさ、この間のカレーといい、こんな外食ばっかしてたら太っちゃうよね」チエミはピザを頬張りながら言った。
「運動すればいいやん。散歩とか」
「散歩かー。確かに車通勤だとなかなか歩かへんもんね」チエミはピザを飲み込むと言った。
「私、毎晩散歩してるよ」私は得意げに言った。
「偉いねぇ。だからみちる太らんのやろうな」チエミは羨ましそうに言った。
「せっかくだし一緒散歩しようよ。天気いいし」
「あぁ、うん、みちるがそう言うなら、そうしよう」そう言うとチエミはピザの箱を潰して、ゴミ箱に持っていった。
「その前にちょっと顔洗っていい?」チエミはそう言うと洗面所へ向かった。
玄関を開けると、向かいにある雑居ビルの向こう側から、真っ青な空に浮かぶ夏の雲が見えた。遠くから響く蝉の鳴き声に、駅のアナウンスがかぶさる。チエミはボサボサだった髪を整え、スウェットから青いジーンズに着替えている。
「日傘いるなこりゃ」そう言うとチエミは玄関から黒い日傘を取り出した。私はチエミの家に向かうときにもかぶってきたベージュのバケットハットを再びかぶった。
「近くの公園まで行こうか」私はそう言って歩き出した。休日のいつもの散歩コースを歩くことにした。
駅前の商店街を抜けて大通りに出ると仕事帰りによく寄るごはん屋さんの近くまで来た。寡黙な店主がやっている街の定食屋で、少し値は張るけどどのメニューも美味しくて、給料日にはよく行っている。ただ今日はシャッターが降りていて、張り紙を見たら「臨時休業」と書いてあった。「ここ美味しんだよ」と私が言うとチエミは「知らんかったわ」と言った。
定食屋からまた少しだけ歩くと、川沿いにお茶屋さんがある。川下りを楽しむお客たちに向けたお茶屋さんで、お茶以外にもソフトクリームやちょっとしたお菓子を売っている。そのお茶さんを見てチエミは「ちょっと休憩しない?」と言った。顔に汗が滲んでいた。私はもう少し歩きたかったけど、そこのお茶屋さんで休むことにした。
私とチエミはソフトクリームを買って、お茶屋さんの軒先にある赤い長椅子に2人で座った。ソフトクリームを食べていると、川下りが2船ほど通り過ぎていった。
「川下り、まだ乗ったことないねんな」チエミはボソッと言った。
「私も大人になってからは乗ってないなぁ」私は言った。最後に乗ったのは小学生の時だった。おじいちゃんと一緒に乗って、降りた先でうなぎを食べた思い出がある。おじいちゃんが北原白秋がどうのこうのと言っていたのも、ぼんやりと覚えている。
「阿部ちゃんたちは最初の内定者懇親会の時乗ったらしいけどね」ソフトクリームを食べ終えたチエミは足を組んで言った。
「懇親会とかやってたんだね」私は言った。私とチエミが内定を貰う前の話だろう。
「私たちは入社式で初めましてだったからね」チエミはそう言うと苦笑いをした。
「懐かしいね」私は言った。
「ね」チエミは言った。
そこからしばらく、私たちは黙って目の前の景色を見つめていた。
静かな時間だった。後ろを見るとお茶屋さんにいるおばあちゃんは目をつぶって座っている。
私も目をつぶって、周囲の音に耳をすませてみた。店の中から聞こえるラジオからは、夏になるといろんなところで耳にする往年のヒット曲が流れている。その曲に混じって、川のせせらぎと、風に揺れる木の葉の音が響く。遠くからはかすかに蝉の声が聞こえる。
「私さ」
チエミが突然言った。
「ん?」私は目を開いてチエミの顔を見た。チエミは上に組んだ右足のつま先をじっと見つめている。
「どうしたの?」じっと黙っているチエミに、私は聞いた。
「仕事辞めようと思ってん」消え入りそうな声で、チエミは言った。
「え?」私は呆気にとられて言った。チエミが仕事を辞める?一瞬、その言葉が信じられなかった。
「いや、今すぐってわけじゃないんだけどね。ただ、なんか・・・」チエミは慌ててそう言うと言葉に詰まった。「なんか・・・疲れちゃってさ」チエミは力なく言った。私は何も言えなかった。こう言うとき、なんて返せばいいんだろう。唐突な言葉に、私はどう声をかければいいかわからなかった。チエミは続けた。
「そのさ、もう、わかんなくなっちゃってさ。何のために、毎日毎日パソコンの前にかじりついて資料作って、お客さんところに行って提案して、あーだこーだ言われて、企画の人に作り直しを依頼して、また資料作っての繰り返してをしてるんやろって」チエミは早口で言った。珍しく動揺していた。私は戸惑うチエミの姿を黙って見ることしかできなかった。チエミは続けた。
「なんか、申し訳ないんだよね、みんなが頑張って作ってくれた商品の良さを、全然アピールできてなくて。みちるもそうだけど、一生懸命デザイン作ってくれた企画の人たちに対して、申し訳ないんだよ」
声が震えいていた。チエミの目が次第に赤くなっていく。
「それでさ、思うわけ。自分のプレゼンが下手なだけなんじゃないかって。って言うか、そうなんだよ。作り手側の気持ちなんて、私、全然わかってない。理解できてない。ただ、いいなぁって思って見てるだけ。自分の得意なこと、好きなことを仕事にできてる人たちに対して、羨ましいなって思ってるだけ。そんな妬ましい自分が嫌だし、じゃぁどうしようかと思っても、もう疲れたって思うだけで何もできないし」
チエミの目から、涙がこぼれた。それからチエミはしばらく黙り込んで、静かに涙を流した。私はただチエミの横顔を見つめていた。チエミの震える声を聞きながら、私は自分が情けなくなった。ただ彼女の隣に座っているだけで何もできない。彼女が求めているのは私の無言の同意じゃないはずなのに。
「ごめんね、急に。こんな愚痴言うつもりじゃなかったのに、つい」チエミはジーンズからハンカチを取り出して涙を拭うと、いつもの笑顔を見せながら私の方を向いた。
「ううん、大丈夫」ようやく私は声をかけることができた。
それからチエミはまた黙り込んだ。こんな弱気な姿を見せるチエミは初めてだった。また、川下りが目の前を通り過ぎていく。乗っていたのは近くの美容専門学校の生徒だろうか、みんな若くて、金や赤や緑など鮮やかな髪色をしていた。
今、私にできることは何なのだろう。無理に励ますのも、違う気がした。
「もう少し、話聞くよ」
思い切るように、私は言った。今の私にできることはそれしかなかった。「チエちゃんを支えてあげて」野口課長の言葉を思い出した。
チエミは私の顔を見ると「ありがとう」と言って、大きく息を吸った。
「その前に、ちょっと場所移動しようか。暑いし」チエミはそう言うと立ち上がった。日差しが軒先に差し込んできて、少し暑くなってきていた。さっきまで心地よく聞いていた蝉の声も、暑さを引き立てるようだった。見上げてみたチエミの顔は、少しだけ痩せていた。
8
「一応さ、病院には行ったんだよね」
ドリンクバーで注いできたアイスコーヒーにシロップを入れながら、チエミは言った。私たちは近くのファミレスに寄っていた。
「病院?」私は聞いた。
「心療内科。課長に相談したんだよ。色々。そしたら、行った方がいいって。病院に」
「課長って、野口課長?」
「そうそう。あの人、観察力すごいからね。さすがだなって思ったよ。やっぱ敵わんわって」チエミはそう言うと、コーヒーには口をつけず、小さなため息をついて話を続けた。
「1ヶ月前くらいだったかな。朝起きたらさ、なんか頬が濡れてたんよね。で、なんでだろう?って思って洗面台で鏡見たら目が真っ赤で。要は勝手に涙が流れててん。それでもう、え?どう言うこと?って思ったねんけど、とりあえず会社には行ってん。ちょっと風邪気味でって嘘ついて、マスク着けてさ」チエミはそう言うと俯いた。
「でもあとで課長から呼び出されて、チエちゃん、課長私のことチエちゃんって呼んでんだけど、チエちゃんどうしたの?様子変だよって言われて。それで、まぁ、朝起きたらこうこうこうでって話して。でも全然大丈夫なんで気にしないでくださいって言ったら、チエちゃん、なんか悩みとかあるんじゃないの?言える範囲でいいから言ってみてって言われてさ。それで、まぁ、私も話したわけ。さっきみちるに言ったようなこと。制作部の人に迷惑かけてるみたいで、営業全体の数字にもなかなか貢献できなくて、申し訳ないって」そこまで言うと、チエミは黙り込んだ。チエミのアイスコーヒーが小さく氷の音を立てた。
ようやく口を開くと、声を震わせながらチエミはつづけた。
「それで課長も私の話を静かに聞いてくれてん。さっき言ったようなことをね。自分の好きなことを仕事にできてる人が羨ましい、妬ましいって思ってるだけってことをさ。もう泣きながら話したわけよ。話し出すと止まらないで」
また、チエミの頬に涙が流れた。私は黙ってチエミを見つめていた。
「ダメだ、最近泣いてばかりだ」チエミはハンカチで目を拭った。「ごめんね」と静かに言うチエミに、私は首を横に振った。
「それでまぁ、ある程度私の話が終わって、課長が話し出したんだ。チエちゃんの気持ちもわかるよって。でも、そんなに考えすぎなくてもいいんじゃないって。でも、考えすぎなくてもいいって言われてもさ、どうしようもないやん。それもハッキリと言ったわけ、考えすぎなくていいなんて、そんな簡単なこと言わないでくださいって。すんごい失礼だけど」苦笑いをしながら、チエミは言った。
「そしたら課長も、ごめんって言って。それで私も、すいません失礼なこと言ってしまってって言って。そしたら課長が、いつからそう思うようになったの?とか、誰か他の人に相談したりしたの?って聞いてきたから、相談したのは課長が初めてですって、いつからそう思うようになったかって言うのは、まぁ、本社に異動なってからだって話して」
ようやくコーヒーに口をつけると、深く息を吸ってチエミはつづけた。
「そしたら課長が少し考えて、チエちゃんって、真剣な表情で言ってきたんだよ。チエちゃん、悪いことは言わないから、病院に行きなさいって。心療内科に行ったほうがいいって」そう言うとチエミは、深くため息をついた。
「まぁ、そんな感じで病院に行ったわけさ」
「病院はなんて言ってきたの?」私は言った。
「まぁ、とりあえず話聞いてもらって薬だけ出してもらった感じ。診断書出しますけどどうしますか?って言われたけど、別に休職するつもりもなかったから断った」チエミは目をつぶり、顔を上に向けた。
「辞めたい理由は他にも色々あるんだけどね、仕事とかだけじゃなくて、家族のことというか、阿部ちゃんとの結婚のことというか」そう言うとチエミはフーッと息を吐くと顔を戻した。
「ごめんね。こんなこと話しちゃって」
「いいよ」
「みちるだったらさ、こういうときどうする?」
「わたし?」不意な質問に驚いて、私は何も答えられなかった。私だったら・・・。チエミの気持ちは分からないでもなかった。私も、いくら絵の技術を活かせる仕事をしているはいえ、本当にそれが自分の好きな仕事かと言われたらそうとも言えなかった。ただ、チエミの話を聞いている間、私の心の中に芽生えた感情は確かにあった。それは、羨望と、自分に対する苛立ち。そして・・・。
「チエミは、すごいと思うよ」私は長い沈黙の後そう言った。
「え?」不意を突かれたようにチエミは言った。
「ちゃんと課長に相談して、病院にも行って。自分の気持ちを整理しようとしてじゃん?私、そんなふうに素直になれたことというか、自分の気持ちに向き合って、それを人に話せたことって、ないからさ。自分の弱さを認めるのが怖いというか。だから、その、ちゃんと言葉にできるチエミはすごいなって思って」
歯切れの悪い私の言葉を聞いてチエミはしばらく黙っていたけど、いつもの笑顔を見せると「そっか、ありがと」と言った。
「ごめんね。なんか答えになってなくて」私は申し訳ない気持ちで言った。
「いいよ。話聞いてもらっただけでも、気持ち軽くなったし」
私の胸も少しだけ軽くなった気がした。でも、どうしても聞いておきたいことがあった。
「そういえば、阿部さんとの結婚のことって・・・」
「あぁ、阿部ちゃん?いや、まぁ、何というか・・・阿部ちゃんともそろそろ結婚しようかなって思ってて」チエミは私の声に被せるように言った。
「そうなの?」私は少し驚いて言った。
「別にまだ具体的に話進めてるわけじゃないんだけどね。ただ、私は結婚したいなって思ってて。阿部ちゃんは福岡の方にくる様子はなさそうだし、大阪の方で今後頑張っていく感じだし。それなら私が大阪に戻ってさ、新しく仕事探して阿部ちゃんと一緒になるのがいいかなって思ってん」
「そうなんやね」
「別にこの会社に未練があるわけでもないからね」そう言うとチエミはワハハと笑った。いつもの調子が戻ってきたようだった。
「それにさ、私、やっぱり普通の幸せな家庭を築きたいなって思っててん」そう言うとチエミは頬づえをついた。「私はさ、前にも話したことあるけど、両親が離婚しててさ。それに母親ともそんな仲がいいわけでもないから、普通の家庭っていうの?そう言うの分かんないんだけど、それでもさ、やっぱり憧れだけはあるわけよ。夫婦仲良く暮らしてさ、子どもがいてさ、みんな幸せに過ごせるような家庭っていうのがね。とにかく、子供が欲しいって言うのが一番かな。阿部ちゃんとの子供がね」
そう話すチエミの目は輝いていた。夢を追いかける目。私も、こんな眩しい目を持って夢を語れたら。私は最近の自分のことに思いを馳せて、俯いてしまった。ただただ周りを見て、羨ましい、自分にはできないと諦めばかりを抱いている自分のこと。自分の人生に影響を与えた人たちの最期を知って、未だ何もない自分に嫌気がさした自分のことを。
「チエミってさ」私は思い切るように言った。
「ん?」チエミは頬づえをしたまま言った。
「何というか、強いよね」
「強い?」
「ちゃんと自分の弱い部分を受け入れて、前に進もうとしてさ。普通の家庭に憧れるとか、結婚して幸せな暮らしを目指すとか、そういうのって凄いなって。私は、夢を口にするのすら怖いというか、失敗するのが怖くて挑戦すらできないから」
「私なんて全然強くないよ」俯く私にチエミは言った。私は顔を上げた。
「なんつーか、普通の家庭に憧れるとか、結婚して幸せになりたいって言うのって、ある意味で逃げだと思うんだよね。なんか、他にもっとやりたいこととか、挑戦したいことがあるはずなのに、そっちから目をそらしてるだけかもしれないし」チエミはあっけからんと言った。
「そんなことないんじゃない?」私は少し声を上げてしまった。「逃げだなんて、そんなふうに考えなくてもいいと思う。だって、それがチエミの本当の気持ちなんでしょ?」そういうとチエミは頷いて、続けた。
「たしかに、自分がどうしたいかを考えた結果なんだろうけど、でも、みちるみたいにさ、本当に好きなことを追いかける勇気がないだけなのかもって思うこともあるんだよね。結局、現実的な道を選んでるだけっていうか」
私はその言葉に言い返すことができなかった。でも・・・
「確かに、私なんて、好きなことを仕事にしてるように見えるかもしれないけど、実際にはどうなんだろうって思うこともあるんだよね」と私はポツリとつぶやいた。「ただ、自分が夢を追いかけることから逃げてるだけなのかもって」
「でもさ、私から見たら、みちるはちゃんと自分の夢に向き合ってるように見えるよ。たとえ遠回りしててもさ」チエミは真剣な顔で言った。
「そうかな」自分の言葉が頼りなく響いた。
「そうだよ」とチエミは力強くうなずいた。「みちるの夢が何かは私には分からないよ。でも、みちるは前に進める人だと思うよ」
その言葉に、私は少しだけ背中を押されたような気がした。でも、同時に胸の奥底でチクリとした痛みも感じた。それはたぶん、私自身がずっと向き合えずにいた気持ちを、チエミに気づかれたからだろう。
「私さ」私は思い切って言うことにした。私自身がずっと向き合えずにいた気持ちを。ずっと抱えていた気持ちを。
「私さ、また、絵を描きたいと思ってて」
「絵?」チエミは言った。
「絵。会社で描くような図案とか、そう言うのじゃなくてさ、本当に、自分が描きたいものを描きたいように、自由に描いてさ。それで生きていくことができたら一番いいかなって」私は一言一言を絞り出すように言った。
「画家になりたいってこと?」チエミは言った。
「うん、まぁ、簡単に言えば、そう言うことなんだろうけどさ、まぁゆくゆくはね、そうなれればいいかなって」
「みちるなら、きっとできるよ」チエミは言った。お世辞などではなく真剣な声で。
「そんな」
「だって、もうこんなに自分の気持ちを言葉にしてるんだから。それって、ちゃんと自分の中で向き合ってる証拠じゃない?」
「そうかな?」
「うん、そう思うよ。少なくとも私はね」
彼女の自信に満ちた言葉に、私は少しだけ救われた気がした。もしかすると、私は自分で思っているより、前に進める力を持っているのかもしれない。そんな小さな希望が、心の奥に灯った気がした。
「ごめんね、チエミの話を聞いてたはずが、私の話しちゃって」
「そんなことないよ。お互い様じゃん!」そういうとチエミはニッコリと笑った。
チエミの言葉に私は小さく頷いた。
「なんかさ、絵のコンテストとか出してみたりしないの?」
「出してみたいんだけど、何を描けばいいのかなって」私は苦笑いをしながら言った。
「そうねんな。まぁ、私は絵のこととか何も分からんから偉そうなことは言えへんけど」
私は頷いた。
「なんか描きたいもの見つかるとえぇな」チエミはニッコリと笑うと言った。
「ありがとう」私は言った。
「私も話せてスッキリしたわ」そう言うとチエミはアイスコーヒーを飲み干した。「まぁ、すぐすぐ辞めるってわけじゃないけどね。例のプロジェクトもあるし、引き継ぎとかもあるし」
「そっか」私はそれでも少し寂しい気持ちがした。
「また、一緒にランチ行こうや」
「そうだね」
ファミレスを出て、私とチエミは別れた。外はすっかり夕暮れに染まっていたけれど、暑さはまだ少しだけ残っていた。
家に帰る頃にはすっかり日が暮れていた。汗が服にへばりついて気持ち悪い。
部屋に入ってクーラーをつけ、座椅子に座ると、テーブルに置いてあるタブレット端末の電源をつけた。大きく息を吸う。今日のチエミの言葉、涙、笑顔を思い出す。私は、前に進める。私は、自分の思いを形にできる。それでも、私は・・・。
デスクトップには描きかけのイラストデータがある。11月締め切りのコンペに出すための絵だ。
私は、ひとつだけチエミに嘘をついた。描きたいものは、すでに決まっている。
データを開く。
屈託無く笑うチエミの顔の下書きが、画面に現れる。
その笑顔を見て、私の胸の中に、温かい何かが灯る。それはチエミへの、友情以上の特別な感情だった。
9
タブレットには、あの屈託のない笑顔。チエミの笑顔。私の好きな、あの笑顔が映し出されていた。
描き始めたときは、ただ「いい練習になるから」と自分に言い聞かせていた。けれど、いつの間にかその理由は形を変えていた。
彼女の表情をもっと知りたいと思った。彼女の、笑ったときの目の細まり方。口角のわずかな角度。肩をすくめたときの仕草。そのひとつひとつを、キャンバスに閉じ込めるたび、私の中に言葉にならない充足感が広がっていった。
チエミの笑顔を描きながら、私は彼女をただの「友人」だとは思っていないことに気づいた。自覚したくなかった感情。ずっと蓋をしてきた想い。けれど、彼女が笑うたび、話すたび、その蓋はゆっくりと剥がれ落ちていった。特別な想いが、溢れていった。
最初私は、その想いをそっと見ないふりをしていた。でも、止められなかった。ペンを進める手も、チエミに対する想いも。それが歪んだものであること、チエミに対する感情やチエミに内緒で彼女の絵を描くことが、歪んだものであることは自覚していても。ただ、どうしようもできなかった。止められなかった。
「チエちゃんを支えてあげて」
野口課長の言葉が頭をよぎる。支えてあげるどころか、私はチエミを支えにしている。私はチエミを利用している。
チエミの絵を描き出したのは放火事件があった少し後のことだった。このままではいけない。私も何かを世に残さなくては。その思いが、画家を目指したいという夢につながった。公募はすぐに見つかった。年末に締め切りの公募だった。そこに募集する絵に何を描こう。そう考えた時に、あのチエミの屈託のない笑顔を思い出した。
描くならチエミの許可を取った方がいいだろうと思ったけれど、その前にまず私がイメージしているチエミの笑顔はどんなものか、練習がてらに描いてみよう。そう思ったのがきっかけだった。
描くうちに私はチエミへの想いに、一種の恋愛感情のようなものがあることに気がついてしまった。水の中に絵の具を1滴、垂らしたかのように、次第にその想いは複雑な様相を成していった。
彼女の笑顔を愛おしいと思ってしまった。
彼女の笑顔をずっと永遠に見つめていたいと思ってしまった。
彼女の笑顔を私のものだけにしてしまいたいと思ってしまった。
今日チエミが流した涙。初めて見た彼女の涙。悲しむ彼女の姿は私の胸を締め付けたと同時に、その姿さえも愛おしいと感じさせた。
「チエミ・・・」画面の向こうにいるチエミに私は声をかけた。
初めて女の子と手を繋いだのは中学生の時だった。ゆりえちゃんと言う女の子と、学校の帰り道、誰もいない路地裏で、ひっそりと。「このことは内緒だからね」いたずらに笑うゆりえちゃんの顔としっとりとした声は10年以上経った今でも鮮明に覚えている。
始まったばかりの新しい学校生活や、初めて袖を通す制服のごわごわとした感触にとまどいを覚えていた4月、休み時間にノートに落書きを描いていた時、ゆりえちゃんは私に話しかけにきた。長く黒い髪をなびかせる、くりっとした大きな目が特徴的なゆりえちゃんは、見るからに1軍と言った感じの女の子で、実際クラスの中でもすぐに多くの友達を作っていた。入学して2週間経っても、仲のいい友達を作れていない私とは大違いだった。
「何描いてるの?」
標準語でそう聞いてくるゆりえちゃんからはかすかに香水の香りがした。
「う、うん、別に」私がそう言うと、ゆりえちゃんは屈託のない笑顔で「えぇ見せてよ」と言ってノートを覗き込んできた。
「漫画かなにか?」
「うん。好きなアニメの」
「へぇ。面白いの?」
「ま、まぁ」
拙い返事をする私にゆりえちゃんは次々と質問をぶつけてきた。
「どこ小なの?」「名前はなんて言うの?」「家はどこ?」「絵描くの好きなの?」
「南小」「神谷。神谷みちる」「朝倉の方」「好きだよ」
ゆりえちゃんの質問に答えながら、私は「なんで私なんかに話しかけてくるんだろう」と思った。私とあなたは違う生き物だよ。ほら、他の女の子たちが見てるやん。私なんかと仲良くなってもなんも得せんよ。ほら、友達が呼びよるけん、そっち行ったら。
「ゆりー。売店行こー」
「あぁーわかったー」
友達に呼ばれたゆりえちゃんは「じゃぁね」と私に言うとその場を去っていった。
その日から、ゆりえちゃんは事あるごとに私に話しかけるようになった。あるときはトイレで一緒になった時。ある時は体育の時間で自分たちの順番が来るのを待っている時。ある時は下駄箱で一緒になった時。
「みちるちゃん、おはよう」
「みちるちゃん、今日はいい天気だね」
「みちるちゃん、今日の体育ダルいね」
「みちるちゃん、部活はどこに入るの」
ゆりえちゃんに話しかけられても、私は「うん」とか「そうだね」と簡単な返事しかできなかったけれど、それでも、少しずつ、私の中のゆりえちゃんへの警戒心はいつの間にか薄れていった。流石に友達がいなくて寂しかったのかもしれない。
「みちるちゃん、今日の放課後、一緒に帰ろうよ」
そんなことを言われたのは、期末テストが始まる時期だった。やっと慣れたと思った制服はいつの間にか夏服に変わっていた。
いつも一緒にいる友達はどうしたんだろう?そんな疑問が浮かんだけど、私は「いいよ」と簡単に返事をした。
帰り道、私たちは他愛のない話をしながら並んで歩いた。と言っても、一方的にゆりえちゃんが話していただけだったけれど。
「私の家の近くにさ、面白いものがあるからちょっと付いてきてよ」
互いの通学路が分かれるところで、ゆりえちゃんが言った。「でも、帰って勉強せんと・・・」私はそう言ったけど、ゆりえちゃんは「いいからいいから」と私の背中を押した。
ゆりえちゃんは古い家や納屋が並ぶ裏路地に、私を連れてきた。来たことのない道だった。
「ここだよ」
ゆりえちゃんはそう言うと、古い納屋の横を指差した。そこには大きな猫のオブジェが置かれていた。今にも歩き出しそうな、リアルなオブジェだった。
「どう?面白いでしょ?」ゆりえちゃんは私の顔を覗き込むように言った。
「うん、すごいね・・・」
私は少しだけ感心しながら、猫のオブジェに近づき、そのオブジェに触れようとした。その時、ふいに腕を引かれた。
「危ないよ。古いものだから壊れたりしたら大変」
ゆりえちゃんがは私の腕を握りしめたままそう言った。私は驚いて腕を引こうとしたけど、彼女はそのまま離そうとしなかった。妙に気持ちがドキドキしていた。
「ほら、戻ろう。もう暗くなってきたし」
そう言うと、ゆりえちゃんは腕から手を離した。腕に残った彼女の手のかすかな温もりを感じ、立ち止まる私に、ゆりえちゃんは振り向いて言った。
「ねぇ、みちるちゃん、手繋ごうよ」
ゆりえちゃんは左手を出してきた。腕を引っ張ったのとは別の手だった。私は黙って彼女の左手を見つめていた。手を繋ぐ?そんなこと・・・。
「みちるちゃんと、もっと仲良くなりたいからさ。私たちの間では手を繋ぐなんて普通だよ」戸惑う私を説得すると、ゆりえちゃんは微笑んだ。
「さ、行こ」そう言うとゆりえちゃんは私の右に回って、手を握った。小さく、あたたかい手だった。そんな彼女の手が妙にしっくりきてしまって、私はその手を離すことなく、一緒に歩いて行った。
裏路地を抜けていく間、私たちは言葉を交わさなかった。けれど、静かな安心感がそこにはあった。
ゆりえちゃんの手に引かれて、私たちは見知らぬ路地裏を歩いていた。誰かに見られたらどうしよう。でもゆりえちゃんたちの間では普通のことだと言ってるし。でもゆりえちゃんの友達以外の人に見られたら。そんな考えが頭の中をぐるぐる回っていて、今どこを歩いているかも私にはわからなくなっていった。
すると急に、ゆりえちゃんが立ち止まった。もはや私には、周りの風景さえ見えなくなっていた。
「ねぇ、みちるちゃん」しっとりとした声で、私の耳元で、そっと、ゆりえちゃんは言った。何かたくらむような、いたずらめいた響きだった。
「な、なに?」私は戸惑って聞いた。
「キスしようよ」
その言葉に私は目を見開いた。何を言っているのかわからなかったし、理解したくもなかった。でも、目の前に佇むゆりえちゃんの顔は真剣で、どこかいたずらっぽい笑みを浮かべていた。
「な、なんで・・・?」
「だってさ、こうやって誰にも見られてないし、初めてだから、いいかなって思って」
まるで新しい遊びを提案するみたいな、そんな軽い調子だった。だけど、彼女の大きな目は私の返事を待っているように見えた。
「でも、そんなの・・・」
戸惑う私に、ゆりえちゃんはふっと笑った。
「冗談だよ」
私は何も言えなかった。
「みちるちゃんとなら、いいかなと思ったんだけどなぁ」そう言うとゆりえちゃんは手を離して、いたずらそうな顔で私の顔を見た。
「でも、このことは内緒だからね」ゆりえちゃんは自分の人差し指を唇に当てながら笑った。
「ほら、行こう」
ゆりえちゃんは何事もなかったかのように手を繋ぎ直し、歩き始めた。私はぼんやりとその手に引かれながら、「冗談だよ」と言う彼女の言葉を反芻していた。気がつくと、周りの風景は見知った風景に変わっていて、私とゆりえちゃんは通学路の分かれ道に立っていた。
ゆりえちゃんとのあの帰り道は、私にとって初めての「特別な時間」だった。あの時、彼女が冗談だと言った言葉が本当に冗談だったのか、それとも本心だったのか、今でもわからない。でも、あの路地裏で感じた胸のざわめきは、それから長い間私の中に残り続けた。
大人になっても、その記憶が、心の片隅にくすぶり続けていることに気付いたのは、大学生の時だった。そのとき、私には付き合っている彼氏がいた。彼はサークルの同級生で、いつも場の中心にいる明るい人だった。彼と付き合うことになった時、彼と初めて手を繋いだ時、私は自分がどれだけ動揺していたかのを今でもハッキリと覚えている。何も感じなかったのだ。この人のことを好きだとも、この人とキスをしたいとも、この人と一緒にいたいとも。何も思わなかった。
ゆりえちゃんと手を繋いだ時と同じような、深い何か。彼の指が私の指に絡むたび、あの路地裏の記憶がふっと蘇った。あの時のようなトキメキを、深い感情を、もう一度感じたいと思った。でもそれは、この人とは経験できない。いや、男性とは経験できるものではない。そう思った。
彼との付き合いは、短く、あっけなかった。いつの間にか自然と終わりを迎えていて、彼氏はすぐに別の彼女を作っていた。私はといえば、それ以来誰とも付き合うことはなかった。
私が異性に惹かれることがないというのはきっとあの頃から変わらない。けれど、それを大きく口に出すことはなかった。職場で恋愛の話をすると、つい黙り込んでしまう。
自分の感情を隠すことには慣れていた。大学時代に付き合った彼氏とのことも、家族や周りには話したことがないし、それ以降、恋愛らしい恋愛をしたこともない。職場の人たちにとって私は、「恋愛の話をしたがらない少し変わった同僚」に見えているだろう。それでよかった。この想いは誰にも明かすことはしない。そう思った。私はもう、誰のことも好きにならない。そう決意した。
でも、チエミは違っていた。彼女の何気ない仕草や笑顔、時折見せる不器用な一面。そんなすべてが、忘れていた感情を再び呼び覚ますようだった。自分の中に眠っていた感情を。なかったことにしていた感情を。
彼女との時間が続くたびに、私は再び、自分が抱えていた感情に気づかされていた。そして、私はその感情をどう扱うべきかを考え始めていた。これがただの友情なのか、それとももっと深いものなのか。チエミの存在が、私を再び混乱させていた。私は、チエミに惑わされていた。
「チエミ・・・」画面の向こうにいるチエミに、私はもう一度声をかけた。
「私、どうすればいい?」
チエミの笑顔は、何も答えてくれなかった。
ゆりえちゃんのように、チエミが私を導いてくれたのなら・・・そんな思いは私の胸を熱くさせた。ゆりえちゃんのように手を繋いでくれたら、ゆりえちゃんのようにキスを求めてくれたら。私は・・・私は・・・。
体がほてっていた。クーラーの温度を下げてみても、ほてりは取れない。
ベランダに出てみた。夜の生ぬるい風を浴びても、気持ちは冷めなかった。
ふと、チエミが吸うタバコの味を想像してみた。私はタバコを吸ったことはないけれど、彼女が吸うタバコの味がどんなものか、気になった。チエミの真似をして、タバコを吸うフリをしてみる。何も感じなかった。
「変わってないな、私・・・」
思わず口にした独り言は静かな夏の夜の暗闇に消えていった。
第3部
10
朝早くに家を出たのはいいものの、お盆の道はやっぱり混んでいた。進んだと思ったら止まって、また進んだと思ったらまた止まっての繰り返しを2時間近くやり過ごして、ようやくスイスイ進めるようになった頃にはもうお昼になっていた。
「渋滞しとったね」家に着くとお母さんが玄関から出てきた。私は「疲れた」としか返せなかった。腰が痛かった。
和室に行って荷物を放り出して寝転がると、リビングからかすかにテレビの音が聞こえてくる。それ以外は何の音もなく静かだった。サツキ姉ちゃんとめぐ姉ちゃんはいないようだった。サツキ姉ちゃんはもうすぐ子どもが産まれると言うのもあるし、めぐ姉ちゃんはめぐ姉ちゃんでいつものパターンだろう。しばらく畳の上でゴロゴロして、天井の木目をぼんやりと見つめていたらお母さんが襖を開けた。
「お昼食べるね?」
「食べる」私はそう言うと起き上がった。
食卓には水色の大きな花柄の陶器に冷やし中華が盛られていた。この陶器は私が子どもの頃から毎年夏になると使っていて、見ていると懐かしい気持ちになる。前に聞いた話ではお父さんとお母さんの結婚祝いに親戚から貰ったものらしい。
「そういえばお父さんは?」麺をすすると私は言った。
「畑行っとる」お母さんは頬づえをしながら言った。
「暑かろう」
「まぁ、動いとる方がいいんやろ」
お父さんが畑に出ているということはおばあちゃんも一緒に外にいるんだろう。お父さんは還暦を迎えてしばらく経ち、おばあちゃんはもう80歳を過ぎているけれど、いまだに2人で一生懸命働いているのは純粋に凄いことだと思う。私にはとてもじゃないけど想像ができない。今の会社であと何十年も働く自分の姿は、とてもじゃないけど想像できなかった。
「しかし、2人ともよく働くよね」お父さんとおばあちゃんが育てた新鮮なトマトを頬張ると、夏の匂いがした。
「まぁ2人にとっちゃ動いとる方が性に合っとるんやろ」お母さんは苦笑しながら言った。「ちかっぱ働きよっか~ってね、お義父よう言いよったもんね」
「そうっけ?」
「うん。みちるにも言いよったよ。『みちる、ちかっぱ働きよっか』って。そんな子どもに働くも何もなかろうもんって、お義母さんは言いよったばってん」
「へぇ」
「今生きとっても同じこと言いよったやろうね、ちかっぱ働きよっかって」
「まぁ、ボチボチとしか言えんね」私は暗に仕事はどうかと聞いてきたお母さんに応えるように言った。最近は仕事にイマイチやりがいを見いだせていない。そんなことは口には出せるわけもない。
「そう言えばみちる、最近、絵は描きよるとね」
「忙しくて、描いてない」私はたどたどしくも嘘をついた。
「そうね。いや、この間サツキがみちるが昔描いた絵を見つけたけんさ」そう言うとお母さんはスマホで撮った私の絵を見せてきた。この間私の家に送られた川下りの絵だった。
「姉ちゃんから送られてきたよ」私は言った。
「あら、そうね。いや、改めて見るとやっぱりみちるの絵っていいなぁって思ったけんさ」お母さんはニコニコしながら言った。
お母さんは私が絵を描いていること、私が画家を目指そうとしていることを知っているんだろうか。まさか。そのことは誰にも言っていない。でも、勘のいいお母さんのことだ、それを直感的に知っているのも、分からなくもない。本当は絵を描いていると言いたかった。コンペに出そうと思っていること。今の仕事を辞めたいこと。全部打ち明けたかった。チエミのことさえも。
何度か想像してみてはいた。お母さんにすべてを打ち明けることを。どんな顔をするか分からなくても、どんな言葉をかけるか分からなくても。でも、できなかった。言葉にしようとすると、何かがつっかえて。
「そういえばサツキ姉ちゃん、どげん?」私は冷やし中華の器に目を落とし、少なくなった麺をつつきながら言った。
「ん?元気よ。でも、もうお腹が重たくて大変そうやけん、今年は帰ってこんでいいって言っといた」
「もうすぐ生まれるけんね」
「本当は帰りたがりよったけどね」
「そうね」
会話を続けながらも、頭の中ではお母さんの言葉がぐるぐると回っていた。「みちるの絵っていいなぁ」なんて、そんな風に言われたのはいつぶりだろうか。自分の胸の中で何かがくすぶるのを感じていた。
食事を終えると、今は物置になっている、私たち姉妹が使っていた部屋にあがった。押入れを開け、少し黄ばんだスケッチブックを一冊取り出す。埃をはらってページをめくると、懐かしい匂いとともに、自分が子どもの頃に描いた絵が次々と現れた。近所の山の風景に、夏祭りの花火の風景、家族をモデルにした肖像画。見返してみると、小さな頃の私は本当にたくさんの絵を描いていた。何のてらいも思惑もなく。今の自分にはこの頃のような純粋さがあるだろうか。描くことの楽しさだけを信じていた、あの頃のような。
最近は、絵のことばかり考えて過ごしている。正直、会社の仕事なんてどうでもいいとすら思っている。いや、本当はどうでもいいわけじゃない。ただ、集中できない。目の前の仕事に。目の前の会話に。一刻も早く家に帰って、タブレットに向かいたいと思っている。タブレットに向かって絵を描いているときの満たされている感覚を一刻も早く味わいたいと思っている。仕事では味わえない感覚を。自分が自分であるという感覚を。
でも、ふと手が止まる瞬間があった。満たされているはずなのに。自分の好きなことをしているはずなのに。
後ろめたさがある。チエミへの思い、仕事への思いに対して。「そんなの普通じゃない」と言われているようで。「やるべきことをやれ」と言われているようで。かつて、学校に行けない自分を後ろめたく思ったときと同じように。
羨望がある。佐伯をはじめ、自分らしく生きている人たちへの。自分を活かして働いている人たちへの。また、時にその羨望はチエミに向く瞬間さえある。チエミはあれ以来、何事もなかったかのように会社で過ごしている。あの脆さを見せた彼女はどこに行ったのだろう。阿部さんの話題は以来一切出てこないし、退職の話だってない。仕事ぶりにも変わりがなく、ただただ平然としているように見える。それを羨ましく思う自分がいる。自分の中で揺れ動くこの気持ちの矛先をどう向ければいいのか、わからないまま絵を描き続ける日々。タブレットの中の線が思うように動かないのは、きっと私自身が曖昧なせいだろうと、どこかで感じていた。
「みちる?」
急な声に驚いて振り返ると、少し開いた扉からお母さんが顔を覗かせていた。「何しよるん?」
「あ、ちょっと片付けようと思って」慌ててスケッチブックを閉じる。
「そうね。熱中症ならんごとね」
「うん」
お母さんが1階に降りていった後、私はスケッチブックを抱えたままフローリングの上に腰を下ろした。汗が一滴、スケッチブックの表紙に落ちた。
不意にチエミの顔が浮かんだ。なぜ彼女を描こうと思ったのか、自分でも説明できない。ただ、彼女の笑顔も、少し寂しげな横顔も、すべてを残しておきたいと思っただけだった。自分のものにしたいと思っただけだった。それがゆがんだものであったとしても。
押入れにスケッチブックを戻しながら、私は「みちるの絵っていいなぁ」というお母さんの言葉を思い出した。それは、単なる懐かしさからのものではなかったのかもしれない。お母さんが私の中にまだ何か可能性のようなものを見ているなら、それを裏切りたくないと、少しだけ思った。
「やっぱり、描かなきゃな」
小さな声でつぶやいたその言葉は、誰にも聞かれることなく、静かな部屋の中に消えていった。
和室で絵を描いていたら、18時を知らせるチャイムがイヤホン越しから聞こえてきた。
私はイヤホンを外すと、少し休憩しようと畳の上に寝転んだ。外したイヤホンからはこの間佐伯がコラボしていたバンドの音楽が流れている。YouTubeで聴いて私もすっかりハマってしまった。特別音楽に詳しいわけではないけれど、繊細な女性ボーカルと後ろで鳴っている激しいバンドの音が対照的で、聴いていると不思議と創作意欲が刺激された。
タブレットの充電もすっかり少なくなっていた。この辺りで切り上げよう。私はタブレットの電源を落として、充電器をセットした。気持ちは複雑でも、いざ描き出すとペンを握る手は止まらなかった。今日は背景の色を描き込んだ。家事や仕事に煩わされない実家での時間は私にとって何よりも貴重だった。
障子に目を向けると、夕日を濾したやわらかな光が目に入った。チエミにはオレンジ色が似合うな。それこそ今、障子を照らしている夕日のようなオレンジ。情熱的で、でもどこか優しさやノスタルジーを感じされる、オレンジ色。夕日って、チエミみたいだな。ふとそんなことを考えた。
外の空気を吸おうと障子を開けると、お父さんが庭でタバコを吸っていた。真っ黒に日焼けして、白いTシャツと対照的になっている。2人で何かを話していたのか、おばあちゃんも後ろにいた。
「おう、おかえり」お父さんは私に手を挙げると、またおばあちゃんと何かを話し出した。
「まぁ、サツキんところも子どもが産まれるんやし。そげん急がんでもいいとは思うばってんな」お父さんはタバコの吸い殻をサンダルでもみ消すと言った。
「そうばってん」おばあちゃんは何やら納得が言っていない様子だった。2人が何かを言い合うのはよくあることだった。
「まぁ、今は別そんな時代でもないんやけ。本人の自由にさせたらよか」お父さんは面倒臭そうに言うと、玄関に戻っていった。おばあちゃんはしばらく庭を見つめていた。
「どうしたん?」私はおばあちゃんに聞いた。夕日はだんだん薄暗闇になっていて、おばあちゃんの顔もよく見えなくなっていた。
「恵のことたい」おばあちゃんはもごもごしながら言った。
「あぁ」多分、めぐ姉ちゃんの結婚のことだろう。昔気質のおばあちゃんは何かと私たち姉妹の結婚について気にかけていて、特に自由奔放なめぐ姉ちゃんのことはいつも心配していた。
「みちるも、今のうちいい相手見つけとかなばい」そう言うとおばあちゃんは私の顔をジッと見た。暗闇から見えるその瞳には何か鋭いものがあった。私はおばあちゃんの視線を横顔で受けると「うん」と適当な相槌を打った。
夕飯の時間になってリビングに行くと、テーブルには湯気の立つ煮物と焼き魚、味噌汁が並んでいた。おばあちゃんが椅子に座り、お父さんが冷たいビールを一口飲んで「ふー」と大きな息を吐いている。お父さんはなんだか満足そうに見えた。
「畑暑かったやろ?」
お母さんがそう聞くと、お父さんは「まぁなぁ。でも、毎年のことやけんな」と言った。おばあちゃんはさっきの話が途中で切り上げられたのがまだ気になっているのか、じっと黙っている。
食事が進む中、話題は自然とサツキ姉ちゃんのことになった。
「サツキんとこはもうすぐよな」お父さんが言った。
「予定日が9月の最初の方やけんね」お母さんは言った。
「ベビーカーとかそう言うのは」お父さんが言おうとするとお母さんは「もう揃えとるが」と言った。その言葉にお父さんは「まぁ、あいつは捌けとるけんな」と笑った。
「とりあえず、うちから服とかの類は送るけんさ、みちるからは何か絵本とか買ってあげて」お母さんは私の顔を見ると言った。「今更やけど、男の子よね」と言う私の問いかけにお母さんは「そう」と頷いた。
「サツキも立派なお母さんなるごつしとるんやけ、みちるも頑張らなたい」おばあちゃんはようやく口を開くとそう言った。お母さんとお父さんはその言葉に、少し気まずそうな顔をした。
「まぁ、みちるにはみちるの人生があるんやけ。焦らんでええが」お父さんがそう言った。おばあちゃんはどこか納得のいかない顔をしていたけど、それ以上何も言わなかった。
夕食を終え、家族みんなで食卓を片付け終えると、お父さんが「迎え火、そろそろ焚こうか」と言った。お母さんとおばあちゃんは頷き合い、迎え火の準備のために庭に出た。
外に出ると、空は深い藍色に染まっていた。キリギリスの鳴き声がどこからか聞こえる。庭にはおばあちゃんとお父さんが準備してくれた迎え火の束がきちんと並べられている。
「じゃ始めるか」お父さんが言うと、私たちは静かに頷き合った。お父さんはマッチを手に取り、迎え火に火をつけた。最初は小さかった火が、だんだんと大きくなり、オレンジの光が庭を優しく照らし出した。
煙がゆらゆらと空へ昇っていくのを見ながら、私は「おじいちゃん、帰ってきてね」と小さな声でつぶやいた。その声が聞こえたようで、おばあちゃんは「帰ってきてくれるが」と笑った。今日初めて笑ったおばあちゃんを見た気がした。でも、その表情はどこか寂しそうだった。お父さんもタバコを吸いながら煙を静かに見つめている。煙は静かに、夜空へと登っていった。かすかに、星が見える。
送り火が終わると、私は和室に戻った。薄暗い部屋の中で物置から持ってきたスケッチブックを開いた。中学生くらいの時のサツキ姉ちゃんを描いた肖像画と、亡くなる少し前に描いたおじいちゃんの肖像画が描いてある。屈託のない笑顔を見せる姉ちゃんは、どこかチエミの明るさに似ているし、不器用に笑うおじいちゃんの笑顔は、私に似ている気がした。
サツキ姉ちゃんから産まれる子どもはどんなんだろう。考えてみると不思議な気持ちだった。私は従兄弟の中でも末っ子で、自分より下の存在がいない。だから今度生まれる甥っ子は私にとって初めての下の存在になる。子どもを持つことの感覚は私には全くわからなかった。
ふいに後ろから、カタリと音がした。振り返ると、おじいちゃんの遺影と目が合った。やっぱり帰ってきてくれてるんだな。そう思った。少し前に、おばあちゃんが話した昔のおじいちゃんの話を思い出した。おじいちゃんが若い頃、農作業でどれだけ頑張ったか。おばあちゃんと初めて出会ったときの話や、家族旅行での思い出。「あの人は優しい人やったけど、ほんとに頑固やったね」おばあちゃんは笑いながら言っていた。
おじいちゃんの遺影を私はジッと見つめていた。今の私を見て、おじいちゃんは何て言うだろう。「ねぇ、おじいちゃん、今の私、どう思う?」そう問いかけてみたけど、おじいちゃんはもちろん何も答えてくれない。おじいちゃんと、話したかった。
11
「サツキちょっとだけ顔出すごた」
洗面所で顔を洗っていたら、お母さんが後ろから言ってきた。
「お腹大丈夫なん?」扉から顔を出すお母さんの顔を見ながらそう言う私に、お母さんは「まぁ、あの子のことやから言っても聞かんやろうけんさ」と苦笑いした。私も「やろうね」と笑った。
お昼過ぎに、サツキ姉ちゃんはこの間会ったときよりもさらに大きくなったお腹を抱えてやってきた。サツキ姉ちゃんは私たち姉妹の中で一番小柄だけど、その小さな体に赤ちゃんが入っているのはいつ見ても不思議な気持ちがする。
「いやぁ急にすいません」玄関でペコペコする哲さんにお母さんは「いいのいいの」と言った。サツキ姉ちゃんは「帰ってきとるのはみちるだけ?」とお母さんの後ろに立つ私を見ると言った。
「そうよ、みちるだけ。てか、はよ上がらんね」そうお母さんが促すと2人は玄関に上がった。哲さんが「お腹、大丈夫か?無理するなよ」と心配そうに声をかけて、サツキ姉ちゃんは「大丈夫よ」と軽く手を振った。でも、その仕草にはどこか疲れが滲んでいるようにも見えた。
「あぁ、重た」ダイニングの椅子に座るとサツキ姉ちゃんは大きく息を吐いた。「無理せんでもよかったとに」お母さんはそう言うと透明のグラスに盛ったバニラアイスを3人分置いて「にしても、随分と大きくなったわね」とサツキ姉ちゃんのお腹を優しく触った。
「いよいよ来月やね」私がそう言うとサツキ姉ちゃんは「そうやねぇ。なんか実感湧かんけど」と少し照れたように言った。
そこからしばらく4人でアイスを食べながら話をした。この場にはいないめぐ姉ちゃんのことや、哲さんの仕事のこと。子どもの名前のことを聞かれると哲さんは「まぁ顔を見て決めようと思います。サツキの中では候補があるらしいですけど」と言った。その言葉にサツキ姉ちゃんは「まぁ産むのは私やけんね。決定権は私たい」と冗談を言った。
アイスを食べ終えて少しすると、お父さんの軽トラが玄関前に着く音がした。するとお母さんが「あ、ところで哲さん、ちょっとお父さんの車見て欲しいんやけどさ」と言った。哲さんは自動車整備の仕事をしていることもあって、お父さんの車の調子が悪いときは何かと用命されていた。「いいですよ」哲さんは立ち上がって、お母さんの後を付いていった。
「またお父さんの車調子悪いと?」サツキ姉ちゃんは2人の後ろ姿を目で追いながら言った。
「私もよう知らんけど、なんかエアコンの調子がどうのって言ってた」私は空になったグラスを下げると言った。
「ふーん。しかしオトンもよお働くわ」
「そっちの方が性に合っとるんやろ」私はお母さんの口調を真似て言った。
「はは。そうやろね」
台所でグラスを洗っていたら、窓越しに、ツバメがこっちに向かって飛んでくるのが見えた。どうやら軒先に巣を作っているらしく、そのまま上に上がっていった。
ツバメを見ると、思い出すことがある。小学生の頃、学校の帰り道、ツバメのヒナが道路に落ちていた。巣から落ちてしまったらしく、まだ羽も十分に生えそろっていないから戻ることもできない。弱々しくピーピーと鳴くその姿に、私はどうしていいか分からず立ち尽くしていた。
「どうする?」
一緒帰っていた友達が聞いてきた。私は答えに詰まり、ただヒナを見つめるばかりだった。すると友達が「ちょっと待ってて」と言い、近くの公園で拾った長い木の枝と葉っぱを使って、器用にヒナを巣に戻していった。
その瞬間、空を舞っていた親鳥が巣に戻り、嬉しそうにヒナを包み込むように羽を広げた。ヒナも親鳥も、喜び合うように鳴いていた。その姿からは親子の深い愛情を感じるようだった。
「よかったね」と友達は言った。
「姉ちゃんさ、お母さんになるのってどんな気持ち?」私はグラスを水切りのトレイに置くと、サツキ姉ちゃんの方は振り向かずに言った。
「どんなんもこんなんも。産まれてみらんと分からんさ」サツキ姉ちゃんは笑いながら言った。「でも、きっと可愛いだろうなぁ。なんか、みちるが産まれたときのこと思い出すよ」
「そんな」私は振り向かずに言った。
「恵のときのことは私も小さかったからあんま覚えてないんやけど、みちるのときのことは不思議と覚えとるんよね。すごい寒い日でさ。クリスマスの前だったから病院の待合室にクリスマスツリーがあって、看護師さんが私と恵になんかお菓子くれたんよね」
「よう、覚えとるね」
「嬉しかったなぁ。またひとつ、自分がお姉ちゃんになれた気がして」
「そう」
「そうだよ。やっぱ嬉しいもんよ、自分の子供に限らず、妹でも弟でも子どもが生まれるってのは」
私はサツキ姉ちゃんの言葉に何とも言えない気持ちを感じた。姉ちゃん、私は姉ちゃんが思ってるほどまともな妹じゃないよ。私は人間じゃないんだ。ごめんけど。
「・・・姉ちゃんはさ」私はシンクに流れる水を見つめながら言った。
「ん?」サツキ姉ちゃんが言った。
「姉ちゃんはさ、昔から何でもソツなくこなせて凄いなって思うけど、どうして?」
「どうしてって?何が?」
「どうして、そう、何でも器用にできるのかなって」私は誤魔化すように笑いながら言った。気まずい空気にしてしまったことを少しだけ後悔した。
「そんなことないよ。別に私にだってできないことはいっぱいあるよ」サツキ姉ちゃんは笑いながら言った。「みちるみたいに絵が描けるわけでもないし、恵みたいにパソコンに詳しいわけでもないし」
「姉ちゃんらしいね」私はそう言うとじっと黙り込んだ。サツキ姉ちゃんの視線を、背中で感じた。
「みちる」しばらく黙っている私に、サツキ姉ちゃんはそう言うと、立ち上がって私の側まで来た。
「なんか悩みでもあるん?」サツキ姉ちゃんの手が私の肩に置かれた。「何でも言いな。あんたは昔からそうやけん。本当は何か相談したいことがあるんやろ」
「相談したいことっちゅうか」私は下唇を噛みながら言った。
「言ってみ」サツキ姉ちゃんは私の肩に手を置いたまま言った。姉ちゃんになら、すべて打ち明けてもいいかもしれない。そう思った。
「今、私、絵描いとってさ」私は小さく吐き出すように言った。
「うん」サツキ姉ちゃんは私の声を聞きいるように、顔を近づけた。
「コンペに出そうと思ってる」
「コンペ?」
「コンテスト。大賞を取れば、展示会ができて、画家としてデビューできる。そう言うやつ」
「凄いやん」
「凄くないよ」
「また。・・・それで?」
「同僚をモデルに、その、絵を描いてて」
「うん」
「チエミって言うんやけどさ。私、その・・・」
「うん」
私はシンクに手を掛けた。心臓が高まっている。大きく、息を吸った。
「その子のことが好きで」
サツキ姉ちゃんは何も言わなかった。私は続けた。
「こんな私、おかしいかなって。同性のことが好きで、その子を勝手にモデルにして絵を描いてさ。それで画家を目指そうなんて、馬鹿みたいだなって」
「そんなことないよ」サツキ姉ちゃんは私の肩をさすった。私は続けた。
「私なんかが夢を持ってさ、本当にいいのかなって。私なんてそんな、夢を叶えられるような人間じゃないし。他にはもっと凄い人だっていっぱいいて、この間姉ちゃんが教えてくれた佐伯だってそうだし、別にあの子みたいに私、才能があるわけでも、その、ルックスって言うか、なりがいいわけでもないし。私がそんな目指して何になるのかなって思ったら、その、怖くて」
気がつけば、涙が出ていた。止めようと思っても、涙は止まらなかった。しばらく涙を流した。サツキ姉ちゃんは黙っていた。
「ごめん」ようやく口を開いて私は言った。
「拭きな」サツキ姉ちゃんはハンカチを渡した。
「ありがとう」私は涙を拭いた。
「とりあえず座ろっか」そう言うとサツキ姉ちゃんは椅子に戻り、私も椅子に座った。
「そうかぁ」サツキ姉ちゃんは天井を見ながら、難しい問題を前にした受験生のように言った。サツキ姉ちゃんはしばらく考え込むと言った。
「まぁ、私も絵のこととかはよく分からんけどさ。ただ、何もせんよりは何かした方が絶対いいと思うし、そうやって何かに挑戦するのは純粋に凄いなっち思うよ」
私はサツキ姉ちゃんの言葉に、何も言えなかった。
「そのSaekiって人がどれだけ凄いかってことも私は知らんけど、みちるにはみちるの良さがあると思うけん、自信持っていいと思うよ。まぁ素人の私が言ったところでって感じやろうけど」そう言うとサツキ姉ちゃんは笑った。
「ごめん」私は言った。
「謝ることやなかよ。あと、その同僚の人?名前なんだっけ?」
「チエミ」
「チエミさんね。その、難しいとこやけどさ、別に今の時代、そんな同性のことが好きなんて別におかしなことやないと私は思うし、別にそれやけんって言ってお母さんもお父さんも何て言わんと思うよ。おばあちゃんはわからんけど」サツキ姉ちゃんは苦笑いをしながら言った。
「別にみんなに言うつもりはないけど」私は言った。お母さんには言えなくても、サツキ姉ちゃんに打ち明けられたことは、私の中では小さな達成だった。
「まぁ、言う言わないは別にいいけどさ。でも、そうだなぁ、その、チエミさんをモデルに絵を描いとることやけどさ、そこに罪悪感を持つ必要も私はないと思ってて」
「罪悪感って言ったらあれやけど、そこまで」
「でもどこか引っかかりは持っとるわけやろ」
「うん」
「そうやろ。やけん、別にそんな罪悪感は持たんでいいと思うわけ。やけ、こんなこと言ったらなんかクサいかもしれんばってん、そのチエミさんの絵を描くことでさ、チエミさんとの思い出?友情?愛情?をさ、永遠に残すんだって思ったらさ、いいんやない?」
「永遠・・・」
「そう。チエミさんとの思い出を永遠に残す。そう思ったら、モチベーションも上がるんやない?」
私は何も言えなかった。
「的外れなこと言ってたらごめん」
「そんなことないよ」
サツキ姉ちゃんはまたじっと考え込んで、口を開いた。
「みちるはさ、もっと自信持っていいよ、まぁ、恵みたいに根拠のない自信ばっか持ってるっていうのもアレかもしれんばってん」サツキ姉ちゃんは笑った。
「自信か・・・」私は言った。
「難しいけどね」サツキ姉ちゃんは言った。「私だって、そんな自信があるかって言ったらあるわけでもないし」
「みちるーいるー?」玄関を開ける音とともに、お母さんが呼ぶ声が聞こえた。
「一緒おるよー」サツキ姉ちゃんがすかさず反応した。
「冷たいお茶持ってきてくれーん?哲さんとお父さんのぶーん」
「わかったー」サツキ姉ちゃんが答えた。
「持っていってやり」サツキ姉ちゃんにそう言われ、私は立ち上がって冷蔵庫の方に向かった。
チエミとの思い出を永遠に残す。それが正しいことなのかは分らなかったけれど、その言葉には不思議と暖かなものを感じた。冷えたお茶をコップに注ぎながら私はずっとサツキ姉ちゃんの言葉を頭の中で反芻していた。
お父さんの軽トラのエアコンも直り、哲さんが部屋で少し涼んでから、サツキ姉ちゃん達は帰っていった。「夕飯まで居ればいいとに」とお母さんは少し寂しそうだったけど「夜なるとここら辺真っ暗で危ないけん」とサツキ姉ちゃんは助手席に乗り込んだ。「次会うときはもう産まれとるやろうね」サツキ姉ちゃんは言った。お母さんは「なんか気になることあったら電話しいね」と心配そうに声をかけた。
車が出ていくとき、サツキ姉ちゃんは私の顔を見てニッと笑った。その笑顔に、私は何か励ましのようなものを感じた。私とサツキ姉ちゃんだけの秘密。その秘密は私を得意な気持ちにさせた。
長い9連休も残り2日を残した金曜日、送り火の日がやってきた。
夕飯の片付けが終わり庭に出ると、風が少し涼しくなっていた。迎え火の時と同じように束が準備されている。おばあちゃんが手を合わせながら「また、来年ね」と静かに話しかける。お父さんも、その後ろで黙って手を合わせている。私もそれに倣って手を合わせた。毎年のことだけど、送り火の日は何か大切なものが消えていくようで、なぜだか切ない気持ちになってくる。また来年。また、来年。
静かに燃える火と、ゆらゆらと夜空に立ち昇っていく煙を見つめていたら、ふいにおじいちゃんの声が聞こえた気がした。一瞬のようで、どこか耳に残るような声で。その声がなんと言っているのかは、わからなかった。でも、私も絵を通じて何かを残したい。それはおじいちゃんが畑を守り続けたように、自分の中で何かを大切に守り、次に繋げることなのかもしれない。サツキ姉ちゃんが言っていたように、永遠の思い出として残していくその過程にこそ意味があるのかもしれない。そういう考えだけは、なぜか頭の中に残っていた。
その日の夜も、私はタブレットに向かった。思えばこの間、ずっと絵を描いていた。ここまで絵を描くことに集中できるのもこの期間だけだ。絵の完成も間近だった。
ペンを動かしている間、サツキ姉ちゃんの言葉が頭の中でずっと響いていた。「思い出を永遠に残す」。この笑顔を永遠に残したい。自然とそんな気持ちになっていた。ふと、ペンを持つ手が震えていることに気がついた。どうしてこんなに緊張しているんだろう。描くべきものはわかっている。私の気持ちもわかっている。でも、どうしてもペンが進まないときがある。サツキ姉ちゃんが言うように、罪悪感がそうさせているのか。それとも別の何か。私にはわからない。でも、描こう。描かなきゃ。ペンがタブレットに触れた瞬間、浮かんだのはサツキ姉ちゃんの顔だった。窓越しに、ニッと、笑顔を見せてくれた姉ちゃん。「頑張りなね」そう言われた気がした。
私はタブレットの位置を直して、ペンを動かし始めた。緊張は少しだけほぐれていた。気づけば、夜は深くなっていた。周りの音も静まり、ただ私とタブレットだけが残っている。何だか不思議と胸がスッと軽くなった。「私にはできる」そんな気持ちが、自然に湧き上がってきた。
その時、少しだけ窓を開けて外の風を感じた。夜空には、遠くにほんの少しだけ星が見えていた。もしかしたら、今日のサツキ姉ちゃんの言葉は、おじいちゃんが私に伝えたかったことなのかもしれない。直感的にそう思った。後ろを振り向くとおじいちゃんの遺影が私を見つめていた。不思議と、おじいちゃんは微笑んでいる気がした。
「ありがとう」
私はおじいちゃんと心の中で会話が出来たことの喜びを伝えるように、そう独り言ちた。
12
9月になり暑さも少し和らいできた頃、サツキ姉ちゃんに子どもが産まれた。
”元気な男の子!目のあたりがみちるそっくり"と、お母さんから病院服姿のサツキ姉ちゃんに抱かれる産まれたばかりの赤ちゃんの写真がLINEで送られてきた。名前も決まったようで、「陽太」と書いて「ひなた」と読むことをお母さんから教えられた。
「どうせ年末年始に会うやろうけど一目見ておきなさい」とお母さんからせっつかれ、週末、お姉ちゃんが入院している病院まで行くことになった。
病院に入ると、待合室はお腹の大きくなった妊婦さんや、小さな赤ちゃんを抱くお母さんの姿でいっぱいだった。エレベーターを出てサツキ姉ちゃんの病室を見つけてドアを開けると、サツキ姉ちゃんが疲れた顔で「ああ、みちる」と笑った。お父さんとお母さんはまだ来ていないらしい。隣のベビーベッドには小さな赤ちゃんー陽太ーがスヤスヤと眠っている。どことなくサツキ姉ちゃんにも似ている気がするし、哲さんに似ている気もした。私に似ているかと言われるとよく分からない。
陽太の顔をじっと見つめていたら「抱いてみる?」とサツキ姉ちゃんが言った。
「えっ、私が?」そう戸惑っていると「可愛い初めての甥っ子なんだから」とサツキ姉ちゃんはベッドから起き上がって、手際よく陽太を抱っこした。
「腕をこう組む感じでいいけん」とサツキ姉ちゃんは私に赤ちゃんの抱き方を教え、私の腕に陽太がそっと添えられた。抱いた瞬間、小さすぎてどうしたらいいかわからなかった。温かい。こんなに軽くて小さいのに、ちゃんと生きてるんだ。指をちょっと近づけたら、小さな手でぎゅっと握ってきた。
「似とるやろ。お母さんも、あんたにそっくりやって笑っとったよ」
愛おしい感情が湧いてきて思わず泣きそうになった私は、サツキ姉ちゃんの言葉にうなずきながら、じっと陽太の顔を見つめた。小さな鼻、閉じたまぶた、ふっくらした頬。こんなに可愛いなんて!
「似てるかな、私に?」
私は陽太の顔をもう一度じっくり見た。こんな小さな赤ちゃんに自分が似ているなんて、なんだか不思議な感じがした。
「似とるよ。特に目元がそっくり。あんた、昔から感情が顔に出んタイプやったやん?それと一緒で、陽太も今のとこ無表情気味やけど」サツキ姉ちゃんが冗談ぽく笑った。
「それ、褒めとるの?」私も笑った。
「あはは、まあね。でも、あんた、昔から落ち着いてる子やったけん。赤ちゃんのときも手がかからんかったらしいし、陽太もそうやったらいいなって思うけどね」サツキ姉ちゃんは目を細めながら言った。
「でも、さすがに疲れたやろ」私は陽太をそっとベビーベッドに戻して言った。サツキ姉ちゃんの顔はさすがにいつもよりやつれていた。
「正直めっちゃ疲れたよ。陣痛も長かったし、産むのも大変やったし」
「そうやろ」私は言った。
「でも、それ以上に、これからのこと考えるともっと大変だろうけどね」サツキ姉ちゃんは遠い目をして言った。
「これからのこと?」
「子育てってさ、答えがないやん?哲さんも頑張ってくれると思うけど、最終的には私がメインやろうし。私、ちゃんとできるかなって不安になることもあるんよ」
「姉ちゃんでも、そんなこと思うんやね」
「そりゃ思うよ。あんたもこれからいろいろあると思うけど、そういうときは無理せんでいいから、頼れる人に頼りなよ」サツキ姉ちゃんはいつもの調子で私にそう諭した。自分が大変な時でも私のことを気にかけるサツキ姉ちゃんらしい言葉だった。
「でも、陽太抱いとると、少しは気が楽になるね。命の重さって言うんかな、なんかこう、ちゃんと向き合おうって気持ちになれる」そう言うとサツキ姉ちゃんは陽太の方に顔を向けた。
「私も、そういう気持ち、何かで感じられるといいんやけどな」私が陽太の方を見ながら言うと、陽太は小さな声で泣いた。まだか細い、でも生命力を感じさせる声だった。
「あんたには絵があるやん」サツキ姉ちゃんは確信を持った声でそう言った。「この間の話やないけどさ。とにかく頑張りな」サツキ姉ちゃんは陽太の胸に手を置くいて優しくさすりながら言った。
「うん」私は何と返していいか分からずそう言った。
家に帰ると、自然とタブレットを手に取っていた。陽太の顔、握ってきた手の感触、姉ちゃんの穏やかな表情。それを形にしたくて、ペンを走らせた。軽いデッサンのつもりで描いていたけど、自分でも驚くくらい夢中になってて、気づいたら外は暗くなっていた。
あの日から、何かが変わった気がする。お盆休み、サツキ姉ちゃんと話したあの時から少しずつ、あの頃の情熱がまた自分の中に戻ってきたみたいに思えた。
また、チエミの絵も佳境に入っていた。背景の描き込みも終え、あとは各顔のパーツの細部を整えるところまで来ていた。データを開いて、チエミの笑顔を見つめる。私の感情にはもう後ろめたさは混じっていない。とにかく今はこの絵を完成させることだ。揺るぎない決意が私の中で燃えていた。
ご飯を食べてまたしばらく絵を描き、そろそろお風呂に入ろうとタブレットを閉じて、お風呂を沸かしている間、何気なくスマホを開いてニュース記事を読んでいたら、一瞬見逃しそうになった中に「Saeki」の文字があるのを見つけた。佐伯?もう一度見てみようとスクロールしていくと、すぐにその見出しは見つかった。
「人気イラストレーターSaekiに盗作疑惑 新商品のロゴが海外作品と酷似」
大手の週刊誌が書いた記事のようだった。関連記事にも他の週刊誌やネットメディアの佐伯に関する記事が多く表示されている。「人気インフルエンサーの盗作、専門家が指摘する問題点」「人気イラストレーターSaeki、盗作疑惑で今後の活動に危機!」「インフルエンサーS、過去に明かしていた創作の極意が盗作を彷彿とさせると話題」
扇動的な見出しで多くの記事が掲載されている。佐伯が盗作?私は最初に見つけた記事を読んでみた。そこには佐伯の盗作疑惑についてこうまとめられていた。
-人気イラストレーターSaekiに盗作疑惑 新商品のロゴが海外作品と酷似 本人は沈黙もSNSでは指摘相次ぐ 専門家『偶然では済まされない』-
「近年、SNSを中心に絶大な支持を集めるイラストレーター兼インフルエンサーのSaeki氏が、思わぬ形で非難の的となっている。問題となったのは、化粧品メーカー「Lumière」が発表した新商品のロゴデザイン。このロゴはSaeki氏が考案したものだが、SNS上で海外の有名作家による過去の作品に酷似しているとの指摘が相次いでいる。
きっかけは、あるユーザーが「Lumièreのロゴが、フランス人デザイナー、クロード・ヴェルサン氏の2015年の作品にそっくりだ」とSNSに投稿したことだ。この投稿は瞬く間に拡散され、Saeki氏の過去の作品にも目が向けられることとなった。
問題のロゴは、シンプルながらも洗練された曲線が特徴のもので、確かにヴェルサン氏の作品と構図やラインの使い方が似通っている。さらに、Saeki氏が過去にWebメディアのインタビューで「海外の作家からインスピレーションを受けることが多い」と発言していたことがSNS上で掘り起こされ、火に油を注ぐ結果に。ネット上では「影響を受けるのとコピーするのは別」「Saeki氏のこれまでの作品も疑うべき」といった批判が噴出している。
ヴェルサン氏自身も事態を受け、「私の作品に影響を受けたと言われること自体は光栄だが、これは明らかに度が過ぎている」とコメントを発表している。
しかし当事者であるSaeki氏は現在沈黙を守っており、「Lumière」側も「事実確認中」とするコメントを発表したのみだ。
専門家の間でも意見は分かれている。「デザインにおけるインスピレーションの境界線を議論する必要がある」(美術評論家)という意見がある一方、「これだけ似ていると偶然では済まされないのではないか」(デザイン研究者)との厳しい見解もある。
Saeki氏はSNSフォロワー総数数百万以上のインフルエンサーとしても活動しており、その発言力と影響力は計り知れない。今回の炎上騒動が彼女のキャリアにどのような影響を与えるのか、注目が集まっている」
佐伯が盗作?まさか・・・。元の投稿が気になり、SNSを開いてSaekiの名前を検索してみたら、すぐにその炎上の元になった投稿は出てきた。有名人でも何でもない一般人の投稿だったけど、その投稿には何十万にのぼるいいねがついていて、引用数も同じくらいの数がついていた。
「Lumièreの新商品のロゴだけど、クロード・ヴェルサンの2015年の作品「夜」にそっくり。これモロ盗作じゃないか?調べたらSaekiってイラストレーターが作ったものらしいけど・・・」
そこには佐伯の作ったロゴと海外の作家の作品の画像が添えられていた。確かに、モチーフの配置や構図がほとんど同じだ。似ていると言われれば確かに似ている。また週刊誌が書いていた通り、その投稿に反応する形で過去の佐伯のWebメディアでのインタビューの発言も引用されていた。この投稿にも何万に登るいいねがついている。
「過去のSaekiの発言"海外の作家の作品は度々チェックしていて、そこからインスピレーションを受けることも多い"って、モロ盗作のことで草」
他にも検索結果にはSaekiに関する投稿が数多く表示された。
「これが盗作じゃないって言うなら、オリジナリティって何?海外の作家に失礼すぎるでしょw」
「Saekiのロゴ、完全にクロード・ヴェルサンの作品のパクリ。ずっと好きだったのにがっかり・・・」
「今までオリジナルだと思ってた作品も怪しく見えてくる。Saekiは説明すべき」
「影響を受けるのと丸パクリするのは違うでしょ。クリエイターとしての自覚あるのかな?」
「Saekiのフォロワーのアホ共はまだ擁護してるの?明らかにアウトなデザイン」
「このロゴを採用した化粧品メーカーもどうかしてるでしょ。調査しなかったの?」
「『インスピレーション』って便利な言葉だけど、限度があるよね。これは完全に一線越えてる」
「Saekiって結局SNSで目立つために他人の作品利用してただけじゃないの?承認欲求強すぎてこわっ」
「SNSであんなに自己顕示欲を晒してるのに、いざ問題が起きると沈黙。何がインフルエンサーだよw」
「SNSでのフォロワー数に頼って、結局クリエイティブな実力はなかったってこと。中身空っぽのエセクリエイター」
「表ではファンに優しくしてるけど、裏では自分の利益のことしか考えてなさそう。もうダメだね」
「素人の集まりみたいなSNSフォロワーに媚びて、承認欲求を満たしてるだけで、ほんと無理。消えて欲しい」
刺々しい言葉が並ぶ投稿に胸がざわついた。頭の中では、佐伯を知っていた頃の自分の気持ちが混ざり合って、うまく整理できない。SNSでの反応や批判の言葉が頭に響く。かつてあんなに輝いて見えた佐伯が、今やその名で炎上していることが信じられない。影響を受けることと、まるで模倣しているように見えることの違いはどこで線を引くべきなのか、私には分からない。次々と批判の言葉が思い浮かぶ顔の見えない人たちのことを私は思った。
佐伯のアカウントを見てみたが、先週から投稿は何もされていないようで、相変わらずのカラフルなデザインが投稿されているだけだった。炎上の件はもちろん触れられていない。ただ最後の投稿のコメント欄には「盗作の件、早く説明してください」「盗作乙wくそデザイナー、死ね」と言った批判的なコメントや「私はSaekiさんのことを信じています」「アンチのことなんか気にしないでください!」と言った佐伯を擁護するコメントが投稿されていた。
画面を見つめながら、私は胸の中に奇妙な感情が湧き上がるのを感じた。動揺?怒り?いや、違う。もっと薄暗い、どこか心地よい感覚だった。思わず、コメント欄にこう打ち込みそうになった。
「ざまぁみろ」
・・・思わず眉をひそめて、私は入力しかけた文字を消した。心臓がバクバクと音を立てている。
佐伯が嫌いなわけじゃない。むしろ、昔から才能のある人だと思ってた。でも、あの完璧そうな姿を見て、羨ましくて、自分なんて何も持ってないって思い知らされてきたのも事実だ。だからだろうか、こうして少しでも傷ついている彼女を目の当たりにして、どこか安心している自分がいる。
気持ちを落ち着かせようと私はスマホを置いて、お風呂に向かった。お湯を張った浴槽に体を沈め、湯船に浮かぶ自分の裸の姿を見つめながら、私は不意に、高校生の時体育祭で佐伯がリレーで走る姿を見る男子の姿を思い出した。
「あの子、ヤバくね?」
「あの佐伯って子?」
「そうそう。めっちゃ揺れてる」
「ほんとやん。うわぁ。たまんね」
思えばあの頃から佐伯は、私たちのクラス以外でも何かと話題になることが多かった。
デザイン科にめっちゃ胸のデカイ子がいるとかなんとか。そういう男子たちの声を佐伯がどう思っていたかは、私はよく知らない。でも、そうやって何かと注目の的になる佐伯のことを、当時から私はどこか羨ましく思っていた。自分の存在が注目される佐伯の姿に。
お風呂から上がり、タブレットをもう一度開いた。さっきまで描いていた陽太の絵が画面に映る。無防備で純粋な陽太の顔が、自分の薄暗い気持ちを責めているように思えた。
ダメだ、こんなんじゃ。
ペンを握り直し、また陽太の絵を描き始めた。今の自分には、絵を描くことしかできない。佐伯のことも、盗作疑惑の真相もどうでもいい。ただ、自分が納得いくまで描ききる。それが今、私にできる精一杯の抵抗だ。ペンを握る手に自然と力がこもった。
13
佐伯が沈黙を破ったのは週刊誌の記事が発表されて2日経ってのことだった。炎上の発端になった投稿がなされて1週間が過ぎていた。今までタイムラインを彩っていたカラフルな画像とは裏腹に、白の無地をバックに今回の騒動に関するコメントが小さな文字で記載された画像を佐伯はSNSに投稿していた。
皆様へ
このたび、私の制作したデザインについて、一部の方々より盗作の疑いがあるとのご指摘を受け、心からお詫び申し上げます。この件につきましては、多くの方にご心配、ご迷惑をおかけしていることを深く反省しております。
問題となったロゴデザインについてですが、私自身の創作過程において、海外の優れた作品からインスピレーションを受けたことは事実であり、その影響を完全に排除することができなかった点について、改めて責任を感じております。デザインに携わる者として、このような疑念を持たれる形となったことは、私の至らなさによるものです。
現在、この件について事実関係を改めて調査しており、皆様に誤解を与えない形で真摯にご説明させていただく準備を進めております。また、当該作品の制作過程を詳細に公開し、透明性をもってこの問題に向き合う所存です。
私の作品を支えてくださっている皆様、そして関係各位に対し、多大なご心配とご迷惑をおかけしましたことを重ねてお詫び申し上げます。今後、デザインに携わる者としての責任を一層強く自覚し、再び皆様に信頼いただけるよう努めてまいります。
このたびは、誠に申し訳ございませんでした。
2019年9月18日Saeki
コメント欄は相変わらず、佐伯を擁護する声や批判する声に溢れていたけど、言い訳とも釈明ともつかないありきたりな彼女のコメントを見て「いかにも第三者に書かせたような文章。ゴーストだなこりゃ」と書いている人もいた。会社の休憩室でその投稿を見た私は大きくため息をついた。これじゃあ盗作を認めているようなものじゃないか。何だか情けない気持ちだった。かと言って、どういう対応が正しいのかも私には分からなかった。いっそのこと言い訳をした方がいいのか。それとも潔く盗作しましたと認めるべきなのか。
モヤモヤとした気持ちを抱えたまま休憩時間が終わり、私は事務所に戻って仕事を再開した。展示会も来週に迫っていてやることはたくさんあった。しかし、集中しようとしても佐伯の謝罪文のことやチエミの絵のことが頭から離れなかった。「盗作」という言葉が脳裏に焼き付き、どこか自分にも関係があるような気がしてならなかった。夢を追うこと、有名になること。その代償。何かが心に引っかかり、引きずり回される感覚が抜けなかった。
気持ちを切り替えようと少しだけ伸びをして、パソコンの前に向かった。ふと、パソコンのモニターに貼っている付箋に目をやると16時MTGと書いてある。そうだった今日はミーティングの日だった。周りを見ると、企画部の人は誰もいない。慌てて、私は会議室へと向かった。
「すみません、遅れました」
私は小さく頭を下げて空いている席に滑り込んだ。責任者の小川課長は時計に目をやると、「じゃ、定刻になったので始めましょうか。展示会の発表順についてもう一度確認します。各担当がしっかり準備を進めているか、ここで確認しておきたいと思います」と会議を始めた。
展示会の発表順や各々が話す内容などについて確認し合い、来週の展示会の具体的な内容が詰められていった。時間が過ぎていき、会議室の空気が少し緩んできたころ、小川課長が「最後に、みなさんに確認しておきたいことがあるのですが」と口を開いた。いつもの穏やか口調とは違う、少し緊張感をはらんだ口調で、緩んだ空気に緊張が漂った。
「このDMの宛先リストなんですけど、これ、最終確認したのは誰ですか?」小川課長はそういうと、今回の展示会の案内用のハガキと、宛先リストの紙を机の上に置いた。一瞬、血の気が引いた。宛先リストは私が制作したものだった。
「あ、それ、私です」
私がそう答えると、すぐに小川課長の厳しい視線が私を射抜いた。
「神谷さん、この宛先リストに不備があったみたいだけど、気付いてる?」
「え?」
一瞬、何を言われているのかわからなかった。慌てて小川課長が差し出した資料を確認すると、リストの中に明らかに間違った宛先が混じっていることに気付いた。おまけに、一部の顧客に二重送信していることもわかった。
「わかった?」小川課長は言った。私は「はい」としか返せなかった。
「これ、既存のお得意様だけじゃなくて、全然関係ない企業にも送られているんだよね」小川課長の口調は淡々としていたけど、奥にある響きには厳しさがあった。
「すみません、確認不足でした」
顔が熱くなるのを感じながら答えたが、それ以上何も言えなかった。小川課長はため息をつくと言った。
「確認不足ってレベルじゃないよ。これ、展示会の顔ともいえる重要な案内だってわかってる?しかも、二重送信の件、先方からクレームが来てる。しかも、社長の知り合い。『何度も送られてくるのは嫌がらせですか』って社長言われたんだよ」
言葉が胸に刺さる。返す言葉が見つからず、ただ俯くしかなかった。
「こういうミスがあると、会社全体の信用に関わるんだよ。さすがにわかってるよね?」
その場にいる全員の視線が私に突き刺さっているのを感じた。どの顔も無言だが、その中に驚きや失望の色が見えた。
「とにかく、早急にリストの修正をして。それから、今後の送信スケジュールも確認すること。これ以上のミスは許されないから」
「はい。すぐに対応します」私はようやく口を開いて言った。
「社長からもお話しあると思うから、終わったら社長室行って」
「はい」
声を絞り出して答えたものの、手が震えて資料をしっかり持てなかった。展示会の準備は重要な仕事なのに、色々なことに頭がいっぱいで、その重みを感じていなかった自分が情けなく思えた。
ミーティングが終わり、会議室を出るとき、同僚の誰かが小さな声で「大丈夫かな」とつぶやくのが聞こえた。胸が締め付けられる思いだった。
社長室に入ると、椅子に座っている社長は私を見るなり「まぁ、別に先方も納得はしてくれたばってん」と小さくため息をついた。私は「すいません」としか返せなかった。社長は机の上で指をトントンと鳴らすと「神谷はもう入社して何年かね」と言った。
「6年目です」私は言った。
「6年もなればそりゃミスとか多少の間違いはあるやろけど、ミスをしたこと自体、事実は事実なんやな。それに、クレームがあったのも事実や。あと小川にも聞いたけど、最近のお前は緊張感が感じられんとも言いよったんやな。そりゃ、デザインっていう好きなことを仕事にできとるかもしれんけど、それだけじゃ務まらんってことは理解しとけよ」
私はただその言葉に「はい」としか言えなかった。
「仕事は趣味じゃなかで。しっかりせぇ」
「はい」
社長はまだ何か言いたげな顔をしていたけれど、吐き捨てるように「戻っていい」と言い、私は社長室を後にした。
事務所に戻り、パソコンに向かった。クライアントへの謝罪は小川課長と社長が済ませており、私はただリストを修正するだけだった。
情けない気持ちでいっぱいだった。さっきまで佐伯の謝罪文を見て彼女を情けないと思った自分が馬鹿みたいだった。彼女は騒動の矢面に立って、自分の名前で謝罪文を書き、その責任を引き受けている。一方の私はどうだ。自分が起こした騒動なのに、謝罪は他の人にしてもらう。言ってみれば尻拭いをしてもらっている。雲泥の差だ。私の方が、社会人として、人として、情けなかった。
それに、そんな自分が画家を目指すなんて、子どもじみた夢のように思える。
絵を描いている時の充実感を、私は思った。私は画家になる。私は輝く。私は自分らしく生きる。私は・・・私は・・・私は・・・。そこにある、自分が自分でいる感触。私は私でいていいという感覚。自信を持つと言うのか、自身を持つと言うのか。
でも、それも全部ただの夢想だったとしたら、ただの絵空事だったとしたら。
目の前がクラクラしてパソコンの画面に焦点が合わなかった。裏庭に出て、あの景色を目にしたかった。でも、椅子に体が縛り付けられたようで身動きが取れなかった。企画部全員の視線が私を射るように感じた。
好きなことを仕事にできている。仕事は趣味じゃない。社長の言葉を思い返した。
そんな訳、じゃない。私はこの仕事が、好きなわけじゃない。趣味であるわけじゃない。
ぎゅっと、両手を握りしめた。
周囲では電話のベルの音やキーボードの音が鳴り響いている。
辞めてしまえ。
そんな小さな声が心の奥からかすかに聞こえた気がした。
だめだ。これしきのことで。でも・・・。
私はその小さな声をかき消すかのように頭を振り払い、パソコンに向かった。今日は家に帰って絵は描けないな。そう思った自分がいたけれど、それもまたバカらしくて、私はまた頭を振り払った。
14
「以上で、9月研修会のプログラムは全て終了いたしました。みなさんは各持ち場に戻ってください。なお、研修会メンバーは後片付けがありますのでこの場に残ってください」
司会者の声が食堂に響き、社員たちがざわざわと出口に向かう。金曜と土曜の丸2日間に渡って行われた研修会が無事に終わった。
初日は新商品の展示会が行われ、2日目は社長が用意したプログラムに応じた研修会が行われた。この間見た動画の感想の共有や今後の部門ごと、個人ごとの目標の共有、そして社長のプレゼン。例年と変わりない、これといった目新しさもない内容だった。
ふと、役員と談笑している社長の方を見た。社長は満足そうな顔で役員と話している。社長からしてみれば、今回の研修会も充実した内容で成功だったと言いたいところなんだろう。私は小さくため息をついた。自分こそ、好きなことを仕事にしているじゃないか。自分こそ、仕事が趣味じゃないか。そう思った。
事務所に戻って残っている仕事を片付け、定時になると、私はそそくさと事務所を後にした。ここ1週間は展示会前というのもあり、ずっと残業続きだったので疲れてしまった。
家について弁当屋で買って帰った弁当を食べ終えると、私はベッドの上に寝転がった。さすがに絵を描く気力も残っていなかった。テーブルの上に置いてある、先週からずっと開いていないタブレットに目をやると「描かなくていいの?」と言われている気分になって、私は寝返りを打ってスマホの画面を見つめた。
ぼんやりとニュース記事やSNSを眺めていた。佐伯の炎上の件はもう誰も話題にしておらず、週刊誌もSNSも、2、3日前に発覚したお笑い芸人の不倫の話題で持ちきりだった。
佐伯のアカウントを覗いてみたら、あの謝罪文の投稿以来なんの投稿もなかった。結局調査はどうなったんだろう。でも、きっとそのうち、彼女は何事もなかったかのように表舞台に戻ってくるんだろう。それでいいのかもしれない。才能がある人は、どれだけ叩かれても結局立ち上がれる。
スマホの画面を閉じると、部屋の中の静けさが一層目だった。何か音が欲しくてテレビをつけてみたけれど、どのチャンネルも大きな笑い声が響くだけで、すぐに消した。
タブレットにもう一度目を向けた。「描かなくていいの?」という無言のプレッシャーが再び心を締めつける。でも、描く気力なんてどこにも残っていない。もういいや。そう思っている自分がいた。あれだけ情熱を注いでいた自分が、遠い過去の自分に思えてくるようだった。
手に持っているスマホが振動した。画面を見るとチエミからの着信だった。チエミから電話が来るのも珍しかった。3コール目で私は出た。
「あ、みちる?」チエミはまだ会社にいるのか、外が少し騒がしい。
「うん、どうしたの?」私は言った。
「いや、その、本当は直接伝えたかったんだけどさ、みちるもう先に帰っちゃってたから」
「あぁ、ごめん」
「いいよ。で、その・・・前言ってた話なんだけどさ」
「うん」
「退職日が決まって。今月いっぱいで辞めることなった」
チエミの言葉に私は胸がざわついた。そうか、もう決まったのか。いざ言われてみると、現実のこととは思えなかった。今日の研修だって、いつもと変わらない調子だったのに。嘘だと言って欲しかった。やっぱりチエミが会社を辞めるなんて嘘なんじゃないか、そう思っていた自分もいた。でも、これが現実だった。私は壁にかけてあるカレンダーに目をやった。今月いっぱい。もう2週間後だった。
「そっか・・・」私は消え入りそうな声でそう言った。言葉の接ぎ穂が見つからなくて、私はじっと黙り込んでしまった。
「急でごめんね」チエミは申し訳なさそうに言った。
「謝らんでいいよ。お疲れ様。寂しくなるね」
「ありがと。最終出社日はもう今週末なんやけどね。それでさ、図々しいようだけど、引越しの手伝いして欲しくてさ。29日の日曜に家来て欲しいんやけど、大丈夫?」
「29日の日曜?」私はカレンダーを見つめたまま、チエミの言葉を反芻した。
「うん。荷物の梱包とか手伝ってもらえたら助かるんだけど、忙しいよね?」
「いや、大丈夫だと思う。手伝うよ」本当は、気が進むかどうかなんて考える余裕もなかった。
「よかった。助かるわ。ありがとう」チエミの声が、少しほっとしたように聞こえた。
「場所、変わらんよね?」
「うん。前と同じように駅まで来てくれへん?」
「わかった」
「ほんま助かるわ」
それから私に来てほしい時間帯と、本当は前みたいに家でご飯でも食べながらゆっくり話したかったけど、仕事の引き継ぎと新しい住まい探しでバタバタしていてそんな時間がなかなか取れなくて残念だということ、落ち着いたら一緒に旅行でも行きたいということをチエミは話した。私もチエミと久しぶりに話したかったし、チエミもチエミで話したいことがいっぱいあるんだろうなということはその口調から伝わった。
「じゃ、また連絡するな」
そうチエミが言うと電話が切れた。スマホを握りしめた手のひらに、じんわりと汗がにじんでいた。
チエミが本当にいなくなる。新しい生活を始めるために、私の手の届かない場所へ行ってしまう。その事実が自分の中で少しずつ現実味を帯びてきた。
ベッドの上にスマホを置き、天井を見上げる。心のどこかに小さな穴が空いたようだけど、その穴をどう埋めたらいいのかわからない。でも、彼女の新しい出発を見送ることができるのは、少しだけ幸運なのかもしれない。その瞬間が過ぎ去ったら、自分はどうなるんだろう。
タブレットにもう一度目を向けた。今はまだ描ける気がしない。けれど、いつかこの空白を埋めるために、手を動かさなければならない日が来るのだろう。それまで、どれだけの時間がかかるのだろう。不安な気持ちでいっぱいだった。
少しだけ、外を歩こう。
そう思い立って、スニーカーに足を通した。夜の街はいつもと変わらず静かだった。遠くから、虫の鳴く音が聞こえる。
近くの公園まで歩くと、ベンチに腰を下ろした。冷たい夜風が頬をひんやりと撫でる。今の私の気持ちを、誰かに聞いて欲しかった。ただ、そんな誰かは今、ここにはいない。
目の前に手を繋いで歩くカップルが通りかかった。彼女が笑いながら、彼氏に何か話しかけている。彼氏がその頭を優しく撫でるのを見ていると、胸がぎゅっと締め付けられた。温かな光景のはずなのに、自分にはそれがまぶしくて仕方がなかった。
家に帰ると、ドアを閉める音が妙に大きく響いた。部屋の中はいつも通りの静けさだ。それなのに、どこか空虚さが際立って感じられる。
タブレットを手に取った。画面を開くと、チエミの絵が現れた。未だ未完成の絵。あと少しだけ、何かが足りない。それを見つめると、胸の中にじんわりとした痛みが広がる。
「やっぱり、もう描けないんじゃないか」
そんな考えがよぎる。でも、描かなくてはいけない。そんな焦りだけが、自分の中で膨らんでいく。それでもペンを握る手は動かない。
机に突っ伏して、深く息を吐いた。それでも、ふと浮かんだのは、チエミの笑顔だった。
「チエミ・・・」
静かに、涙がこぼれた。
15
「これで終わりっと」服が入った段ボールにガムテープを止めると、チエミはフローリングの上にあぐらをかいた。「しかし、こんな暑い日に引っ越しなんてしたくなかったよ。ごめんね、手伝わせちゃって」チエミは前髪をゴムで上に留めていたけど、額には汗が滲み、バナナのイラストが入った白いTシャツも汗で濡れていた。
「いいよ。久しぶりに汗かいた気分だよ」エアコンをつけているとはいえ、やっぱり体を動かすと暑かった。9月も終わりだと言うのに、今日に限って暑かった。
「しかし、辞表出してからほんとあっという間やったわ」近くのコンビニで買ったスポーツドリンクを飲みながら、チエミは言った。周りは備え付けの家具と段ボールだらけだった。
「そんなもんなん?」私もチエミと一緒にフローリングの上に座り込んで聞いた。
「あっさりしたもんよ。去る者は追わずって言うんかね」チエミはやれやれと言った調子で言うと、電子タバコを取り出した。
「でも、野口課長の挨拶、私感動しちゃった」
最終出社日、朝礼で社長から「新久さんが本日を持ちまして退職されます」と簡単な挨拶があり、野口課長からは「新久さんは営業として私と一緒に働いてくれましたが、本当に心強い仲間で、どんな困難があっても前向きな姿勢で挑んでくれました。チエちゃん、今まで本当にありがとう!」という言葉が送られ、チエミも目を赤くしながら「今までお世話になりました」とみんなの前で挨拶をして、大きな拍手が響き渡った。
「まぁね。絶対泣かないって決めてたけど、ありゃやっぱこらえきれへんかったわ」煙を吐き出しながらチエミは言った。「でも、次はどうしようかねぇ。なんか無職っていうのも気が引けるというか、今まで一生懸命働いてた分、明日からいっとき休みって言われても実感ないわ」
「ゆっくり休みなよ」私は言った。
「ありがと」チエミはニッコリと笑った。
スマホを見ると、時間はもう正午を過ぎていた。お腹が空いていたけど、ロクに化粧もしていないこんな汗だくの状態で、どこかにご飯を食べに行こうという気も起きなかった。チエミもその気持ちは同じらしくて、スマホを手にしながら「なんかテイクアウトで頼む?備え付けのテーブルならあるから、そこで食べようよ」と、早速テイクアウトができるお店を探していた。
「あー、なんかすんごいガッツリしたものが食べたい気分。みちるは?」
「私は何でもよかよ。任せる」
「じゃあ、あそこの唐揚げ屋のお弁当でも頼もうかなぁ」いたずらな笑顔を浮かべながら、チエミは言った。「お、15分後に受け取りに行けばいいみたいだから、今から行ってくるわ」
「暑くない?」
「あぁ、いいよいいよ。みちるはゆっくりしておいて」リュックの中から、財布を取り出して、チエミは颯爽と玄関に向かった。
私はダンボールと備え付けのテーブルだけが残された部屋にひとりになった。エアコンの音に、窓から聞こえてくる車の音が重なる。私は床の木目をじっと見つめていた。
なぜだか、孤独な気持ちがした。本当にチエミがいなくなってしまうのか。その考えが頭をよぎるたびに、このまま自分という存在がなくなってしまうのではないか、どんどんどんどん目の前が暗くなって、そのまま一生目が覚めなくなるのではないか。何も感じられなくなって、何をどうすればいいのかもわからなくなって、ただただ目の前が真っ暗でじたばたともがきつづける、いや、そんな体の動きすらも感じられない、そんな空虚な存在になってしまうのではないか、そんな得体の知れない恐怖に囚われた。
私は自分の胸に手を当ててみた。薄い胸の向こうから、ドクドクと心臓の鼓動が伝わってくる。そうすれば、少しだけ気持ちが落ち着いた。生きている。生きている。生きている。心臓の鼓動は、私が今生きているという実感をちゃんと感じさせてくれる唯一の音だった。
どれくらいの時間そうしていただろう?私はずっと自分の胸に手を当てていた。生きている。生きている。生きている。小さな声で、心臓の鼓動に合わせて、私はずっとそうつぶやいていた。
玄関からガチャリと鍵を開ける音がした。チエミが帰ってきた。私は胸から手を離した。白いビニール袋を下げたチエミが部屋に入ってくる。
「暑かったぁー」そう言うチエミから私はビニール袋を受け取って、テーブルに上に置いた。
「とりあえず、唐揚げ弁当2つ買ってきた。3個入りで大丈夫?」
ハンドタオルで汗をぬぐいながらチエミが聞いてきた。「うん、大丈夫」というと、チエミは手に持ったハンドタオルで、そのままTシャツの中も拭いた。
「いやぁ、ほんと暑かった。本当に9月も終わるんかいな。ごめんけど、もうこの格好でいい?」そう言いながら、チエミはバナナのイラストが描かれたTシャツを抜いで、黒のキャミソール姿になった。「あぁー、ハンガーも段ボールの中だった」チエミは大きな声でそう言うと「まぁいいや」と備え付けのベッドにTシャツを投げた。
「じゃ、私ちょっと手洗ってくる。みちるも手汚れてるから、ちゃんと洗いなよ。先にいいよ」チエミはテーブルの前に座った。
お互いに手を洗い終えて、私たちはテーブルの前に座った。
「ここの唐揚げ弁当ももう食べ納めかぁ。美味しかったんだけどね」お弁当を取り出しながらチエミは言った。
私は白い発泡スチロールのお弁当をただじっと見つめていた。唐揚げの匂いが鼻を突く。やっぱり、あのことを聞くべきか。さっきの孤独感が私を切ない気持ちにさせた。
「どうしたの?」チエミは割り箸を割ろうとしながら聞いてきた。
「チエミさ、そういえば、阿部さんとの一緒に住む家は決まったと?」私はずっと聞きたかった、けど、それを聞くと何かが壊れてしまいそうなその問いかけを口にした。チエミが遠くに行ってしまう。阿部さんの元へ、行ってしまう。それが、私にはなぜか悲しかった。
チエミは一瞬動きを止めて、割り箸をそっとテーブルに置いた。唐揚げ弁当を見つめる目はどこか遠くを見ているようだった。さっきまでの彼女とは違い、その顔にはどこか影が落ちているようだった。
「みちる、それがさ・・・」チエミは暗い表情で言った。私はチエミの顔をじっと見つめた。
「阿部ちゃん、いや、阿部さんとはさ、もう、別れることにしたんだ」
その言葉は部屋の空気を一変さっせるように、重たく、部屋の中に響いた。エアコンの音すら聞こえなくなるような遠い沈黙が訪れた。
「え?」私はチエミの言葉が信じられなかった。阿部さんと結婚すると言っていた、あの日のチエミの姿を思い出した。あれだけ、夢を語っていたのに、なんで?私は何も言えなかった。
「びっくりだよね、そうだよね・・・」チエミはかすかに笑おうとしたが、その顔には力がなかった。少し間を置いて、再び口を開く。「あいつさ、浮気してたんだよ。支店の後輩と」
「え・・・?」耳を疑った。阿部さんが浮気?チエミがどれだけ阿部さんを信じ、明るい未来を描いていたかを知っているだけに、その事実は、現実味を感じられなかった。嘘だと言って欲しかった。
「信じられないよね。私が本社に行って、すぐのときらしい。私が会社辞めて結婚しようって言ったら、ごめんけど実はって言われてさ」チエミは乾いた声で言った。その声には怒りよりも、深い疲弊と諦めがにじんでいた。「笑っちゃうよね」
私はなんと返せばいいかわからず、ただ首を横に振るだけだった。そこには何の感情もなかった。チエミは続けた。
「何やってたんだろうね、私。阿部と幸せな家庭築きたいって、本気で思ってた。だから仕事を辞める決意までしたのにさ。なのに、いざ辞めるってなったら、この有様でさ。私より可愛くて、素直な後輩ちゃんに浮気しちゃってさ。挙げ句の果てに、お前とはもうやっていけないとまで言われてさ。馬鹿みたいだよ、本当。馬鹿みたい・・・」チエミは割り箸を握りしめたまま、ゆっくりと顔を上げた。その瞳には涙が滲んでいる。すべてを諦めたような表情をチエミは浮かべていた。あの時の夢を語ったチエミとは正反対の、未来も何も、信じていないような、力の抜けた表情を。
「どうせさ、私には幸せなんて手にいれる資格はないんだよ。そりゃそうだよね。親も離婚して、あんなに仲悪いなら、そりゃそうだよね。だから、私もそう言う運命なんだよ。ずっと私はこうなんだよ。一生独りなんだよ。信じた人に裏切られて、私だけが夢見て、私のことを大事にしてくれる人なんて、いないんだよ。私と一緒にいてくれる人なんて、いないんだよ」チエミは涙をぽろぽろと流しながら言った。
「こんな私が、どうして普通の幸せなんて手に入れられるわけ?こうやって何者にもなれないままさ、普通の幸せさえ手に入れられないままさ、年を重ねていくだけの私が」チエミは自嘲気味に笑いながら言った。「なんか、虚しいよね。まるで自分が人間じゃないみたいでさ。人間としての資格さえ手に入れられなかったみたいで。・・・って、何言ってんだろうね、私」
そんなことない。そう言いたかった。でも、言葉が喉につっかえて、口に出せなかった。私はチエミのことが好きだ。阿部さんが大事にしてくれないと言うのなら、誰もチエミのことを大事にしてくれないと言うのなら、私が、私だけが、チエミのことを大事にする。チエミのことを守る。だって、チエミのことが、どうしようもなく、好きだから。そう伝えたかった。でも、ここまで来て、私は何もできなかった。何も言えなかった。なんで、言葉が出てこない。なんで、チエミのことを抱きしめて上げられない。なんで。なんで。なんで。
「この気持ちさ、みちるは、分かってくれる?」チエミが言った。
「私は・・・」私は・・・言葉に詰まった。
チエミは私の顔を黙って見つめている。私は・・・。例えそれが、チエミが求める答えじゃなかったとしても。正解じゃなかったとしても。私は、言うべきだ。今、ここで、自分の思いを。言うべきだ。私は大きく息を吸った。
「私は・・・私はさ、チエミのことが好きだよ」
絞り出すように、視線を床に落としたまま言った。声が震えていた。チエミは何も答えない。その沈黙が痛くて、私は堰を切ったように続けた。
「私は、チエミのことが好き。その、友達としてとかじゃなくて、その、ひとりの女性として。ずっとずっと、好き。どんな人よりも。どんな男性よりも。私はチエミが好き。大好き。
それに、チエミと手を繋ぎたいって思ってる。チエミと・・・その、キスしたいって思ってる。何なら、何なら、抱かれてもいい、抱いてもいいって思ってる。私のこと、触って欲しい。私のこと好きって言って欲しい。そう、思ってる。だからさ、だから、チエミは・・・チエミは・・・」震える声でそこまで言うと、私はチエミの顔を見上げた。
「そう・・・」
チエミは、静かに笑っていた。いつもの照れくさそうな笑顔で、いつもの笑顔で。
「ごめん、変なこと言って」
「ありがと」
チエミはそう言うと、私のところまで来た。チエミがそっと私の右手に両手を置いた。チエミの顔が私の目の前まで来た。私の心臓は急激に鼓動を上げた。
「あ、あと、私、チエミをモデルにその、絵を描いてて、それ、本当はずっとい・・・」
その瞬間、チエミの唇が、私の唇に触れた。暖かく、甘い感触だった。
「みちる」呆然とする私に、チエミが言った。
「ごめんね。みちるの本当の気持ち、私、実はずっと気づいてたんだ。でも、私は、みちるの気持ちに、本当の意味で答えることはできない。本当に好きだからこそ、ちゃんとした形で向き合いたい。でも、今の私じゃ、それができない。じゃないと、みちるに失礼だと思うから」チエミの声はやさしかった。「でも、私をモデルに絵を描いてくれてるなら、それがみちるにとっての一番の表現なんだと思う。みちるの言葉なんだと思う。だからさ、私をその中で永遠にしてよ。それが、私にとっても嬉しいから」そう言うと、チエミは私をギュッと抱きしめた。
「ありがと、みちる。私も、みちるのこと、大好きだよ」チエミの声が耳元に響き、私は彼女のぬくもりを感じながら静かに目を閉じた。
「チエミ・・・」私は言った。
「何?」チエミが言った。
「ありがとう」
「私こそ」
・・・・・・
それからのことはよく覚えていない。あのあとどのようにして過ごしたか。どんな顔をして2人でお弁当を食べたのか。どうやって自分の家まで帰ってきたのかも、ぼんやりとして思い出せない。ただ、チエミの部屋で見た彼女の表情や声の響きが、頭の中で繰り返し蘇っていた。
気がつけば、私はタブレットの前に座ってペンを動かしていた。何かに突き動かされるように、気づけばペンを握っていた。昼間の光景、チエミの柔らかな唇、穏やかな声色。それらが一つの形になって、一つの光となって、私を導いていた。
ペンを走らせるたび、タブレットに存在する彼女の実在感が増していった。髪の一筋、唇の曲線、そしてキスをする前の優しい瞳。ひとつひとつの要素が重なり合っていき、彼女の姿を描き出していく。
どれくらいの時間が経ったのかわからない。気がつけば、窓の外は夜の闇に包まれ、部屋の中は机上のライトだけがぼんやりと光を落としている。ペンを置いた私は、大きく息を吐いた。
タブレットには、私の記憶の中のチエミが確かに存在していた。柔らかい微笑み、けれどその奥にはほんの少しの寂しさが漂っている。それは私が彼女をどう感じていたのかを、すべて映し出しているように思えた。
「これでいいんだ」
小さく呟いた声は誰にも届かなかったけれど、その瞬間、少しだけ自分に正直になれた気がした。
翌朝、窓から差し込む陽射しの中、再度タブレットを見つめた。昨日仕上げた絵を改めて眺めると、自分でも驚くほどの達成感と、そしてほんの少しの切なさが胸を満たした。
その日、私はその絵をコンペに出すことを決めた。自分のために描いたのか、彼女のために描いたのか、それすらもうわからなくなっていたけれど、これだけは確かだった。
私が彼女に抱いている感情も、この絵に込めた思いも、どちらも嘘ではない。
3年後
15
高架下にある小さなギャラリーの扉を開けると、微かに木の香りの混じるペンキの匂いが鼻を突いた。展示スペース全体には暖かなライトが灯っていた。
コロナ禍に入って以降、初めての東京だった。そして、初めての東京での個展だった。東京での個展はずっと前から目指していたことだったけれど、コロナ禍も3年を過ぎ、ようやく以前の日常が戻ってきた今、学生以来の懐かしい土地で個展を開催できるのは本当に嬉しかった。計画自体は1年前から立てていたけれど、場所の確保から展示する絵の準備、DMの作成やSNSでの宣伝など、この1年はとにかく忙しかった。ギャラリストの中谷さんの力添えがなければ、今日この日を迎えることはできなかっただろう。
ギャラリーの壁一面には私が数年の間に描いてきた作品たちが整然と掛けられている。そのひとつひとつが、これまでの葛藤や希望、そして再生を描いたものだ。1枚1枚に、私の人生が宿っている。
「いよいよ本日からですね」
先にギャラリーに着いていた中谷さんが後ろから声をかけた。
「緊張しますね」私は肩をすぼめた。
「しかし、この3日間は僕も眠れなかったですよ」中谷さんは苦笑いをしながら言った。
「すいません、色々ご心配をおかけして」
「いやいや。でも、こうやって無事に神谷さんの晴れ舞台を共に作り上げることができて、僕もギャラリスト冥利に尽きますよ」
絵の遅配やギャラリー側の事務手続きの不備などトラブル続きの準備期間だったけど、中谷さんの言う通り、無事に初日を迎えることができて何よりだった。
「お、やっぱりこの絵も飾るんですね」中谷さんは入り口の一番近くに飾られた絵を見ると言った。
「えぇ。この絵がなければ、今の私はいませんので」そう答えながら、私は今となっては懐かしい、私が初めて挑んだコンペの作品、かつての同僚チエミの笑顔を描いた作品を見つめた。
無理に派手な色彩を重ねた背景に、どこかぎこちないペン使いのその絵を見ると、福岡の狭いアパートで夜遅くまで描き続けたあの鬱屈とした日々を思い出す。それに、落選の通知を受けた時のあの悔しさも・・・・。
「しかしこの頃から、神谷さんの絵の力強さは変わらないですね」中谷さんはしみじみとした声で言った。
「中谷さんがいなければ、私はこの絵を描いたまま終わっていましたよ」私は中谷さんへの感謝を口にした。
「いやぁ、でも、ほんと偶然この絵を見つけたときは何かビビっと来るものがありましたからねぇ。福岡に行って正解でしたよ」いつもの如才無い調子で中谷さんは言った。
中谷さんが私を最初に見出してくれたのは、落選したその絵を福岡市の市民ギャラリーで行われた文化交流会に出展したことがきっかけだった。「落選」の文字が書かれた紙が届いたとき、私は一晩中泣き明かした。あのときは私の人生はこれでおしまいだとまで思っていたけれど、「そういえば絵のコンテストの結果はどうだったの?」とわざわざ連絡をくれたサツキ姉ちゃんが、「博多でこういうのやってるらしいから出してみたら?」とその文化交流会の情報を教えてくれたことが出展のキッカケだった。
そして、東京でギャラリストをやっていた中谷さんが福岡に訪れた際、たまたまその文化交流会に足を運んだことが、私の運命を変えた。
「あなたの絵は素晴らしいから、ぜひこれからも作品を作り続けて欲しい」
そう熱く語ってくれた中谷さんと出会ったことで、私は彼からギャラリーの紹介や展示会の紹介などの作品を発表する機会をもらい、絵を描き続け、作品を発表し続けることができた。派手な成功はなかったけど、その積み重ねが今日につながっている。気がつけば私は画家と呼ばれるようになり、最初は少なかったものの、作品も何点か売れるようになっていた。2年前に会社も辞めて、現在はフリーのデザイナーとして活躍する傍ら、自分の作品も発表できるようになっていた。
今、壁に掛けられた絵たちはみな、自分の証だ。何かに追われていた、どこかで「本当の自分」を求めていた、あの頃の自分が詰まっている。人生は不思議だ。4年前の小さな行動が、今となっては大きな成果を生み出しているのだから。
「いよいよですね。お、一人目のお客さんが来てますよ」
中谷の声に現実に引き戻される。
扉が開き、最初の来場者が入ってきた。私は深呼吸をし、ほほえみを浮かべる。「ようこそ」と言う声が、自分の中の緊張を少し和らげる。
最初はお客さんが来てくれるか不安だったけど、SNSでの告知や中谷さんの営業活動のおかげもあって、私のSNSをフォローしてくれているフォロワーの人、通りすがりの人、春休み中の美大生、中谷さんの知り合いのギャラリストなど、毎日多くの人たちが会場に足を運んでくれた。
「みちるさんの絵のファンなんです」「たまたま寄ったけど、見てよかったです」「私もこんな絵が描きたいです」「さすが中谷さんが勧めるだけあるね」
来場者から寄せられる言葉たちに、気持ちがじんわりと暖かくなった。絵も数枚売れた。中谷さんも盛況の様子を見て「いやぁ、こんなに見に来てくれてほんとよかった」と嬉しそうな様子だった。
福岡から、お父さんお母さんも来てくれた。サツキ姉ちゃんも、今ではすっかり大きくなった陽太を連れて、来てくれた。今度2人目が産まれるらしく、お腹は少しだけぽっこりしていた。めぐ姉ちゃんも、何の予告もなしに突然来てくれた。「まさか、みちるがここまでなるとはねぇ」みんな口を揃えてそう言った。
大学の時の同級生も来てくれた。みんなそれぞれ、ある人は私と同じようにフリーのデザイナーをやっていたり、ある人は大手企業のデザイン部に勤めたりと、自分の道を進んでいるようだった。
2週間の会期もあっという間に過ぎ、気がつけば最終日を迎えていた。開始時間より少し早めにギャラリーに到着した私は、展示スペースの隅々まで目を通しながら、静かなギャラリーの空気を味わった。太陽の光がギャラリー全体をやわらかく照らしている。来場者の対応や、雑誌にラジオにテレビの取材と、慌ただしい日々の中で迎えた今日と言う日を、私はじっと噛み締めた。
「この素敵な空間も今日で最後かぁ」気がつくと中谷さんが入り口に立っていた。
「わ、びっくりした」私は思わずそう言った。
「あぁ、ごめんごめん」中谷さんは笑いながら言った。「でも、いよいよ最終日だね」
「そうですね」私は壁に掛けられた絵を眺めながら言った。心なしか初日よりも、私の作品たちはこの空間に滲んできている気がする。
「ところで神谷さん」中谷さんが言った。
「なんですか?」
「この絵、どうしたの?なんか置いてあったけど」そう言うと中谷さんは倉庫から、白い包み紙に包まれた絵を持ってきた。
「あぁ、それは・・・」
「とりあえず持ってきた感じ?」
「ま、そんな感じです。飾れたら飾ろうと思ったんですけど、やっぱ違ったかなって思って」
「そう。ちなみにどんな絵?」
「まぁ、ちょっとした思い出ですよ」
「ふ~ん」
「ほら、もうオープンなりますよ」私は中谷さんから絵を取り上げると言った。この絵は、とある人のために持ってきた絵だった。私とその人の2人だけの絵。私にとって、初めてのコンペに出した絵と同じくらい大事な絵。
今日は日曜日というのもあって、多くの人たちが訪れた。特にテレビの取材の効果はかなり大きく、その番組を見て来たという人が来場者のほとんどを占めていた。「ローカルといえど、テレビの力ってやっぱ凄いんだね」と中谷さんも驚いていた。
お昼の一番忙しい時間帯を過ぎ、少し人が途切れた頃だった。「じゃぁ、僕、お昼行ってくるね」と中谷さんが出て行って少し経ったころ、「みちる」と懐かしい声がした。顔を上げると、入り口にチエミが立っていた。隣には背の高い男性もいて、長くパーマのかかった髪と大きな黒縁眼鏡が印象的だった。
「久しぶり」チエミは以前と変わらない笑顔でそう言った。チエミの長かった髪はバッサリと短く切られていて、耳には大きなイヤリングがかけられている。会社にいたときよりも少しふっくらとした印象だったけれど、彼女の表情はとても活き活きとして、輝いていた。私も「わぁ久しぶり」と返すと、チエミは隣にいる男性に視線を送って続けた。
「えっと、パートナーの高田さん。カメラマンやっててん」
高田さんは穏やかなほほえみを浮かべ「初めまして。みちるさんの作品、楽しみにしてました。チエミからいつも話を聞いていたもので。今日は来れて本当に良かったです」と言った。私も「ありがとうございます」と軽く挨拶を交わした。
「東京で個展をやることになったから、東京に来ることがあったら足を運んでね」とチエミにLINEを送ったのは個展の開催が決まってすぐの時だった。てっきり大阪にいると思っていたけれど、彼女が2年前から東京に移ってフリーのライターをやっていることを知ったのは、そのLINEの返事をもらってからだった。
「にしても、みちるがここまで有名になっていたとは」チエミはギャラリーをざっと見回しながら言った。聞けばチエミもチエミで、私が画家として活動していることをLINEが送られてくるまで知らなかったようで、しばらく立ち話をしながらお互いの近況を報告しあった。チエミがフリーのライターとして活躍する傍ら、この間小さな出版社からエッセイ集を出したこと。そのエッセイ集は、自身が東京に移り住んでから経験した日常の出来事やコロナ禍を通じて感じた心境の変化について書かれており、最初はあまり売れなかったもののSNSを通じて次第に話題を呼び、多くの読者に共感を呼んだということ。またその装丁の写真を高田さんが担当したことから彼と知り合ったこと。実は高田さんとは事実婚であること。この間、取材で福岡に訪れたこと。ライターとして独立した途端にコロナ禍になって大変だったこと。などなど。屈託のない笑顔から、チエミが充実した日々を送っていることを感じた。
「ごめん、立ち話ばっかしちゃって。ちゃんと絵も見ないとね」チエミはいつもの調子でそういうと、高田さんと一緒に展示されている絵を見て回った。1枚1枚丁寧に目を向けて、時折私と目を合わせて微笑んだり、高田さんと一緒に絵の感想を言い合ったりしていた。チエミをモデルにした絵を見たときは、高田さんは「わぁ、すごい」と感嘆の声を上げた。チエミは照れ臭そうに笑うと「この頃、髪長かったなぁ」と懐かしそうに言った。「どの絵もみちるらしくて、いいね」絵を一通り見終わるとチエミは言った。
「いやぁ、どれも素敵です。チエミの絵なんか、自分が撮るより断然素敵でした。光の扱い方が秀逸で、絵じゃないとこういう表現ってできませんよ」と高田さんも熱くなっていた。そんな高田さんを見て、チエミは「この人、こういう場所来るとすぐこうなるから」と笑った。そんな様子から、2人の深い信頼関係を感じた。
「ありがとうございます。2人に見てもらってほんと嬉しいです」私も感謝の気持ちを伝えた。
「普段はデジタルで描いているんですか?」高田さんは言った。
「ここにあるのはほとんどそうですけど。たまに油絵で描いたりもします。油絵の質感も好きで」私は言った。
「そうなんですねぇ。いや、自分もたまにフィルムで撮ったりするんですけど、やっぱアナログもいいですよね」高田さんは熱っぽくそう言った。チエミはその様子を見て、やれやれと言った感じでほほえんだ。
それから、それぞれの絵の解説や絵にまつわるエピソードなどを2人に話して時間を過ごしていたら、また会場に人が増え始めてきた。
「じゃぁ、そろそろお暇しようか」チエミは名残惜しそうに言った。
「もっとお話聞きたかったです」と高田さんももっと絵のことや写真のことを話したい様子だった。
「また会えるといいね」私がそう言うと、チエミも高田さんもウンウンと頷いた。
最終話
チエミたちが帰った後も、多くの来場者が訪れた。ある人は静かに絵をじっくりと見てそのまま帰っていった。ある人はこの絵は何をモチーフにしているんですかと聞いてきた。ある人はテーブルに置いてあるポートフォリオをパラパラと見たあと、ポストカードを2枚買ってくれた。みんないろんな見方や感想を述べて帰って行った。どの人も個性があって、おもしろかった。
夕方になり西日がギャラリーに差し込む中、訪れた人たちが帰っていくたびに静けさが戻っていった。最後のお客さんを見送ると、私はふぅと一息ついて時計を見上げた。17時半。片付けを始めるにはちょうどいい時間だ。初めての、東京の個展が終わった。
中谷さんと手分けして、受付の上に置かれていたパンフレットやカード類を片付ける。中谷さんは無言で黙々と動いている。いつものお喋りな調子とはちょっと違った姿がなんだかおかしくて、少し笑いを漏らすと「どうしたんですか?」と振り返られ、私は首を振った。
「いや、真剣だなって思って」
「こういうの、効率重視派なんですよ」中谷さんは冗談ぽく言うと、再び作業に戻った。
展示された絵を外し、梱包する作業に取り掛かる。私は1枚1枚に目をやりながら、来場者たちがどんな顔でこれらの絵を見ていたのかを思い出そうとしていた。どの絵にも、わずかだが自分の感情が宿っているようにも感じられる。
「これ、重そうですね。手伝いますよ」と中谷さんが声をかけ、私はお礼を言って一緒に絵が詰められた段ボールを運んだ。重くなった段ボールを抱える中で、彼がふとつぶやいた。
「忙しかったけど、楽しかったですね」
「そうですね。たくさんの人が来てくれて嬉しかったです」
箱を所定の場所に下ろし、最後の確認作業に入る。それぞれの絵を照らしていたスポット照明を一つ一つ外していくと、ギャラリーの中が徐々に暗くなり、展示会の終わりが少しずつ現実味を帯びてきた。
「全部終わりましたね」何もなくなった会場を見つめ、しみじみとした声で中谷さんが言った。蛍光灯と外の街灯だけが会場の中を照らしている。
「お疲れさまでした」何もないギャラリーで声を出してみると、声が反響してなんだか不思議な気持ちだった。
「絵は明日の朝、業者が回収してくれますんで。じゃぁ、僕はこれで。また明日」そう言うと中谷さんは颯爽と帰っていった。
何もない空間に私は一人になった。展示会の喧騒が嘘のように静まり返った空間が、少しだけ寂しさを感じさせる。ふぅと大きく息を吐くと、私は床に座り込んだ。疲れが一気に襲ってきた感覚だ。でも、心地よかった。外はすっかり暗くなっていて、車が通るたびにヘッドライトが空間を照らし、その光が何もないギャラリーの壁に伸びては消えていった。
私はある人を待っていた。約束では、もうすぐ来るはずだ。
扉が開く音がした。外の少し冷たい空気が一気に会場に入ってくる。入り口にはチエミが立っていた。
「ビックリしたよ。夜になったらまた来て欲しいって言うから」チエミは床に座る私の顔を見ると言った。
「うん。どうしても、見せたいものがあったからさ」私は床から立ち上がると言った。チエミはさっきとは違って、少し緊張した面持ちをしていた。
チエミと高田さんが帰ろうとしたとき、私はチエミにそっと耳打ちをしていた。「夜になったら、またここに来て欲しい」と。チエミはその言葉を聞いて一瞬驚いた顔をしていたけど、すぐに何かを察したかのように「わかった」と言った。
「しかし、ほんとすごいよね。こんな広い場所で個展やるなんて」チエミは何もない会場を見回しながら言った。確かにこうやってみると、会場は広々と感じた。改めて、これまで私が描いてきた時間の重みを実感するようだった。
「うん。準備とか色々大変だったけど」
「で、何?見せたいのものって」
「あぁ、これなんだけどさ」
私はそう言うと、倉庫の中に置いておいた白い包み紙に包まれた絵を持ってきた。朝、中谷さんが私に聞いてきたものだ。
「これ、どうしても、チエミに渡したくて」そう言うと私はその絵を渡した。
「え?そんな、いいの?」チエミは驚いた表情でそう言った。
「うん。どうしてもチエミに持っておいて欲しかったから」私は言った。
「そっか」そう言うとチエミは包み紙を見つめた。「どんな絵か、見てもいい?」
「もちろん」私は言った。
チエミは包み紙を解いた。中から現れたのは、小さな横長のキャンバスに描かれた油絵だった。キャンバスには、私とチエミがお茶屋さんの縁側に腰掛けて、川下りを静かに眺めている後ろ姿が描かれている。その視点は少し離れた位置から描かれていて、手前には柳の細やかな葉が風にそよぎ、その柳を透かすように、私とチエミの後ろ姿を映し出している。そして川の水面には柔らかい西日の光が差し込み、穏やかな時間の流れを感じさせる。風景全体が、どこか懐かしく、落ち着いた雰囲気を漂わせていた。
「あ、これって」チエミはすぐに合点がいったようだった。
「そう。あのときの」私は、かつてチエミが私に仕事を辞めたいと打ち明けたときの日のことを思い出した。あのときのチエミの涙とか細い声を、昨日のことのように思い出す。
「あのときの、私たちじゃん」
「うん」
「懐かしい・・・」
チエミの声に涙が滲んだ。でも、それはあのときのような悲しい涙ではなく、嬉しさの滲んだ涙だった。そんなチエミの姿を見て、私の胸の中がじんわりとするのを感じた。
「ほんと、懐かしいね」チエミは涙を拭った。
「タイトルも、見て欲しいんだ」私も、じっと涙を堪えながら言った。「裏に、書いてあるから」
チエミは額縁を裏返して、裏に手書きで書いてあるタイトルを見た。
「人間に・・・なりたい?」チエミは静かにタイトルを読み上げた。
「そう、人間になりたい」私は言った。
「どう言う意味?」チエミは言った。
私はチエミにほほみかけて、言った。
「あのときの私たちってさ、人間になりたかっただけなのかなって。自分らしく生きたい、幸せになりたいって、いろんな思いを抱えてたけど、結局さ、その気持ちって、人間になりたかっただけなんだなって。人間になろうと、必死になっていたんだなって。傷つくのが怖くて、もがいていて、それでも必死で・・・。そんなふうに思ってたのかなって。そんな風に生きていたのかなって、そう思って・・・」
チエミはしばらく黙り込んでいた。私の思いは伝わっただろうか。あの頃の私たちの切実さを。あの頃の私たちの必死さを。そして、この絵と、この言葉に込めた、あの頃の私たちへの、思いを。
「人間に、なりたいか・・・」チエミはそっと、呟くように言った。「確かに、そうだったかもね。でも・・・なんか、みちるらしいね」チエミはいつものようにニッコリと笑った。八重歯が見える、いつもの、あのときと、変わらない笑顔で。あの素敵な、私の大好きだった、あの笑顔で。
みちるらしいね。その言葉は、来場者からもらったどんな言葉よりも、私の心に響く最高の褒め言葉だった。そう言ってくれるチエミが、私は、大好きだった。
「私たちは、人間になれたのかな」チエミは言った。
「きっと、なれたよ」私は、自信に満ちた声でそう答えた。その言葉に、迷いはなかった。きっとそうだ。きっとそうだ。
それから、私たちはいろんな昔話に花を咲かせた。会社で共にに過ごした日々や、かつての同僚の話。かつて一緒に行ったカレー屋さんの話に、その他にも、2人の色々な思い出を。2人の大切な、生きていく切実さの中でも見つけた、宝物のような、かけがえのない思い出を。
月明かりがギャラリーを照らす中、いつまでも、いつまでも。夜が更けるまで、いつまでも、いつまでも。
了
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