29番 心あてに折らばや折らむ 凡河内躬恒
花山周子記
心あてに折らばや折らむ初霜の置きまどはせる白菊の花 凡河内躬恒 〔所載歌集『古今集』秋下(277)〕
作者、凡河内躬恒。彼も古今集時代の歌人で、身分は低かったが、紀友則、紀貫之、壬生忠岑と並ぶ古今集撰者の一人にして三十六歌仙にも数えられる。それだけ歌が評価されていたのだろう。
この歌は古今集に「白菊の花を詠める」と、そのものずばりの詞書がついている。「心あてに」は口語訳では「あて推量」と訳されていることが多く、あてずっぽうに、くらいの意味合で取るのがいい気がする。当てずっぽうに折るならば折ってみようか、という戯言。
「置きまどわせる」という複合動詞が私にはどうも掴みづらい。「他と見分けがつきにくいように置く」と訳されるわけだけど、この一語の中で初霜が目的語にも主語にもなっているようで、この言葉が置かれること自体がまどわされる感覚がある。この語彙感覚は定家の歌に受ける印象と近い。たとえば、
ひとり寝る山鳥の尾のしだり尾に霜おきまよふ床の月影
柿本人麻呂〈あしびきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかも寝む〉の本歌取りとして知られる歌だが、「霜おきまよふ床の月影」が本当に掴めないのだ。このつかめなさは「初霜の置きまどはせる」がさらにバージョンアップしたもののように見える。わたしは人麻呂の歌以上に躬恒の白菊の歌の趣向の摂取のほうが寧ろこの歌で重きを置かれている気がしている。これまで指摘されているかわからないのでこれは私の勝手な当て推量なのだが。それにしても定家の歌はイメージが拡散するような言葉遣いが多い。
春の夜の夢の浮橋とだえして峰にわかるる横雲の空
霜まよふ空にしをれし雁がねの帰るつばさに春雨ぞ降る
梅の花にほひをうつす袖の上に軒もる月の影ぞあらそふ
一首目は、同時代の藤原家隆の〈霞立つ末の松山ほのぼのと波に離るる横雲の空/藤原家隆〉から直接の影響を受けているが(同時代の作は本歌取りとは言わない)、〈かささぎの渡せる橋におく霜の白きをみれば夜ぞふけにける/家持〉にも通うイメージがある。定家は様々な歌の趣向の中から自分好みのイメージを摂取し一首を構築する。そのイメージのコラージュは耽美的と言われればそうなのだが、「霜まよふ空」や「軒もる月の影ぞあらそふ」などはやりすぎていて像が結ばない。子規が「定家といふ人は上手か下手か訳の分からぬ人にて」と言っているのも頷けて、なんだか惑わされる感じがある。そして、こういう歌を見ていると、白菊の歌は定家の好みだったろうなあと思う。
ところでこの白菊の歌も正岡子規の批評は有名で、
と言っている。ここで子規が言う「嘘」は即ち「虚構」ということになるだろう。アララギの元祖子規の虚構性への言及としても非常に興味深い箇所なのだが、なによりも子規がこの歌に虚構性を見ているところに注意を払いたい。というのも、躬恒自身はおそらく虚構という意識からは歌を作っていない。
たとえば、躬恒には、醍醐天皇から「月のことを弓張というのはなぜか」と問われた際、
照る月を弓張としもいふことは山べをさして入ればなりけり
と、弓を射ると月の入りをかけての即興の歌を詠み、それに感心した天皇が衣を授けると、衣を肩にかけ(お祝儀を肩にかけるのは慣例)退出しながら、
白雲のこのかたにしもおりゐるはあまつ風こそ吹きてきぬらし
と詠んだという有名なエピソードがあるけれど、これらの歌に共通するのは、言葉の綾を自在に組み立てる手際のよさであり、そうした小気味よい機知にこそ醍醐味がある。
心あてに折らばや折らむ初霜の置きまどはせる白菊の花
この歌もまた、「心あてに折らばや折らむ」の言葉の機微がまずあって、「初霜の置きまどわせる白菊の花」という言葉の綾が生きる。だから、わたしには「心あてに」はこの歌への自歌自註的な物言いのようにも思えるのだ。心あてに詠んでみるならば、というような。そういう言葉の趣向の遊戯がこの歌をして「古今調の代表ともいうべき作」(白洲正子)と言わしめる所以ではないだろうか。それは幻想を言葉によってビジュアルに構築していく新古今調とは根本的に違う。違うのだが、図らずも「初霜の置きまどわせる白菊の花」にはビジュアルとしての虚構性が出現していた。それは時代を下った新古今の時代の歌人の目によって発見されたこの歌の新しい魅力だったのではないだろうか。
冬に咲くひるがおの花ひるの陽を透かして白しコンクリートの辺 花山周子