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『アルジャーノンに花束を』分析してみる🧐

こんにちは!
今回は、私が大好きな物語である、「アルジャーノンに花束を」について感想や分析をしてみたいと思います。
この本は最近某有名TikToker?に紹介されてから、書店でもよく見かけるようになりました。
読んで微妙だったと思う人は少ないんじゃないかと思います。

簡単にあらすじを

「アルジャーノンに花束を」は、精神的に遅れをとっている男性、チャーリー・ゴードンが主人公の物語です。彼は工場で働きながら、夜は大人のための読み書きクラスに通う努力家です。チャーリーは、自分の知能を改善したいという強い願望があります。
ある日、チャーリーは革新的な実験の被験者に選ばれる機会を得ます。この手術は、まずマウスのアルジャーノンに施され、その結果、アルジャーノンは通常のマウスよりも明らかに聡明になります。チャーリーは手術を受け、彼自身の知能が向上するかもしれないという希望に心を躍らせます。 手術後、彼は療養生活を送りつつ、自分が体験する変化を日記に綴ります。最初は単純で幼稚な日記から始まりますが、チャーリーの文体が徐々に進化し、複雑で洗練された思考を表現するようになっていくのです。
しかし、知能が向上し続けるにつれて、チャーリーは周囲の人々との関係に変化を感じ始めます。職場での彼の地位や、以前は認識できなかった社会的文脈のニュアンスに気づくようになります。そして、ある日アルジャーノンの様子がおかしくなり。。。

といった内容です。懐かしい人も多いのではないでしょうか?(ここからネタバレあり!!)


さて、この物語がどうしてこれ程までに心を震わせるのか、について考えてみました。
そもそもこの物語はハッピーエンドだと思いますか?バッドエンドでしょうか?ビターエンドでしょうか?
人によって解釈の分かれるところではないかと思います。🤔

主人公のチャーリーは手術によって急激に知能が上昇します。綴られた日記も、始めは読みにくい文体で、誤字脱字も多い状態から始まり、知能の上昇を反映して徐々に読みやすくなっていき、気がつくと我々の知能さえ突破して読みにくくなります。
そして後半では、知能の低下に伴いゆっくりと、しかし確実に文体が崩れていき、最終的には初期よりも下回る知能になっていくことが分かります。その後はアルジャーノンがそうであったように、亡くなっていくことが示唆されています。
チャーリーの一生は私たちに比べると短く、知能を獲得している時間も短いものでした。

ここで、チャーリーの一生は幸せだったか、について考えたいと思います。
一生は短かったし、頭が良くなったことで見えるものが増え、同時に見たくないものまで見えるようになり、そして最後には全てを失う。なんて可哀想なんだろう、と思います。

けれど、これって私たちも同じじゃないかって思ったんです。
私たちは成長するにつれて知識を獲得していき、見えるものが増える一方で、知らない方が幸せなことも知っていきます。
また、私たちは生まれたときから、いつか死んで全てを失うことが確定しています。それでも必死に何かを得ようとしてもがき、ときに失敗しながら前を向き、そして最後には全てを失います。
米津玄師さんのアイネクライネという曲の一節に、「今痛いくらい幸せな思い出が、いつか来るお別れを育てて歩く」というものがあります。(めちゃ好きな曲です!)
まさに、人生は頑張るほど別れが育つものです。確かにチャーリーは全てを失いましたが、失うことは私たちも同じです。
この物語は、チャーリーの一生を凝縮したものです。
たった一冊に、これでもかというほどの人生が凝縮されていたからこそ、心が動いたのではないかと考えました。

また、構成の上手さとしては、読者の罪悪感につけ込む、という視点が欠かせないと思います。
すごく悪い書き方になってしまいましたが、ものすごい技術ですし、一種のゾーンに入りながら書いたんじゃないかと思わされます。ダニエルやるやん!(ナニサマ)

この本を読み切れる時点で、初期のチャーリーよりも私たちの方が頭がいいです。そして、私たちはこれまでに学校や社会などで、障害を持った人と出会う機会がたくさんありました。
その時にどういう態度で接していましたか?
私は正直、適度に距離を置いていました。小さい頃は親から、危害が及ぶかもしれないから近づくな、と教えられ、社会的に非難されない程度の距離感で付き合ってきました。これはある意味では正しいとも思います。🙁
学校教育も、人権感覚だなんだといいながら、障害者との距離の置き方を、社会的に是とされるものへと昇華させる方法を教えていることが多いです。(次回この点について書いてみます)
しかし、こうした態度を取り続けることによって、相手も心のある1人の人間だ、ということをどこかで忘れていました。
物語の中でチャーリーは、知能に関わらず、障害があっても1人の人間であり、心があり、傷つき、喜ぶものなんだ、ということに気付かせてくれます。

これはやらしい!!こうなったらもう私たちの負けです。少なからずこれまでの行いの罪悪感があるのですから!
もう私たちにできることは1つ。罪悪感から逃れるためにチャーリーを応援する立場(味方)となるしかありません。そしてその立場になると、必然的に物語に没入するしかなくなります。
私たちに必ずある罪悪感につけ込むことによって、物語に没入させる。戦略的に囲い込まれていくイメージです。ダニエルの策略恐るべし!

また、チャーリーが持つ、弱者という属性もダニエルワールドに一役買っています。
もしもチャーリーが初めからある程度の知能を持っていて、1つでも私たちが羨むようなものがあれば、後半にかけてそれを失っていく様子を見て、ざまぁ、という気持ちが湧き上がるかもしれません。(人間の嫌なところですよね笑)
何も持っていない1番の弱者であったからこそ、余計な感情を挟まずに、無駄なフィルターを外してチャーリーの生き様を直視することができたのではないかと思います。

物語に没入して、チャーリーの凝縮された一生を直視して、真剣に生きる様子を見つけて、自分は真剣に生きているかを考えて、心があらゆるベクトル方向へと引っ張られてガンガン動く。
すごいもん書いたなダニエル!って叫ぶしかありません。
ハンターハンターのキメラアント編で、冨樫先生がコムギから触発されて念能力を開花させ、えげつない完成度で仕上げたように、ダニエル先生もチャーリーから触発されて限界を超えたのではないかと邪推してしまいます。



この調子だと無限に書けてしまうので、欠かせない視点をあと1つだけ!
翻訳が凄すぎる!!!!!!!
チャーリーの誤字脱字を、こんな形で日本語に当てはめ、心の機微を捉えた素晴らしい翻訳は、まさに神業でした。
タイトルの原題は、『Flowers for Algernon』です。
これを、『アルジャーノンに花束を』と訳すこのセンス!!!
私の親友にこれを言うと、いや普通だろ、それしかないだろ、と言われてしまいました。
そのときはぐぬぬってなってしまいましたが、やっばりこれは素敵じゃないか!と思うんです!
直訳すれば、アルジャーノンのための花、です。(ですよね!?笑)

まず、flowersを花束にすることによって、言葉の持つ奥行きが変わってきます。
花束ですよ!花が束になるほどあるんです。どんな気持ちがこもっているんでしょうね。
日常で花束を添える機会を考えてみると、式が多いかなと思います。
結婚式、お葬式、入学式、卒業式、、、、あとは記念日、誕生日、お見舞いなどなど。
それぞれ異なるニュアンスが込められた花束ですよね。どれに当てはまるんだろうか、どれも違うのかもしれない、など思考に奥行きを生んでいます。

また、「アルジャーノンに花束を」でも、「花束をアルジャーノンに」でも良かったはずです。

「アルジャーノンに花束を」では、動作・行為の側面が強調されます。つまり、誰かがアルジャーノンに向かって花束を贈るアクションに焦点を当てており、物語性や意図の積極性が際立ってくるように感じられます。物語の中でアルジャーノンという存在が重要な役割を担っていること、そして彼に何か特別な感情が向けられていることを示唆します。

一方で、「花束をアルジャーノンに」は、花束そのものに焦点を置きつつ、アルジャーノンという配送先を述べています。これにより、花束そのものの意味や価値、そしてそれを受け取るアルジャーノンへの関心がより強調されます。こちらの表現は、花束が持つ感情的価値や象徴性に重きを置いていると解釈することもできます。
どちらのタイトルも、アルジャーノンへの感情表現や贈り物をするという行為に注目を集めていますが、前者は贈る行為そのものについての印象を強めています

こうして考えてみると、『アルジャーノンに花束を』という訳し方ってなかなか凄くないですか!?!?😂


最後に、タイトルについて、アルジャーノンに花束をどうするのか、どうしてそれをするのか、どんな気持ちでするのか、について考えてみても面白いのではないでしょうか?

チャーリーは最期の言葉で、アルジャーノンに花束を、と言いました。この言葉を最期に言える人生ってすごく羨ましいものだと思います。
私なりにこの部分を解釈します。
まずアルジャーノンというのは、自分と同じ手術を受け、同じ境遇で過ごす唯一の友でありました。そして自分の行く末を写す鏡のような存在でもありました。
それに向けて花束を贈る訳です。花束は、感謝、記念、喜び、哀悼、慈愛などなど、たくさんの意味を持つものです。
チャーリーが、アルジャーノンという自分を写す鏡に向かって、花束を差し出しているイメージです。
これは究極の自己受容であり、自己肯定を表していると解釈しました。最期に自身の一生をありのままに受け入れて、それを肯定できる、そんな人生って幸福じゃないですか?

みなさんはタイトルをどう解釈しますか?
長々と読んでくれてありがとうございました!😍

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