ハルシネーション・ラブ
アスファルトが焼けている。揺ら揺らと熱気を帯びたその平面は、視界の下部を滲ませる。
あと数日で17歳を迎える僕の憂鬱を嘲笑うかのような、圧倒的な灼熱。
17度目の誕生日ともなると、流石に数えるのも面倒になってくる。これからも何度も繰り返すことになると思うと甚だうんざりしてくる。
世の中には反出生主義、と言う言葉があるらしい。
難しいことはよく分からないが、兎に角人生には苦しい事が付きものなので、それならば最初から生まれなかった方が良かった、という考え方らしい。
何故人間は嬉しいことを、悲しいこととを同等に扱えないのだろう。僕も例外ではないが。
今日は夏休み前、最後の通常授業だ。特に休む理由も無かったので登校しているが、この感じではいつもの電車には乗れそうにない。焦っている自分に馬鹿らしさを感じるのが嫌になり、学校とは反対の電車に乗ることに決めた。
駅のホームに着き階段を登り、見慣れない方の乗り場に立つ。反対側のホーム、つまりいつも利用する方の乗り場には、数人の学生が思い思いに電車を待っている。その憂鬱そうな表情を眺め、僕は幾らかいい気分になった。
ふと、自分のたつホームに、セーラー服を着た細身の女子高生らしい女を見た。
僕は普段から人を一瞥はすれど、長時間眺めるなどはあり得ない方の人間であるが、気が付いたときにはかなり長い間目を奪われていた。
特に変わった様子は無いのだが、肩甲骨まで伸びる長い黒髪を綺麗に下ろし、この茹だるような暑さを意に介さず、悠然とその場に立つ様子は何処か心惹かれるものがあった。
一体どこの高校だろうか。何の変哲も特徴もないセーラー服は身体の線を綺麗に写し出しており、内面まで美しい人間であることを確約するような流麗さを保っていた。
駅のホームはその道中より、幾分も暑さと憂鬱を際立たせたが、その女の周囲だけは何処か冷ややかであり、何故そのような美しさを持つのか不思議に思った。
向かいのホームに電車が来ると同時に、僕のたつホームにも電車が来ると言うアナウンスがされた。
女も同じ電車に乗るだろうか。学校に行かないことを決めた僕には、その日の目的はそもそも特に無かったので、その女の正体を突き止めることが目的となった。
電車が到着したので、女と同じ車両に乗り込む。時間帯の所為なのか、同じ車両には女と、腰の曲がった手押し車を引く老婆しか乗っていない。
僕は進行方向と並行に並ぶ、長い席に腰を下ろし、読みかけの小説を鞄から取り出した。
目当ての女は同じく向かいの長い席の端の方に、凛と背筋を伸ばし座っていた。特に何をするでもなく、ただじっと前を見ている。おそらく窓から覗く風景をぼんやりと眺めているのだろう。表情からは何を思っているのかは読み取れない。ただ前を見ている。
僕は読みかけの小説に目を落とし、内容に入り込もうとする。この小説は何処かわざとらし過ぎる。僕は虚構とわからない虚構が好きなのに。
暫く小説の世界に足を浸していると、ふわっとした何処か懐かしいような、冷気を帯びた香りが鼻腔を突いた。横に女が座っていた。
人は極度に面食らうと、声も何もかも発する事がないらしい。ただ茫然と女の横顔を見るより他なかった。
「なに読んどるの?」そう僕に問うた女はこちらをちらと見て、口の端に微笑をたたえている。
本の説明を適当にしながら、女に表紙を見せる。女を追うつもりではあったが、会話を交わす事を念頭に置いてはいなかった為、発する言葉が支離滅裂になる予感がした僕は、言葉少なにこの作者の説明をした。
「本、好きなんやね。」
「ええ、まあ。」
「ふうん、学校反対じゃろ?なんでこの電車?」
言葉に詰まる。君を追って来たとは言えない。
女の発する言葉は、声量さえ小さいものの、何処か力強さを帯びている印象を受けた。すっと伸びた背筋がそう印象付けるのだろうか。僕はおずおずと会話を広げる。
「何処に行くんですか?」
「何処でも無いよ。」
「僕もです。」
初めて会話をした様な感じがしないのは何故だろうか。彼女の言葉は僕の胸を、何のつかえもなく肺を満たす様な感覚がある。
「どこかでお会いしましたか?」
「どうやろね?」
気付けば、車内のアナウンスは見知らぬ駅の名を告げていた。会話の数と共有した時間は必ずしも比例しないことを不思議に思った。聞きたいことが山程頭に浮かぶが、この独特な雰囲気を壊したく無い思いに遮られる。
車内のアナウンスが再び流れたとき、女は席を立った。
「私はここで降りるよ、君はどうするの?」
何かを試されているような感覚に陥った僕は、小説をわざとゆっくりと鞄にしまい直し、席を立った。
ドアが開き、見たことのないホームと改札が眼前に現れた。確かに暑いには暑いのだが、何処か気持ちの良い空気をたたえている、そんな場所だった。
改札に駅員は居らず、切符も通すところは無い。
女は改札を素通りし、僕も後にならう。
「私ここ好きなんよねえ、何もないし。」
「ちょっとわかる気がします。良いですね。」
「でしょ。」
女がにこやかに笑う。こんな笑顔をするのか、と少し意外に思った。
女は道を迷いなく歩く。少し後ろの右側を追う僕を振り返ることなく、歩みを進めていく。
「君、私のこと見てたでしょ。気づいてたよ。」
「気の所為ですよ、たぶん。」
冷や汗を拭う。夏の暑さに助けられることもあるのだなと胸を撫で下ろす。
季節外れの蝶の舞う、黄色い花が咲き誇る広場に着いた。勿論人は1人も居らず、世界には2人しか居ないのではないかと思わされる。
2人で適当に腰を下ろし、ぼんやりと目の前を流れる川を共に眺める。
「私さあ、今日死のうと思って。」
「何でですか?」
「理由は無いよ。意味もない。」
かける言葉が見当たらなかった。気を遣っていた訳ではない。揺るがない意志をそこに感じたのだ。ただそれは不変の決定事項なのだ、と言わんばかりの語気を持つ。そんな言葉だった。
「そうなんですか。僕は残念です。また会いたかったから。」
「私は嬉しいよ。また会おうね。」
ふっと笑う彼女の横顔は、間違いなくこの世で最も美しかった。だから僕は世界が好きになれない。
彼女が腰を上げ、スカートの裾を直す。白く綺麗に伸びる脚には傷ひとつない。
「じゃあ行こうか。とても楽しかったよ、ありがとう。」
こちらこそ、楽しかったです。
音を持たない言葉は、喉から抜け落ち、胸に戻された。
駅まで見送ってくれた彼女は、ホームでこちらが見えなくなるまで手を振っていた。その表情からは矢張り、何を思っているかは判別できなかった。
帰りの電車の中、僕は読みかけの小説を再び開いていた。
並ぶ文字列は僕の脳に届く事はなく、ただひたすら表層を撫でる作業になっていた。
窓の外を眺めると、もう陽が落ちかけている。彼女はあの後、どうしていたのだろうか。死ぬだなんて、嘘かもしれない。
それでも、もう2度と会う事はできないことだけは何となく分かっていた。
その後、僕はたびたび学校を休み、反対のホームに立ち同じ電車に乗り込むが、一度も彼女を見た事はなかった。
もう顔もはっきりとは思い出せず、僕の中の彼女の顔は霞んでいる。
しかし、彼女の纏う空気みたいなものは矢張り僕の胸の中ではっきりといつでも感じる事ができ、今でも僕は彼女の幻影を追っている。
もうじき僕は、何度目かの誕生日を迎える。