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「任せる」と「放置」の違いは?
小学校の先生で、2児の父、雄剛です。
先日、学習発表会が終わりました。それぞれの学年の発表が工夫を凝らしていて面白かったです。そんな中、職員室で聞こえてきた話。
「私の子どもの小学校の頃の発表がひどくて…。子どもたち自身が内容を作ったらしいんだけど、全然何をしているのか分からなかったんだよね。自分たちで考えさせていて、子どもも楽しそうだったんだけど、まぁ何をやっているかわからない。支離滅裂だったんだよね…。」
これ、学習発表会6年生を送る会など発表する場ではけっこう起きがちなケースですよね。
子どもたちに内容を考えさせるのは価値があるけれども…
以前の記事でも書いた通り、子どもたち自身がアイディア出し合い、発表作っていくことにはものすごく教育的価値があると思っています。子どもたちが育ちますよね。
でも、発表として成り立っていないと意味がない…。保護者に頑張りが伝わって、「頑張ったね!」「よかったよ!」という言葉をもらうところまでがセット。それがあって初めて頑張った達成感と、自信、次への意欲が湧いてくる。
子ども自身が考えた発表が、全て発表として成り立たないか…といえば、そんなことはありません。子どもたちが考えた素晴らしい発表もたくさんあります。今回は子どもたち自身が考えて、保護者に頑張りが伝わる発表と、そうでない発表の違いについて考えてみました。
「任せる」と「放置」の違い…
これに尽きるのではないかと思います。
保護者に頑張りが伝わるかどうかは、そこに至る頑張りとともに発表が最低限の形を整えている(内容が伝わる)必要がありますよね。
最低限の形が整っている発表は、先生が子どもたちに上手に「任せて」発表作りをしています。まずは、先生がある程度の「ゴールと全体像」をもって示すこと。もし、「ゴールと全体像」から子どもたちに考えさせるなら、問題点を明確にして、軌道修正をするための投げかけをすること。「ゴールと全体像」を共有した上で、内容作りを任せる。そして、「ゴールと全体像」から離れるような場合は、軌道修正する投げかけをして、検討させる。だから、オーケストラでいう指揮者の役割を先生がするということですよね。子どもたちは、任された楽器の担当を、より良いものにできるように試行錯誤する。
一方で、最低限の形が整っていない発表は、「放置」の状態で、指揮者がいない状態。それぞれがバラバラに動いていて、統一感がない…。軌道修正もされていない…。
この現象は、学習でも起こりがち…
最近は「個別最適」が重視されていますよね。それぞれに合った学習方法や課題に応じて、自分で選択肢して学習進めていく…。
〇そこに、進むべき道標であるゴールと全体像があるのか…?
〇そこに、ゴールと全体像から離れた時に、軌道修正する関わりがあるのか…?
最近、「個別最適」の考え方のもと、子どもに指導することを遠慮して(先生が楽をして?)しまっているケースがけっこうあるなと思います。学びのコントローラーは渡すけれども、それは先生という指揮者がいて、子どもたちにコントローラーを使いこなす素地があってこそ。「個別最適」だから、先生は口出ししてはいけないわけではなく、「個別最適」だからこそ、ゴールと全体像から離れたら積極的に軌道修正すべき!
今回の件で、私はそんなことを考えたのですが、皆さんはどう思いますか?