久しぶりの1人の夜は とても広くて静かだった 前は返事のあった言葉も いまはぜんぶ独り言 一緒に過ごした時間の分 僕の中に君がいる 1人ぼっちの生活に 君との思い出だけが残って 久しぶりに吸う煙草 前は「吸わないでって」 君が言うから 君との約束だったから 夜に吐いた煙は 風に乗ってどこかへ行って 残された自分の体が ひどく重たいものに思えた もう嫌がる君はいないのに こうやって後ろめたく煙草吸ってるのは まだ君の存在が抜けてかないから
駅の待合室はひどく静かだった。日も沈み、木のベンチから伝わる冷気で体の芯が冷える。時折、風が窓ガラスを揺らす。その度に、隙間から冷えた空気が入り込んでくる。寒くて静かな待合の時間だ。 次の列車は約40分後に駅を出る。それまで暇を潰さないといけないが、ここまでの旅路によって、あいにくスマホの充電も切れかかっている。目的地まではまだしばらくかかるから、電池は温存しておきたい。そうなるとやることがない。ただ時間が過ぎるのを待つしかない。ホームから見える道を歩く人達を観察し、
日の沈みかけたバイパスを自転車で走る。拓けた空に等間隔に並んだ電灯が印象的だった。 僕の手前をおじいさんが歩いていた。運動しやすそうな服装で歩いていた。近所に住んでいるのだろうか。 自分が気に入っている時間はこういう日常のワンシーン。
この日々にいつか貴方が来たならば 余白をなぞって夢を見る夜
小、中、高と、どこかのグループに属するわけでもなく、ただ気の合う人とつるんでいた。そしたら、なんだかんだ大学まで関係の続いた人が何人かいた。僕は別にそいつらに執着してたわけではない。ただ、卒業後も会える機会があれば話したり遊んだりしてただけで、次はいつ会おうとか具体的な約束をしてたわけでもない。それでも、なんだかんだでずっと関係は続いている。昔の僕、そいつらと毎日のように顔を合わせていた頃の僕は、こんなふうに関係性が続くなんて思ってなかっただろう。もしかしたら、心のどこかで
少しくらい肩の力を抜いて生活するのも悪くないですよ。どうしても手放したくないものは、誰にだってあると思います。でも、無理に引き留めようとしてもお互い疲れるだけです。別々の道を歩く時が来たなら、素直に別れと感謝の言葉を送ってあげましょう。縁がありましたら、またどこかでお会いすることもあるでしょう。 別れ際は素直に。そして、そこから先は新しい生活です。肩の力を抜いて、新たな縁を迎える準備をしてください。
最近は映像の世紀を見ることにハマっている。過去を教えてくれる作品は、自分が知らなかったものを見せてくれる。そうして、ケネディやメルケル、ビートルズなど、知っているものでも少し踏み込んで見せてくれるから余計に楽しい。 もちろん、あれが現実を忠実に再現したレプリカのようなものであるのは知っている。それでも映像の世紀には、その時々に人々が何を考えていたかに思いを馳せるのに充分なリアリティーがある。例えNHKが編集で切り落としたものがあったとしても、僕は幸い学生の身であるから、知
夢の端っこを彷徨うような時間を過ごしている。バイト終わり、暗闇に包まれて幾らかコンパクトになった街を自転車で駆け抜け、時々すれ違う通行人に心の中で「今夜はいかがお過ごしですか」と尋ねる。まるで現実ではないような感覚さえあるこの時間のために生きているような気もしている。 夢の端っこと現実の端っこの混ざり合うところ、心地よい時間。
わかっている。 君の視界に僕が入っていないことくらい。 君が好きになるのはいつだって、天然人たらしで喰えないタイプの霧みたいな人で、そして、ちょっとSっ気のあるような、そういう僕とは正反対の人。 痛いほど、わかってる。 あいつのこと好きでしょ。 そう指摘すると、なんでわかったのと目を見開いて驚く君。 わかるに決まってるだろ。 僕がどれだけ君のことを見ていると思っているんだ。 そう言いたいのをぐっと堪えて答える。 「君のラブストーリーの登場人物はいつもそんな男だよ」
人生を豊かにするコツは「幸せを見つける」ことだと思います。そして、これは「求める」というのとは違うんじゃないかとも思います。そもそも幸せなんてものは曖昧なんだから、ただ求めるだけじゃ目的と手段が入れ替わってしまうこともある。それに思い描いた幸せだけが豊かさに繋がる訳じゃないと思うんです。例えば普段の生活の中にもささやかな幸せというのは溢れています。日々をあくせく生きているとそういうものを見逃しがちになります。それはやっぱり勿体ないんじゃないかと思うんです。なにか1つ大きな幸
春雨も桜を散らし春の〆 君の頬には慈雨の揺らめき
あの、僕、鉄道とか結構好きなんですけど、いわゆる「鉄オタ」と呼ばれる人達みたいに鉄道の知識が身に付いてるとかそんなことは全然無くて、ただなんとなく「鉄道」が好きなんですよ。で、それをなんでかなって考えた時に、たぶん人がいる鉄道っていうのが好きなんじゃないかと思うんです。もちろん単体としての列車に興味を抱くことはありますが、やっぱりそういう時にも連想されるのは、旅情とかその列車に乗っている人達とかなんですよ。昔、上野駅というのは北へ向かう列車の始発駅で「あゝ上野駅」や、啄木の「
僕という人間は どれ程ちっぽけなのだろうか 知ってることは少なくて 知ったつもりになってることばかり 何気ない日々の中に現れる 些細な感動 例えば 朝焼けに感動し 懸命に生きる人達に心打たれる そういうことがあるたびに 今までの自分が 井の中の蛙であったことを知る これを繰り返してる でも、これを繰り返すのも悪くないって むしろそうやって 僕は楽しみを見つけてきたんだと 自分がちっぽけだと思うたびに この世界に希望を抱く
心地よい別れというものを初めて体験した。だんだんと春が当たり前になっているせいかもしれないけど、心が柔らかくあれるようなお別れだった。 卒業式の日もいつもみたいに時間ギリギリに学校へついて、だいぶ揃ったクラスメートの姿を見ながら自分の席を目指す。この日常も今日で最後。他愛もない会話をしてる友達のところへ行く。最後だっていうのに相変わらずみんなでゲームをしてたりする。いつも通りで嬉しい。いつものHRみたいに、先生が今日の予定を話してくれる。明日もここで先生の話を聞いてそう。
深夜、イヤホン越しに流れるラジオに心を委ねていると、不意にレモネードの香りがした。そして、それは随分と懐かしい記憶を連れてきた。私が生まれた街の記憶。部活に励む学生や買い物をする人たちの声が聴こえる、思い出したのはそんな夕暮れの景色だった。 その街には大学生まで住んでいたけれど、社会人になって一人暮らしを始めてからは一度も帰っていない。 久々に帰ってみようかな。どうせなら実家にも顔を出そうか。ついでにしばらくお邪魔して。それは迷惑か。 職場に馴染めなくて、会社を辞