稽古と修行
大学生の頃、合気道部に所属していた。
ここ最近、再び合気道の稽古がしたくなり道場やスケジュール等の調整をしている。
合気道と聞いて思い出すのは内田樹先生である。
もちろん稽古にはきちんとした教育体系がある。それは「先達についてゆく」ということである。ただし、どこに行くのか、どういう経路をたどるのか、いつ何が身につくのか、何も情報が事前には与えられない。
ただ「先達」の背中を見ながら歩き続けるだけである。自分が踏破すべき行程のどこにいるのか、目的地に到達するまでにどれだけの歳月を要するのか、何もわからない。自分が修行していることの意味を叙する語彙も、その価値を考量するものさしも自分にはない。そこから「学び」は始まる。でも、それが武道や宗教や芸能における「修行」なのである。(中略)この世に存在することさえ知らなかった学知や技能を習得できるという開放性・豊饒性のうちに「学び」の神髄はあると私は確信している。
内田樹「いま私たちが学ぶべきこと」學鐙 夏号(Vol. 120 No.2)
知識やスキルなど何かを身につけるために学ぶという目的志向でスタートするとゴールは見えやすい。しかし、本来の学びとは内容ではなく先達から絶えず学ぶ姿勢を受け継ぐことが大切なのではないだろうか。
話は変わって、以前NHKのドキュメンタリー番組で比叡山の千日回峰行について特集されていた。
比叡山の千日回峰行とほ、1〜3年目は100日連続、4、5年目は200日間、真言を唱えながら礼拝所を巡る修行の後、9日間を断食、断水、不眠、不臥で過ごす堂入りを行った後、6年目は再び100日間、7年目は200日間の行を行う礼拝である。
千日回峰行という名前とは裏腹に975日で終わらせ、1000日歩いてはいけないとされている。これは1000日歩ききることで修行者が満足してしまうことを防ぐためである。死ぬまでが修行と思いながら日々の修行を続けるそうだ。
20代の頃、同じような繰り返しの毎日に先の見えない閉塞感を抱くことが多かったが、今では稽古と修行ととらえて精進していく所存である。
今日も皆様にとってよい一日でありますように。