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ロボットはロボットを極めれば良いのに

「何故ロボットはロボットらしくあろうとせず、人間らしさを求めるのか?」
昔から疑問だった。何故ロボットに人間らしさを求めるのか。ロボットはロボットらしく、ロボットを極めるべきではないのか……
この疑問に今日は自分なりの答えを出してみようではないか。

私が考える「心」の定義


人間、特に日本人は「物に対して感情や愛情」を抱く事が多い様に思う事が多々ある。どこを歩いてもよく喋る機械が目に付くものだ。日本に観光に来た外国人は「日本のものはよく喋るなぁ」と思うという。風呂の給湯器でさえ喋るのだから仕方ないーーー

私は人間が心や愛情を抱く定義を「それを生き物だと見立てる能力が見る側にあるかどうか」だと考えている。誰しも人形に愛しさを感じたり、捨てるときにこっちを見ている様で戸惑ってしまったり…と言った経験はあるのではなかろうか。これは、あくまでも私たち「見る側」が勝手に判断した結果となる。つまり、その本体に感情があるかどうかはさほど重要ではない。見る側が、相手側が受け取る物、それこそが心なのだ。

しかしこれは「心を感じる」と言う話であって、「心を認識する」と言う点では違う。多分多くの人は冷静に考えた所で人形に心があるとは思わないだろう。そういうことだ。「心を認識する」ためにはその物体自体に「仕組みの分からない複雑さ」が必要だ…と述べられた文章を読んだ事があるが、なるほど、人間が古代から自然に畏怖し、そこに神を見出してきたのはこの為だったのだろうか。しかし私は、それ以前に「心を認識する」かどうかの境界線は「その物体に意識が有るか否か」だと考える。

本題


さてここまで散々「心の定義」について述べてきたが、今日の本題はそこではない。「何故ロボットはロボットを極めず、人間らしさを求めるのか」。
私なりの答えは、「日常生活で人間らしさを求められた選択を迫られる場面が多いから」だ。言語化してみれば単純なもので、ロボットが実用化する、となった時に日常生活で融通の効かないロボットばかりが増えてしまったら、それはもはや面倒な鉄の塊になる。

しかし、きっとそれだけが理由ではない。もう一つの理由こそ、私が恐れている、「人間的な想像力の衰退」なのだ。最近、我々ネット世代の現代人は自分で考える機会がめっぽう少なくなった。映画を見た後に感じた感情でさえ、Twitterで検索すれば簡単に言語化した気になれる。(おびただしい数の情報の中で、全てに感情移入をしたら疲れてしまう。きっとこれは人間の防衛本能のひとつなのかもしれない。)
それと同じで、我々はロボットに「心」を感じるために、「相手からの行動」が必要になってきているのだ。これは現代の人間が想像力を衰退させていく一つの象徴的なイベントとも取れるだろう。



寄せれば寄せるほど、人間は小さな違和感に敏感になるものである。偽物の皮膚に違和感を覚え、引き攣った笑みに恐怖を感じる。そこまでして人間らしさを求めるべきかはわからない。それでも少なくとも、「考え方のプログラム」と言った点においては、今ロボットには人間らしさが求められている。

このままロボットが人間らしさを求めていけば、いずれ人間とさほど変わらないようなロボットが出来るかもしれない。私の理論でいくと「心」は相手側の想像力に委ねられることで成り立ってきた。今我々はロボットに人間らしく振る舞ってもらう事を受動的に受け取る事で心を感じようとしている。動物を模した「アイボ」のようなロボットが流行っているのもこのためだろう。
自分で考える事を放棄し、相手の表面的な行動からでしか相手の感情を受け取れなくなっていく。行動の裏の感情、相手が置かれている環境までもを考える事が出来なくなっていく。直接的な表現ばかりが増え、風流などと言った感覚も「回りくどい」と評価されるようになっていく。同じものは一つと無いはずなのに、自分で感じた感情でさえも自分で言語化出来なくなっていく。

これはとても寂しい事だと思わないだろうか。
我々は自分で考えることの大切さを忘れてはならない、とぼんやりと、しかし確かに感じるのだ。

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