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考え事#27 パラ認知

もう半年以上も前になるのか、こんな記事を書いた。

内容を踏まえて今回は書こうと思うので、お読みでない方はお手数ですが一度内容をお読みのうえお進みいただきたい。

一応ちょっとだけ再掲。
メタ認知=主観的客観視 なのではないか、というのがこの記事の問いだ。
それに対して、自分なりに
パラ認知=客観的客観視 というものを考えてみたい、というのが今回書きたいことだ。

自分のパラ認知をどう育てるか

まあ、わざわざ書くことでもないのかもしれないが、パラ認知を伸ばすために特別なスキルは必要ないと個人的には考えている。
考えている、と書いたのは、僕の主観としては特別なスキルではないと思っているものが、人と場合によっては特殊なものかもしれないからだ。

↑これがまさに、パラ認知を意識した文章だ。

人は基本的に、主観的にしか自分を見ることができない。仮に幽体離脱みたいなことができたとしても(例えばYouYubeで自分が喋っている動画を見るのは疑似的な幽体離脱ともいえるし・・・)実際にその自分を見るのは自分なので、これはメタ認知の域だろう。

だから、結局人にフィードバックをもらうことがパラ認知能力を高めるすべてだ。

簡単にいえば、360°フィードバックを、"タイムリーに"もらう、というのが手法ということになる。

僕の実践例を紹介したい。

恐いけど面白い、担任アンケート

かれこれ7年前になるだろうか。僕が初めて高校の担任という任務をいただいた時、1学期の中頃に僕は軽い鬱状態になったことがある。
特に診断もされていないし、そのあと7年間普通に(いや、振返るとやや異常だったかもしれないww)教職を続けてこれたので、大したことがなかったのか、自分の精神力が強靭だったのかのいずれかだと思う。
ちなみに、このいずれだったのか、という点をメタ認知的、パラ認知的に内省すると、以下のようになる。

メタ認知的自己理解
→大した鬱状態ではなかったなと感じる。

パラ認知的自己理解
→結構な鬱状態だったが、自分の精神力的なものがそれを上回る強靭さだった。

という風に、主観でみた自分というモノは、得てして客観でみた自分よりも自分のことを拡大評価(ときに過大、ときに過小)するといえるのではないだろうか。

そうやって自分の縮尺を主観的に変えてみてしまう危険性を、メタ認知は孕んでいるのではないか。

さて、話を戻そう。

パラ認知能力を高めるためには、フィードバックをタイムリーにもらうことが有用だ。

教員としてそれをするとなると、要は同僚の先生にフィードバックをもらったり、生徒からフィードバックをもらい、自己の活動に第三者の視点を与えることが大事になる。

当時はそんな意識はなかったが、先に書いた、7年前の僕が実際に実施したことの一つが、担任アンケートである。

担任アンケートの内容

至ってシンプルな内容である。

Q1.1学期間、担任の言動の中で嫌だったこと、やる気をなくしたことなど、ネガティブだったことを挙げてください。できれば、全員1つは挙げて欲しいです。
Q2.1学期間、担任の言動の中で嬉しかったこと、やる気がでたことなど、ポジティブだったことを挙げてください。Q1に解答を書いた人は、1つは書いてくれたら嬉しいです。

まあ、結局両方書いて欲しいなというのが内容ににじみ出ていますが・・・

それで、生徒はどう書いてくれたかというと、信頼関係が出来ていると感じる生徒ほど、Q1もQ2もきちんとクリティカルな内容を書いてくれた訳です。ちゃんとやろうとしすぎ、とか、ちょっと喋り方がうざい時がある、とか。

ちなみに、こんなアンケートやろうと思ってるんスよね~
と、当時同じ学年を組んでいた先輩に話してみたところ、「そんなのやめとけよ、怖くないの?」という意見が多数派だったと記憶しています。

どっちの意見も嬉しいと思ったっていう話

見出し通りだが、僕はというと、Q1の内容は悔しさと嬉しさが半々だった。そして、そう思った自分がなんというか、ちょっと誇らしかった。
自分自身がかなり批判的な人格なので、そういうものをきちんとぶつけてくれる子達の担任をしているのだな、という部分が特に嬉しかった。

そこからこういうアンケートが癖になってしまって、毎年のように物理の授業、担任を持っているときは担任クラスの生徒に似たようなアンケートを取り続けた。ボロクソに書かれることもあれば、そうでない時もあった。

自分の何かしらの言動に対して、フィードバックをもらわないと自分は自分のことを客観的にみることができないのだな、という漠然とした理解をこの7年間で蓄積してきた、ということなのだと思う。

繰り返しておくが、こういう取組みをする教師というのはおそらく一定割合存在すると自分では感じている。なぜなら、自分が存在するから。
でも、同じく一定割合は、絶対にこんなことはやらないとも感じる。それは自分を否定されるのが怖かったり、もらったフィードバックを基に自分を変化させる必要性を感じていない、などの理由がありそうだ。

これからの時代、教師に限らず、皆が変容しつづける必要を背負っていると思う。工業化社会のシステムに歪みが生じ、新しいシステムに移行しないといけないからだ。

自分の成長とフィードバック

教師というのは、生徒に成長を求める仕事だ。
だから、教師は自分自身が成長し続けようという在り方を自分は求めたい。そう思っていたし、自分のだめな所を勇気をもって書いてくれる生徒がいたら、その気持ちに応えたいと僕は思った。
ただし、生徒の言いなりになるのは違う、というのももちろん思っている。
あくまでも、建設的な批判に対してはしっかり自分が悔しい想いをして、そこに溜まったエネルギーを解放するために努力を自分に課すことが重要だと思う。

タイムリーである必要性

せっかく怖いもの見たさでフィードバックをもらうのであれば、その内容を効果的に活用したいと考えるのはおそらく変な価値観ではないと思いたい。
そのためには、いただくフィードバックはタイムリーに、自分の主観でその内容を見ることができる間に実施するのが最適だろう。
何か工夫をした時に、それが生徒にどう伝わっているのか、同僚にどう伝わっているのか、そこから自我を改善するにはどういう方略が有りうるのか、など、とにかくフィードバックを得ることで教師にもたらされる効果は莫大だと考える。

フィードバックとしての1 on 1

大袈裟なアンケートを取らなくても、フィードバックを得る機会をもつことはできる。それが1 on 1だ。
正式に時間を設けてもいいし、放課後にたまたま出会した生徒との雑談の中でもフィードバックをもらうことは可能だ。

この前あの時に〇〇って話、したじゃん。
あれってどう思ったー?

とか、そんなテンションで生徒に問いかけるということからちょっとした1 on 1は簡単に始めることができる。

これも結構楽しくて、良くそんな質問を生徒にしていた。

クラスという集団に一斉になにかを伝えたり、指示を出したりする以上、そこに誰かしら嫌な思いをする生徒というのは存在するものだと思う。
これは教師の性格や手法の問題ではなく、構造上の問題だ。

そこにさえ気づいていれば、どんな返答が返ってきても怖くはない。

先の質問に返ってきた返答は、
肯定的な意見の生徒もいれば、否定的な意見の生徒もいるし、はたまた、え、そんなこと言ってましたっけ?覚えてません、とか聞いてませんでしたー!みたいな生徒もいる。

それぞれの返答に、そう感じたり、聞いていなかったのはなんでなんだろう?

という純粋な質問をぶつけてみる。

こうやって、少しずつ相手の生徒たちの価値観を見せてもらいながら、自分の価値観も見てもらう。

パラ認知はこういう営みでも向上するだろう。

自分が見ている世界と他者が見ている世界

単なる認知とメタ認知は、あくまでも自分の人格がみている世界であり、その向こう側に他者が見ている世界がある。パラ認知能力を高めるというのはつまり、他者の視点になって考えることなのだと思う。

だからといって、パラ認知ばかりが重要なわけではないことを最後に書いておきたい。

自分の人格が見る世界と、自分ではない人格が見る世界、そのどちらもが確かに存在しているということを書きたかったのだと思う。
自分は自分に乗って生きていくしかない訳なので、自分の個性的な認知も、その拡張であるメタ認知も、それぞれの人が自分自身で大事にすべきものだと思う。

でも、時に自分自身の認知で限界を感じることと出会った時には、パラ認知が必要なのではないだろうか。自分自身による自分の拡大評価の罠に、はまり込んでしまわないように。


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