52ヘルツのクジラたち/マイノリティを扱う物語の罪と意義
3月1日公開の「52ヘルツのクジラたち」を観た。原作である小説の著者は町田そのこさん。2021年に本屋大賞を受賞している。
タイトルの「52ヘルツのクジラ」とは、その他大勢の他のクジラたちには聞き取ることのできない高い周波数で声を上げる、世界にたった一頭のクジラのことを指す。広い海の中で、必死に鳴いて、歌って、声を上げるのに誰の耳にも届かない、その孤独はどれほど深いだろうか。そんな52ヘルツのクジラに、この原作小説のタイトルでは「52ヘルツのクジラたち」と複数形がついているところが、この作品におけるとても重要なメッセージであると感じた。
あらすじ
人生を家族に搾取され虐待を受けてきた主人公・貴瑚と、母から虐待を受け「ムシ」と呼ばれていた声を出せない少年との出会いの物語。貴瑚は誰にも助けを求めることができなかったが、貴瑚の声なきSOSを掬い上げてくれた人がいた。救われた経験を持つ貴瑚は、少年の声を聞き取ることはできたが、どのように少年の人生に関わっていくのかーー。
誰にも届かないはずの声を聞き取り合う「魂のつがい」。届く声と、届かない声。届かない声をあげる者に、クジラ「たち」として傍に居てくれる、「魂のつがい」が居ることを願わずにはいられない。
まず、杉咲花さんがえげつない。えぐい。名演にもほどがある。こんなに魂を揺さぶる演技を、久しぶりにジャージャーと浴びられて(ワンシーンとかではなく、もうずっと名演の大洪水)感激であるとともに、とても疲れた。魂をゆさぶる熱量のものは、良くも悪くもパワーが凄まじく、消耗だってするのだ。すさまじい疲労感が、嫌じゃなかった。
人は皆、52ヘルツのクジラなのだと思った。私が自意識過剰なわけではないと思うんだけど、どうだろう?皆さん、他の人には聞こえない声、あげてませんか?私はあげています。誰かに届いて欲しいとは思っていなくて、でもどうだろ、聞いてほしいのかも、わからない。とにかく一人で抱え込んでいられなくて、だから、誰にも聞こえない周波数で叫んでる。
そういう声を聞くことは、すごく、すごく重いことだ。簡単に、気軽に、「話聞くよ」「つらいなら逃げなよ」とかそういう風に扱える声じゃないから。声を聞き救い出すということは、自分の人生をぐわんぐわんに揺さぶられて、頭をかち割られて、苦しみながら手を伸ばすということ。普段の日常と何も変わらない生活を送りながら片手間に、その声を拾い上げて助けられると思うのなら、テメーの頭はお花畑だ。「助ける」に伴う責任の重さをつきつけられたし、その重さをヒョイと超えて覚悟と責任を持って関わろうとするアンさんとみはるの姿に何度も感動した。正社員である立場とか、お金とか、恋人や家族お過ごす時間とか、そういうの、犠牲にしてまで助けられるか? とても難しいことだと思う。ここまで難しいことをやってのける覚悟を持って初めて「救いたい」という気持ちがエゴではなくなるのかもしれない。
とかいって、でもほんの少しの親切に救われることもあるんだけどね。
でもなんか、アンさんの救済を見ていると、そのあまりの覚悟に、怯んでしまう。救いたいとかホザケなくなる。それでも、この世にはたくさんの「救いたがり屋」がいて、エゴイスティックで、愚かで、でもその存在がほんの少しだけ世界を温めているのかもしれない。
ここからネタバレを含むため、閲覧注意です。
原作小説ないし映画を観たあと、読んでいただけますと幸いです。
いつも他者に救われてばかりの私は、見ていてハラハラしていた。貴湖はこんなに救われてばかりで、どうやって返すの、そんなにもらいすぎて大丈夫なの、と勝手に心配していた。でも、アンさんが、「貴湖の存在がアンさんの人生を色づけてくれた」と言ってくれていて、一方的に救われてばかり、ということはもしかしたらないのかもしれないと思った。
私も52ヘルツの声を聞き取れる人間になりたい、聞いたからには責任を持って向き合いたい、アンさんみたいに、と思った。すごく驕った感想だな〜〜。やだな〜〜。(でもそう思ってしまったので恥を偲んで記しておく。)
マイノリティを描くフィクションの意義と罪はどちらが大きいのか、マイノリティの悲劇を描くことは悪なのか…。映画「怪物」を観たときにも強く感じた疑問点であり命題、未解決で未消化でずっとモニョモニョしていることだ。この問いについて、考えていきたい。
怪物を観ても、52ヘルツのクジラたちを観ても、私はちゃっかり感動したり、観てよかったという感想を抱いてしまう。当事者の方からすると、扱いがひどいとか間違っているとか、物語をドラマチックにする装置にしないで欲しいとか、マイノリティは表現のフリー素材じゃないとか、そういう感想が多いことを知っている。でも、どうしても、同じ感覚を持って共感することができない私は、どうしたってマジョリティで、52ヘルツのクジラたちにはなれないのかもしれない。だからこそ、知ることや勉強すること聞くこと見ること話すこと考えること考えまくること、それらをし続けないとどこまでも、私は加害者にしかなれないのだ。
少し安心したことがある。この「52ヘルツのクジラたち」の映画化にあたって、ちゃんと、当事者の監修が入っているそうだ。これはとても大事かつ今後も当たり前に行われないといけないことだと思う。「Nothing About Us Without Us.」という言葉がある。「私たちのことを私たち抜きで決めないで」という意味で、これはメディアや作品を世に出す者は心に刻まないといけない言葉だ。「当事者性」のない表象は、善意によって差別や偏見をなくそうとして作られた作品であっても、その作品は絶対に現実を描くことはできないし、さらなる差別や偏見を生み続けるだろう。
主演の杉咲花さん、演技が素晴らしかったのには、ワケがあったんだな。ただ技術としての演技が優れているだけではなく、作品に描かれるマイノリティの現実や自身の特権性について自覚し問い直し、考えて想像して勉強して、さらに当事者による監修をこの作品に必要であると提言し実現するまでの、本作への真摯な向き合い方が、あのとんでもない演技を可能にしているのだと思った。
以下の杉咲花さんのインタビューの引用は、私の「マイノリティを描く作品の意義と罪」という命題について、深い気づきを与えてくれた。
本作の監修
◯トランスジェンダー監修:脚本から参加し、トランスジェンダーに関するセリフや所作などの表現を監修/若林佑真さん
◯LGBTQ+インクルーシブディレクター:脚本から参加し、性的マイノリティに関するセリフや所作などの表現を監修/ミヤタ廉さん
◯インティマシーコーディネーター:セックスシーン、ヌードシーンなどのインティマシー(親密な)シーンの撮影現場で俳優をサポート/浅田智穂さん
また他にもヤングケアラーやネグレクト、児童虐待の点も含めて福祉や行政の専門家の取材を行いながらチーム一丸となって作り上げたそう
こうした監修や取材が適切に、善意のボランティアのように搾取する形ではなく、当事者の方に然るべき報酬が支払われ、今後当たり前に必ず行われるようにならないと、「作品の罪」は付き纏うだろう。また、監修といっても個人の当事者のひとりの意見なので全ての当事者の代弁ではない。監修があってももちろん批判や苦言が起こることはあるだろう。それらの声に対して、制作サイドが真摯に向き合うこと。作品を世間に出して終わり、ではなく説明責任を果たし、作品として誤りがあった場合にはちゃんと訂正をし、世間に出したあともその作品がどんどん成長していくようにならないといけないと感じた。
杉咲花さんは素晴らしいな、一気に大ファンになってしまった。わかりたいのにわかることができなくて、悩みまくってウワーーーってなって深い海の底から浮上できず溺れていた私の問いに、作品を通して、作品を作る過程を通して、演技の力を持って、水上へと導いてくれているようだった。
この記事を書いた1ヶ月後、また違った感想を抱いたのでかいた記事はこちら。