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『歴史のなかの天文』
ー星と曆のエピソードー 斉藤 国治 著
雄山閣 刊 平成29年6月26日 初版
江戸近世に入ってからの天文や曆に関する研究は、渋川春海(江戸初期の天文学者・安井算哲)のご尽力により、いくつかの書物を見受けられます。
江戸近世の天文学者・安井算哲については冲方丁さんの代表作『天地明察』をご高覧ください。岡田准一さん・宮崎あおいさん共演で、🎞映画化もされましたね。
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今日ご紹介したい📗本は、『歴史のなかの天文』という本です。
応募コーナーの『読書の秋2022』で、読書感想文を受け付けていましたので、投稿してみました。
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【『歴史のなかの天文』の表装】
しかし、著者が記すように、古来から人の生活と星や月、太陽の天体活動と関係があり、資料が少ない敢えて難しい古代から中世までの研究への熱意には、感動致しました。
著者自らが提唱した「古天文学」という分野に、もっと脚光が浴びてもおかしくありません。歴史の表舞台を記しているのが歴史の教科書や参考書ですが、著者はこの本の中で、古代からの歴史的事件と天文の関係を実際の実証を交えて考察していきます。
この本を読むと改めて、歴史を学ぶには科学的視野も必要で、東海大学を創設なさった故 松前重義総長の学是である〝文理融合〟がいかに大切なことであるかを再確認できます。
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※本能寺の変の後、本能寺は移築され現在の京都市中京区寺町通にあります。
余談ですが‥‥。
「本能寺」の「能」という字は、敢えて部首のニクヅキに「去」という作りにしているのは、間違いではなく、二度の大火で本能寺はその都度、再建していました。「ヒ」が🔥「火」を連想させるため、「火」が去って欲しいという願掛けから、本能寺では「能」を使っていないとのことです。
🔥二度の大火の内、「本能寺の変」が含まれていることは言うまでもありません。
著者は本能寺の変が起こった6月2日に着目しています。今まで数多く🎞映画やドラマで取り上げられていた本能寺の変が起こった「6月2日」という日。
織田信長は、秀吉の要請を受けて中国毛利攻めに向かう途中で立ち寄った本能寺で家臣・明智光秀の裏切りによって自刃に追い込まれた本能寺の変が定説です。
私もそう思っていました。
著者は本能寺の変の前日の6月1日に本能寺で信長最後の茶会に注目しています。この日は、前日に京都へ向かう琵琶湖に架かる瀬田の大橋までの出迎えすら断った信長が自ら公家たちを本能寺に招いて茶会を催します。
信長は、6月1日に公家たちを本能寺に招く意味があったとしています。
当時の曆は旧暦=太陰太陽暦といって🌖月の周期で一年・一月運行を決めていました。そのため、一月の初日=朔日《ついたち》は毎月必ず🌑新月で、中日15日が🌕満月です。末日=晦日《みそか》も🌑新月前日です。
そのため、月食は旧暦15日に起こり易く、日蝕は1日=朔日に起こり易くなります。
そう、天正10年(1582年)6月1日は、皆既日食が起こっていたのです。
📗本の中で、この日の皆既日蝕はオッポルツェル日蝕番号6620番であると指摘しています。
日蝕の正現《せいげん・実際に観測できること》が信長にとっていかに大切だったのかと言いますと、天正10年の年初辺りから信長は改暦を口にするようになります。近畿地方や京都を中心に古くから京暦を採用しています。
その京暦を三嶋大社に奉納している三嶋曆や同じ運行がなされている尾張曆に全国統一して各地バラバラで運行されている曆も規格を統一して同じ運行にしたいと考えました。
しかし、京暦は公家の中でも安倍晴明を家祖に持つ土御門家の言わば〝専権事項〟です。
ここで問題となるのが🗓曆として、京暦vs三嶋曆のどちらが正確であるか?ですがどちらも予測ができたり予測が外れてしまったりするのですが、天正10年6月1日の日蝕が正現すると予測する三嶋曆&尾張曆に対して、京暦はこの日に日蝕は起こらないとしていました。
当時は天体現象の中でも月蝕と日蝕は災いの予兆とのことで忌み嫌われていましたが、とりわけ日蝕の予測は正確さが求められ、日蝕を予測出来なかったり外した場合、朝廷内で問題視され時には改元などにも発展するケースもありました。
それほどに重き置いていた日蝕予測です。天体現象に吉兆などあろうはずがないとする超リアリスト・信長はこれを利用することを思いつきます🤔
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※肩衝など38点を前日に荷車に乗せ、本能寺に向かったのです。信長の京都での定泊は妙覚寺でした。
本能寺は僅か4回しか宿泊していませんでしたが、この日は信長の嫡男・信忠200騎が妙覚寺に入寺するため、信長は本能寺に入寺しました。
そこで一計を案じた信長がこの日に茶会を催したのではないか⁉️と一歩踏み込む提言をしています。
とりわけ、歴史に余り興味がない方々でも知っている天正10年6月にあった本能寺の変にまつわる織田信長と公家衆との駆け引きとも取れる件りは、目から鱗的な発見でした。この本の中で一番読み応えのある部分で、とても印象に残っています。
私もこの本を読んで大変、気になったので調べてExcelの表計算ソフトでDB化して統計値をとってみました。
数字は拾ってみるものですね👍🏻
結論から言いますと、
0001年〜1582年までの日蝕は3731回 内6月1日の
日蝕は265回で、観測できたであろう正現は81回。
※私が勝手に提唱する正現率は7.1%です。 ちなみに全体の日蝕は30.6%ですから、日蝕を正確に予測出来ない曆は曆ではない、と信長が断言したくなるのも頷けます。
※2 更に遡って0000年〜−0660年(神武天皇元年)まで日蝕の回数を取ると1588回、合算して5319回も日蝕が起こっており、6月1日に起こった日蝕92回、正現数は36回で、それぞれ合算すると、357回で正現総数は117回となり、正現率は6.7%でした。
日蝕は忘れた頃にやってくる天災とは違い、一年に二度ないしは三度起こる気象現象でした。
【Excel表計算ソフトを使って日蝕DB一覧】
※1データ入力に一部間違いがありましたので、2022年11月14日 午後5:15分に差し替えました。
※2 日蝕DB一覧Ⅲ20220426のファイルを2023年1月5日 午前10:30に差し替えました。以前のファイルは1.75MBでしたが今回は月蝕も追加しましたので2.65MBになりました。
現在、惑星蝕にも取り組んでおります。
完成したら、差し替えます。当時、肉眼で確認できたであろう水星蝕・火星蝕・金星蝕・木星蝕に限定しております。
他にも卑弥呼の時代の日蝕から、時代の特定を試みたり、『吾妻鏡』に登場する天体現象の記述を検証したりする辺りの手法、難攻不落と言われていた都市・鎌倉を攻めて陥落させた新田義貞の稲村ヶ崎での戦いを描いた『太平記』の記述の検証など、中世史を学んできた私にとって、とても斬新な切口でした。
新田義貞の鎌倉攻めは📺NHK 水曜日午後10時から放映している『歴史探偵』という歴史的事件を科学的視野からアプローチする面白い番組でも取り上げられていました。
![画像4](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/89650413/picture_pc_e2761dc9da1c9cab7572391a6cba496d.jpeg?width=1200)
MCは佐藤二朗さん。
番組でも干潮時の稲村ヶ崎では干潮時の僅か時間に波打つ岸辺に陸地が現れて新田義貞勢が切通を迂回して鎌倉に乱入出来たと、結論付けており、著者のこの本での科学的アプローチが間違っていなかったことを実証していました。
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※普段はとても渡れそうにない稲村ヶ崎の海岸。
天文学者・小川清彦氏は、陰暦5月15日〜18日には海面潮位が1.0mも下がることを🌖月の引力で起こる満潮・干潮から割り出しました。
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※誇張の多い『太平記』ですが、実際に一年の僅か数日の干潮時に、潮位が下がり陸路が現れて海側から鎌倉へ向かえることが出来るそうです。
歴史分野の研究は、一等史料としての古文書や文献の資料の読解だけでは著者の視点には辿りつけません。でも、著者の記述なら、歴史を暗記だけのつまらない分野と避けて通る方々にも興味が湧く歴史になって理解も深まります。
歴史を勉強してきた私に、新たなジャンルをご教示いただいた名著であると、自負しております。