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ゴッサム・シティの裁判所にて

Joker: Folie à Deuxの感想
詳しくはないネタバレ有り

ジョーカーに魅せられた劇中の人物=観客である私達

生放送中に司会者の頭が撃ち抜かれたあの事件を覚えているかい。
あの時の街中の熱狂、まさに混沌、暴れ回ってスカッとしたね。
自分は一人じゃないと思えたんだ。
あれをリアルタイムで見ていた俺達(前作を観た我々のことである)は再度あのジョーカーに会うために裁判所(近所の映画館のことである)へ走った。
事件の再現ドラマはどうかって?
2回は観てるし、もちろんDVDも買ったさ。(前作のことである)

常識や倫理から外れ、ルール無用、人々に恐怖を与えた彼に会える、また見ることができるなんて……
僕は彼の自由を訴えるために友達と裁判所へ行ってデモに参加して来たんだ。
あの日の気持ちを思い出したよ。
ジョーカーは裁判でどんなパフォーマンスをしてくれるのだろ、どんなジョークが飛び出すだろうと思っていたのに……なのに、だ。

ゴッサム・シティ住民の架空ブログより

酷評は意図されている

前作でジョーカーに魅せられた私達は彼が本物の「ジョーカー」であることを期待している。ゴッサムの住人も同じく。

しかし、期待を裏切るように彼の口から「ジョーカーはいない」と明言される。
存在するのはアーサーという社会的弱者のおじさんで、ジョーカーなど存在せず、おじさんの空想にお前らは魅せられていただけだよ、と突き放される。
これを観せられれば、観客は低レビューを書くし、ゴッサムの人は裁判所から出ていくし、心が離れていく。

「酷評になるように制作しました」ということだと考えると「尖ってていいね」とは思う。
続きを求めた私たちへのアンサーとしてこのようなあり方があってもいいかなと思う。制作物は制作者の自由として。


ジョーカーの器

理由なく人が存在するように、理由なく自然にある悪がジョーカーである。
アーサー・フレックはジョーカーとしての器がなかった。
元同僚や刑務所内の友人が自身のせいで傷つたり、命を落とすと本来の彼が持っている優しさ、良心の部分が顔を覗かせる。ジョーカーには必要のないモノをアーサーは持っていた。

主役は誰だったのか

リーことハーレイ&ジョーカーの空想歌唱ショーで
「君は僕を見て歌っていない」「主役は僕なのに君が主役のようだ」
とハーレイに意見するジョーカー。
(どうでもいいけどハーレイ、歌上手い。さすが。)

「これがジョーカーの映画?」
と鑑賞中にずっと思っていたのでこのシーンは印象に残っている。
題名は「Joker」というよりまだ「Harley  Quinn」の方が適切ではないか、というか「Arthur Fleck」が題名じゃん、と思った。
賛否両論なのは題名から想像する話との乖離もあると思う。


爆破された裁判所から出てきたアーサーを車に乗せ、ジョーカーであることを求めた彼らは私だな、と思った。
走り去るアーサーに「ジョーカー、愛している」と叫んだところは少し良かった。

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