ゴッサム・シティの裁判所にて
Joker: Folie à Deuxの感想
詳しくはないネタバレ有り
ジョーカーに魅せられた劇中の人物=観客である私達
酷評は意図されている
前作でジョーカーに魅せられた私達は彼が本物の「ジョーカー」であることを期待している。ゴッサムの住人も同じく。
しかし、期待を裏切るように彼の口から「ジョーカーはいない」と明言される。
存在するのはアーサーという社会的弱者のおじさんで、ジョーカーなど存在せず、おじさんの空想にお前らは魅せられていただけだよ、と突き放される。
これを観せられれば、観客は低レビューを書くし、ゴッサムの人は裁判所から出ていくし、心が離れていく。
「酷評になるように制作しました」ということだと考えると「尖ってていいね」とは思う。
続きを求めた私たちへのアンサーとしてこのようなあり方があってもいいかなと思う。制作物は制作者の自由として。
ジョーカーの器
理由なく人が存在するように、理由なく自然にある悪がジョーカーである。
アーサー・フレックはジョーカーとしての器がなかった。
元同僚や刑務所内の友人が自身のせいで傷つたり、命を落とすと本来の彼が持っている優しさ、良心の部分が顔を覗かせる。ジョーカーには必要のないモノをアーサーは持っていた。
主役は誰だったのか
リーことハーレイ&ジョーカーの空想歌唱ショーで
「君は僕を見て歌っていない」「主役は僕なのに君が主役のようだ」
とハーレイに意見するジョーカー。
(どうでもいいけどハーレイ、歌上手い。さすが。)
「これがジョーカーの映画?」
と鑑賞中にずっと思っていたのでこのシーンは印象に残っている。
題名は「Joker」というよりまだ「Harley Quinn」の方が適切ではないか、というか「Arthur Fleck」が題名じゃん、と思った。
賛否両論なのは題名から想像する話との乖離もあると思う。
爆破された裁判所から出てきたアーサーを車に乗せ、ジョーカーであることを求めた彼らは私だな、と思った。
走り去るアーサーに「ジョーカー、愛している」と叫んだところは少し良かった。
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