見出し画像

2回の挫折による学歴コンプレックス。過去の「執着」を手放して、いまを生きる。

「学歴コンプレックス」という名の爆弾を十字架のように背負い続け、やっと過去の執着を手放せるまでに、何年かかったと思いますか?


答えは、約10年です。


高校受験、大学受験ともに不本意な結果に終わり、大学1年生を仮面浪人しながら過ごし、改めて「不合格」の現実を突きつけられてから、約10年。

我ながら、諦めが悪いですね~(笑)。気持ちを切り替えて、その場その場を楽しめる人が、きっと人生うまくいくんでしょうね。自分の居場所はここじゃないのに、と意地を張ってムキになっていた過去を悔やむ気持ちもあります。

「置かれた場所で咲きなさい」という言葉には、当時随分と苦しめられた気がします。いや、苦しめられたは違うか。自分自身の頭の中で「置かれた場所で咲かなくてはならない(≠そこで咲けないならもうダメだ)」と変換して、勝手に首を絞めていただけですね。単純に視野が狭くて、生きる世界を限定していた。ああ、大人になれてよかったな。


本題に入る前に、ラランドの短編映画 『点』がものすごくよかったので、ぜひ観てほしい。浪人生活が舞台ではあるものの、人生の分岐点を生きる苦しみが痛いように伝わる作品で、執着を手放した(はずの)私でも感情移入して心を抉られた。


ずっと前から下書きに入れたままだったけど、ようやく書く気分になれたので昇華の意味も込めて書いていく。過去の自分よ、報われろ。

学歴コンプレックス発症のきっかけ

そもそも挫折を経験する前から「学歴」に対して、なにか闘争心のようなものを抱いていた気がする。自分のレッテルを証明するのに手っ取り早かったからだと思う。中学生当時から外側を武装するのに必死だった。

いざ高校受験を本格的に意識するようになった。家から自転車で通えて、地元(市内)で偏差値がもっとも高い公立高校で、制服がなく、吹部も強く、その高校を選ぶ理由はいくらでもあった。

第一志望に掲げ、目指すようになったいちばんの理由は、両親の出身高校だったから。学年が違ったこともあり、お互いに高校時代は面識がなかったらしいけど。

両親から勧められた記憶は残っていないが、自分の中で選択肢はほかになく、その高校での生活を夢に見て勉強するようになった。


【挫折①高校受験】第一志望高校の不合格により人生どん底期へ

結果的に、第一志望の公立高校には受からず、滑り止めで受けた私立の女子高に通うことになった。地方出身者はわかってもらえると思うけど、偏差値の観点で見ても圧倒的に公立主義だったので、私立≠滑り止めみたいな位置づけだった(もちろん私立を第一志望にする人もいたので否定はしないけど、周囲の風潮はそんな感じ)。

偏差値の高い公立高校(制服なし自由な校風)
>>>>>超えられない壁>>>>>
偏差値そこそこ公立高校(制服あり)
>>>>>
私立高校(制服あり)
>>>>>
名前書いたら受かる公立高校(制服あり)

私の独断と偏見ですみません…

「挫折を経験した人は強い」みたいな話を大人になってから耳にするようになったけど、当時はまったくもってそんな気持ちになれなかった。「人生終わった、失敗だ」と本気で思っていた。高校入学後もその気持ちが払拭できないままだった。

自分に不都合なことがあると、「第一志望の高校じゃないからだ」と思い込んだ。自分が受験に失敗したから、こんな人生になったんだ、この先もきっとうまくいかない、と責め続けていた。

クラスでの人間関係もうまくいかなかったし、吹部でも関係が拗れることがあり、家に帰ってもくつろげる場所とは程遠く。当時も、いま振り返ってみても、人生のどん底期だったと思う。大人になってからの社畜時代・パワハラによる適応障害と比較しても、高校時代のほうがしんどかった気がする。生きる世界が狭かったから、息苦しかった。

「自己肯定感」という言葉はまだ流行っていなかった気がするけど、まあボロボロですわ(笑)。


【挫折②大学受験】行きたくない大学の指定校推薦を受けて進学することに

高校受験に失敗したから、大学受験こそは成功させるぞ。絶対に第一志望の大学に受かって、みんなを見返して人生を逆転させるぞ。恥ずかしいけど、ほんとうにずっとそう思って息巻いていた。

「悔しいから見返したい」という負の原動力だけで、よく生き延びていたなあと思う。ネガティブパワーの振れ幅ってものすごくて、どんなに高い目標だとしてもがむしゃらだった。当時の勢いは、いい意味でも悪い意味でもいまはとっくに失っている。

高校受験に落ちた直後は、部活なんてやらない!3年間ずっと勉強するんだ!って思っていたけど(これはこれでめちゃくちゃ極端な考え)、中学時代に同じパートだった友達(保育園時代からの幼馴染)に誘われて、迷うことなく吹部に入部する。結果的に、吹部のメンバーには救われたことも多く、人生で熱中できたことのひとつなので、後悔はしていない。

吹部は、最後の大会(夏コン)が終わるのが運動部よりも遅い。お盆休みも部活漬けで、文字通り汗水垂らしながら朝から晩まで練習して、大会を迎える。悔しさも嬉しさも一緒に味わえる仲間がいて、かけがえのない最後の夏の思い出になった。中学高校と6年間続けた吹部人生も幕を閉じた。

吹部を引退し、これから受験勉強に本腰を入れようというタイミング。短大・専門進学が半数以上で、大学進学もほとんどが推薦組という状況で、推薦を使わずにセンター試験と各大学の試験のみで挑もうとしていた。

担任と進路指導と面談して、推薦は受けません、○○大学を目指します!みたいなことを伝えたんだと思う。でも、受験で受からないと思われたのか(たしかに高望みしていると思われてもしかたない偏差値の差だったと思うけど)、指定校推薦を勧めてきてね。ほぼオール5に近かった内申点を無駄にするのはもったいないと言われてね、たしかにそれはその通りなんだけど。「受験で見返したかった」私はなかなか受け入れられなかった。

そのときに指定校推薦で勧められたのが、関西にある某女子大の英文学科で、まじで信じられん!!となった記憶がある。当たり前のように東京の大学に行くもんだと思っていたから。長野から絶対に出る!と決めていたけど、まさか関西は…遠いし…とか、また女子大は嫌なんだけど…と断る理由ばっかり考えていた。

(私の学年は人数が少なかったので、指定校推薦の枠がかなり余っていた。その中でも翌年以降にも枠を残したかった大学を、偏差値も学科もちょうどいいと思って勧めてきたのではと推測している)

両親に指定校推薦の話したら、ふつうに賛成されてショックだった記憶はある。関西遠いし引き留められるかなという気持ちと、悔しさを抱えてることは伝わっているはずだと思っていたから。でも両親からすると、どんな方法だとしても確実に大学に受かることのほうが大事だと思ったんだろうな、いまなら理解できる。浪人も絶対に許さないと反対されたし。だから仮面浪人する決断をしたんだけどね。

ちなみに、今年両親と会ったときにたまたま大学受験のときの話になった。「指定校推薦を受ける代わりに仮面浪人する」と言い出した私とごちゃごちゃと夜通し話をしていたらしくて、高校3年間で唯一遅刻したらしい。そのせいで皆勤賞を逃して精勤賞になってしまったとのこと。ごっそり記憶から消えていた。

とにかく、当時の私からすると、それはそれは不完全燃焼で、挑戦する前に諦めるなんて、ありえないと猛反発していたんだと思う。もう覚えていないけど。両親は決めつけるようなことをしちゃったと、大人になってから申し訳なさそうに言ってきたけど。

受験するんだと息巻いていたのに、指定校推薦で早々に進路が決まり、なかなかにダサい結末だった。ひとつも悪いことなんてしていないのに、後味の悪さがずっと消えなかった。


仮面浪人してまで得たかったもの

大学に入学した後も、「私の居場所はここじゃない」と思い続けていた。つらかった。自分の負けを認められなかった、受け入れられなかった。「高望みばっかりでプライドが高い」と祖母からよく言われていた。まじでムカついたけど、図星だった。悔しくて、見返したくて、頑張るしかなかった。頑張り方を間違えていた…と思うけど気づけなかった。引き返せなかった。

Twitterで「仮面浪人垢」を作った。大学の友達と繋がるためのリア垢を作る前だった。予備校に通う浪人生、宅浪で勉強している人、同じように大学に通いながら仮面浪人をする人。同じ傷を舐め合い、孤独を励まし合いながら、受験生活と大学生活の両立を乗り切った。

Twitterで見かけた仮面浪人生の中には、必修授業が少なく、最低限の単位のために大学に通うだけで、ほとんどの時間を受験勉強に充てている人もいた。実家暮らしで家事も親がやるので時間もたくさんあり、友達からの誘惑も少ない人もいた。

一方で私はというと、1年生で受けなきゃいけない必修授業があまりにも多かった。単位を落としては本末転倒だ。そして、アパートの一人暮らしではなく、大学寮に住んでいた。ひとりずつの個室だったけど、キッチンスペースで一緒にご飯を作って食べたり、課題を一緒にやったり、お風呂に一緒に入ったり。

完全にひとりの時間を捻出するのは、物理的にも心理的にもハードルが高かった。睡眠時間を削るしか選択肢がなく、大学でできた友達との仲が深まれば深まるほど、このまま大学生活を楽しむほうがいいんじゃないかと誘惑が増えた。

サークルや部活にも入らず、バイトもせず、大学の授業と受験勉強だけしていたのか…いまとなっては記憶も曖昧なのだけど。赤本を持ち込んで、図書館によく通っていた。模試もTOEICも受ける変な大学生だった。

高校3年生のときに掲げた第一志望の大学も学部も変わらず、センター試験と複数学部の試験を受けた。夢にまでみたその大学での大学生活は叶わず、受験で訪れた日が最初で最後となった。「不合格」の現実を突きつけられて、やっと学歴との戦いが終わった…と思っていた。

でも終わらなかった。終わりの始まり。

仮面浪人までして得たかったもの、それは「学歴」だけじゃなかった。

いわゆる「成功体験」がほしかった。「自分の努力が、手に取れるカタチで実った」という経験が、肩書きが、達成感が、ほしかった。周囲に証明できるような「絶対的な武器」を身につけて、堂々と見せつけて歩きたかった。そうすれば、認めてもらえると思った。

悔しさを糧に這い上がるやり方しか知らなかったから、モチベーションの保ち方が拗れた。「負け組」のレッテルを剥がしたくて必死だった。現在の自分に満足できなくて、過去を振り返っては否定を繰り返し、変わりもしないタラレバばかり考えた。

高校受験に落ちて、人生で初めての最大の挫折をしたときに、ほんとうは家族にもっとなにかしてほしかったんだと思う。母も父も祖母も、私が望む言葉はくれなかったんじゃないかなと。具体的にはもう思い出せない、でもたしかにそのとき痛かったんだ。傷を治さないまま、ひとりで戦いに行き、新たな傷をつくっては、平気なフリをして、もっと強くならないと、と意地を張り続けた。

私がいちばん見返したい人は、祖母だった。


【やっと掴んだ第一志望】新卒就活で初めて味わった達成感

仮面浪人をしていることは誰にも言っていなかったので、大学2年生になってもなにも変わらない、大学1年生のときの日常が延長しただけだった。受験勉強で使った赤本は紙袋に包んで、ほかの燃えるゴミと一緒に大きなビニール袋に突っ込んだ。これで私の受験勉強はほんとうに終わり。

幸いにも大学生活は友達にも恵まれて、ロサンゼルスと上海に留学にも行き、英語と中国語の検定勉強も欠かさず、バイトもかけもちし、希望していたグローバルビジネスのゼミに入って英語での卒論も書き上げた。小さな不満はあれど、よい思い出として残っている。

もし仮に大学生活もうまくいかなかったら、私はほんとうに人生をやめたくなっていたと思う。どうせうまくいかないとわかっていても、プライドは捨てきれず、自分への期待もやめられず、足掻くしかなかった。でも、よかった、いまでも仲のいい親友と出会えたことが救いだ。

大学3年生の終わり、合同説明会で幕を開けた新卒就活。私は2017年卒だけど、就活当時はまだまだ大手安定志向が強く、一生に一度きりの「新卒カード」を無駄にしてはいけないという風潮もあった。一生働く会社を決めるわけじゃないけど、少しでも長く働けそうなところを。

いまほど転職は当たり前、そもそも正社員がすべてじゃない、仕事は人生の中心じゃない、という空気に変わる前だったと思う。私たちの親世代は終身雇用ドンピシャで1社に長く勤めることが正義で安心安定だった。その環境で育ってきて、いざ自分が就活をするときに影響を受けないわけがない。とはいえ、時代の過渡期にいることは間違いない。2018年が副業元年だったらしく、2020年からコロナ禍でリモートも当たり前になり、これからもさらに変わっていくよね。

時系列を大学4年生に戻そう。なにも疑わずに、就活のレールに乗った。合同説明会も行ったし、リクナビ・マイナビサイトからエントリーシートを提出して、説明会・グループ選考・面接と、来る日も来る日もリクルートスーツを着て、自分の未来のために行動した。

就職こそは東京に!という思いが強かったので、大阪での選考だけでなく、毎週のように夜行バスで東京にも行き来した。大手企業しか受けない友達を横目に、やや就活ハイになっていた私はせっかくの機会だからたくさんの企業を見るぞ!と意気込んでいた。ただただクソ真面目な私。

結果的に6月上旬に「第一志望」だった前々職の企業から内定をもらって、無事に就活を終えた。最終面接で落ちかけて、リベンジ面接の場で内定を言い渡されて、役員と握手したことをいまでも覚えている。あたたかみのある光が差し込む会議室が印象的だった。

やっと、自分の手で掴んだ「第一志望」だった。誰かに言われたわけでも、選ばされたわけでもない。自分で決めて選んだ道だった。目標や願いを叶えて成功してきた人たちは、こういう気持ちを味わって生きているんだと、少し羨ましくなった。私ももっと早くそっち側になりたかった。


学歴コンプレックスの「執着」を手放せた理由

内定式や入社式など、最初の頃しか学歴の話はでなかった。私が関西の女子大を出て、東京に来たことで、「関西の大学」というレッテルだけで済んだことも幸いだった。「長野出身なのになぜか関西の大学に行き、就職で上京した」人という、移動歴の多さでむしろ自己紹介は盛り上がり、救われた。

働き始めて学歴コンプレックスを刺激されたことはほとんどない。目の前の仕事に追われるうちに、それどころではなくなった。関わる人がどの大学を出ていても関係ないということもわかった。

時は流れ、新卒から5年間働いた「第一志望」の企業を退職した。手放してようやく気づいた、学歴も第一志望もどうでもよかった。上場企業という世間体もいらなかった。がんじがらめにしていたのは紛れもなく自分自身で、窮屈だった鎧を脱いでやっと身軽になれた。

「第一志望の道に進めば、人生が絶対に成功する」なんてこともなかった。その思い込みが間違っていたことに気づいた。就職も退職も、自分で決めたからこそ、身を持ってわかったことなので後悔はない。

「見返したい」「悔しい」「認められたい」他人からの評価に振り回されて生きてきた。ただの「執着」だった。過去に失敗した自分を赦せなかった。

いまも100%赦せているかというとそうじゃないんだけど、大事なのは第一志望かどうかでも、失敗か成功か極端なことでもなく、変化の波を楽しく自分らしく乗りこなすことなんじゃないかなあと。ちょっと前までの当たり前や正解の価値観がどんどん崩れているのに、過去の経験だけにしがみついて山を登るほど怖いことはないのでは。「いまの自分」に素直な選択をしていきたいね。

「執着を手放せた」もうひとつの理由は、見返したい対象の祖母の認知症が進行したからだ。年に数回帰省する私の顔を見ても誰だかわからなくなる瞬間も増えた。私が新卒で東京の上場企業に就職したことも(新聞の株価の欄を見ては嬉々としていたことも)、関西の大学に進学したことも(関西に遊びに来たことも)、高校受験に失敗したことも、なーんにも覚えていないからだ。改めて文字にすると悲しくなって困っちゃうなあ…(笑)。

他人と比較されては、毎日のように否定の言葉を浴びて育ってきて、自己肯定感も空っぽで、悔しさをバネにするしかなかったのに。その強い気持ちがなくなっちゃったわけで、ようやく「見返したい」という負の原動力を手放したというか、使い切って果てたというか。虚しさが残って、へたりこむ。

「負けず嫌いですね」とか「向上心がありますね」とか、褒められる機会もそれなりにあったけど、素の私はたぶんそういう人間ではなくて(笑)。競争は嫌いだし、いまがよければそれでいいと思っているはずなのに。現状維持のままでは不安で、誰にも認められないと思ったから、動くしかなかったんだと思う。


2回の挫折を経験しなければ出会えなかった大事な人たち

やれ挫折だ、人生失敗だ、ネガティブな振り返りが多かったですが、あのときの経験がなければ、出会えなかった大事な人たちがいるので、いまとなってはそれも私の人生なんだと思えています。前向きに思えるまでにも、約10年かかったということです。

人生どん底期の高校時代に出会ったBUMP OF CHICKENには、いまでもずっと救われていて、私の人生を変えたといっても過言ではない。順調にハッピーに生きていたら、彼らの音楽や言葉は届いていなかった。

BUMP OF CHICKENに出会っていなかったら、「BUMP好き」としてTwitterを始めていなかったら、いまの彼氏と出会っていない。福岡に住む親友とも出会っていない。

第一志望の公立高校に進学していたら、きっと関西の女子大に進学することもなかっただろう。大学時代からいまに至るまで仲が続く親友にも出会えていなかっただろう。長野出身の私が、佐賀と秋田出身の親友と、兵庫の大学で出会うなんて奇跡に近い(この情報で身バレしたらおもろい←)。

そして新卒で出会った親友レベルの同期にも、感謝しかない。退職後も関係が続いていてありがたい。高校も大学も違う道を進んでいたら、就職先もまったく違う選択をしていた可能性がある。仮面浪人じゃなくて浪人していたら、同期にはなっていなかった。

過去の選択がひとつでも違うものだったら、いまの私はいない。選べなかった過去を想像してもどうしようもないので、これから選んでいける未来に自分の足跡を残し続けるしかない。

人生の伏線回収っぷりをつくづく感じる。


最後に、関連記事も見てね~

書き始めたら感情が昂ってしまい、気づいたら8,000文字超の文字量になってしまいました!

いやあ~~学歴コンプレックスを晒すの思いのほか勇気が必要でした。30歳にもなって、どれだけ過去を引きずってるんだよって話なんだけど(笑)。過去の自分に縛られすぎずに、定期的に執着は手放していきたいものですね。「変わること」は悪いことじゃない。

ここまで読んでくださって、ありがとうございました!


「学歴コンプレックス」に関連する私の生い立ちや考えが反映された記事もぜひ見てもらえると嬉しいです!!

💌BUMP OF CHICKENに関する記事

💌私の人格形成に関わる記事

💌挫折を経て前々職を退職した後に出会った、SHElikesでの振り返り記事

💌「置かれた場所で咲きなさい」の価値観を手放せた本の記事


いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集