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【沖縄戦:1945年7月25日】奄美諸島徳之島の守備隊、国民兵指導者幹部訓練おこなう 米軍、8月初旬の対日原爆投下を指示

奄美諸島の沖縄戦

 奄美諸島の徳之島の守備隊はこの日、国民兵指導者幹部訓練をおこなった。ここにおける「国民兵」とは具体的に何なのか不明瞭であるが、国民義勇兵役法における義勇召集兵のことをいい、これにより編成された義勇戦闘隊の指導者や幹部に対する訓練ではないかと思われる。
 そもそも奄美諸島はリアス式海岸の波穏やかな良港が多く、海軍が注目していた土地であった。このため第一次世界大戦後に小笠原の父島や台湾の澎湖島とともに奄美大島に要塞建設がすすめられ、1923年に陸軍の奄美大島要塞司令部が開庁した。
 44年3月には奄美大島要塞司令部は第32軍に編入された。7月には独立混成第64旅団(旅団長:高田利貞少将)が編成され、その後徳之島に司令部を構えた。
 独立混成第64旅団は5月に甲号戦備を発令し、米軍の上陸に備えたが、最後まで米軍の上陸はなかった。とはいえ奄美諸島各地には震洋隊など特攻艇部隊や特殊潜航艇部隊が配備され、九州から発進した特攻機はじめ航空機による航空作戦の中継基地としての機能を果たすなど、沖縄戦を考える上で重要な位置を占める。それもあって奄美諸島一帯は米軍機の空襲にさらされ、特に沖縄での米軍の飛行場建設がすすむと、沖縄から発進した米軍機が奄美諸島一帯を襲った。
 その他、奄美諸島周辺の海域には米軍の潜水艦が潜航しており、輸送船を襲うなどしていた。学童を乗せた対馬丸や部隊を乗せた富山丸などが米潜水艦に攻撃され沈没しているが、奄美の島々に学童の遺体が流れ着いたり、奄美大島の軍病院に負傷者が運び込まれるといったことがあったといわれる。
 旅団は奄美から沖縄へ武器弾薬などを補給しようと試みるが、成果はなかった。一方で沖縄から脱出した兵士が相当数、奄美諸島の与論島や沖永良部島に流れ着くこともあった。また大本営連絡のため第32軍司令部を脱出した森脇中尉や神参謀なども奄美諸島を経由して本土帰還をはたしている。
 第32軍壊滅後、独立混成第64旅団は九州の第16方面軍の指揮下に入り、米軍の九州侵攻に備えた。国民兵指導者幹部訓練はそのなかでの措置と思われる。最終的に45年9月7日の降伏調印式に高田旅団長が出席し、奄美大島の沖縄戦は終わった。以降、米軍政下に入り、サンフランシスコ講和条約以降もしばらく沖縄とともに米軍統治下にあった。

ニュースハイライト「奄美大島 本土復帰へ」:NHK戦争証言アーカイブス

奄美諸島の空襲について 未来に残す 戦争の記憶:Yahoo!JAPAN

原爆の対日使用指示

 この日(24日ともいわれる)、米大統領トルーマンの承認のもと、陸軍長官および参謀総長が空軍司令官に原爆の対日使用を指示した。投下予定日時は8月3日ごろ、投下予定地は広島、小倉、新潟、長崎であった。
 陸軍長官スチムソンは7月16日に原爆実験成功の第一報をうけとり、トルーマンに報告した。17日にはチャーチルにも報告したという。トルーマンは24日、ソ連のスターリンに「これまで戦争に使用されたことのないような強力な兵器を造った」とさりげなく告げ、スターリンは「効果的に使われるように望む」と特別の関心を示さぬように答えた。
 ソ連には6月2日、原爆製造の進行状況が伝わり、9月ごろ全ての製造情報が伝わったとされる。
 なお8月9日の長崎原爆投下時、原爆を投下したB-29が原爆投下後、沖縄の読谷飛行場に緊急着陸している。

未公開の映像 広島原爆:NHK戦争証言アーカイブス

参考文献等

・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
・戦史叢書『大本営陸軍部』〈10〉

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1945年8月6日 広島の原爆投下直後、上空に上がるキノコ雲 手前は瀬戸内海 米軍撮影:朝日新聞デジタル2017年8月6日