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山本義隆『磁力と重力の発見2 ルネサンス』読んだ

山本義隆『磁力と重力の発見』の続き。

第2巻は中世の終わり、15世紀中期から。

中世が終わり、スコラ学はいまだに権威ではあったが、経験重視に科学が舵を切りつつあった時代である。
それゆえスコラ学はクソミソに叩かれ、それが暗くて時代遅れの中世という誤ったイメージにつながった。その辺の事情がよくわかる。

ニコラウス・クザーヌス

クザーヌスは中世の終点とも近代の始点ともいわれる。貧しい船頭の息子から、バーゼル公会議に招かれるほどの高位聖職者に駆け上がった。

無限とは中心がない。地球が中心とはいえない、運動していると考えるほかない。天体を相対化、天体間の働きの相互性。地動説や万有引力の法則の萌芽がみられる
神の真理には人間は絶対に到達できない。人間は人間に可能なやり方で真理を探索するほかない。これが知的怠慢ではなく、知的探索と信仰を分離している。

数の重要性の指摘。キリスト教社会では目新しい。数がなければ比較も理解も区別も測定もありえないとした。貨幣経済の浸透の影響もあるだろうか。

磁力を定量的に把握する実験のアイデアも提案した。これは磁力をいかに利用するかという問題設定にもつながるアイデアだったが、実行されるのはずっとあとになってのことである。

ルネサンス期に入って近代科学へと単線的に進んでいくわけではなく、魔力としての磁力という観点を経由した。近代科学の概念や方法が、一見非科学的にも見える前近代的観念から育まれたのは興味深い。

ピコとフィッチーノ

ルネサンス期に魔術、とくに自然魔術が復活する。遠隔力としての磁力を把握するうえで、魔術の復活は後退ではなく前進であった。

15世紀イタリアでは、世俗権力と教皇庁の抗争が絶えず、社会が荒廃した。その間隙を縫って、都市国家や商品経済が発達した。ここにキリスト教会による統制が緩み、魔術が復活する背景となったのである。

東ローマ帝国滅亡にともない、ビザンチンから多くの学者がイタリアに渡ってきた。彼らの神秘主義的な新プラトン主義、ヘルメス思想の影響も魔術の復活に大きく寄与した。
コジモ・デ・メディチもその影響を受けたといわれ、プラトンアカデミーを創設した。その中心人物が言うまでもなく、フィッチーノやピコ・デラ・ミランドラである。

ヘルメス思想の影響はことのほか大きく、コジモはフィッチーノに『プラトン著作集』を後回しにして『ヘルメス文書』を翻訳するよう要請したという。さすがルネサンス人文主義って感じである。古代人の書き残したものは正しく尊ぶべきものとまだまだ無批判に信じられていた時代なのだった。

コペルニクスにしても、ルネサンス人として地動説を新たな理論として提出したのではなく、ピタゴラス教団の一員フィロラオスの自然論の再発見として提唱したのであった。

魔術思想が影響を持ったのは、ルネサンス期における人間中心主義(今風にいえばメリトクラシーか)の風潮のせいでもある。魔術を身に着けて、自然や社会を支配した、いい生活をしたいという極めて人間的な欲求に駆られたものであった。恋愛工学みたいなもんかな。

当時の北イタリアは書籍・印刷業の先進国であり、出版点数でも群を抜いていた。つまりピコやフィッチーノが復活させた魔術思想は多大なる影響力をもった。

そもそも魔術はざっくり二種類に分けられ、悪魔的なものと、そうでないものである。悪魔的でないとは、自然的理由で説明されるものである。キリスト教会はいずれも異端として抑圧していたが、ルネサンスでは後者は自然魔術として、中立的で容認しうるものとしたのが新しかったのである。

まあ自然的理由といっても磁力は北極星から与えられるとかで、あまりトマス・アクィナスの時代と変わっていないのだが。ただし天体から与えられた力という概念を、フィッチーノは琥珀などにも押し広げたのであり、万有引力の発見までそう遠くはない気もする。

アグリッパの魔術

15世紀に復活した魔術思想を16世紀に集大成したのが、マルティン・ルターの同時代人コルネリウス・アグリッパである。
アグリッパは『オカルト哲学』で古今東西の言い伝えを細大漏らさず拾い集めた。

アグリッパもフィッチーノ同様、というかフィッチーノの影響のもと、天上世界と地上世界の事物の相互作用を論じたのだが、磁力や静電気力のような明白な遠隔作用がその支えとなっていたのである。
そして魔術であるからには、自然や宇宙のエネルギーは学習すれば人間は利用できると公然と語ったのである。

彼らの思想は近代科学にだいぶ近づいているが、しかしまだまだ古代の言い伝えを無批判に信じているところがあり、もう少しの紆余曲折を経なければならない。

大航海時代と磁場の発見

大航海時代になると、地球は無限大の平面であるといった、古代人の言い伝えに嘘が多いことがばれる始める

言い伝えのひとつに、遥か彼方のインドに磁石の山があり、それに近づいた船は鉄板をさらわれて沈んでしまうというものがあった。ここでいうインドとは、西インド諸島と同じで、めっちゃ遠くぐらいの意味である。

当時の人はこれを真に受けていたのだが、コロンブス以降、この磁石の山は北極方面に置かれるようになったことが、当時の地図からわかる。
これはもちろん磁気羅針儀による知識だが、これは北極星などの天から磁力を得るという発想とは対極である。

偏角

またこのころになると偏角(日時計からわかる子午線と磁石の指す北とのずれ)がゼロではなく、しかも場所によって異なることが知られていた。
特に日時計や羅針盤の製造職人には15世紀半ばには知られていたという。

マゼラン隊が地球一周を終えて、インドや西インドに向けてのビジネスが本格化するにあたり、より安全確実な航海術が求められるようになると、真の地磁気の研究というべきものが発生した。

偏角についての研究が深まるに連れて、磁気の牽引点は地球上にあるという認識に近づいていく。
決定的な転換点となったのはメルカトル図法で有名なメルカトルが、1546年、磁極(polus magnetis)という概念を提唱したことであった。さらに偏角の観測値から磁極の位置を推定した。ここに神秘の磁石の山と、科学的な磁極が重なることになる。

1600年ギルバートによる地球が磁石であるという発見までもうちょっとである。

伏角

偏角の発見は、船乗り、職人、軍人などが新しい知の担い手として台頭してきたという意味でも画期的であった。

伏角(水平面と磁針のなす角度)がゼロではないという発見は、ロバート・ノーマンによる。ノーマンは航海用機器の製造販売を手掛けていたが、1581年『新しい引力』にて伏角の精密な測定法と考察を公表した。これはラテン語ではなく、英語で書かれたことが重要である。

ノーマンは磁気羅針儀を作成すると磁針がわずかに俯くことに気づいており、その性質を実験的に確認したのである。新たな発見の多くは、実際に目撃されていたが見過ごされていたというケースが多いのであろう。

ノーマンはその実験のデザイン、装置の製作、観察結果を詳細に記載して公表したのだった。ラテン語ではなく、職人や技術者が読める英語で書いたのである。科学の担い手が変わっていく様子がここでも見られるのである。
スペインを猛追してヘゲモニーを獲得しつつあった英国としても、技術者たちが科学的アプローチを身につけることは歴史的に重要であったと思われる。

またノーマンは磁石の産地と、色や強さの違いについても言及しており、コロンブス以来わずか1世紀でヨーロッパ人の活動範囲が大きく拡大したことが見て取れる。
さらに古代人の言い伝えを無批判に受け入れてきた先人たちを批判するとともに、経験と実験に基づく新たな知の技法を宣言した。

ノーマンは伏角だけでなく、地球磁場についても素晴らしい考察をしている。磁針はある牽引点を向くのではなく、なんらかの力によって一定方向に整列させられるという、磁気双極子が均一な磁場の中で受ける力の性質について、初めて正しい理解を与えたのであった。

牽引点なるものが存在しないことは、偏角の変化に規則性がないことから想定されていた。そのためスペイン・ポルトガル退出後、シーパワーを握らんとした英蘭は世界中で偏角を測定していたのであった。英国人の三浦按針を乗せたオランダ船が豊後に漂着したのには、こうした時代背景があった。

ロバート・レコード、ジョン・ディー

ノーマンのような技術者が堂々たる成果を発表できたのには、それだけの背景があった。

16世紀後半にはロバート・レコードが英語で技術者向けに数学の教科書を書いていた。
またハンフリー・ギルバートが大学ではない、英語で航海術、砲術を教えるアカデミー創設をエリザベス一世に献策していた。

このころにはスコラ学は衰退しつつあり、英国の学問の中心はオックスブリッジからロンドンに移りつつあった。
こうした風潮を後押ししたのは大陸帰りの魔術思想信奉者にしてエリザベス女王のブレインであったジョン・ディーだ。オックスブリッジは大陸の大学と比べても、いっそう守旧的であったという。だから数、定規、コンパスの扱いに長けた技術者を擁護したのである。三浦按針が独学で幾何学や航海術を学べたのはこうした背景があったからだと思われる。

ディーはピュタゴラス的、新プラトン主義てきな数秘術的思想も展開しており、世界は数学的に把握できるはずであるとした。この思想の正しさはニュートンらによって証明されることになる。


16世紀の文化革命

こうした風潮は大学が保守的であった英国で顕著だったが、他の大陸諸国にもみられた。

例えば、医師の世界では蔑まれていた理髪外科医のアンブロワーズ・パレが、従軍外科医としての豊富な経験から外科学の知見を一新した。大学ではガレノスの医学が教えられていた時代である。

オランダでは共和国軍の技術者シモン・ステヴィンは力学と数学の教科書をオランダ語で出版し、俗語での教育を訴えた。

もちろん聖書をドイツ語に訳したマルティン・ルターも忘れてはいけない。

このころには印刷技術は高度に発達し、出版業者は利潤を求めて印刷した。そうするとラテン語よりも俗語のほうが儲かるのだった。こうして知識が大学人以外にも流通するようになった。

また時代が生み出す新しい知識に古典語がついていけなくなったとか、イスラム勢力の衰退によりナショナリズムが高まり自国語尊重につながったとか、ラテン語の後退には様々な理由がある。

ビリングッチョとアグリコラ

磁力に関して自国語で書かれたものとして、重要なのはビリングッチョの『ピロテクニア』である。金属や鉱石、その精錬法、冶金業など、火を用いる技術全般にわたる技術書である。
産業の発展や戦争における重火器使用により、金属の重要性はさらに高まっていたのである。

鉱工業の拡大は、ギルドに閉じ込められていたものを超える知識や技術を要請した。地質学の知識、動力源や水力源やインフラの整備、坑夫の確保と健康管理などなど、周到な計画、大規模な資本が必要なのであった。『ピロテクニア』はこの要請に応えたものである。

鉱山業・冶金業でもう一つ重要な著作は、アグリコラの『メタリカ』である。ドイツ人のくせにアグリコラ(ラテン語で農夫)などと名乗っているので、現場の人であったビリングッチョとは異なり、大学で学んだ人である。

ライプツィヒ、ボローニャ、パドヴァで学んだのち帰国、ヨアヒムスタールで医業の傍ら、鉱物学、地質学、鉱山業の実地について学んだ。ケムニッツに移り、主著『デ・レ・メタリカ』を書き溜め、死後に刊行された。

『メタリカ』は大評判で、各国語に翻訳され、ポトシでは教会の祭壇に祀られていたという。

『ピロテクニア』も『メタリカ』も、ルネサンスで見られた魔術的要素がほとんどなく、経験やフィールドワークから得られた知識で綴られているのが画期的であった。
とはいえ彼らとて時代から完全に超越していたなんてことはなく、鉱脈は埋められた植物であり、つねに地中で生長していると考えていたのだが。

彼らの著作にいて磁石は、坑道でのコンパス、鉄鉱石の試金などとして登場する。
しかし、磁石がヤギの乳やニンニクで浸されると磁力を失うとか、古代以来の迷信も記載しちゃっている。。。

つまり極めて経験論的で功利主義的なビリングッチョやアグリコラでさえ、磁力の遠隔作用の前では、その実証精神を一挙に後退させてしまうのだった。

パラケルスス

16世紀の実地医家パラケルススは、アグリコラと同じく鉱山地帯に育つ。産業資本家のエートスを共有していたアグリコラと異なり、どちらかというと農民やプロレタリアに近く、神秘性が濃い。

パラケルススの医学は、体液のバランスの乱れに原因を求めたガレノスの病理学を斥け、疾病を外的要因によって生じた身体の局所的機能不全と捉えた。これは彼の経験論的手法から出てきた発想だろうが、魔術的な要素もある。体内の錬金術師は毒を選別できるが、その力が弱いときは毒がたまって腐敗が生じる。
こうして全ての病気には固有の原因があり、体内の錬金術師にかわって薬を精製してやればよいという発想につながっていく。これは近代医学の発想とほぼ同じである。

パラケルススは磁力にも並々ならぬ関心をもっており、磁石で毒をしかるべき場所に移動させる磁気治療も試みている。

パラケルススはコペルニクスとほぼ同時期に死んでいるが、死の直後に論争を巻き起こしたのはパラケルススのほうであった。彼のヘルメス主義の影響を受けた医療の噂は死後に広まっていった。
ヘルメス主義の医学への影響はことのほか大きく、17世紀前半最大の医学的発見とされるウィリアム・ハーヴェイによる血液循環であるが、ハーヴェイもヘルメス主義からの影響を隠さなかった。

パラケルススの思想は17世紀に武器軟膏につながっていく。これは傷ではなく、傷の原因となった武器のほうに軟膏を塗れば、傷も治るという奇怪な治療である。
言うまでもなく、パラケルススの磁気治療にならって遠隔的に治療しようとしたものである。

この滑稽かつ異様な治療法は当時もかなりの批判を浴びたが、批判者の論拠の多くは遠隔作用などありえないというものだった。もちろん遠隔作用があるのを知っている我々からすれば、その批判も誤りなのだが。

古代人の言い伝えにも、スコラ学の論理にも間違いが多いことが発覚しつつあった時代だったが、それにかわる新しい科学の論理が見つかっておらず、その位置に魔術的なものが入り込んだのだった。

ただし天体が物体に影響を及ぼすとした占星術のように、万有引力への道を開いたものもあった。

後期ルネサンス

ポンナツィとスコット

15世紀に復活した魔術思想は16世紀には変貌していく。

例えばイタリアの哲学者ピエトロ・ポンナツィは著書で、奇跡や魔術は自然的原因に還元されうると繰り返し、幅広く読まれた。磁力についても、原因はわからないが、超自然的なものではないとした。

イギリス人プロテスタントのレジナルド・スコットは、ダイモン魔術を否定し、魔女狩りを厳しく糾弾した。しかしダイモンによらない自然魔術は認めていた。

自然現象を信仰から演繹するスコラ的学知(scientia)に対して、隠れた力の性質を経験や実験から帰納的に認知し操作する技としての自然魔術がoccult scienceとして置かれたのであった。

こうして16世紀後半にはルネサンスの魔術思想は「自然科学の前近代的携帯」とでも呼ぶべきものへと大きく変貌を遂げる。この新しい魔術思想を体現したのがカルダーノとポルタであった。

ジェロラモ・カルダーノ

ミラノ生まれのカルダーノは今では数学者として有名だが、ポンナツィの流れを汲む 医師でもあった。また哲学、占星術、神学、機械技術、賭博(確率論)などにも関心をもち、これぞルネサンス人という奔放な知識人であった。

彼は磁力と静電気力が根本的に異なることを実験的に見抜いた。また魔術師層の中に機械論や原子論の還元主義を密輸入した。この枠組みはギルバートへと引き継がれたのであった。

船乗り、職人、軍人らによって観測の対象とされてきた磁力は、魔術師たちにとっては研究対象であった。この2つの流れが近代科学を作ることになる。

デッラ・ポルタ

ポルタはナポリの貴族に生まれ自宅で教育を受け、生涯大学アカデミズムとは無縁だった。劇作家としても才能を発揮しており、これまたルネサンス人って感じだ。

彼の主著『自然魔術』じゃ16世紀後半から広く読まれていた。各国語に翻訳されベストセラーとなり新興都市市民によく売れたと思われる。その内容は生活百科事典ともいうべき内容で、実践や実利を重んじる官僚、医師、職人、商人といった人達が読者であった。

ピコやフィッチーノのように魔術思想をキリスト教と折り合わせようとはしていない。宗教色は希薄である。16世紀後半には、宗教改革などもあり教皇庁は異端的な魔術への監視を強めていたのである。
そのような時代に宗教と魔術の関連を語ることは危険極まりない行為だった。
また主な読者層も、宗教よりも世俗的生活に関心を持っていた。

したがって『自然魔術』はむしろ百科事典とか博物誌のようなものであった。植物栽培、ワインの保存法、処女膜再生法、動物の捕まえ方などなど。

しかし本書の重要なところは、自身が実験的に確かめたことについての記載だ。磁石がニンニクによって磁力を失わないことを史上始めて報告したのはポルタであると考えられる。
また小学校でよくやるピンホールカメラの実験を報告したのもポルタである。ガリレイ式望遠鏡について初めて記載しのもポルタである。
系統的に実験した様子はなく、ただただ実験が好きだったようである。

磁力に関しても実験を重ねている。ペレグリヌス、ビリングッチョ、カルダーノら先人の発見の正否を着実に確かめている。
先述のニンニクだけでなく、磁石が婦人の貞節を見分けるとか、山羊の血で磁力が復活するとか、そういうバカバカしい言い伝えも愚直に実験で否定している。

ポルタは新たな発見もしている。熱による磁力喪失、磁気誘導も遠隔作用であること、磁力が距離と逆相関することを明言し「力の作用圏」という概念を創出したこと、などなど。

ポルタは自分の手の内を惜しげもなく晒しており、もはや秘教ではなく科学である。
もっともそのせいで彼の発見の手柄のいくつかウイリアム・ギルバートに横取りされることになるのだが、、、


おしまい。

三巻は地球が磁石であることを見出したギルバートからです。


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