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松里公孝『ウクライナ動乱』其の二 マイダン革命、クリミア併合、ドンバス戦争

昨日に続いて『ウクライナ動乱』の読書ノートです。

本日は、マイダン革命に至る流れと、その後のクリミア併合とドンバス戦争開始までです。日本語のメディアには書いてないことがけっこうあります。

わかったのはウクライナ南東部の分離主義には温度差があったということ。

最も活発だったのはクリミアで、またロシアとも相思相愛だった。

他の南東部の中ではドネツク州とルハンスク州の分離主義が最も過激だった。これら以外はマイダン革命の嵐の中で萎えていった。

本書では特にドネツク州について詳述している。ドネツクの中部は炭鉱が盛んで、機械工業や冶金業で栄えた北部や南部とは風土が違ったようだ。つまりドネツク中部では欧州に靡くような意識高い系が少なかったということである。
もっとはっきり言えば北部クラマトルスク、スラヴャンスク、南部マリウポリの人々は、ドネツクやマケエフカの人々を、荒くれ者の炭鉱夫と見下している
さらに大学都市であったハルキウの人々はドネツク州を一括りにそう見ていたようである。

またプーチンはぎりぎりまでクリミア併合について現実的に捉えていなかった。だからドンバスをロシアに編入するなんてことは、2014年ごろはもちろん想定していなかったのだった。

マイダン革命まで

本書ではマイダン革命について、背景、主たる事件と登場人物について大量かつ詳細に記述されるので、お腹いっぱいになれること間違いなし。

ウクライナではさまざまな政治的な対立軸があったが、最初は親露・親欧は東西対立と結びついていなかった。多様な対立軸が一致していくと2つの集団に完全に分化してしまい、その亀裂は埋めがたいものとなる。
2つの対立軸だけでも4つの立場がありうるが、二項対立に落ち着くと分断は決定的になる。

東部では独立当初は共産党が強かった。その共産党を切り崩すのに東部諸州のエリートは、東部はウクライナを養っているのに、中央政府からしかるべき待遇を得ていないという小ロシア主義に似た論法を用いた。豊かな地域がこれ以上貧しい地域を養いたくないと抵抗するのは分離紛争あるあるだ。

クチマ政権下では順調な経済成長を遂げるが、オレンジ革命がこれにブレーキをかけ、また外国からのローンに頼った個人消費主導の成長だったため、リーマンショックで大打撃を受けた。

オレンジ革命で生まれたユシチェンコ政権は経済問題から目を逸らすため、言語問題、宗教、歴史評価など、イデオロギーに関わる争点を前面に押し出した。
政権の一時的な支持率維持には役立ったが、多様な歴史的体験や価値観をもつウクライナで一方的なイデオロギーを押し付けるのは火遊びが過ぎたというほかない。

2010年ヤヌコビッチは大統領に就任し、2011年政敵ティモシェンコを難癖をつけて収監した。ウクライナ司法の信用は失墜しEUアソシエーションは無くなったと思われた。

EUアソシエーション条約はEU諸国とウクライナの市場統合をめざすもので、そんなことにウクライナ経済が耐えられるわけがない。またロシアやカザフスタンにEUの製品がウクライナ経由で実質無関税で流入することになるので、プーチンが許すわけがない。
調印だけして履行しないという方法もありえたが(いつものウクライナであって誰も驚かない)、アザロフ首相は正直に調印を延期した。

この時点で貧困や格差を社会問題として正面から解決しようという勢力は弱体化しており、EUに入りさえすれば上手くいくと固く信じる勢力が形成されていた。その人々が独立広場(マイダン)で座り込みを始めたのである。ここまではよくあるウクライナ政治の日常風景であった。

2013年11月30日未明ピケ参加者に警察は、新年のクリスマスツリーを広場に立てるため退去を要求、数百名がこれを拒否したため実力で排除した。
ところが、なぜかオリガーク系のテレビ局が朝4時なのに集まっており、流血沙汰を全国放送した。つまりオリガークたちが、ヤヌコビッチを追い詰めるかのように、ユーロマイダン運動を応援したのだった。

独立以来四半世紀、政治的対立は非暴力で解決してきたため、この事件はウクライナ市民にとってショッキングであった。一部でしか盛り上がっていなかった親欧運動が全国、全階層に広がっていく。

しだいに暴徒化する抗議運動にたいして大統領も警察もどっちつかずの態度を取り続けた。
2月18日デモでデモ隊と警察隊の双方に死者がでる。警官5名が射殺されたが、うち3名がクリミアから派遣されたものだった
翌19日リヴィウ州などでマイダン派が多数の銃器を強奪、警察隊に小銃が支給される原因となった。
2月20日スナイパー虐殺事件。多数の犠牲者を出し、またいろいろな疑惑もあるが、革命後の政権は真相究明をしなかった。建物の屋上から狙撃した者がいるのだが、革命側の人間がカオスを引き起こすためにデモ隊、警官隊の双方を無差別に銃撃したのではないかという疑惑がつきない。ゼレンスキーは真相究明を掲げて立候補したが、立ち消えになった。
2月21日ヤヌコビッチと野党代表は合意に達し、ヤヌコビッチは約束通りに警察をキエフ中心部から退去させた。しかしデモ隊の不満分子は武装解除を拒否、これを見てヤヌコビッチはロシアに逃亡したのであった。

なぜ大統領執務室にとどまり、自決しなかったのか。理解に苦しむ。街頭暴力が憲法体制を覆そうとするとき、憲法に殉ずるのが大統領の任務ではないのか。

唐突にこんな著者の感想が飛び出すのは理解に苦しむのだが、まあそれはいいことにしよう。実際、ヤヌコビッチ逃亡による権力の空白期間が事態に多大なる影響を与えたことは間違いない。

ヤヌコビッチを失ったことで東部の有力政党であった地域党は自壊、マイダン派に合流した。東部の分離主義者をキエフに繋ぎ止めていた勢力がなくなったということである。

ヤヌコビッチは解任され、5月25日大統領選挙が実施される。ポロシェンコと釈放されたティモシェンコの争いは、より穏健な対ロシア政策を掲げたポロシェンコが勝利する。

この間にロシアによるクリミア併合、ドンバスへの軍事介入があった。

5月2日オデサ労働組合会館放火事件

オデサはもともと多民族なエリアだったのでウクライナ民族主義が根付く余地はなかった。しかしウクライナから分離して非承認地域になることは貿易都市としては自殺行為である。またドンバスと違ってロシアから遠く離れており、ウクライナから離脱しても助けてもらえない。
そういうわけでオデサでは分離主義は盛り上がらなかった。

しかし5月2日反マイダン派が立て籠もる労働組合会館に、マイダン派により火炎瓶が投げ込まれ、大量に死人が出た。このときの消防や警察の怠慢が遺恨を残した。

5月9日のマリウポリ事件などを経て、ドネツク、ルハンスクはどんどん内戦化していくが、一方で他の南東6州では反マイダンの機運は萎縮していく。

ヤヌコビッチ亡命後の大統領選挙では、相変わらず対露強硬策のティモシェンコよりも穏健なポロシェンコが勝つ。

工業地帯を失ったウクライナ経済は危機に見舞われる。こうなるとイデオロギーの出番で、共産党の非合法化、ロシアを連想させる地名・街路名の変更などが行われる。

しかし分断的な政策に嫌気がさした国民は2019年の大統領選挙でゼレンスキーを選んだ。ポロシェンコは5年前のことを忘れていたのか。

さりとてゼレンスキーもたいした実績を上げることはできず、2022年2月宇露戦争が始まるまで支持率はジリ貧なのであった。

クリミア併合

そのころクリミアでは。

ドネツクのエリートはウクライナから分離するより、全国政治に積極的に進出することで発言力を高めようとした。ロシアに移りたいと願う住民はせいぜい2割程度で、大多数はウクライナの連邦化を望んでいた。非承認地域になって国際決済から締め出されては困るからだ。
ただし庶民が親露志向であるということは、政治への不満が出てくれば分離主義と結びつきやすいということだった。

それに対してクリミアは全階層でロシア帰属願望が強かった
ソ連解体後の経済の落ち込みがウクライナ全体よりも著しかったことも、ロシア帰属願望を強めた。

実際2014年のクリミア併合後、ロシアはケルチ海峡のクリミア橋をはじめとして、積極的にクリミアに投資した。こういうこともあって、クリミアの住民はもうウクライナには戻りたくないようだ。

そもそもクリミアの分離主義はソ連時代からあって、クリミア自治共和国が復活していた。このウクライナおよびクリミアのやり方は、まだソ連があるうちに内戦になってしまった南オセチアやカラバフよりは穏健なものだった。

ウクライナの独立のさいの国民投票では、ウクライナの他の地域ではドンバスでさえ80%以上の賛成であったのに対して、クリミアはどうにか50%を超える程度であり、その差は明白だった。

ロシアは1954年のクリミアをロシアからウクライナへ移管するソ連最高会議の決定が、法的根拠がないと主張した。とはいえ一方的にロシアの主権を主張するのではなく、三者で話し合うとしていた。

1990年代のクリミア分離主義は、ロシアが弱体化している時期でもあり、盛り上がらなかった。またクリミア土着のエリートになんの指導力もないと住民が幻滅していた。だからキエフやドネツクから(今はモスクワから)辣腕官僚を送ってもらって事態を収拾するほかなかった。オレンジ革命までは、クリミア人はウクライナの一部として生きていく覚悟を固めつつあったのだ。

クリミアタタール人はスターリン時代にカザフスタンなどに強制移住させられていたが、ペレストロイカの始まりとともに、徐々にクリミアに帰還していた。しかしクリミアにおいて基幹民族の地位を回復することはかなわず、圧倒的多数派であるロシア語話者に対抗するためにはウクライナ民族主義者と結ぶほかなかった

2000年前後からロシアが経済的にも政治的にも復活し、クリミアへの干渉的発言が増える。クリミアの共産党政治家はこれに呼応するが、本気でロシアへの編入を望んでいたわけではなく、キエフへの圧力として利用しただけである。

クリミアで優勢だった共産党の政治家の理想はソ連再建であって、クリミアのロシア編入ではない。クリミアが強引にロシアへ帰属すれば、露宇関係が悪化してソ連再建が妨げられると危惧したのである(そして実際そうなったのだが)。

オレンジ革命中の大統領選挙では、クリミアでは一貫して親露派のヤヌコビッチが圧倒していた。しかし指導層は穏健な行動を取った。ドンバスと違って、すでに一定のオートノミーを確保していたクリミアが、ウクライナに喧嘩を売る必要はなかったからである。

クリミアでは多極共存型デモクラシーにより非効率な政策が続けられた。黒海の真珠といわれたクリミア半島だが、土着エリートには観光業を活性化させる活力も創意工夫もなかったのである。

2009年大統領選挙直前にヤヌコビッチは右腕のジャルティをクリミアに派遣した。2010年大統領選挙でヤヌコビッチは大勝すると、ジャルティをクリミア首相に任命した。
ジャルティはドネツク生まれのギリシャ系であり、またドネツク市の隣のマケエフカ市から腹心を連れてきたこと、地元民を見下す態度から、彼のグループはマケドニア人と呼ばれた。
中央での出世コースから外されたジャルティは改革に燃える。非効率な多極共存型デモクラシーを廃して、観光業の充実に努めた。2010年から2年ほどはウクライナ時代のクリミアの最も良かった時期だったが、ジャルティが急逝したことでそれも終わる。

ジャルティ死去後からクリミア併合までヤヌコビッチは自身の勢力拡大のために、クリミアのロシア人やタタール人を多数派工作のために利用するだけだった。クリミアのロシア人は、生粋のロシア人政党が必要だと気がつき、セルゲイ・アクショノフが旗揚げしたロシア統一党が支持を集めることになるのであった。

アクショノフは当初はロシア人の人権、生活を守ることを最優先としており。しかしマイダン革命を経てロシア編入を主導することになるのだった。

マイダン革命が過激化するにつれて、クリミアはキエフと対立し、モスクワと距離を縮めるのだが、ロシア指導層がクリミア併合を具体的に構想するのは土壇場であったと思われる。

すなわち、クリミア併合は親露派のヤヌコビッチへの死刑宣告になる。反ロシア的なマイダン革命の最中にヤヌコビッチを倒すわけにはいかない。
ヤヌコビッチが不法に倒されない限りクリミア併合をする口実がない。
ヤヌコビッチが本気になればマイダン運動など蹴散らせるという幻想があった。
そもそもクリミア内政についての知識がなかった。

こういうわけでロシア指導層が決意したのは、マイダン革命の暴力が頂点に達する2014年2月20日前後であった。

2月18日キエフでのデモでデモ隊と警察隊の双方に死者がでる。先の書いた通り、警官5名が射殺されたが、うち3名がクリミアから派遣されたものだった
続いてコルスンポグロムがおこる。これについては日本語の情報がほとんどないのでそのまま引用する。

1月中旬から、クリミアは、ストップ・マイダン活動家(ヤヌコヴィチ支持者)を、ローテーションを組んでキエフに送り込んでいた。二月二〇日に独立広場とその周辺でスナイパー虐殺が始まると、クリミア人がこれ以上キエフにとどまることは危険なだけで無意味になった。約三〇〇人のクリミアの活動家が八台のバスに分乗して故郷に向かった。(中略)
バスがチェルカスィ州のコルスンにさしかかったとき、右翼セクターやその他のマイダン活動家がバスを止め、焼き討ちにし、乗客つまりストップ・マイダン活動家を約六時間集団リンチにかけた。暴行者は、自分たちの仲間がキエフでヤヌコヴィチ大統領の警察隊によって集団狙撃されたと信じていたので、ヤヌコヴィチ支持者に報復したわけである

この事件を契機としてクリミアでは一気に分離運動が沸騰する。クリミアの指導者たちもモスクワと濃厚接触を始める。

2月26日最高議会前広場で衝突。最高会議はクリミアの独立を決議しようとしたが、代議員の定数を集められず流会となる。
2月27日ロシアの特殊部隊が最高会議と政府の建物を占拠。モギリョフ首相を解任し、アクショノフを新首相に選出。
3月16日住民投票 圧倒的多数がロシアに連邦構成主体として参加することを支持。
3月17日この投票結果に基づいてクリミア最高会議はクリミア自治共和国の独立を宣言し、ロシア大統領がそれを承認。
3月18日ロシア大統領とクリミア・セバストポリの指導者はロシアへの編入条約に調印。

これはウクライナ憲法に定められた領土変更手続きを蹂躙しているが、そもそもウクライナのソ連からの独立も当時のソ連の離脱法を蹂躙して行われている。

国際法上はいったん独立したうえで、編入されなければならなかった。他国からの併合は認められていない(国境線不変更の原則)。コソヴォの独立は多くの国が承認しているが、おそらくコソヴォのアルバニアとの合同はあまり支持されないだろう。

クリミアとしては独立を宣言したのちに、ロシアが国際的批判や経済負担に怖気づいて編入しないことを恐れたが、幸いそうはならなかった。

併合後はおおむねロシアの支配に満足している。特に、分離併合に懐疑的だったタタール人は満足度が上がっているようである。ロシア系住民は期待過剰だったためか、満足度は下がっているものの、それでも十分に高い。

ウクライナは経済封鎖、用水路の堰き止め、高圧電線爆破などでクリミア半島を兵糧攻めにした。よってクリミア橋は死活的に重要なプロジェクトであった。またウクライナに侵攻したロシア軍はまっさきにクリミアへの回廊を確保した。

こういった経緯から、クリミアの住民がウクライナ復帰を希望することはないと思われる。

ウクライナ時代に落ち込んだクリミアへの観光客は、さらに低下した。陸路はウクライナが抑えているし、海路はギリシャなど制裁参加国がおさえていた。空路はドンバス上空を迂回する不便なルートしかなかったからである。

しかしクリミア橋の完成、シンフェロポリ空港の改修、ロシア自前のフェリー輸送の充実により、観光客はソ連時代以上に増えた。ウクライナ時代にクリミアがこれほど大事にされることはなかったのである。


ドンバス戦争

ドンバスは19世紀末より工業化が進み人口が増加する。ユダヤ人を含む多民族が流入した。またジョン・ヒューズのような欧州起業家もやってきた。
石炭業、冶金業、機械工業という垂直統合モデルが発達したため、集権的な恩顧政治が支配的となる。

ウクライナ独立と前後して分離主義が盛り上がるが、1990年代なかばには沈静化する。チェチェン戦争をみて、ウクライナとして平和に過ごすほうがよいと判断したのである。

そして隣のロストフ州を見下していた。ロシア南部の田舎として一括りにされるより、ウクライナのエリート州であるほうが幸せと判断した。しかし実際にはロストフ州はロシアの南部連邦管区の首都所在地として力強く発展し、産業近代化を怠ったドネツク州との地位は逆転してしまったが。

共産党支配の終焉によって企業が政治、経済の面倒をみるような企業城下町が発達した。これにより政治的に一枚岩となり、ユシチェンコやティモシェンコのような西部寄りの政治家が浸透できなかった。

西部政党にシンパシーを持つような中小ビジネスマンや人文インテリ、つまり意識高い系が少なかった。これがハルキウやドニプロとの違いである。
ハルキウやドニプロなどの東部諸州では西部に搾取されているという感覚があるが、ドネツク州は東部の中でも特に軽視されているという被害者意識が強い

これを背景にドネツク州は中道右派統一をいち早く達成する(地域党)。これにハルキウ州やドニプロペトロフスク州も追随し、東部の主敵は西部のウクライナ民族主義となる。

サッカークラブ、シャフタール(炭鉱夫)・ドネツクのオーナーであるアフメトフのような富豪が我が世の春を謳歌する一方で、住民は不満をためこんでいた。貧困、労災などの社会問題にまつわる不満は、西部に搾取されているという被害者意識に変換することで逸らされていた。

このような被害者意識があったとしても、クリミアと異なりすぐにウクライナからの分離、ロシアへの編入が求められたわけではない。ウクライナを連邦化して、ウクライナに帰属し続けることが多数派の要求だった。

マイダン革命に対しても、クリミアほど過激な反応はしていない。とはいえ連邦化など、マイダン革命後の政権が受け入れるはずはなかったので、遅かれ早かれ急進的分離派が主導権を握っていたと思われる。

それにアフメトフらエリート層は、分離派を泳がせるという火遊びをしていた。つまり自分たちを支持しないとこいつらが主導権を握ることになるとキエフにアピールしていたのである。もちろん本気を出せば分離主義者などいつでも叩き潰せると高を括っていたのもある。

この泳がせが、たいした勢力でもなかった分離派に生き延びるチャンスを与えた。

ヤヌコビッチ亡命後のウクライナ大統領選挙が5月25日に予定されており、それまでの空白期間にドンバスの分離の可否を問う住民投票を行う必要があった。

2014年3月よりドネツクの政府の建物を占拠し、4月7日ドネツク州議会でドネツク人民共和国の誕生を宣言する。そして5月11日に独立を問う住民投票が予定された。

しかしプーチンは住民投票延期を提言する。

この頃、プーチンの頭の中で、「ドンバスは(分離派をトップに置いたままで)ウクライナに戻す」という、後のミンスク合意につながる政策が固まりつつあったと私は思う。その最大の動機は選挙である。米国の政治学者ポール・ダニエリも指摘したように、ロシアがクリミアとセヴァストポリ市を併合しただけなら、約二〇〇万票の親露票がウクライナから消えるだけである。しかし、クリミアに加えて、三〇〇万票から五〇〇万票のドンバスの親露票(人民共和国の実効支配領域の広さによって増減)がウクライナから消えたとすれば、ウクライナ大統領選挙ではウクライナのNATO早期加盟を掲げるような候補しか勝てなくなる(中略)プーチンは、大統領選挙での勝利が予想されていたポロシェンコとの間で、「ウクライナがクリミア問題を棚上げするのなら、ドンバスがウクライナに帰るよう分離派を説得してあげよう」という形で手打ちに持ち込む意図だったのではないだろうか。

プーチンは、このようにわりとリアリスティックな考えをしていたらしい。クリミア併合も、それなりに石橋を叩いており、多くの専門家が2022年2月にプーチンはウクライナに侵攻しないと予想したのも故なきことではなかったようだ

しかし住民投票は予定通りに実施され、5月25日のウクライナ大統領選挙ではポロシェンコが勝利する。

ポロシェンコはプーチンの思惑を知ってか知らずか、翌日にドネツク空港を空爆した。ここから本格的な内戦に突入するのであった。

続く。


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