碇シンジくんdisってゴメン
先日の記事で『鬼滅の刃』の煉獄さんは、英雄をやろうとする側の人間が作ったキャラではないと書いた。
英雄を称える側、もっとわかりやすく言うと、誰かに英雄をやらせて自分はのうのうと生き延びたい人間が心情を仮託できるようなキャラ造形である。
そして、英雄をやろうとするなら『ザ・ボーイズ』みたいになるはずだとも。
先日、友人らとそういう話をしているときに、エヴァンゲリオンの碇シンジではないかという意見があった。
それはそうかもしれない。誰かに英雄をやらせようという人間にとっては、碇シンジのメソメソしたキャラは腹立たしいことこの上ないだろう。いや、私は腹が立ってしまう人間である。
しかし英雄をやろうとする人間にとっては、死であるとか、痛々しいことを前にして日和ってしまうのは、非常に自然なこととして受け入れられるし、なんなら感情移入してしまうだろう。
そもそもあんな子供に死んでこいというのは非常に残酷な話である。そして作中の大人たちはそのことを認識している。だから最終的には、加持リョウジや葛城ミサトは特攻することを選んだのだ。
もちろん、制作陣がそこまで考えていたかどうかはわからない。
なんせ、戦闘用ロボットに乗らされる少年がウジウジするのはアムロ・レイ以来の伝統である。
マクロスの主人のように、幼馴染の少女が宇宙の平和のために決死の交渉に臨んでいるときに、女上司とイチャイチャしていた者もいる。
といようなことはさておき、逃げ出したくなるような情況をリアルに想定できずに今までエヴァンゲリオンを見てきたことは反省しなくてはいけない。
死ななくてはならない情況で、一切の葛藤なく命を差し出せるなんてことはないと知るべきだ。
西部邁もやっぱり間際になってビビったんだろうか。
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