高橋沙奈美『迷えるウクライナ 宗教をめぐるロシアとのもう一つの戦い』
久しぶりのウクライナシリーズ。
ウクライナにおける正教の歴史、現状についてまとめたもの。ここまで詳しく書かれたものは日本語ではなかなかないと思われる。正教世界の複雑さをよく理解できた。
またウクライナにおける正教会の中の人のアンビバレントな感情をも想像できるし、一般信徒がロシアを嫌いでもモスクワから承認されたウクライナ正教会の信徒であり続ける心情もやや理解できた。
著者はロシア文学の研究者であり、ウクライナ正教会で洗礼を受けた正教徒らしいので、内容については概ね信用してよさそうだ。
正教の特徴と大ロシア主義
正教がカトリックやプロテスタントと大きく異なるのは、領域原則とシュンフォニアと使徒継承性である。
シュンフォニアとは世俗の統治者が教会の守護者でもあるという統治形態である。コンスタンティノープルの正教会、つまりコンスタンティノープル総主教座と、東ローマ皇帝がこの関係にあったわけだが、東ローマ帝国の崩壊以降はこの図式は崩れている。
なおロシア正教会とロシア大統領がシュンフォニアを成しているともいえるが、現在のロシアは一応は政教分離を原則としている。
領域原則とは独立正教会が一定の地域を管轄し、他の独立正教会はこれに干渉しないという原則である。これがウクライナの場合には問題となる。
使徒継承性とは、キリストから垂直的に教義や秘儀が継承されていることだ。カトリックの場合は、バチカンを中心に放射状に統合されている。またプロテスタントは神と各信徒は直接的につながるべきで、教会はこれを媒介しているに過ぎない。
使徒継承性が認めれているのは、ペンタルキアすなわち5つの古代総主教座と、モスクワ、ジョージア、ギリシャ、アルメニア、キプロスなどのいくつかの独立正教会である。
5つの古代総主教座は、コンスタンティノープル、エルサレム、ローマ、アレキサンドリア、アンティオキアにあるが、いずれも非正教徒が主流の地域であることに注意されたい。というかローマ以外はキリスト教ですらない。
したがって正教世界で実質的な支配者はモスクワ総主教座なのである。ちなみに日本の正教会もモスクワの管轄である。
コンスタンティノープルは同輩の中の首位にあるということになっており、世界総主教座と称されるが、15世紀のオスマン・トルコ帝国による陥落以後、政治的な後ろ盾を失っている。そしてピョートル大帝以降はモスクワが正教の守護者となっている。
こうした情況に不満のあるコンスタンティノープル総主教座は、特にドンバス戦争以降、使徒継承性も領域原則も無視して、バチカンのように振る舞っているのである。
正教会の領域原則と、第一次大戦以降の、近代国家の民族原則に基づく国境決定は非常に相性が悪い。特に旧ソ連圏のような多民族国家においては、、、
しかしプーチンのような大ロシア主義とは親和性がある。多民族国家では領域原則が親和的である。つまりコスモポリタンなのである。
プーチン自身は洗礼を受けた正教徒であり、また教会での適切な振る舞いを知っている稀有な政治家である。しかしプラグマティックなプーチンは特定の宗教に肩入れしない。
大前提としてロシア連邦は世俗国家であり、いかなる宗教も国教ではなく、義務的宗教ではない。宗教団体は国家から分離され法の下に平等である。
またモスクワ総主教座も国教化など望んでいない。ソ連時代の監督から開放されて、十分に自治ができる現状のほうが望ましいのである。
ロシア連邦においてロシア系住民と正教徒はおおむね一致しているが、民族宗教であろうともしていない。より普遍的な(帝国的な)宗教をめざしている。
2000年代半ば以降にプーチンが伝統的価値観への回帰を押し出すのにあわせて、正教会も個人のライフスタイルへの影響を強めている。
ロシアは、性的マイノリティに対する寛容という西側からの押しつけにも抵抗する。ロシア正教会も性的マイノリティに抑圧的な態度をとる。このような西側の不寛容への反発は、ウクライナ戦争とも通底する。
性的マイノリティへの偏見や軍事侵攻には全く賛同できないが、かといって本邦のように西側の価値観に無抵抗に股を開くよりもマシなのかもしれない。
ギリシャ・カトリック教会
ウクライナにおける宗教問題を語るとき、ユニエイトは非常に重要である。本書を読むまで知らなかったのだが、ユニエイトとは正教側からの蔑称らしい。マリア・テレジアのオーストリア支配下で授けられたギリシャ・カトリック教会を自称している。
本noteでも何度も使用してしまっているが、以後はギリシャカトリックまたは東方典礼カトリックという単語を用いることにする。
ギリシャカトリックは、ウクライナ西部がポーランド=リトアニアの支配下にあったさい、正教風の儀式を維持しながらカトリックの教義を取り入れて確立された宗派である。
ウクライナにおいて非常に重要なアクターであるが、本書は正教会を主題としているから深入りはしていない。
ギリシャカトリックは正教と異なり、バチカンと直結しているので、使徒継承性とか領域原則のような問題は生じないのが特徴。
またギリシャ・カトリック教会はウクライナ民族主義勢力を支持し、典礼にも積極的にウクライナ語を導入している。
ウクライナ・ロシアにおける正教の歴史
スラブ世界におけるキリスト教伝道は、9世紀半ばキュリロスとメトディオスがスラブ布教に始まる。教会スラブ語、キリル文字の開発など、非常に重要な活動であったが詳細は省く。
画期となるのはよく知られているように、988年キエフ大公国のキリスト教国教化、ウラジーミル大公と皇女アンナ(バシレイオス2世の妹)の婚礼である。
このときにキエフ府主教座の設置がコンスタンティノープルより承認されている。
そうこうしているうちにモンゴルが攻めてくるのだが、このいわゆるタタールの軛が現在まで揉めまくる原因になる。
1240年キエフ陥落、キエフ府主教座はウラジーミルへ遷座、さらに1325年モスクワへ遷座となる。
これにオスマントルコによるコンスタンティノープルへの圧迫があり、カトリックと正教の合同なんて話も持ち上がるのだが、モスクワ正教会はこれに反発し、1448年事実上の独立を遂げる。独立が承認されるのは1589年である。
そして1453年に東ローマ帝国は滅亡。
この間にイヴァン3世のもとモスクワはタタールの対抗勢力となりモスクワ大公国を名乗る。またイヴァン3世は最後の皇女ゾエを娶る。
その一方で、ポーランド=リトアニア支配下のルテニア地方(ウクライナ西部とベラルーシらへん)にキエフ府主教座が再建されたのである。
このキエフ府主教座が2つに分裂して、1596年にカトリックと合同してできたのがギリシャカトリックである(ブレスト合同)。合流しなかったのは平信徒のコサックらで、キエフに東方正教の府主教座を再建した。
一部のコサックらは1654年ロシアとペレヤスラフ協定を結び、ポーランド支配に反抗した。この過程でキエフ府主教座はまた分裂し、片方はロシア正教会に吸収されたのである。もう片方は独立を維持したが、モスクワもコンスタンティノープルも承認しなかった。
さらに1686年コンスタンティノープルはモスクワ総主教座にキエフ府主教座の任命権を与える。これがいま大問題となっていて、この任命権はどのキエフ府主教座だったのかって話である。
1712年ピョートル大帝は聖宗務院制導入、ウクライナへの弾圧が厳しくなる。教会でのウクライナ語の禁止、ウクライナ・バロック様式の聖堂建設禁止など。
西部ではこれを嫌ってギリシャカトリックに転向する教会も多かった。16世紀終盤からは宗教改革の時代であり、カトリックとしてもスラブ民族を取り込む意義は大きかった。
さて、この時点ですでに4つの「キエフ府主教座」が登場している。
1つ目は、モスクワへ遷座されたもの。現在のモスクワ総主教座である。
2つ目、1458年コンスタンティノープルがルテニアに再建したもの。ブレスト合同によって消滅。
3つ目、ブレスト合同後の1620年にコサックによって再建された東方教会、1685年にロシアに吸収される。
4つ目、ロシアに吸収されなかったキエフ府主教座、1770年まで続く。これをロシアは当時も現在も認めていない。しかし西洋の薫陶を受けて、有能な聖職者を多数排出し、ピョートル大帝にも登用された。またウクライナ・バロックの最盛期にあたり、聖ソフィア大聖堂などの美しい教会建築はこの時期のものである。
ロシア革命
ロマノフ朝の時代は正教会については割愛して第一次世界大戦およびロシア革命へ。ウクライナにとっての激動の時代であり、ウクライナ領内の正教かにとっても大変な時期だった。今も大変だけど。
ドイツはロシアに侵攻してウクライナのほとんどを占領した。これに伴い1917年6月ウクライナ中央ラーダ第一次宣言があって、12月全ウクライナ正教会評議会(AUOCC)が創設される、いわゆる第一次独立教会である。
1918年11月ドイツ敗北、ウクライナを掌握したディレクトリア勢力は教会独立を支持した。
1920年秋にはボリシェヴィキがウクライナを掌握、ロシア正教会を牽制する意味でウクライナにおける教会独立を容認。
1921年AUOCCはウクライナ独立正教会の誕生を宣言した。
ソヴィエトは階級対立を重視するので宗教に対して冷淡である。ロシア正教会を牽制するために、ウクライナ独立正教会を支持したが、しかし独立正教会が脅威とならないよう、ロシア正教会に接近したりもした。
諸々の分裂工作によってロシアでもウクライナでも正教会は壊滅状態となる。一部の聖職者は北米を逃れてディアスポラ教会を運営した。なおディアスポラ教会を承認したのは、コンスタンティノープル世界総主教座である。
ポーランド正教会
ポーランド正教会は、コンスタンティノープル世界総主教座による承認という、いまウクライナで起こっていることのモデルケースである。
1921年リガ条約によりポーランドは復活し、また国境線はかなり東側になった。その結果、カトリック国であるポーランド領内に相当数の正教徒が包摂されることになった。これらの信徒を抱えるポーランド正教会はロシアからの承認なしに、コンスタンティノープル世界総主教座の承認により独立した。
ロシア正教会は、ポーランド政府にとっては忌まわしいロシア支配の象徴。そこで領域内の正教会をポーランドの正教会に変えて、コンスタンティノープルから独立の詔勅を得たのだ。
大祖国戦争
このまま第二次世界大戦まで。
モロトフ・リッベントロップ協定でポーランド東部はウクライナに併合される。ポーランド正教会の聖職者の多くはモスクワ総主教座に忠誠を誓い、ウクライナ自治正教会を結成。
ドイツ支配下に入ったヘウムとポドラシェの正教会は第二次ウクライナ独立正教会が結成された。
独ソ戦開始およびドイツ占領下のウクライナでは宗教が大規模に復興する。
モスクワ総主教座に従いつつウクライナの独自運営を目指すウクライナ自治正教会と、ドイツの支持を受けた第二次独立正教会。
後者はロシアから離反したポーランド正教会の高位聖職者から任命されて使徒継承性を保った。ドイツ占領軍の支持を得て勢力を伸ばしたが、ウクライナ民族主義との結びつきを危惧したドイツは一転して自治正教会を利用し、第二次独立正教会を弾圧した。
しかしソ連の再占領によっていずれも閉鎖され、モスクワ総主教座に吸収された。
海外に逃れた聖職者によってディアスポラ教会が運営された。これら教会はウクライナの文化や言語を守る組織としても機能した。
冷戦時代
戦後はウクライナの教会独立派もギリシャカトリック(東方典礼カトリック教会、ユニエイト)もロシア正教会に強制的に統合された。
正教に限らず、全ての宗教にとって冬の時代。
ソ連解体
ペレストロイカにより、ソ連の宗教政策が大きく変更されると、ギリシャカトリックが真っ先に独立を表明し、また亡命していた独立正教会(UAOC)の指導者が帰還した。
ソ連解体後であっても、正教会では使徒継承性が重要で、管轄の教会の承認なしに独立することができない。モスクワ総主教座はUAOCの主教の聖職を剥奪し、高位聖職者として神品機密をおこなえないようにした。
さらにモスクワ総主教座はウクライナ正教会に広範な自治権を付与することでUAOCに対抗させようとした。しかしウクライナ正教会フィラレート府主教は、ウクライナ独立後にクラウチュク初代大統領の支持のもと、教会独立を要求、モスクワはこれを棄却した。
フィラレートはこれに納得せず、彼に従う教会を率いてウクライナ正教会(キーウ総主教座)を名乗った。
ここで3つの正教会勢力が成立することになる。モスクワ直系のウクライナ正教会、これから分裂したフィラレート主教率いるウクライナ正教会(キーウ総主教座)、独立正教会(UAOC)である。
1992年ウクライナ正教会(キーウ総主教座)とUAOCは合同を発表したが、これは頓挫。フィラレート総主教に反発したUAOCの一部は独自に総主教を戴いて活動したが教勢を拡大できなかった。高位聖職者には神学的な知識や高徳だけでなく政治力も求められる。ソ連時代を生き抜いたフィラレートにはそれがあり、ウクライナ正教会(キーウ総主教座)順調に勢力を伸ばしたのである。
モスクワに忠誠を誓ったウクライナ正教会(モスクワ総主教座)は最大多数派であり続けた。またロシアに親和的だがウクライナのローカルな教会でもあるという二重のアイデンティティを保ち続けたが、ドンバス戦争の開始とともにそれらの維持は困難になったのである。
ドンバス戦争
2014年クリミア併合、さらにドンバス戦争が始まる。
一部のウクライナ正教会(モスクワ総主教座)の聖職者は時に公然と親ロ派勢力を支持した。しかしその割合は他の社会集団と比較して特に多いわけでもなかった。
一方で、ドンバス地域のウクライナ正教会(キーウ総主教座)の教会はほとんどが閉鎖された。
そうした問題はあったが2019年まではそこまで正教会どうしの対立は厳しいものではなかった。しかし2019年ウクライナ大統領選挙を前に、一気に国際的なレベルまで対立は進展する。すなわちコンスタンティノープル世界総主教座とモスクワ総主教座の鍔迫り合いに発展したのである。
ポーランド正教会やアメリカ正教会の世界総主教座による承認など、ちょっとした対立はあったが、ウクライナは比較にならないほど深刻な対立をもたらした。なにせウクライナの正教徒人口はロシアに次ぐ規模なのである。これを管轄に収められるかどうかは、正教世界では一大事なのだ。
2017年冬からキーウ総主教座とUAOCは再統合の交渉を進める。
2018年4月ポロシェンコ大統領がエルドアン大統領およびコンスタンティノープル総主教と会談
ウクライナ正教会(モスクワ総主教座)の高位聖職者やモスクワ総主教がコンスタンティノープル総主教を訪問するも、その直後にコンスタンティノープル総主教はウクライナ問題についてモスクワを公然と批判した。
さらに北米正教会の高位聖職者をキエフに派遣した。これは正教世界のルールである、相互不可侵が破られたことを意味する。
モスクワ総主教庁はお祈りリストからコンスタンティノープル総主教を削除。
2018年10月コンスタンティノープル総主教座は、1688年にモスクワに与えたウクライナ管轄権を認める文書が無効であるとし、ウクライナが自らの管轄下にあると宣言した。
支持率低迷に悩むポロシェンコ大統領は大統領選を控えて、ウクライナ正教会(モスクワ総主教座)に対する抑圧的な介入を強める。これはこの時期に横行した民族主義的政策の一部である。
その一環としてキーウ総主教座とUAOCは再統合にポロシェンコも介入した。12月15日キエフで統一公会が開催され、新正教会が発足した。2019年1月にコンスタンティノープルは独立教会として承認。しかし他の独立教会で新正教会を承認するものはすぐには現れず、2023年でもアレクサンドリア総主教座、ギリシャ正教会、キプロス正教会のみである。
この新正教会は使徒継承性がない。外野からはモスクワ正教会の承認がなくても、コンスタンティノープル総主教座から承認されているならいいではないかと思うが、一般信徒にとってはそうではないらしい。普段自分たちが受けている儀式に真正性がないのは重要なことのようだ。
それに教会は地域のネットワークであり、自分に洗礼を施した聖職者は大切な存在であるから、政権によるネガティブキャンペーンにもかかわらず、ウクライナ正教会から新正教会に登録を変更する信徒は多くなかったようだ。
ポロシェンコはキエフ府主教(コンスタンティノープルに府主教任命権がある)とともに、ウクライナの地方を回って、新正教会を宣伝したが、あまり効果はなかったようだ。西部諸州ではかなり強引な管轄変更の圧力があったようだが。
大雑把に言えばウクライナ正教会は信仰によって支えられているのに対して、新正教会は政治的に支持されている。後者を支持するのはナショナリストであり声は大きいが、マジョリティは前者なのである。
ポロシェンコに変わって大統領になったゼレンスキーは、民族主義的政策は控えめだったが、2022年2月ロシアは大々的にウクライナへの軍事侵攻を開始したのであった。
ウクライナ戦争
この戦争はウクライナとロシアのどちらに立つかという二項対立を突きつける。特に、正教の宗教文化に関心を持つ著者にとっては厳しい問いである。
関係の深い両国であるから、でもある。またウクライナの文化的な豊かさはその多声性にあるとするなら、、、
まず戦争開始とともに、ウクライナ正教会から、キリル総主教がロシア軍を賛美していることへ非難の声が高まる。
またウクライナ正教会はロシア正教会からの独立を宣言するが、UAOCやキエフ府主教座を使徒継承性のない分離派と批判してきたのだから、本当の意味での独立autocephalyを宣言することなど不可能であった。
また東部の親露的な主教たちは独立宣言に不満であった。
西部ではウクライナ正教会は弾圧されておりロシアと絶縁しなくては生きていけない。東部ではその逆である。ウクライナ正教会としては両者をつなぎとめるために玉虫色の独立宣言を出す他なかった。
東部ではロシアを支持するかのような協力者もいたが、ロシアと戦った聖職者もいたがあまり報道されなかった。ウクライナ正教会全体としては、2014年以来ウクライナ愛国的な活動をしてきたがそれらが顧みられることはなかった。
ペチェルシク修道院の国家への返還。
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