富松保文『アリストテレス はじめての形而上学』読んだ

中世哲学をヨタヨタと学び始めたが、そうすると避けて通れないのがアリストテレスである。

かといっていきなり原書を読むわけにはいかないので入門書を探したところ、これがよさそうだった。

Ciniiで検索すると著者はベルクソンとかメルロ・ポンティとかを専門としているようだが、まあいいだろう。NHK出版ならクオリティは担保されているだろう。

タイトルのとおり主に形而上学の一部を解説しているが、デ・アニマも引用している。筆致はサラサラしていて読みやすいが、そのぶん目が滑ってしまいがちだった。

ウーシアについての解説はガチだった。入門書としてのぎりぎりを狙ってる感じでとてもよかった。

著者は点とか線とか面に幼いころから関心があったようだ。幾何学的な定義によれば、それらに長さ、太さ、厚さはないとされるが、ではどのようにして存在できるのか。

アリストテレスはウーシアを基体(個物)と形相に分類し、魂(プシュケー)と本質を形相に属するとした。自然物は基体である。

しかし数、点、線、面は形相ではないとした。形っぽいけど、形相ではないらしい。
これらは物体なしでも存在しうるし、感覚的事物とは別記に存在する。
またこれらは区切りである。物体の区切りでしかないものが、物体を離れて存在できるわけがない。また区切りがそれ自体として感覚されえないならば、区切られているものを感覚できないだろう。
とはいえ区切りは区切りでしかなく、区切られているものの部分ではない。身体の輪郭は身体ではないのだ。

この区切るという概念が可能態とか現実態とか、可能的に存在するとかいう日本語にするとわかりにくい概念をイメージする上でとても重要だということがわかった。

アリストテレスは視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚の5つの感覚があるとした。それぞれの感覚には固有の対象がある。点、線、面、運動、静止、形、大きさを固有の対象とする感覚はない。それらは共通なる感覚の対象だ。

数は感覚されるが、固有なる感覚の対象ではない。数という感覚だけを抽出することはできない。しかし数を数えられるものから切り離して考えることはできる。これが抽象である。

なんだ抽象か。。。でも古代にあっては、抽象って画期的なことだったようだ。


というような感じでまあまあガチな解説だったので満足した。これくらいならなんとか理解できるのであった。

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