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古川雄嗣『大人の道徳 西洋近代思想を問い直す』読書ノート

古川雄嗣『大人の道徳 西洋近代思想を問い直す』、友人に勧められて読んだのだが、非常にヤバい書物だった。趣旨は道徳教育とはいかなるものかというものだ。著者はオールド左翼、共和主義者というように聞いていたが、前書きでいきなり「市民は国家のために死ななければいけない」とか過激なことが書いてあって、一気に読んでしまったのである。

そもそもフランスでいうとオールド左翼な共和主義者というのはジャコバンみたいなものらしくて、現代だとエマニュエル・トッドが有名だが、彼は「日本も核武装したらいいのに」と日本の左派が聞いたら腰を抜かしそうなことを言うわけである。また徴兵制だってフランス大革命が起源であるから、左派思想と軍国主義的な発想が無縁とは到底いえないのだ。

本書では、近代を特徴づける3つの思想として合理主義、民主主義、産業主義をあげている。特に合理主義、そして民主主義の基礎となる自由について述べる。

1.合理主義

科学はキリスト教に端を発する。神の言葉こそ古代ギリシャのロゴスだとギリシャ世界で原始キリスト教団は布教した。そこには理性的な神の作った世界は合理的であるはずだという信念があった。中世においては知るとは神を知ることであった。人間は神の理性の一部を分け与えられており、動物とはちがうと考えられた。
近代になると、自然について知ることに神を知るというキリスト教的な意味がなくなった。ここでデカルト的な機械論的自然観がでてきた。
因果関係を知ることにより、自然をコントロールできることになる。つまり、神の退場により、人間が自然を支配できるという発想がでてくる。
人間は知ることによりいっそう豊かになれるはずという啓蒙主義である。啓蒙つまり教育とはおせっかいなもので、科学によって幸福に生きられるのであるから全員に強制する必要があると考えるのである。

2.自由と自律

デカルトは徹底的な懐疑を通じて、疑うという行為そのものは疑うことができない、疑っている私はたしかに存在しているという結論に達した。懐疑を可能にしているのは理性=精神である。
この理性こそが人間の存在理由である、なにものにも先立って存在する。
心身二元論つまり、精神=理性こそ人間の本質であり、身体は自然と同じく機械的なものである。人間だけが理性をもつが、人間の身体は動物と同じく機械であり、これは自然と同じく支配すべきものである。

たんなる自由とは、やりたいからやるという動物と同じく機械的なものだ。いわば本能の奴隷になっている子供といっしょで大人とはいえない。空腹だから食べるというのは自然法則、本能に服従しているだけである。カントの言葉でいえば、他律、手段ということになろう。

これに対して自律とは、人間であること、大人であることだ。自然法則や本能から自律して意思決定できるという真の意味での自由だ。しかし自身の理性への服従というパラドックスでもある。神ならぬ人間はつねに疑い、考えつつ自分を律する必要がある。大人になるということは常に未完のプロジェクトである。そして自分や他者を手段としてだけでなく、目的としてもあつかうこと。

日本では自然を支配するという発想はなく、ありのままがよいとされてきた。このような通俗的な『日本人の自然観」は動物的な無限の欲望追求と親和的である。しかし日本では積極的にカントは受容されてきた。実はカントの道徳哲学と武士道は親和的だからである。武士道は市民の道徳であって奴隷の道徳ではないからである。本能に逆らい「ならぬものはならぬ」という定言命法は武士道に通ずるものがある。

3.社会契約と民主主義

社会契約論とは、近代国家は理性的な約束によってつくられたとするもの。この約束により人間は市民になる。
ホッブスによると自然状態では万人の万人に対する戦いになる。そのため自然権=本能をいったん放棄しなければならない。自然権が国家に譲渡された状態が、社会状態または市民状態という。しかしここではまだ市民は国家という名のリヴァイアサンの臣民といっていい状態。

そこでロックは、市民には監視したり、変更したりする権利、つまり抵抗権があると考えた。これを条文化したものが憲法となる。市民は主権者に服従するかぎりにおいて人権を保障される。しかし主権者の横暴には革命をおこすことができる。
主権者たる王を処刑、追放して誕生したのが共和国であり、近代民主主義の始まりである。ここで市民は主権者であると同時に臣民にもなった。

次にルソーの紹介である。ルソーのいう一般意志とはつねに公共の利益を志向する。一般意志の存在を前提としなければ共和国はなりたたない。公共性を意識しなければ、みなが私的利益を追求し自然状態にもどってしまう。
公共性の究極の形は国家とは市民の共同防衛体であることに現れる。国家とは市民そのものにほかならず、国家の防衛をぬきにして自己の防衛はありえない。ルソーは以下のように市民は国家のために死ななければならないという。

それだけでは ない。市民は共同体を防衛するためには、自分の生命を投げだすこともまた求め られる。他 の共同体から戦争をしかけられた場合には、市民は祖国を守るために戦地に赴くことを求められるのだ。「 法が市民に生命を危険にさらすことを求めるとき」、 市民はそれを甘受しなければならないのである。この流血の義務もまた社会契約に刻み込まれているのだ。

戦後日本ではルソーの思想のやばい部分が隠蔽されてきた。なぜなら日本ではリヴァイアサンたるアメリカに国防を頼ることで日本国民は兵役の義務を負わなくていいからだ。日本国憲法の平和主義の実態とはこういったものである。これでは市民による近代的な民主主義など育つわけがない。

本来は左翼や共和主義者は徴兵制を支持する。スイスやフランスがそうであるし、共和国ではないがスウェーデンは最近になり徴兵制を復活させている。

4.感想

古代ギリシャの民主主義では市民と奴隷が分かれていたが、現代では誰もが平等に市民であり奴隷である。たんなる奴隷ではなく、自由な市民でもあるためには、つまり手段であると同時に目的でもあるためには、教育が必要となる。全体としてこういう基調であり、道徳教育が必要というのはよくわかる。しかし著者のいう道徳は国家のために死ぬこともときに必要だというかなり過激なものであり、現実には受け入れられがたいであろう。とはいうものの、近代の民主主義の真の姿はこういう危険思想であることは知っておいて損はないだろう。

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