『数覚とは何か?』読んだ
数とはなにかを考えるシリーズ。
こちらの書籍で引用されていた『数覚とは何か?』を読んでみたのである。
著者は数学者から認知心理学社に転じたというフランス人で、このような話題を扱うには最適な人物である。
数覚とは、数字とか数学にまつわる感覚のことである。英語で言えばnbumerosityとかnumerousnessになる。
数覚は赤ん坊や人間以外の動物にもあるから生得的なものと考えられる。これに関しては様々な実験が行われており、3くらいまではかなり正確に数えられる。チンパンジーなどは長期間訓練すれば、7以上でも数えることができる。
4以上になると正確に数えるのは難しくなるが、おおまかになら数えられる。例えば8と9を弁別するのは難しいが、10と20ならどちらが大きいかわかる。
これらが意味するのは、サピエンスの性質は社会的に作られていくという構築主義の否定である。
さりとて、高度な算術になると後天的要素が大きい。中国語や日本語は数字を指す言葉が短い。また桁数の大きい数を表す法則が極めて規則的なのは、英語を学習したことがある人なら誰でも知っているだろう。だから東アジア人は、数を覚えたり数えたりする上で極めて有利であり、彼らの数学力の高さに寄与していると考えられている。
日本語ではさらに九九という韻を踏んだ掛け算表まであるから覚えやすい。
覚えることは数学的にはとても重要である。暗算の達人も記憶に多くを頼っている。とはいえ計算機のある時代に暗算にこだわる意味は薄いのではないかと著者は提起しているのだが。
数に関してもう一つ興味深いことがある。脳は複数のモジュールから成り立っているということがいろいろな分野で指摘されている。だから数を正しく認識できるのに、それを話したり書いたりできない人がいる。
数や言語はモジュール性が高く、また冗長性があまりないために、極めて選択的に障害される。
PETやfMRIなどの測定技術の発達はその局在について把握することを可能にした。しかし限界があるというか、いまだにブラックボックスである。
これだけのことしかわかってないのかーと思いながら読み終えたのであった。もっとたくさんのことがわかれば子供の教育に応用できるのにと思う。
そもそも数とはなにかを論理的に厳密に定義するのは難しい。数を定義するのに数を使わないのは困難であることはすぐにわかる。
ウィトゲンシュタイン、ラッセル、ホワイト、そしてそのフォロワーたちが一生懸命やってきてできないのだから無理なのだろう。
これは数覚がアナログというか直感的だからである。つまりコンピューターに人間がやってるように計算させることはできないのである。
論理的厳密性をもって子供たちに数学を教えようとしたのが、かの有名なブルバキである。彼らの試みは、ある年代のフランスの子供たちにトラウマを与えただけに終わった。子供たちは直感的に数を扱えるのだから、そこから始めればいいのに、厳密な定義から初めたらそら失敗するでっていう。
というわけであんまり数について考えるのに時間をかけてもしょうがないなという結論になったのである。
私たちの生活を支配する数学とか統計になんとも言えない違和感があり、いろいろ考えてきたけど、とりあえずの結論はそんなところ。
数よりも、意識や時間について考えたほうが、この違和感の正体に近づけるのかなあと思っている。