山本義隆『磁力と重力の発見1 古代・中世』読んだ
山本義隆氏は東大全共闘の重要人物であるが、駿台予備校の物理の先生としてのほうが有名かもしれない。
私は河合塾に通っていたが、物理の参考書は駿台のものを使っていた。高校物理の範囲にとらわれず、大学の物理へとスムーズに移行することを主眼とした骨太な書籍の数々は一部の受験生を魅了していたのだ。ちなみに山本氏が全共闘を指導していたことは河合塾の授業で習った。
大学生になると山本義隆氏がそういう狭い枠で語りきれない人物であることを知った。氏の文章にあちこちで遭遇するたびにその想いを強くした。だが単著を読むことはなかった。やはり左派の人が書いたものを読むのはやや抵抗があった。
しかし最近読んだ『時間とはなんだろう』で山本義隆氏の書籍が推薦されており、覚悟を決めて読むことにしたのだ。
私たちが当たり前に考えている遠隔作用、重力と磁力がどのように見出されたか、そういう歴史書である。
我々の大好きなみすず書房だよ。
結論からいうとクソおもろい。
古代の人々が接触することなく働く力をどのように考えたか。
中世において、時代情況や思潮がどのように科学的思考に影響したかなど。そもそも科学的ってどういうことなのか。
全3巻のうち1巻を読み終えたので、個人的なノートを残しておく。
イオニアの自然哲学者たち
遠隔作用をもたらす力として磁力は古くより知られていた。
最初に磁石に言及したのはタレスとされる。彼は磁力を霊的で生命的な働きとみた。
さらにエンペドクレス、デモクリトス、アポロニアのディオゲネスが磁力の合理的な説明を試みた。これらはミクロ的機械論である。
プラトン、アリストテレス
プラトンは磁石や磁力についてほとんど言及していない。ただし『ティマイオス』で近接作用論的な説明を試みている。カイロネイアのプルタルコスも『モラリア』で、プラトンを引用して機械論的な説明をしている。
プラトンよりもよほど自然に関心をもち、森羅万象に睥睨すべからざる知識をもっていたアリストテレスはなぜか磁石に関してはプラトン以上に無関心だった。
人間や動植物の作用には関心があったが、磁石をはじめ鉱物にはまとまったものを書き記さなかった。無生物に関しては、他のものに運動を引き起こすには、接触しているか連続していなければならないとしたアリストテレスの自然学において、経験的には明らかに無生物である磁石の遠隔作用の居場所はなかったようである。
リュケイオンの二代目学頭テオプラトスは鉱物についてまとまった著書をのこしている。ただし磁石や琥珀の作用について記述していても、それを説明することはなく、古代ギリシャの自然哲学的発想はアリストテレスの直弟子の時点ですでに失われていた。
タレスのごとく霊的なものとみるか(物活論、有機的全体論)、エンペドクレス、デモクリトス、プラトンのように原子論あるいは近接作用として説明するかの二とおりの見方が対立した。
ヘレニズム時代
ヘレニズム時代に科学がもっとも発達したのはプトレマイオス朝であるが、磁石や磁力について特に新しい知見はなく、この二潮流の対立がより先鋭化した。
ガレノスがエピクロスの原子論による磁力の説明を批判しているが、エピクロスの著者はほとんど残っていない。
詩人ルクレティウスもエピクロスと原子論について記述しているが、興味深いのは、物性の説明原理として、原子の結合・運動・順序・配置・形状をあげていることである。すでに現代的な物理学・化学にかなり接近している。
ルクレティウスは原子論から磁力を説明しているが、磁石の引力だけでなく斥力についても合理的に説明しようとしている。
ガレノスはヒポクラテス以来の古代ギリシャ医学をアラブ世界、ひいては中世ヨーロッパに伝承した。マルクス・アウレリウスの侍医にまで登り詰めたガレノスは、時代的にはローマ時代に属するが、思想的には古代ギリシャの文脈に位置づけるべきである。
ガレノスは胃や腸が栄養を摂取するがごとく、質的な親近性によって磁力を説明した。原子論・機械論ではなく、物活論の立場であり、彼の医学思想と矛盾しない。
アプロディシアスのアレクサンドロスは磁力が近接作用ではなく遠隔作用であると判断したが、ガレノス同様に磁力をある種の生体的な力とみる物活論に逃げ込んだ。つまりそれ以上は説明不可能な事実として受け止めた。
古代ギリシャ、ヘレニズム期においては、先述のごとく大きく分けて二つの潮流がある。
一つは還元主義的な立場からの近接作用論である。これはさらに、デモクリトス、エピクロス、ルクレティウスらは原子論による説明、エンペドクレス、ディオゲネス、後期プラトン、プルタルコスらによるミクロ機械論的な説明に分けられる。
いま一つはそれ以上は説明不可能な遠隔作用として受け止める立場で、タレス、初期プラトン、アリストテレスの磁力を神秘的な能力とする見解、あるいはガレノス、アレクサンドロスのように生命的な磁力観すなわち有機体的全体論である。
この二つの流れの対立は、近世ではデカルト機械論とニュートン主義の対立として再登場することになる。
ローマ時代
ローマ時代においては哲学も科学もギリシャよりも後退した、またはギリシャの遺産で食いつないだとみるのが一般的である。
ローマ時代における自然学の特徴は雑多な知識の寄せ集めであり、その代表がプリニウス『博物誌』やディオコリデス『薬物誌』である。
『薬物誌』はギリシャ時代から引き継いだものだけでなく、ディオコリデス自身の調査も含まれている。ただし、現象や伝聞をそのまま記述しているだけで、原因についての考察はまったく見られない。
また、磁石を床の中に潜ませておくと婦人の貞節を判別できるなどと普通に書いてある。貞節で夫を愛している婦人なら磁石の力で夫にしっかりとしがみつくらしい、、、
プリニウスはいわゆる大プリニウス、ヴェスヴィオス火山の大噴火で亡くなったあのプリニウスである。大爆発している火山に接近するほど知的好奇心に満ちあふれていた彼が編纂した『博物誌』だが、事実も伝聞も現実も神話も十把一絡げに収録されており、真偽の判定基準も恣意的で一貫性がないようだ。
しかしそのような、現代人からみて無定見とも思われる大著がヨーロッパでは千数百年読みつがれてきたのだ。しかも真に受けられていたことも確実で、ロジャー・ベーコンのような当代一級の知識人ですら、「北極近くの雪のふる山脈の彼方に温暖で心地よい気候の土地で住民は生に飽満している」とかいうどう見ても眉唾の話を確実な経験によって発見されたものと受け取っている。
プリニウスは古今東西の面白うそうなことをなんでも記載したので、磁石の薬効についてももちろん書いている。また磁石同士の引力だけでなく、斥力にまで言及しているのは画期的であった。ただしディオコリデスと同じく、原因と結果の関連についてはあまり関心がなかったようだ。
磁力がいかに作用するかの説明が重視されたギリシャ時代と打って変わって、磁石がなんの役に立つかばかりが問われる時代になったのである。
現代人にはあまりに非科学的とみえる迷信の類は民衆の間で広く長く信じられていたと考えるべきだろう。また一部の知識人も、合理的な発想をすることもあるが、迷信を信じてもいたと思われる。そもそも現代人だって、非科学的なことを普通に信じており、未来の世代から笑われることは間違いないだろう。
このようなローマの自然観は当然にして中世に引き継がれる。中世は暗黒時代などと言われるが、そうなる素因はローマ時代からあったのだ。
中世の特徴は、それにキリスト教というギリシャ・ヘレニズム期になかった異質な要素が加わることである。
アウグスティヌス
アウグスティヌスもまた『神の国』で磁力について記載している。ただしその現象に驚くが、説明しようとはしない。それどころか、知的好奇心も肉欲と同じような克己すべき欲求とみなしている。信仰をともなわない理性をはっきり否定したのであった。
説明しがたいものはそのまま受け止めないことは、神の奇跡を疑うことにもなる。このようにして無知への居直りにアウグスティヌスは承認を与えることになってしまった。
またアウグスティヌスはローマ社会から受け継いだ非合理な民間伝承を否定しなかった。
その結果、表面的には自然学の研究はほぼ千年にわたってストップし、磁石は婦人の不貞を見破るとかいう奇説がえんえんと信じられ続けることとなった。
アウグスティヌスは科学のための科学は否定したが、実用的な学問については適宜異教から借りてくることは容認した。そもそもキリスト教には確固たる自然学がなかったからである。
特に医学については、ガレノスの死をもってギリシャの伝統は途絶えていたから、ローマやオリエントの民間伝承を引き継ぐほかなかった。医学のような生死に直結する事項については、なんでもよいから頼れそうなものに頼るしかなかったのだ。まあこれは現代人もいっしょだなと私などは思うけどね。
このように民間では怪しい、魔術的で、(キリスト教からみて)異教的な自然観が幅広く続いたのであった。磁力についての見方もこの枠組みから逃れられなかったのである。
大アルベルトゥス
大アルベルトゥスは、自然を経験的研究の対象としたが、磁石の物理的作用と、不貞を見破るとか水腫を治療できるとかいった事象とが、ひとしなみに磁石の力能として語られている。
このような現代的な意味での科学と魔術的なものが一緒くたな経験の捉え方は、大アルベルトゥスに続いたトマス・アクィナスでも同様だった。
ヒルデガルト・フォン・ビンゲンに見られるような土着の信仰はキリスト教によって完全に排除されるわけもなく、共存してきた。
磁石への関心も、呪術的な研究と背中合わせだった。
13世紀ルネッサンス
10-13世紀にかけてヨーロッパである種の産業革命と農業革命がゆるやかに進行し、都市が形成される。聖職者、戦士、農民以外の階層が勃興し、彼らは読み書きを学んだ。聖職者以外の文字文化の担い手が生まれ、それと並行して大学が誕生し整備されていった。また都市を基盤とする托鉢修道会の創設もこの時期の特徴である。
イスラム社会からの学問の流入は、十字軍よりもシチリアやイベリア半島で進行した。キリスト教勢力はこれら地域を奪還したが、経済や軍事の都合で共存せざるをえなかった。
おかげでパレルモはヨーロッパ随一の国際都市となり、学問がおおいに栄えた。
さらに第四次十字軍のコンスタンティノープル占領により写本が大量にヨーロッパに流入し、ギリシャの学問がせきを切ったようにラテン語に翻訳されていく。
イスラム世界の学問を積極的に吸収した聖職者としては、オーリヤックのジェルベール(のちの法王シルヴェステル二世)や尊者ピエールが有名である。
イスラム世界は征服した異教徒に寛容であったから、インド、中国、ビザンティンから文化や技術を吸収していた。
アリストテレスの再発見
実際にはマルコ・ポーロ以前からヨーロッパではコンパスは使われていた。遅くとも13世紀はじめには磁針を航海用コンパスとして用いたという記述がある。
このころには磁石で擦られた鉄針が南北を指すことが知られていた。また磁石そのものに指向性があることをシチリアのフリードリヒ二世に仕えたマイケル・スコットが語っている。
マイケル・スコットはアルペトラギウスやアリストテレスをラテン語に訳しており、大アルベルトゥス、ロジャー・ベーコンなどがそれを利用している。
アリストテレスの再発見はコルドバ生まれのイスラム哲学者アヴェロエスの解釈を伴っていたのが重要である。アリストテレスの内在的因果論は、超越的存在による天地創造を認めないから、キリスト教にもイスラム教にも反している。そこでアヴェロエスは信仰と哲学の分離を図るが、結局は断罪される。しかしアヴェロエス主義はパリ大学などに浸透した。ヨーロッパの若い知識人には大変魅力的だったと考えられる。
アヴェロエスを最も精力的に翻訳したのがマイケル・スコットだった。彼のお陰でアヴェロエスはかなり早く(アヴィセンナよりも早い)ヨーロッパに流入することになった。ヨーロッパの若い知識人はアヴェロエスの註解によってアリストテレスを学んだのであった。
フリードリヒ二世
そのマイケル・スコットをパレルモにおいて庇護したのがフリードリヒ二世である。フリードリヒ二世はで生まれ育ち、神聖ローマ皇帝、シチリアとナポリ国王、エルサレム王まで兼任した驚異的な人物である。
西欧で最初の成文法といわれる『メルフィ法典』の制定、西欧で初めて教会の息のかからない大学であるナポリ大学の創設(トマス・アクィナスらを輩出)、自ら十字軍を組織してエルサレムを奪還などなど、政治的にも文化的にもかなりのチーターである。
フリードリヒ二世は鳥の解剖・生態学・鷹狩の大著を著しているが、そこでアリストテレスの『動物誌』を確かめてもいないし、経験してもいないことを書いていると盛大にdisっているらしい。王様でありながら、経験論の時代もリードしていたっていう。
ここまでの時代、ヨーロッパの知識人は古来からの伝承を無批判で受容しており、これはアリストテレスから大アルベルトゥスまで変わらないのであった。したがって、過去の文書の権威よりも自らの経験を上の置くフリードリヒ二世の姿勢は画期的だったのである。
トマス・アクィナスとアリストテレス
中世の大学では当初はアウグスティヌス以来の伝統にのっとって、学問は信仰に資するもの以外は下位に置かれていた。しかし12世紀のアリストテレスの再発見以降は、自然が理性的で合理的な論証によって探求されるべきという見解が提示される。
アリストテレスの自然観が浸透するにつれ教会はその危険性を認識するようになる。13世紀はじめのアリストテレス研究の中心はパリとオックスフォードであったが、ローマ教皇はパリ大学にたいしてアリストテレス自然学の教育を禁じた。
とはえい学生の間ではアリストテレスの学習熱は高く、1255年パリ大学学芸学部はアリストテレスのほとんどすべての著作を講義に取り入れることを公式に決定し、これは神学の下僕であった学芸学部が、事実上哲学部として独立することを意味した。
アリストテレスの哲学をキリスト教神学に調和的に取り込むことに成功したとされるのがトマス・アクィナスである。ナポリ生まれのアクィナスは早くからイスラムやビザンティンの文化に触れていたと思われる。ベネディクト会モンテ・カッシーノ修道院、ナポリ大学で学ぶが、周囲の反対を押し切ってドミニコ会の托鉢修道士となり大アルベルトゥスと出会い、決定的な影響を受けた。
大アルベルトゥスの勧めで、アリストテレス研究のメッカであったパリ大学に進み、神学部教授に就任、神学とアリストテレス哲学の宥和・統合に生涯を捧げたのであった。
アクィナスは神学の立場から、自然的理性により知解される哲学的真理は、信仰と矛盾することなく調和的に包摂されるはずだというお墨付きを与えた。これが信仰から独立して理性が自律的に活動しうる余地を保証したといえる。
アクィナスは磁力もアリストテレスの図式で理解しようとした。鉄を質料、磁力を形相と考えたのだ。鉄が磁石に引きつけられるのは、なんらかの形相を共有していると考え、より合理的な理解に近づいている。
とはいえアクィナスはまだ神の存在を論証する道具として自然学を捉えていたようで、経験から理論を証明しようという帰納的態度は希薄であった。
ロジャー・ベーコン
アクィナスが示したスコラ学の限界を一歩抜け出したのが同時代人のロジャー・ベーコンであった。キリスト教徒の立場から、異教徒を説得する共通の根拠を探そうとした。また十字軍の挫折から、イスラムの高い技術力や経済力を吸収しようとする戦略の提言者でもあった。
アクィナスと異なるのは、聖書理解のために哲学が必須であるとしたことである。哲学が異教徒のものであったとしても、哲学は人類が神の真理を理解するために神から与えられたのであるから、信仰と矛盾するものではないと、より積極的なお墨付きを与えた。
なにしろシチリアやイベリア半島の繁栄をみればもはやスコラ学のような煩瑣な言葉の遊びをしている場合ではないという、切羽詰まった事情があったと思われる。
ベーコンの経験学は3つの価値があるという。
1つは原理から演繹された結論を経験(実験)によって論証することである。ベーコンは、ヨーロッパで千年以上信じられてきた「山羊の血がダイアモンドを破壊する」という伝承を実験によってデタラメであると証明したのだった。
2つ目は、豊富な経験から諸原理を演繹できることだ。事物の本性から出発して正しく論証すれば森羅万象を演繹できるはずというのはスコラ学の思い上がりなのである。圧倒的に豊富な現実的自然に比べればスコラ学など貧しく限られたものでしかない。
3つ目は、自然の力を国家や教会の利益となるよう利用できるようになることだった。
このようにベーコンはいっそうアリストテレスの自然学を押し進めた上、アリストテレス以上に定量的な概念を重視した。経験的方法に加えて数学の役割も強調したのである。
かなり近代科学に近づいてきた観がある。
ロバート・グロテスト
グロテストはベーコンに多大な影響を与えた知識人であり、リンカーンの大司教であり、オックスフォードの初代学長である。
物理的作用を光の三次元等方的放射モデルで考えたが、これはベーコンが磁気作用の空間的伝播モデルとして受け継いだ。
それは媒質によって、光なり磁力という形象の増殖がもたらされるというものである。近接しなければ作用できないとするなら、磁石と鉄の間はなんらかの媒質で満たされていなくてはならない。光の波動説の先駆といえなくもない。
原子論や流体論による還元主義ではなく、近接作用によって磁力という可能態が現実態となる、というアリストテレスの図式を用いた。しかしベーコンは磁力を技術的応用にまで持っていけなかった。
ペトロス・ペレグリヌス
アクィナスやベーコンの同時代人のピカルディ人ペトロス・ペレグリヌスは『磁気書簡』で知られている。同書はフリードリヒ二世が建設したイスラム教徒の居住地である南イタリアの都市ルチェーラを、アンジュー伯シャルルが攻撃したさいに、従軍していたペレグリヌスが同郷人にあてた書簡である。
同書簡は実験によって観察された磁石の性質や力を極力客観的に記した、中世においては画期的な知見であった。
水でみたした容器に磁石を皿ごと浮かべる実験で、磁石(磁針ではない)そのものが南北の指向性をもつことを証明している。また磁石が南北の極をもつこと、それらは切り離せないことも論じている。
これにより史上始めて磁石の引力と斥力を統合的にとらえることができた。
さらに踏み込んで、反対の極同士が引き合い、同極が退け合うのは、磁石が同質性を保とうとするからであると結論づけている(なぜなら南北の極を切り離せないから)。それ以前は、引力は共感、斥力は反感と雑に捉えられていたから、一気に正解に近づいた感がある。
また当時は磁石が北極星を指すと信じられていたが、北極星が天の回転中心から若干ずれているという事実から、その見方を否定した。そして天球の両極が磁石を引き寄せていると考えたのだが、もちろん彼はコペルニクス以前の人である。
そもそも彼の実験が秀逸なのは、磁石の極性つまり軸対称性を証明するのに、球形すなわち点対称な磁石を用いたことである。点対称でない磁石が軸対称性を示したとしても、それは点対称性の現れかもしれないのである。
今では実験において諸条件を統制するのは常識だが、13世紀における先駆性はずば抜けている。実際、ベーコンも『経験の巨匠』と称賛している。
技術や手仕事を蔑む傾向のあった当時に実験に秀でていたということは、知識階級というよりは職人に近かったのかもしれない。著者はアンジュー伯シャルルの軍隊に工兵隊長のような立場で従軍していたのではないかと推測する。
実際のところイスラム世界との接触によって、10世紀以降、牛歩の歩みではあったが、機械学や農学などの実践学が地位を高めつつあったと思われる。
ペレグリヌスの磁力研究も実践を意図しており、永久機関の動力源として考えていたようだ。まさにベーコンのいう経験学の第三の特権である。
この時代にすでに永久機関のアイデアがあったのも驚きだが、すでに水車が普及しつつあったことを考えれば不思議ではないのかも。
都市化だけでなく、イスラム世界との接触、農学の発展なども、聖職者による知の独占が掘り崩された要因と思われた。
続く
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