山内志朗『普遍論争』読んだ
山内志朗先生の「ラテン語が一瞬で身につく夢の哲学チャンネル」を購読して、私は先生のファンになってしまった。だから今年出版された『中世哲学入門』を購入したのだ。
ところが、どこが入門やねんって感じの難易度で途方に暮れてしまったのである。
とりあえず同書でたびたび引用されている、山内先生の初期の著作『普遍論争』を読んでみることにしたのだ。
普遍論争を図式的にではなく、ちゃんと残されたテキストに即して理解しようという内容である。
そういう高尚な書物なので、正直言って難解きわまりないのだが、ちょっとくらいはわかったのでよかった。
とりあえずアヴィセンナの言とされる、馬性は馬性でしかない、の意味がわかった(>ω<)
正しくは「馬性はそれ自体では馬性以外のなにものでもない」である。馬性はそれだけでは普遍でもなければ個物でもない。もちろん可能態でも現実態でもない。よく考えたら当たり前のことなのだが、「それ自体では」を抜かしたら意味不明である。
馬性が、特性や指定された偶有性とともに捉えられている場合は、馬性は個体である。
馬性が複数のものに当てはまる定義において捉えられた場合は、共通なものである。何性quidditas、共通本性、形相性と言ってもいいかもしれない。そうすると、アヴィセンナが実在論の系譜であることが理解できる。
あとは第一志向は概念を指しており、第二志向は概念の概念を指しているらしい、、、ということもなんとなくわかった。どうやら志向(intentio)はとても重要な用語らしいので、少しでも理解に近づいたのは僥倖というほかない。
これに関連して代表とかいう概念がある。記号が代表するものという意味の代表っぽい。
記号そのものを指すのが質料的代表。漢字テストで「女」という字を間違えたために減点されて、女なんか嫌いだ、という場合がこれにあたる。
形相的代表は二種類にわかれる。
記号が代表するもの全般が単純代表。女性に関する統計をみてミソジニーに陥り、女なんか嫌いだ、となるケースである。
記号が代表するもののうち個体を指すのが個体的代表。特定の女性にふられて、女なんか嫌いだ、という場合である。
これらをさらに分類されていくので、ますます混乱するのであった。これが中世哲学やスコラ学が煩瑣学と蔑まれる原因なんだろう。
こういう理解不能なことが本書の前半にえんえんと書いてあって、理解できないなりに楽しいのだが、しかし中世が暗黒時代扱いされるのもやむなしと思うのであった。
しかし後半は「20世紀の中世哲学」と題された章から始まり、中世が暗黒というのは間違いであると指摘しつつ、なぜいま西洋や日本で中世が注目されているのかが解説されている。もちろんルネサンスという観念も盛大にdisられている。
そもそも西欧人がルネサンスに突然古代ギリシャやローマのことを思い出して近代につながっていった、などというのはいかにも不自然である。
中世にも知的営為は脈々と受け継がれていたし、イスラム世界との交流もほそぼそとではあるが続いていたのである。
そのことはこういう科学史の本を読むとよくわかる。
近年の中世哲学の再評価は、中世科学史の確立とも軌を一にしているようだ。
そして最後には人名辞典がついているのだが、これがなかなか長大である。でも夥しいカタカナの人名に困惑してきた私としては、一人一人を簡単にまとめた小辞典はなかなかありがたい。
なにより驚くのは科学史における重要人物が、哲学においても重要人物であることが多いことだ。ロジャー・ベーコン、アルベルトゥス・マグヌス、クザーヌス、グローテストなどなど。