國分功一郎『目的への抵抗』読んだ
ラテン語をマスターしたら読みたい本がいくるかあるけど、そのうちのひとつがスピノザ『エチカ』だ。
でもいきなりスピノザを読むわけにはいかないので、入門書も読んでおかないとね。
スピノザといえば國分さんだよね。というわけでこんなんを読んでいる。なかなか良い入門書である。
ついでに新刊のこれも読んでみた。本書は東大での講義の一部を書籍化したものなので、非常に読みやすい。
まずジョルジュ・アガンベンが2020年2月にイタリアにおけるさまざまな私権制限を批判したをとりあげる。コロナウイルスがヨーロッパに上陸してそれなりの数の死者が出ていた時期であったから、かなり炎上したらしい。「例外状態」とか「伝染病の発明」などの刺激的なコトバも良くなかったようだ。
ある程度の権利制限がしかたないとしても、それをあまりにもあっさり受け入れるのはいかがなものかと著者も述べている。
やや驚いたのがアガンベンの発言は保守的と受け取られて批判を浴びたこと。自由の制限、行政権の行き過ぎを批判するのは左派の仕事だと思うが、欧州ではそうではないのかな。
アガンベンは「生存以外にいかなる価値をももたない社会とはいったいなんなのか?」とも言ったそうで、たしかにこれは西部邁っぽいなあとも思った。
アガンベンと関連してアンゲラ・メルケルの言葉も引用されている。メルケルは東ドイツ出身であるから、移動の自由の制限にはそれなりの忌避感があったと思われる。市民に行動制限を求めるとき、そういう無念さが言葉にこめられている。
禁固刑に代表されるように、移動の制限は著しい苦痛を伴う。そのことが認識されるようになったのはわりと最近で、その昔は極刑といえばいかに残酷に処刑するかみたいな話だったようだ。それに比べて禁固刑はいっけん人道的だが、ペナルティとしてはかなり厳しい。
そこから戦間期ドイツの話になって、ハンナ・アーレントが引用される。人々が自由を行政に差し出したのは、心臓が動いている時間を一秒でも長くしたといった、なんらかの「目的」があったからだろう。
しかしアーレントがいうには、目的はかならず手段を正当化する。あらゆる手段が目的合理性のもとに正当化されたなら、なんらかの犠牲をもたらすだろう。
だから著者は目的や動機づけを超越して行為しなくてはならないという。それ自体として楽しむ「浪費」が大事なのだと。
ここで消費ではなく浪費こそが贅沢なのだという『暇と退屈の倫理学』につながっていくのであった。
せっかくなので『中動態の世界』も読んでみようと思った。ラテン語のdeponent(能動態欠如動詞)とかいうものの意味がいまいちよくわからんというかおもしろそうなので。