井筒俊彦『イスラーム哲学の原像』読んだ
ヨーロッパ中世について知り始めると、やはりイスラーム世界についても学ばなくてはならないような気がしてくる。
日本においてイスラーム哲学の結節点となったのは井筒俊彦先生であるらしいので、先生の著作の中でもいちばん読みやすそうなのを手に取ってみたのである。
これは講演集であるからとても読みやすい。
イスラームの哲学というか思想において非常に重要なのは、アヴィセンナでもなければ、アヴェロエスでもなく、スフラワルディーとイブン・アラビーとのことである。
彼らはアヴィセンナとアヴェロエスの少しあとに出てきた哲学者であって、哲学と神秘主義、すなわちスーフィズムの接点を見出した重要人物である。
個人的には非常に興味深いところである。アヴィセンナとアヴェロエスの思想はヨーロッパで受容され、神秘主義と徐々に決別していくのだが、イスラーム世界では彼らは排除されて神秘主義へ傾倒していくのだ。
ここにその後、ヨーロッパがイスラーム世界を圧倒していく萌芽を見ることも可能ではないか。
まあそんなことは本書ではどうでもよくて、スーフィズムの解説が主眼である。
スーフィズムにおいては禅における座禅、宋儒における静坐のごとく、観想修行によって、意識の深層へと沈潜していくことが重視されている。
最終的には自我の消滅にいたるが、そこでは全てが浸透しあう、絶対無文節の状態が顕現する。存在一性論である。
その境地から哲学的思惟を始めたのがスフラワルディーとイブン・アラビーなのである。
このような境地では、ただ存在(esse)があるのであって、花とかいうものが存在するのではない。花という限定を受けた形で、存在があるのだ。これが有名な「存在が花する」である。
存在だけが主語であり、他のいっさいは述語である。
ここは神よりも一段上の境地である。神とか名付けた時点で、最高の形而上学的段階よりも一段下の状態である。これは教義的にはたいへん危険な発想であり、実際に少なくない数のスーフィーが処刑されている。
こういうことを理解するとアヴィセンナの存在偶有説も理解できる。主語ではなく述語として存在をとらえるなら、存在も数多くある偶有性の一つということになる。花が白い、というとき、その花が白いのは偶有的であるのと同様に、花がある、というときの「ある」も偶有的な属性ととらえるのである。
もっともアヴィセンナが本当にそのように考えていたわけではないようだ。
だからどうしたって感じの話ではあるが。
12,3世紀というのはあちこちで煩瑣なことを議論していたのだなあと感じいってしまうのであった。
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