ひとが"お化け"を育てるとき -day24/100day post vol.2-
冬の日は寒い。そりゃそうだ。
だからこそ温かい陽の光にほっとしますね。
タイトル画像は昨日の小学生バスケの試合で行った会場の小学校の池の氷。なんだか懐かしいビジュアル^_^ 日陰だとなかなか溶けないんですよねえ。
試合の審判終えて都心に移動していくつか仕事をこなして地元に戻り、また夜の小学生バスケ練習の最後の方を覗きに体育館へ。関係各位、長い1日お疲れ様でした^_^
その合間に人間関係について考えさせられることありタイトルのような考察を少し。
とある仕事関係の人間関係で、意思決定者の言動およびその根底にある価値観、みたいなものに共感できない、相容れない中堅の立場の人が、その違和感を本人と直接対話せずに提言提案もせずにリクエストせずに、怒りを募らせていました。
これ、前職時代からめちゃ多く体験する場面です。直接対話を提案したら、
「ケンカになるから」
「どうせわかりあえないから」
「嫌味を言われるのがイヤだから」
と、リクエストすることも、提案することも、直接話し合うことも、却下されます。
自分はファシリテーターとして、できるだけどちらにも引っ張られないように感じたことを伝えるのですが、、、この手の人間関係と場面でいつも明確なのは
言いたいことを言っていないひと、無理しているのにリクエストしない人は、気持ちの中に"お化け"が育つ そのための"材料"が育っていく
ということ。
そのお化けが、共感できない相容れない相手の言動の全てをネガティブに捉え、否定し、怒りを育てていきます。
この"お化け"、厄介ですよねえ。
当事者のどちらにも悪気がないのです。
それぞれに目指す理想をそれぞれのやり方で探求しているだけ。にもかかわらず、、、
相手の気に喰わない言動の全てが、お化けを育てる材料になります。そしてその材料が時間経過や環境によっていい感じに"発酵"するとまま相手への怒りの燃料=これぞホントのバイオガス?になるのです。
近づいてよく見たり触って見たら、なんだ風に揺れるヤナギの木じゃないか、とわかるのに。きっとそれは幻に過ぎず、実態のない実体のないお化けなのに。。。
相手も人間だなあ、とわかれば説得の方向性も見えて、感情的に許せて、歩み寄れてこちらのリクエストが通ることもある、ということに気づけることもあるのに。
お化けを育てる温床は、直接腹割って話さないこと。
な気がします。
話した結果、決定的に相容れない、とわかっても、そこから始まる仕事上の関係や契約修正はあり得るわけで。
お互いに相手を変えることはできないですが、働きやすいように環境やルールを変えることはできるはずで。
わかりあえないことから始まる関係がきっとあるはずで。
そんなことを思いながら、どんなふうにファシリテーターとしてありたいのか、そういう場面に直面するたびに、自分に問うています。
自分はお化けを育てていないだろうか。
自分は相手にお化けを育てさせてしまっていないだろうか。
こちらの正義を相手や当事者に押し付けていないだろうか。
意思決定者であればあるほど、
権威構造の上位に位置すればするほど、
責任が重いからこそ
上司であればあるほど
お化けを育てがちな人のところに"降りて"いって話を聞いてあげる姿勢や相手のお化けがお化けだよと教えてあげる配慮が、チームや会社全体としても「効率がいい」ように思っています^_^
そしてそれが"お化け"だとわかれば、実は"ヤナギの木"だとわかれば、加工がしやすく便利なヤナギの木をつかって柳行李をつくったり(古いか!)、川で魚をとる梁(やな)を作ったり、美味しいエノキを育てる原木に使ったりできるわけです^_^ ヤナギの木すげえな!
自分の中の"お化け"に自覚的でありたいです^_^
それが一番、効率がいい、と感じるから^_^
そして探求はつづく。
コブシのつぼみ。春はすぐそこ^_^