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内田樹が語る「街場の米中論」

今日、日経平均株価が4万円を超えたそうですね。バブル期を超える最高値で、もちろん史上初。岸田首相、これは好景気ってことですか。流石です。できたら庶民の生活に、その恩恵を届けて頂きたい。

そんなわけで、投資に縁がない店主は「街場の米中論」を読みました。タイトルの通り、内田樹が語る米中論を聞いてみたいと思ったのです。そして実際に読んでみると、期待通り学びが多く、とてもためになる本でした。

とはいえ、この本の大部分はアメリカ史の話でした。中国の話題は2割程度です。でも、そんなことが気にならないほど面白い。読みながら著者の知識量と思考センスに脱帽し、本を相手に舌を巻きました。

そして、この本の第1章の「国民国家」の説明の中で、著者がとても重要な視点について言及されています。

僕たちはいま目の前にある現実は「ずっと昔から存在したもの」だと思いがちですけれど、それは勘違いです。現実のうちには「太古から存在するもの」、「数百年前から存在するもの」、「ごく最近になって登場したもの」などが混在しています。それらは区別しなければなりません。
(略)
親族システムや言語や医療や交換は「太古から存在したもの」です。国民国家や資本主義は「数百年前に登場したもの」です。SNSやAmazonやGoogleは「ちょっと前に登場したもの」です。「太古から存在したもの」はたぶんこおあとも人類が存在する限り存在すると思います。「数世紀前に登場したもの」は数世紀後には存在しなくなるかもしれない。「ちょっと前に登場したもの」は10年後にはもう誰もその名前さえ覚えていないかもしれない。

「街場の米中論」

歴史を学ぶ大切さは、この言葉が表していると思いました。事実の中には、科学や数学の記号と同じように平等に扱ってはいけないものがある。この言語化は非常に大事だと思いました。

そしてアメリカにはアメリカの趨向性(すうこうせい)がある。中国には中国の趨向性がある。地政学や歴史の流れにそって、国家には向かう方向が決まっている。それを見定めることが私たちにとって大事なことだと第1章の締めで述べています。

そして第2章の冒頭では、以下のような指摘から話が始まります。

アメリカ政治について語る場合にはまず「自由」と「平等」という二つの統治原理の根源的な葛藤というところから話を始めることになります。アメリカの政治の揺れ動きと、繰り返す国民の分断は、本来両立するはずのない二つの統治原理を並立させて建国してしまったことに由来します。
自由と平等は食い合わせが悪い。ですから、あるときは平等をめざし、「あっちへふらふら、こっちへふらふら」と蛇行するのが、アメリカ政治の「常態」なのです。P53

「街場の米中論」

第二章以降はこの視点でアメリカを分析するわけですが、このアメリカを代表する「自由」と「平等」という言葉が両立するはずがないと聞き、驚いたのは店主だけではないと思います。(ちなみに日本については建国時に国民的合意はなかったと著者は分析しています)

そして、さらにアメリカは実際は短期間しか存在していなかった「カウボーイ」という職業を強力な自分たちのアイコンに仕立て上げ、アメリカ人の象徴として共有した。この考察にも驚きましたね・・・もし本当であれば、アメリカってなんと懐が深いのでしょう。そして、なんというアイディア。

とまあ、第2章まででもこんな感じです。この後に宗教の話や建国時のどさくさの話などが第9章まで続くわけですから、読書ブログはいくらでも書けてしまいます。しかし、今日のブログはここまでにしたいと思います。この本、読んで損はありませんので、まだ内田樹の本を未読だというかたは、ぜひ手に取って読んでみてください。

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