サバンナのオルパダン
チーターは本来集団行動しない動物だ。
最近、その彼らに異変が起こっているようだ。
あるサバンナのチーターたちが小さな集団で狩りをしていることを突き止めたドキュメンタリーを前に観た。
録画もしていたので残業の休憩がてらまた観ていた。
サバンナの砂漠化は気候変動の影響を受けて急速に進んでいるようだ。
生き残るために環境変化に適応していった結果かもしれない。
自然環境において《個》であることが当たり前の場合、当然に強くなければ生き残れない。個が自然界に対して弱くなることは生死に直結するだろう。
人間はそうした動物学的基準に立つと元来、弱かった。そのため集団で行動、社会性を持つことによって生き残る。
10万年以上前からどころか、猿からの分岐として考えれば700万年以上前から、そうした集団性が遺伝子的なのか習慣性なのか、いずれかわからないが、長い歴史のなかで社会性を持つようになってきた。
集団、社会から孤絶しては生きれない。
これは宗教や民族によらず、また男女といった性差によらずそうなのだろう。
個体差は当然あるとして。
集団であればあるほど、ひとりひとりの弱さというのは気にならなくなってしまう。
それは、《個》として強くあろうとすることを必要でなくなっていくことに繋がるか?
ありとあらゆることが発展した現代において、ひとの弱さである《欲望》が特権階級的一部の人間によるものだと《善》や《正義》というものにすり替えられて、そこにぶら下がるその他大勢。
支配と序列。
ドキュメンタリーの中のチーターたちは序列が形成されてもいた。
集団の中での支配や序列は《カテゴリー》とも言える。
集団の中での《平等》や《共感》というのは表面的には善いことに見えがちだが、蓋を開けてみると、支配のための均一化にも繋がる。
個としての《個》をまあまあの範囲内で確立していないと、一時的な(偽物の感情)感情=感傷を煽る煽動的なものにあっさりと飲み込まれてもしまうリスクが高いだろう。
チーターたちは共存のための序列でそのための支配と排除だったように見えた。
人間の場合は支配のための共存≒覇権や利権のための序列が進んだようにも思う。
集団のなかでの《個》から個としての《個》の概念の確立を坂口ふみが『個の誕生』でキリスト教義の確立時代背景をしっかりと書くことで浮かび上がらせている。
個としての《個》を確固たるものにするには、よく状況を見定める必要があり、時として、孤独≒自分と向き合うことに迫られる。
一方で、その《個》を客観的に社会の中で評価と承認をしてもらうこと、すなわち、他者を通して自己を見つめることもとても大切でもある。
また、そこに《個》の尊厳が関与してくる。
認めてもらうこと、そして、帰属ラベルによる認めてもらう為の場の保証は、今のところ、社会と契約しての労働に対する価値でもある。
チーターたちの序列、群れに帰属していることで得られる餌は個体でいるより高い確率だろう。
だから、序列の変動があっても《執着》せざるを得ない。
その健全性についてはここでは置いておく。
こうしたことをあいまいにしていくと、共感こそが善というおかしな風潮にあっさりと飲み込まれてしまう気がする。
《個》として強くならないといけないことを忘れた動物、ホモ・サピエンス。
弱いままだと欲望にやられる。
欲望と言えば、アニー・エルノーは、欲望に生きた時期の自分を自分で救うため奪還活動として死に物狂いで書いたのかもしれない。
社会構造のカテゴリーによる嫉妬や、ひとに執着、依存した結果の嫉妬を透徹に見つめているが、嫉妬は本来、ある程度の知的動物が持つ欲望のひとつだろう。そこからの脱却、弱さから強さへの転換、そこに横たわる社会構造を彼女はずっと書き続けてきている。
ところで、弱い強いといった二項対立的概念は全体主義的思想を生みやすい。
たとえば「弱い者に寄り添う」という語を見てみるとわかりやすい。
最近ずっと、「寄り添う」という言葉に懐疑的だ。
寄り添うというのは裏に「こうでなければならない」という期待を含んでいることもある。
「抑圧的にちがいない」
「解放的にちがいない」
「不幸にちがいない」
「幸福にちがいない」
といったバイアスのかけられたものから、
「喜ばなければならない」
「笑わなければならない」
「悲しまなければならない」
「怒らなければならない」
「癒さなければならない」
などの感情の押し付け合いまで。
ミラン・クンデラの『存在の耐えられない軽さ』では
Es muss Sein!
(こうでなければならない)
と連呼をわざとクンデラはしている。
全体主義的なものに対しての感覚が鈍化しているイメージ:
迎合、感傷という一時的な感情に起因した表面的な言葉、冷静さを欠いた共感や同調の強制
僕個人は日本の現代小説やエッセイによく見受けられる気がしてならない。
批判力の低下、「共感しない者=表面的にしか分かってない」という浅はかさの露呈した雰囲気、明治維新以降特に顕著になったのかもしれない。
江戸では川柳などで風刺が盛んな文化だったのに。
明治維新での西洋化を一気に推し進めようとした功罪のような廃仏毀釈では、アフガンの重要文化財破壊の数倍の重要文化財を破壊したようだ。その後の大正デモクラシーと、さらにその後の昭和の高度経済成長期と来て、文化は西洋化されるも批判精神は反比例するかの如く希薄になりつつある。
文化を大事にすることの意義のひとつがここにあるようにも思える。
僕が感傷や寄り添うということに負のイメージが今払拭しきれないのは、そうしたことを「思考停止の理由にしている、あるいは、思考停止させるためそうした教育をしているように見えてくるから」というのがひとつにある。(判断力の著しい低下による理性批判の皆無さや冷静さや透徹さの欠如など他にも色々理由はあるのだが)
戦後教育が「思考させない、扱いやすい人材育成」というふうにも見えてならない。
負傷し、リーダーの地位を奪われたチーターのオルパダンはその後、単独で餌を狙う───《個》の強さを忘れなかった彼の生き抜く力強さ。
ひとはどうだろう。不条理な分断や逆境の中、あるいは集団からスピンアウトせざるを得なかったりしたとき、それを問われる。
なぜか、オルパダンに逞しくいようとしている僕の大切なひとが重なった。
───
以下、参考になりそうなものを追記していく予定です。2023/02/16