単細胞少年、プリントとともに恋に落ちる
僕はプリントと何故か縁がある。
夜間高校で付き合った女の子もプリントを僕に届けてくれたことがきっかけで──むしろたったそれだけで──届けてくれた日に舞い上がり、脳内変換で「○○ちゃんは俺の運命の人」となっていたくらいだ。
かなり美談にして、その子をモデルにショートショートを書いたこともある。
この創作に出てくるプリントの話も、喫茶店でフラれた話も実際にあったことだが、別れる別れないの時、彼女は最後の賭けに出てくれていた。
それに僕は応えることが出来ず、変なプライドも邪魔して、結果的にフラれた。
フラれた当時は自分の中で「運命の人」とはもう二度と出逢えないだろうし、二度と特定の彼女を作ったりしない、とアホなことを固く誓っていた。
2年後にアッサリまた「運命の人」と出逢うのだが。
妻以外で好きになった女の子は全員、プリントを何かしらのカタチで僕に渡すことが起因して、僕は恋に落ちている。
全員と言っても、好きになった子は28年間生きていて3人くらいしかいない。
ピアスの子と妻とあと1人。
小学校の頃のプリント係、青山仮称さんだ。
青山さんとは五年生、六年生と同じクラスだった。
時は2006年、冥王星が太陽系惑星から降格した年。小泉首相の政権だったり、荒川静香選手のイナバウアーが流行ったり、小学生がいじめを苦にして自殺してしまったり、中国経済が高成長をし始めた頃。僕にとっては小学校最後の年、六年生の夏。
僕は黒板係、青山さんはプリント係に任命された。
顔はどうしてもぼんやりとしか思い出せない。
運動会でいつもリレー選手に選ばれていた青山さんは活発な女子で、クラスの人気者だった。
記憶の中での青山さんはスラリとしていて高嶺の花だった。
世の中のことより、自分のことで毎日が精一杯でまだ瞳も今より何にでもキラキラしていた。
高嶺の花は常に男子のアイドル的存在で、僕の小さな世界におけるキラキラの中心にすらなった。
*
ところで、その頃、僕の家は、少し複雑怪奇な両親の仲だったり、祖父の経営する建設会社も倒産しかけていたりと大変な時期でもあった。そのせいなのか、一時期、真ん中の兄貴と何度もフィリピンに母親に連れられて帰っていた。
当時、両親は真剣に離婚を考えていたらしいが、父親の粘り勝ちで結局離婚せず復縁。
今では笑い話のネタに本人たちがしているくらいだから、まあ、それはそれで良いのだが、そのとばっちりで、僕は小学校で「ときどき学校に来なくなるフィリピン人」という認識をされていた。
見た目もいかにも東南アジアの子な僕は、たまに「国、帰れよ」だとか言われたりもしていた。
幸い、似たような境遇の幼なじみがいたり、楽観的だったのもあって、そこまで僕自身は深刻な差別だとかイジメだと、受け取っていなかった。
それでもやっぱり見た目、特に天パや肌の浅黒さだとかを揶揄されると、多少腹も立った。
*
今、考えてみると、そうした諸々の事情から担任の先生が配慮して僕の席を1番前にしたのかもしれない。先生の目が届くように。
1番前だと、当然、プリント係から直接プリントを受け取る。
青山さんは時々居なかった僕にも平等に、当たり前だが、プリントを配ってくれた。
ただそれだけだ。
にもか変わらず、脳内変換で「運命の人」になっていた。
つまり、僕は子どもの頃からハイパー単細胞だったと言うことだ。
青山さんがプリントを配りはじめると、僕はドキドキした。
手汗をかいていないか、だとか意味不明な心配をしたり、受け取るとき、目を合わせたら好きなのがバレてしまうかもしれない、と思って、目を合わせないどころか目をつぶっていたり、とにかく挙動不審な奴になっていた。
夏休み明け、暑さの残る九月。
僕は黒板係から新聞係へ、青山さんはプリント係から他の係へ。
プリント係は女の子ではなくなった。
季節がゆっくりと変わることに僕は気にもとめなかったし、青山さんがプリント係として僕に直接プリントを渡してくれることがなくなることすら深く考えたりもしなかった。
こうして、プリントを配られる時のドキドキ感はあっさりと消え去り、青山さんとはほとんど会話することもなく、小学校を卒業した。
そんな青山さんと、偶然、先日、材木座のドラッグストアで再会した。
僕は28歳になったことを境に、ビオレのボディーソープで洗顔することから卒業しようと意を決してドラッグストアに来ていた。
妻は数千円する超高級洗顔フォームを使っている。こっそり一度だけ使ってみたことがあるが、ツッパリ感もない割に、おっさんのあぶらぎった顔も薔薇色になった気がした。
──美肌おじさんでいたい。
妻にも娘にも、「パパカッコいい」と思って欲しい。出来ることなら、娘には「パパと結婚する」と言われたい。
妻に洗顔フォームを使ったことがバレたら多分怒られるか笑われる。
僕が娘を抱っこしてかなり真剣に洗顔フォームを選んでいると、「ひさしぶりー!!!」と声をかけてくる少し太った子連れの女性がいた。
僕はどうしても誰なのか思い出せず、適当に「あー、お久しぶりです(覚えていない)」と返してしまった。
「え、覚えててくれた?」
「えーっと、」
「青山です!フィリピンから帰ってきてたんだ?」
「ああ〜、えーーーーーー?」
最後の「えー?」は心底、え?なのだ。
相手も恐らく同じ思いだろう。
青山さんは元気そうだった。
記憶の奥底で美化されまくっていた──リレー選手でプリント係の──青山さんは、ごくごく普通の幸せそうな肝っ玉カーチャンになっていた。ご結婚後、今は県外に住んでいるのだが、たまたま、子どもたちを連れて実家に帰省していたらしい。
16年前の初恋の青山さんとの再会のこと、名前どころかどこで一緒だったかも思い出せずにいたのに、お久しぶり、と言ってしまったことを夜、妻に話すと、彼女はケタケタ笑ってくれていた。
寝室の窓を開けると、星たちがあの頃と変わらずにキラキラしている。
夏の湿気と夜の闇に煌めく星を見上げて、僕は少年時代をぼんやりと思い出そうとした。
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